佐野靖夫先生

仏教概論(第28期スクーリング講義録)

2015年11月10日

一、はじめに

 仏教を考えるにあたって、現代の日本だけを見てもよく分からない。インドの歴史を見るとか、日本の歴史を見るとか、そういうことだけではなく、世界史の一つとして、例えば、日本に仏教が伝わった聖徳太子のいた飛鳥時代では、インドではどうだったのか、あるいは中国ではどんな時代だったのか、ヨーロッパでは? そういった観点がないと、実はよく分からないのではないか。そういうことを含めて、今回、お話をさせていただきたいと思っております。

 まず、仏教のオリジナリティという問題に関して、これは一体どういうことなのか。世界には様々な宗教があります。キリスト教もあれば、今、問題になっているイスラームもある。それから仏教もある。あるいはその仏教でも宗派によって、いろいろなかたちで違っている。そういったものを含めて、それではお釈迦さまの教えであるとか、あるいは私達が見ている仏教というものの他とは違うところ、オリジナリティというのは一体どういうところにあるのか。その視点が仏教を見ていく上で重要なのではないかと考えます。

 そこで、仏教のオリジナリティについて五つの切り口を考えてみました。はじめに仏教の持っている多様性。二番目として、テクニカルタームの同一性と収斂性、三番目に神とか人とか仏の関係とは一体どういうものなのか。それから、四番目にブッダの体験内容に導く言葉としての仏教聖典という、このような扱い方をして、経典とは一体どのようなものかと、それも見ていきたいと思います。

 そして五番目として、仏教というのは、「純粋思想」「宗教儀礼」「宗教感情」、そういったものが混在して、未分化の状態である。それがあるがために非常に理解しづらい。分かったつもりでいても、実はどこまでがそうなのか、ということが不明瞭な一つの思想体系だと思います。これは、他の宗教に比べて、仏教というのは非常に複雑に、いろいろなかたちが重なりあっています。例えばキリスト教の方が、ある意味コンパクトです。もちろん、キリスト教も様々に展開していますからいろいろですが、例えば新約聖書というのは、文庫本の一冊ほどの厚さです。当然旧約聖書も見ないといけない。しかし仏教で仏典というのは、とんでもないぐらい膨大な量の経典があります。それを読破することは、八十年間の生涯をもってしてもおそらく読みきれない、というのも仏教の一つの特徴であります。そういうのを含めて、オリジナリティというのはどういうところにあるのか、とそれを見ていきたいと考えます。

 それらを前提として、最初期の仏教、あるいは原始仏教という言葉も使われていますけれども、その最初のかたちの仏教は、どのようなものであるか。そして、いくつかのキーワード―「初転法輪」、「無我」、「五戒」、「無慚と無愧(大不善地法)」、それから「十難無記」という五つのタームからお話させていただきます。
 

二、仏教のオリジナリティ

(一) 仏教の多様性


 まず、仏教のオリジナリティということで、最初に仏教の多様性ということを考えてみたいと思います。ご承知のとおり、日本にはいろいろな宗派のお寺がございます。禅宗もあれば浄土宗、日蓮宗、それ以外にもたくさんの宗派があります。大きな宗派以外にも、小さい宗派であっても、単に信徒数が大きいか小さいかというぐらいであって、考え方から見たらいろいろなものがあります。

 それから、現代の日本の仏教というのは、お坊さんが葬儀をつかさどるというのが非常にオーソドックスなかたちで、今も行われております。ところが葬送儀礼に関しても、宗派の違いというよりも、地域による違いの方が大きいのではないかと思われるような事例がたくさんあります。例えば、関東と関西における骨壷の大きさや収骨方法、あるいはお骨に対する思いや死者に対する手法など、地方の習俗によって随分扱いが異なります。

 一体、その多様性というのはどういうところから生まれてくるのか。その仏教の多様性の淵源について考察してみたい。はじめに仏教の伝播についてですが、お釈迦さまは、現在のネパール辺りでお生まれになり活動されたと言われております。それから呼び方はいろいろありますが、初期にはテーラバーダとも言われる部派仏教というかたちがあり、その後、大乗仏教というのが、おそらく西暦紀元前後ぐらいにできあがって、それが、北回りルートで中国から朝鮮半島を経て日本に入ってくる。逆に、南回りの方では、タイとかミャンマーとかの方に、テーラバーダの仏教が広がっていく、そのような構図があります。

 このように仏教はいろいろな地域に伝わっていったわけですが、それだけではなくて、仏教を勉強するときに、まず、その土地土地がどういう所なのか、どのような歴史を持っているのか、あるいはどういう文化体系を持っているのか、ということを考えながら、そのうえで仏教が伝播していったのだということを思っていただきたい。

 お釈迦さまが登場するよりかなり前の、紀元前二千年頃。よく、インド・ヨーロッパ語圏と言いますが、実はインドはヨーロッパと文化圏としてはとても似ています。インド・ヨーロッパ語系諸族と呼ばれる中央アジアの北の辺りにいた人々が、一方ではケルト人とかゲルマン人、スラブ人になる、この流れはドイツだとかフランスだとかイギリスなど、現代ヨーロッパ文化の淵源となります。

 それと、もう一方はギリシャのある地中海の方に伝播するルートがあります。さらに別のルートでは、一つが現在のイラン辺りペルシャの方に行き、もう一つがインドの方に行くルートです。そして、インド・ヨーロッパ語族の人々が、いろいろな地域に伝播して、それぞれの文化を創りだしている。それがまず基本にあります。

 これは宗教学で言うと、神さまの名前ですとか、非常に似ているものがあります。例えば、インドの古いインドラという神さまは雷を持っています。インドラ・ヴァジュラというのを持っています。ギリシャ神話の最高神ゼウスも、やはり雷を持っています。同じ様に、キリスト教以前の中東のバールという神さまも雷を持っています。このように宗教学では非常に同系統だと見られており、同質性というものが感じられます。

 そうして見ると、インドというのも、中国とか日本の文化よりは、どちらかというと西の方の文化にとても近い。特にサンスクリット語あるいはパーリ語など、インドの古い言語体系というのは、ギリシャ語とかラテン語に非常に近しい言語体系です。例えば、中国の言語体系とか、日本の言語体系とはかなり違ったかたちのものになっています。

 そういう流れがあって、インドにお釈迦さまが生まれました。実はその時代というのは、コーサラ国の隣にアケメネス朝ペルシャという、非常に強大な帝国が生まれ、ギリシャの方に向かって広がっていった時代です。

 そして次には、このアケメネス朝ペルシャの版図が、すべてアレクサンダー大王領に変わっていきます。これは有名なアレクサンダー大王が、ギリシャのマケドニアに生まれて、彼が二十歳のときにマケドニアの国王を継ぎ、たかだか十年ちょっとで、一代で大帝国を築き上げたと言われております。つまりアケメネス朝ペルシャの東の方の地域まで、アレクサンダーの領土となっている。アケメネス朝ペルシャというのはゾロアスター教という宗教を中心に繁栄していました。それに対して、今度はギリシャの宗教や思想がその領土を征服していきます。

 次に、クシャーナ朝という西北インドに大きな中央アジア起源の王朝ができます。このクシャーナ朝で、西暦紀元前後に有名なカニシカ王という王が出て、実は大乗仏教が成立したというのは、このクシャーナ王朝の版図であったと言われています。先ほど申し上げたように、最初にアケメネス朝ペルシャがあり、次にアレクサンダーが来て、その次にクシャーナ王朝ができた、というのが、みんな同じ場所になります。実はこのクシャーナ朝の版図をよく見ると、インドの西北の方にあって、お釈迦さまの生まれた所とはちょっとずれています。そして現在、この地域がどうなっているのかというと、ガンダーラ地方という所があって、そこの一番大きい都市はプルシャプラ、さらにカブールがある。今はパキスタンからアフガニスタンの地域となっています。

 実は、この場所が大乗仏教が生まれた地とされているわけです。日本に伝わっている大乗経典というと、般若経であるとか、維摩経、法華経あるいは華厳経などもそうです。そういう日本の宗派の基となった、あるいは日本人の精神文化の淵源となった、そのような経典群は、実はこのクシャーナ朝で編まれたと言われています。

 そして、今、仏教が多様性を持っているというのは、仏教が様々な地域に広がっていって多様性を持ったということばかりではなくて、仏教そのものが生まれた地域にある。すなわちお釈迦さまの生まれた所は、確かに最初期の仏教の場であり、お釈迦さまの個人的な側面が強い。けれども後に、仏教がいろいろなかたちで展開していったとき、例えば、仏教が護国仏教になった、あるいは仏教の中での、先ほど申し上げた大乗運動が非常に盛んになって、大乗という考え方が出てきた。さらにもう一段階進んで、それが密教という考え方になってくる。それは、その思想が生まれた所、その地域というものが、多様性としか言いようがないのですけれども、そういうような複雑な文化の混淆が、実はその背景に一つある、ということを認識していただきたいのです。

 そして、写真にある仏像が一番初めに作られた仏像と言われているものです。仏像というと、日本の仏教では拝む対象の最も中心的なものであるわけですけれども、初期のインドでは、実は仏像というのは作られていませんでした。お釈迦さまというのはかたちでは表せない。ブッダは法輪で表現したり、あるいは菩提樹で表現したり、別のものをシンボルとしたことが長く続いていました。ところがクシャーナ朝、紀元前後頃に、おそらくギリシャの彫刻家達によって、初めて仏像というかたちでお釈迦さまの像が刻まれたとされています。

 そしてその仏像は、非常にリアリスティックです。ギリシャではさまざまな彫刻が造られました。この時代、ローマ期ですが、その文化を担う人達が来て作った。だから顔もギリシャ人のように彫りが深くて、現代で言うイケメン顔のお釈迦さまです。その苦行をしている姿もリアリスティックに表現されています。

 このような仏像が、中国に入って朝鮮半島を経て日本に来る。その間に美術的に様々な変遷があって、現在、私達がお寺に行くとお会いする、いろいろな姿の仏さまになっています。

177-4.jpgのサムネール画像
  そういう意味で最初期の仏像のことを、宗教学用語ではシンクレティズムという言い方をします。様々なものが混合した中でつくられていく。そして、本来考えてもいなかったような、幾層もの文化が付加されていったところを見ていただきたい。それが、仏教の多様性です。日本に来たから多様になった、確かにそれもあります。それだけではなくて、実は、インドにおいても仏教というのはものすごい多様性を持っております。中村元先生の『原始仏教』という著書に、先生の知見と申しましょうか、ご意見は、まさに原始仏教の中に、その多様性というのがもう含まれているという。後に、それは中国に行ったり、あるいはインドでは大乗仏教になったり密教になったり、日本でもいろいろなかたちでそれが取り入れられた。しかし、その多様性の根っこというものは、本当に最初期の仏教の中にあります。そこのところをきっちりとおさえないと、ずいぶん違った解釈をしてしまうことになるのではないかと考えます。


(二) テクニカルタームの同一性と収斂性


 そして、この多様性ということを頭に入れといていただいて、次にテクニカルタームの同一性と収斂性についてお話いたします。実は、これがあるから仏教がややこしくなる最大のものなのです。つまり、仏・菩薩・涅槃・悟りとか、いわゆる仏教用語のキーワードとなっていますが、これは実は、それこそ最初期から、現代の日本仏教に至るまで、みんな同じワードを使っています。みんな同じタームなのです。それなので、現代で言う仏さまと、二千年ぐらい前のインドの仏さまという言い方は、実は同じ「仏」なのですがその内容はかなり違います。

 ヨーロッパ哲学というのは、仏教などとは違って、新しい概念が出たら新しい言葉をつくろうとします。ですから、プラトンやアリストテレスと、それ以後のカントやヘーゲルの近代哲学、それからデリダなどの現代哲学、そこで使用される用語は、ここからここまでの意味だよということが定義されてから使用するというのが、ヨーロッパ型哲学の考え方です。もちろん現代でもプラトンとかアリストテレス、ギリシャの古代の哲学を勉強する方はいますけれども、そこで使われている言葉と、現代哲学で使われている言葉をそのまま一緒にして議論するということはあり得ない。

 ところが、仏教というのは全部同じ語句を使用します。しかも、その言葉もジャイナ教、あるいはインドのヒンドゥーの、それこそウパニシャッドであるとか、あるいはバガヴァッドギータというものを見ていただくとわかりますが、ただ文章的に見ると、まるで同じ言葉をどれもが使っています。例えば、さっき言った仏というもとになったブッダという言葉も、ジャイナ教でも多く使われていますし、中村元先生の『原始仏教』の中にも書いてありますが、シャーリプトラのことをジャイナ教ではブッダと言ったりしています。同様に、仏教ではバカボン、バカヴァッドというインドの言葉ですが、お釈迦さまのことを言います。そこからバカヴァッドは、日本ではお釈迦さまを指します。けれども世界で最も読まれていると言われているバカヴァッドギータ、マハーバーラタあるいはラーマヤナというインド叙事詩の有名な作品がありますが、日本で言えば源氏物語とか平家物語ぐらい有名なものです。そこで言われてるバカヴァッドというのは「聖なる人」ということで、クリシュナ神を指すわけです。そうすると、インドでバカヴァッドというとクリシュナ神を指しますので、決して、お釈迦さま、ブッダを指すわけではない。さらにいうとブッダという言葉も違う。

 アビダルマでは、お釈迦さまを指す言葉として、ブッダバカヴァーンという言い方をします。仏世尊。ブッダであり、かつバカヴァッドである者は、それはお釈迦さましかいないのだということですが、現在の日本というか、それ以降では二千年近くほとんど違いは認識されない。しかも使われている言葉というものが、すべて一緒なのです。ですから、経典を読むにしても、あるいは論書という、いろいろな人の書いた注釈書、あるいは日本の、例えば親鸞聖人の文献を読む、あるいは法然上人、道元上人、日蓮聖人の文書を読むといったときに、そこで使われている言葉と、インド最初期での言葉、あるいは中国で使われているもの、現代日本のそれというのは、みんな一緒なわけです。

 そうしたときに、それらをみんな同じ意味で理解していいのか、いけないのかということは、実は仏教学では大変な間違いをしてしまう危険性ということをはらんでるわけです。もちろん同質性もある。それが仏教の非常に独特な、テクニカルタームということです。いわゆる同じ術語を使って、しかもその言葉に収斂されてしまいます。そういうところが、他の宗教ではあまり見られませんが、仏教の特徴であります。

 

(三) 神・人・仏の関係


 次に、神とか人とか仏の関係についてですが、仏というのは神なのか、人なのか。いや違う、仏なんだという、そういう話です。神という概念は、日本の神話でもインドの神話でも神さまです。あるいはキリスト教とかヨーロッパでも神さまと言います。ただ、人が神になれるのか、人と神との関係として見たときに、少なくともキリスト教では、グノーシスとか異端としての特殊な例外はありますが、正統なキリスト教、あるいはイスラームでは、絶対人は神にはなれない。何故なら、神というのは全世界を創造したものであって、人間というのは神に似せてつくられたものではあるが、神の模倣品です。

 同様に、日本の神さまにも八百万の神さまたちがいらっしゃいますが、天照大神や八幡さまに人間がなれるかと言ったらそれはなれない。ただ、人間が神になる、これは戦国時代、江戸時代あたりに出てきますが、権現信仰、徳川家康あるいは加藤清正や大閤秀吉が神になるということはあり得ます。それは非常に特殊な例であって、戦国時代にはそうなることがあった。戦国時代以前は、天神さまぐらいでしょうか。怨霊信仰と一緒になっている菅原道真公が例外に近いぐらいのもの。それ以外は、人と神というのは限りなく違っているわけです。

 ところが仏教においては、仏という別の概念が入ってくる。つまり、仏になるのは、神も仏になれるし、人も仏になれる。あるいは、牛や馬や地獄の亡者であっても仏になれる。ここのところが、仏教とほかの宗教との大きな違いなわけです。イスラームやキリスト教的な神さまには絶対なれない。世界を創造し、しかも個人の行動の原則まですべて支配しているのが、例えばアッラーであり、ゴッドであるわけです。仏というのは、神も人も凡夫だけど悟りさえ開けば、必ず仏になれる。つまり、私達自身が仏になれる、というのが仏教の大きな特徴の一つです。ですから、全知全能の神という、そういう存在は、仏教では一切認めません。しかし一般の神さまは認めているから、守護神というかたちで、インドラであるとかサラスバティーですか、弁天さまがいます。インドラというのは、日本では帝釈さまになります。でも、帝釈さまにしても迷える存在である、というふうに考えます。そして、帝釈さまであろうが私達であろうが、あるいは犬猫であろうが、悟りさえ開けば仏という段階にいけるんだと、これが、仏教が非常に特殊的であり、その他の宗教と大きく違うところの一つになります。

 

(四) ブッダの体験内容に導く言葉としての仏教聖典


 そして四番目に、仏陀の体験内容を導く言葉としての仏教聖典、これも非常に独特な内容です。他のキリスト教とかイスラーム、その他の文献はみんなそうなのですが、「何々しなさい」というかたちで大体書いてあります。つまり、神がこう決めたのだから、こういうときはこういうふうにするべきなんだということを、神の目から見てすべてに対して話しをする。ところが、仏教の経典というのは、「何々しなさい」という言い方は非常に少ない。「あなたが自分で、これはこうするといいんだよ」というような言い方、あるいは別の人に対しては、全然別の話しをするわけです。だから例えば、Aという人には「友達を大勢つくって、善知識と言われる人達と一緒にいなさい」。それに対してもう片一方では「人と交わっちゃいけない、あなたはただ一人だけで修行しなさい」と、そういう言い方をするわけです。つまり経典の内部でも、非常に食い違った言い方をする。それはお釈迦さまが対機説法ということで、人を見て喋っているからだという前提もありますが、非常に違う。何よりも違うところが、経典そのものを編んでしまうということです。これは、後の大乗仏教運動以降の非常に特殊なことなのです。キリスト教の聖書にしても、最初は一番古い、それこそユダヤの人達の歴史書みたいなところから始まって、例えばモーセという人が出て、その事跡が書いてある。今度はイエス・キリストという人が出て、そのイエス・キリストがこんなことを喋った、この時点ではこういうことをしたんだよ、ということが新約聖書に書かれている。ひとたび新約聖書というのがまとめられてしまうと、それには誰も手を付けられない。そこに書かれていることは、何せ神さまが仰った言葉ですから、訂正とかそういうことは一切、それは本来してはならないという考え方です。これは、インドのヴェーダと言われる非常に古い文献、それからウパニシャッドという文献、それらは天啓文学と呼ばれていまして、神さまが直接人間に下したものだ、というふうにされてます。ですから、ヴェーダの中身のヴェーダがいかになってるか、という解釈はありますが、ヴェーダそのものを書き替えていくということはない。というか、それは決してしてはならないことだったのです。

 最初期の仏教も、確かにそうだったのです。それは、阿含経典と言われている。部派仏教の人達は、お釈迦さまの仰っていることは確かに矛盾しているけれども、そこに書かれていることには必ず意味があるのだろう、ということで、アビダルマという解釈論をつくるわけです。本来、こういうふうに書いてあるけれど、実はその裏側にはこういう意味が隠されているのだろう、と。ここではこういうような議論をしてるけれども、お釈迦さまの本心はこっちなんだ、という注釈論が、そのアビダルマという考え方です。

 ところが法華経とか般若経、華厳経、あるいは後の大日経であるとか理趣経は、新しい経典そのものをつくってしまう。これは、他の宗教にはほとんど見られない、仏教のオリジナルなところです。これはブッダの体験内容に導く言葉としての聖典という、非常に特殊な形態が備わっているがゆえに、そのような一つのかたちをつくっているということです。

 特に、それを大きく後押ししたのが、おそらく方便(衆生を救済するための巧みな手段)という考え方になると思います。この方便という思考方法がひとたび登場すると、議論ということが成立しなくなるのです。それは方便だからということになる。最初期の仏教では、呪術的なこととかは外道がする話しであって、一切認められなかったわけです。お釈迦さまの日常というのは、占いだとかそういうことは一切してはいけない、というのが最初期の仏教でした。ところが、大乗仏教が形成されてくると、いやそうじゃない、占いもいいじゃないか、何故ならばそれは方便だから。その方便という巧みな技術によって、相手がそれで安心をして、そして仏の真のかたちに近付いていくならば、それはとても有効な手段であり、まさにそれこそが仏の教えの一つなんだ、とそういう言い方になります。

177-6.jpg「仏教のオリジナリティ」とは?
 ところが、方便という思考方法の一つの結果として、先ほども言いましたが、経典そのものを作ってしまった。これは部派仏教と言われている人達から見たらとんでもない話しだったわけです。何故ならば、彼らは最初にお釈迦さまが何を喋ったか、それを近くで直接聞いた人達が集まって、「いやこんなことを言ってないよ、いや本当にお釈迦さまが言ったことだよ」と。何度かの結集ということを行ない、これこそが本当のお釈迦さまの真の言葉であると言って、しかもそれを直接聞いてきた人から師資相承でずっとつながっている。その中で信頼されて、続いてきた人達の言葉に対して、これはお釈迦さまが説いたものだとして全然別の経典が作られたわけです。

 そして、そういうものが時代がたつと、最初は相手にもされなかったのですが、それが百~二百年経ってくると、誰が作ったかわからなくなってきます。そうすると、今度は中身で判断する。法華経って素晴らしいことが書いてあるな、とか、般若経って今までにないいい内容が書いてあるということで、これは無名の菩薩達が書いたものだ。それが今度は、仏がそのまま説いたものである、といったかたちで伝わってくる。これは、仏教独特なものの考え方です。

 先ほど、師資相承で続けてきたパーリ語の聖典でさえ、これ、明治の頃ですが、お釈迦さまの時代までは遡れないのではないか、その途中の時期に作られたのではないかと仏教学ではされております。そういう意味から見ると、お釈迦さま自身が直筆で書物を残してるのならまだしも、すべて弟子達による人伝えという前提になっていますので、現代の学問の体系の考え方によると、ただわからないとしか言いようがないのです。わからないということは、価値があるとかないとかということとは全然違う話しですので、そこのところは気を付けて話しをしないといけない。正直言ってわからない、というところが仏教のオリジナリティの一つになります。


(五) 「純粋思想」、「宗教儀礼」、「宗教感情」の混在・未分化


 そして五番目として、「純粋思想」、「宗教儀礼」、「宗教感情」の混在・未分化。これが大きく関わってまいります。つまり仏というのは、神さまとか人とか隔てなく、誰にでもなれるものだというわけですが、先ほど言った大乗仏教運動というのは、菩薩という名前の神さまが登場してくる、そういうような時代でもありました。

 例えば、皆さんよく知ってる観世音菩薩というのは、法華経に説かれるし、ほかの経典にも説かれている。日本でも大変馴染みの深い菩薩さまでいらっしゃるわけですが、南無観世音菩薩といったその声を聞いただけ、あるいは音を聞いただけで、どんな困苦に会おうとも観音さまにお縋りすれば、助けに来てくださるという観音信仰があります。本当にヒーロー中のヒーローのような、そういう仏さまです。

 人間の苦難を助けてくださるというのは、以前は神さまの領分であったわけですが、観世音菩薩をはじめ、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩や、その他多数の菩薩が、大乗仏教運動の中で生まれてまいります

 大乗仏教運動というのは、それを信仰している人達にとって、一部ではこれまでにない理論的な思想体系を創りだしました。例えば、空の思想が非常に高度化された時代ですし、唯識であるとか中観という思想が精緻化して、それこそものすごく勉強した人でないと理解できない。

 ところが今言ったように、大乗仏教運動のもう一つは、それこそお縋りしただけで救ってくださるような菩薩がいろいろなかたちでたくさん登場してきます。言葉もわからない、自分の名前も書けない、経典も一切読めない人達が、そこで仏の教えの中に、観音さまとかお地蔵さまにお縋りしたら救ってくださるという、仏に対する思慕というのが培われてくる。そういう状況が生まれてくる。

 それというのは、本来、おそらく最初期のお釈迦さまの言葉というのは、非常に哲学的で思考が深い、あるいは人間が持っている最も豊かな、そういうものを代表している作品の一つだと思うのですが、大乗仏教運動以降、いい悪いは別にして、宗教というかたちの論理を外す、あるいは論理を超えたところに救いというものを見出してくる。どちらかといえば、最初期の仏教というのは、個人の思想的な、哲学にかなり近いニュアンスが強かったものと考えますが、大乗仏教運動以降は、例えば、現在のイスラームであるとか、あるいはキリスト教に近い、本当に信仰のみに関わってくるという、そういう意味で、宗教儀礼と宗教感情と、純粋思想というのが混在して出てくる。いいかえれば、それらがいろいろなかたちで影響し合いながら、様々な文化を組み立てていったという意味で、仏教が特に、南アジア、東アジアに与えた影響というのが大きいと言われております。


三、現代思想としての仏教

 最初期の仏教から現代につながる仏教の中で、その違い、多様性ということではなくて、同質性の方に話を持っていきます。

(一) 初転法輪


 そうした中で、この世の中、やはりドゥッカ(苦・・duhkha)、この初転法輪というところが、まさにその、これは大乗仏教であっても、密教においても、やはり初転法輪の核からは、ほとんど抜けていない。そこでは、これを前提としたかたちで、さらに次の議論を重ねている、というのが現代につながっている仏教思想の歴史です。そうしたときに、やはり一番もととなっているのが、この世の中は思うとおりにならない、ドゥッカすなわち苦しみなんだということです。

 実は、仏教でドゥッカという言葉は、「苦」と訳していますが、もともとの意味は、不愉快なとか哀れなとか、そういう意味がある。つまり「思うとおりにならない」という意味が非常に強い言葉です。例えば、生老病死が苦なんだよ、とか、仏教の四苦八苦の中で、生まれてくるのが苦しみ、それが痛みを伴うものだという解釈をする方もいるけれども、本来はそうではなくて、自分の思うとおりにならないということです。この世に生まれることだって、確かに思うとおりにはならない。まさに、逆に死というかたちでこの世を去っていくときも、もっと長生きしたい、あるいはこういうことをしたいと思っても、なかなか思うようにはならないという意味が、まずあります。

 そして思うとおりにならない、の原因は何なんだろうと考えてみると、仏教ではそこに、欲望だとか煩悩というものが働いてくる。欲しいものがあっても手に入らないからそれが欲しい、あるいは名声が手に入らないから、あるいは愛別離苦みたいに自分の本当に親しい人、若い人が先に亡くなるなど順逆がひっくり返ってしまう、というように確かに思うとおりにならない。そういうことがあって、それではそれをどう解決をしていくか、ということになります。
 

(二) 無我


 では仏教はどうするか。煩悩とか欲望、そういうものをいかになくすか、ということが非常に大きな観点になる。それが、無我ということです。無我とは、我がない、アートマンがない、アナートマンということです。つまり、この世の中では常住不滅のものはない、だから諸行無常なんだ、あらゆるものは移り変わっていくんだ、というのが仏教の基本概念になっているわけですが、そこで、そのアートマンに固執するところから煩悩というのが生まれるんだと、確かにそれが一つあります。ただ、もう一つは、先ほど言いましたように、このテクニカルタームが、仏教では一緒くたになり、同じアートマンというのが、すごくいい意味で使われている。つまり、自己、自分自身のことを、自分を拠り所としなさい、というのも仏教の一つの考え方です。お釈迦さまが亡くなる最後のお説教のときに、法灯明自灯明いう言葉で日本では有名ですけれども、原語には「灯明」という言葉は「島」とあります。つまり、お釈迦さまの教えをもとにしなさい。それから次には、自分自身の考えというものをもとにあなたは生きていきなさい。だから、自分自身というものを見極めていかなければいけない。それは、先ほどの同じアートマンという言葉を使っているわけです。

 そうしたときに、一方ではこういうような無我なんだよという言い方をする。また他方では、アートマンというのを大切にしなさいという。そういう言い方も、仏教では特に最初期の方ではしておりますが、やはりそこは丁寧に読んでいくと、五蘊を生み出すアートマンと、本当に自分自身が自立するから自分が仏になるわけなので、そういうもののことでの自己というのは、一切仏教では否定しているものではないというのが、私自身も思っていることです。そして、アートマンというのを、英語だとsoul、これは魂というふうに翻訳します。この魂が相続していくというところで、仏教では、いやそんなことはないのだよという無我の教えが説かれるわけです。

177-9.jpgクシナガラ涅槃堂
 どういうことかと言いますと、仏教以前のインドでは業と輪廻という二つの考え方があります。カルマ(行為)というのとサンサーラという考え方ですが、これは何かというと、善いことをしたら善い所に生まれる。悪いことをした人は悪い所に生まれる。そして、輪廻転生をずっと繰り返していく。この世界観は仏教でももとにしています。でも実は、この輪廻転生を繰り返すということは、生が永遠に続くというのがインドの考え方です。日本とは若干違います。そうすると、死んで次に生まれ変わってくるときに、何が継承されていくのかといったときに、ウパニシャッドの人達は、アートマン、我というのが継承されていく。何故ならそれは魂だからなんだ。キリスト教では、魂というのが永遠にあって、それが天国に行くか地獄に行くかで、この世の中はおしまいだよと。永遠の天国か永遠の地獄かのどっちかに振り分けられるというのが、最後の審判の考え方です。インド仏教の場合はそうではなくて、この魂というものは、実際は継承するものではない、無我なんだという、言い方をします。

 そうすると、もとの違いは何なのか。インドにおいては、今でも問題になっているカースト制度というのがあります。カースト制度では、生まれや職業が差別のもととなっています。現在はインド憲法では否定されていますが、いまだインドでは非常に強い差別的価値観を持っています。それは何かというと、善い所に生まれた、金持ちに生まれるということは、それは前世で善いことをしたからだという話です。もしも貧乏な家庭に生まれた子どもがいるとすると、それは前世で悪いことしたからだということです。

 確かに、輪廻転生していく業の概念というのは、まさにそういうことですが、ヒンドゥーの教えの最たるものは、悪い所に生まれてしまった人は、その職業を一生涯全うしなければならない。そうすれば死んだ後に、次に善い所に生まれることができるという考え方です。インドで物貰いという職業の人は、いまだにたくさんいます。バシーシと言いますが、そういう物貰いの子どもに生まれると、一生涯物貰いしかしてはいけない。どんなにその子どもが優秀な子であって、勉強をしたらお医者さんや弁護士に、総理大臣になれるかもしれない。あるいは体育とか運動ができて、サッカー選手とか野球の選手になれるかもしれない。でも、そんなことは一切してはならないのです。そんなことをすると、それは神さまの決めた、あるいは決まったカルマの持っている、前世からの業を引きずっているものに対してさからうことになる。本来であれば、一生涯貧乏な生活を送ったならば、前世の宿業はクリアされ、死んで生まれ変わって来世に善い所に生まれるのであるから、という考え方です。

 ですから逆に、能力があるからと言って、親から続く職業を別の職業にするというのはとんでもない話しだというのが、古いインドのヒンドゥー教の考え方になります。これはバガヴァッドギータとか読んでいただくと、生まれながらの自分の職業をそのままに継続することこそが、それが神に認められる道だと説いてあるのですが、現代の感覚から見るとなかなか難しいことです。

 それに対して、仏教は非常に独自性というか、自由性を持ちます。それがどういうことかと言うと、原因から結果が生じるという、もちろん因果論というのがあるのですが、因から必ず果という結果が出るから、悪いことをやったら悪い所にいく、善いことをやったら善い結果が出るというのは、基本構造なんですが、仏教はこれプラス「縁」という考え方を入れます。そうすると、本来、因から果というのは一方向に進むのですが、別のファクターの縁というのを放り込むことによって、この矢印の方向が変わっていくという、それが仏教の非常に独特な考え方になります。例えばアングリマーラのように、人殺しを九百九十九人やって、千人目を殺そうとした。けれどもそこでお釈迦さまに出会うという仏縁があったので、アングリマーラは最終的には仏になれたという、そういう物語が出てきます。それは、本来、因果関係というのは悪いことをやったらずっと悪いこと、善いことをやったら善いかたちになるのですけれども、仏教の場合は、因縁という言い方をします。因と縁という、複数のファクターを放り込むことによって、運命論という考え方を承認しないというのが、仏教の非常に古いオーソドックスな考え方の一つになります。
 

(三) 五戒


 もう一つ、仏教では不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒という五戒というものを説きます。なぜこの五戒を説くのか。まさにこの五戒という、まず、人として最低限してはならないことというのが、この五戒です。治安のない世界での人間の行動を考えると、とても現実的な問題に思います。

(四) 大不善地法


 まずそれがスタートで、煩悩を失くしていくためのさまざまな修行というのは、その後のことです。まずこの五戒があって、次に善いこと悪いこと、善と不善とは何かと言うと、大不善地法という、無慚と無愧という仏教の考え方があり、特にアビダルマで二つ出てくるものです。「自らの行為を省みて恥じ入る心の動き(慚)」の無いものを「無慚」と言います。そして「自らの行為を他に対して恥じる心の動き(愧)」の無いもののことを「無愧」と言います。つまり、この二つ以外には善悪判断がないというのが、仏教のスタンダードな考え方です。自分自身で何かを決めなければいけない。仏になるのは、私自身が仏になるわけです。誰かが仏になるわけでもないし、あるいは誰かの超能力みたいなもので仏にしてくれるわけでもないのです。そうしたときに、自分自身で行う行動というのが自分自身に返ってくるということが前提になります。

 いいかえれば、最低限五戒を守って、かつ、この大不善地法の無慚、無愧という、自分自身の行いを省みることができるかできないか、あるいは他人を見て、自分のやっていることが本当に正しいのかということを自分で考えることができるかどうか。このことが仏教の中で一番問われている。そこから先の煩悩を失くすとか、あるいは出家して様々なことをしていく。これは、次の段階です。今言った五戒とか大不善地法というのは、ウバーサカ、ウバソクとかウバイという在家の出家修行以前の人達に対する、お釈迦さまの言葉になるわけです。それで、自分自身がどうなのか、そして自分自身が一体どういうふうになっていくのかという考え方が、そこに出てまいります。
 
四、まとめ

 まとめますと、いろいろなところで、様々な仏教に対しての勉強をしていくときに、実は当たり前のことしか仏教は言っていないのではないか、ということを気が付いていただくと、仏教の理解が非常に広がるのではないか、というのが私の感想です。逆に、仏教というのは、正しい行いをしなさいというが、でもこの正しいって一体何? と言ったとき、これこれしなさいというのは、他の宗教では、神さまがこう言ってるから神さまの言ったとおりやらなければいけない、という前提がありますが、仏教の場合はそれがまるでありません。つまり、人間に対しての信頼性、あるいは人間の持っている良識というものを、ある意味最大限で評価した思想体系の一つではないか、と考えております。私たちはできないこともたくさんありますし、しなければならないこともたくさんある。だけれども、その当たり前のことを当たり前に行動すべきということにおいて、本当に善いことだったらやりなさい、悪いことだったらそれは避けなさいというのが、おそらく仏教の教えでしょう。それでは何でこんなに経典群がたくさんあるのか、教えがたくさんあるのかというのは、まさに私たち一人ずつを後押ししてくれるとか、ちゃんと勇気を持ってこういうふうにしなさいよ、と言ってくれているのではないか。そのように私は感じております。

 仏教を勉強するということは、過去の思想を勉強するということではなくて、実は現代の、今のタイムリーなところに、何かプラスになるようなものでないと、それは思想を勉強した、何かを勉強したということにはならないのではないか。

 もちろん、考え方がたくさんあると思いますし、いろいろなことに対しての思いだとか、あるいは、できることできないことというのはもちろんあるわけです。先ほど言ったみたいに、この世の中、思いどおりにならないのですけれども、思いどおりにならなくても、その中で、どうしていくのか。そのことの判断をする。それも自分自身が本当に省みて、自分自身の行いということを見られるかどうか。そのようなことが、お釈迦さまの二千数百年前から出されているメッセージの一つと考えさせていただいています。(終)

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