佐野靖夫先生

仏教概論(第29期スクーリング議事録[ダイジェスト版])

2016年11月10日

はじめに

 最初期の仏教思想を中心に「仏教概論」を学びますが、今日お話しさせていただく具体的事例として、(一)十難無記 (二)五戒 (三)無慚と無愧(大不善地法) (四)初転法輪 (五)無我という五項目を考えてきました。それこそ現代に続く仏教、いろんな宗派であるとか、いろんな地域に広がっていってるわけですが、その中でも、仏教が仏教であるなら絶対これだけは変わらないというようなものが実はあります。  それを最初期の仏教でみてみたいと思います。インドの地で仏教はお釈迦さまによって開かれたのですが、その仏教が中国に渡り、さらには朝鮮半島だとか日本などアジア全域に伝播すると、それぞれの仏教の様相は見た目かなり違ってきました。ところが、よく見てみるとそのなかにも同様なものが確かにあります。そしてここでは何が同じで何が違うかという知識ではなくて、どういうことが現代まで継承されてきたのか、皆様に、そこに思いを巡らせていただければ、たいへん意味があるのではなかろうかと考えます。まず授業に入る前に一つだけ仏教の非常に独特な特徴というものを指摘したいと思います。仏教というのも宗教の一つだと、おそらく考えていらっしゃることと存じます。私もお寺の住職として、実際にお葬式をつかさどり、あるいは儀礼祭式を行うということをいたします。

 そのように宗教の中の一つが仏教なんだと。しかし実は、最初期の仏教というのは、確かにそういう側面もありますが、どちらかというと現代の日本で知られている仏教とはかなり違った形になる。それがどういうことかというと、他にも宗教はたくさんあります。例えば、キリスト教であるとかイスラームであるとか、あるいは日本では神道という宗教があります。その他、世界には様々な形で様々な宗教がありますけれども、では仏教はそういう宗教と同じなのか、どこが違うのか、おそらく一番違っている点は、何かと言いますと、仏教では自分が「仏」になる。「私たち自身が仏になるのだ」ということです。今の日本では死んだら「仏さん」という言い方をしますし、その人がどういう生涯をたどろうと、どんな生活をしていようと、仏さまになる、成仏すると言います。これはこれで日本仏教の非常に大きな特徴です。

 ところが、イスラームであるとかキリスト教では、自分が「神」になるということはあり得ません。あるいは日本の神道もそうです。自分が天照大神やスサノオノミコトになるかというとそれはなれない。そういう神様がいてその神様と自分という形になるわけです。これはキリスト教ではGodです。神と私。或いはイスラームではアッラーと私という形になります。

 それにたいして仏教は、自分自身が悟りを開くことができたら、自分が仏となるわけです。神様であろうと、特に、八百万の神様であるとか、あるいはギリシャの神様だとか、多くの神様もそれは迷える凡夫の一人に過ぎないと。お釈迦さまがおっしゃってるような悟りを開けば、今度は、自分はお釈迦さまと同じ、つまり、仏になることができる。これは仏教の非常に大きな特徴であって他の宗教にはまず見られない。これだけ精緻になった理論体系、教理体系を持つ宗教の中では、ほとんどありません。キリスト教でも異端とされている一部では確かに自分が神になるという教えもありますが、それは本当に少数のものでありまして、多くの一般に正統とされているキリスト教、これはカトリックであってもプロテスタントであってもギリシャ正教であっても、自分が「神」になれるということは考えません。つまり私たちが仏になる。私たち自身が悟りを開けば仏になれるんだというその考え方、これが仏教の大きな特徴の一つになります。

 そして何をするのか、仏教全部がそうですが、「自分の頭で考えなさい」というのが仏教のつぎの大きな特徴になります。誰彼に教えてもらうのではなくて。先人或いは、善知識と仏教学では言いますけれども、先のお師匠さんみたいなとても素晴らしい人たちがいて、その人の教えを守れば何もしないよりはいいだろう、ということはもちろんあります。でも、お釈迦さまの言葉にしても、あるいは先師たちの言葉にしても、結局は、これは現代の日本のどんな宗派であっても、自分自身の頭で考えて、自分自身で判断して、そしてはじめてその人が仏になることができる。そしてそれは、自分自身の責任、つまりこれは仏教では、自業自得という言い方をしますけれども、自分でした行いは必ず自分に跳ね返ってくるんだと。悟りということに関しても必ず自分自身に還ってくるんだと。これが仏教の基本構造であります。

 そうしたところで、皆さんもまず自分の頭で考えてみてください。教員がこんな事を言う。あるいは私が知ってる中身を可能な限りしゃべらせていただこうと思いますが、もしかしたら間違ってるかもしれない。他から見たらそうじゃないかもしれない。でもそれは、必ず聞いた人たちが自分の頭で考えて、そしてどうするかということを判断いただかないと、実は仏教というのは、一歩も先に進まないのだよというところがあります。

 ですから、教科書を読んだから、あるいは知識をどれだけ蓄えたかということではなくて、それはもちろん大切なことですけれども、それ以上にどうしてそうなるのかと、なんでその言葉、なんでそういうようなものの見方が、私たちが持っている考えの中に生まれてくるのだろうということを、ご自身で考えてみてください。誰かわかる人に聞いてもいいし、ライフワークというか、自分自身の中でずっと高めていただきたい。実は、お釈迦さまの様々な言葉や教えの中に、そういうヒントがたくさん含まれております。

 最初期の仏教では争いの根源を「形而上意見の対立」とみるとあります。『原始仏教その思想と生活』中村元先生の著書の中で、『スッタニパータ』という、仏教経典の中で最古層と現在仏教学ではされていますが、そこに書いてあります。中村先生が現代語に訳していて、『彼らはこのように異なった執見を懐いて論争し、「他の人は愚者であって、真理に熟達した人ではない」と言う。これらの人々はみな自分こそ真理に熟達した人であると思って語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか』と、疑問形で終わってます。それでは、どうすべきかということは自分で考えないといけないわけですが、いろんなところで異なる意見を言っている、あるいは、争っている。

 そして、形而上的なものの考え方を、盲象の比喩(『ウターナ』Ⅳ4)、それから、毒矢の比喩(『中阿含経』箭喩経)という形で語られています。盲象の比喩は、目の不自由な人が大きな象について認識をするという比喩です。象の頭に触れてみた人は、象は瓶のようなものであるとか。象の耳に触れた人は、象とは箕のようなものであるとか。同じように、象の牙に触れた人はどうか。象はあたかも鋤の先のようだとか、象の鼻を撫でた人は鋤の長柄のようだと。あるいは、体に触れてみた人はクグラのようだと答え、足に触れてみた人は柱のようだとか答える。背中に触れた人は臼のようなものだと答えた。あるいは、尻尾に触れてみた人は箒のようなものだと答えたと。つまり全体を見ることのできない人が部分だけを見ると、みんな自分自身の見方をしているのだという、そういうような比喩であると。ただここで一つ重要なことは、象を触って、鼻を触った人、尻尾を触った人、足を触った人、でも、それぞれの見方自体は間違ってないのだと。ただし、全体から見る象という認識とは違うものになっているということを言っている比喩です。

 もう一つ、形而上的なものに対する考え方で、これも有名な毒矢の比喩があります。これは、『中阿含経』、マッジマ・ニカーヤの六十三にあるものです。ある人が、毒矢に射られたときに、すぐ抜いて治療しなければならないのに、抜く前に、これは誰が射ったんだ。その人の背は高いのか低いのか、その人の目の色はどんなものかとか。それは、実はどうでもいいことであって、まず何よりも毒矢を抜かないことには治療はできない。だけれども、そういう細かなことに強く意識がいってしまって、抜く前に、どういうふうな形でその矢は作られているのか、その矢というものはどういう人が射ったのかみたいな、本来の毒矢を抜くということに対して、全然違った考え方をしてしまうと。そのようなものが形而上的な例としてよく出てきます。

 現代では、イスラームがいいのか、キリスト教がいいのか、あるいは、仏教が正しいのか。現に宗教間の紛争が起きてますし、歴史的にもキリスト教文化における魔女裁判、あるいはナチスのユダヤ人虐殺などもありました。そういう対立というのは一体どこから出てくるのかといったときに、お釈迦さまは、形而上的な意見の対立、そこから出てくるのではないかということを指摘します。

1.十難無記について

 それを具体的な教えとして表したのが、十難無記という考え方です。これは、十難無記とか十四難無記と言われておりまして、お釈迦さまの形而上学的なものに対する非常に有名な態度です。まず十項目あるということで、(一)世界というものは常住なのか、(二)無常なのか。つまり世界は時間的に無限なのか、有限なのか。あるいは(三)世界は有辺なのか、(四)無辺なのか。つまり世界は、空間的に有限なのか、無限なのか。それから、(五)身体と霊魂とは同一であるか、(六)身体と霊魂とは別異のものであるのか、こういう疑問です。霊魂と私たちの身体というのは同じものなのか、あるいは、別のものなのか。あるいは真理達成者(如来とか仏陀)は、死後に(七)生存するのか、(八)生存しないのか。(九)生存し、また生存しないのか、(十)生存するのでもなく、また生存しないものでもない。するのかしないのか。するものでもありしないものでもある、それとも、するものでもなくまたしないものでもないのか。これは四句分別という仏教ではよく使われている論証形式ですが、「仏陀というのは、死後にどうなっているのか」という疑問に対して、後世のテキストによっては別の事柄を挿入しているものもあります。

 そして、これに対して最初期の仏陀はどうしたか。これらの形而上学的難問に対して、仏陀は常に沈黙を通した。これが非常に大きな考え方になります。後に大乗仏教の中で、無を考える、あるいは、無我を考えるときにどうなのかという疑問はあるのですが、最初期の仏陀は、これに沈黙で答えたということになります。沈黙で答えるということを、知識としてはでなくて、皆様にきちんと考えていただきたいのです。イエスかノーかで答えることか、それから、沈黙するということ。これは答える必要があるのかないのか、あるいは、答えられなかったのかもしれない。その微妙な点をどういうふうに汲み取るか、それを考えるということは、とても大切なことだということができます。実は、他の宗教は、この疑問に対して、今、述べたような十項目のものに対してみなきれいに回答しております。そして、他の宗教はどうしているかというと、これこれ(神)を信じなさいということで言いかえます。仏教でも、もちろん信仰しなさい、信じなさいということは言いますが、他の宗教はもっと端的に言います。つまり神が書いた聖書にこう書いてあるから、これは正しいことだ、あるいはアッラーがこう言ってるから、あるいは、それをムハンマドという予言者が確実に伝えてるから、それはそうなんだと、そういう言い方をします。そして、それを信じるか信じないか、それが信仰なのだという言い方を非常に強くいたします。

 実はヨーロッパの思想と仏教を比較するという比較文化論の授業を大学で講義しましたが、現代の哲学を含むヨーロッパ思想の考え方と、仏教の考え方のどこが共通していてどこが違うのか、ということを研究しております。つまりキリスト教とかイスラームや現代思想とどこが同じで、どこが違うのかということです。

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釈尊のメッセージとは?

 ドイツ観念論の有名な哲学者であるイマヌエル・カントは、彼の著書『純粋理性批判』という中で、人間の理性の限界命題ということを考えます。そして、純粋理性の四つのアンチノミー、二律背反を説きます。ヨーロッパ型の近代思想とは何か。これはデカルト以降、様々な思想家が出て、特にカントで一つの形式が作られたとよく言われていますが、人間が知り得る、認識できる限界というのはどこにあるのか。キリスト教が根強いヨーロッパに伝統的な神様というのは、本当に人間において認識できるのか、できないのか、というところから近代ヨーロッパ思想はスタートしました。

 カントは『純粋理性批判』において、先験的感性論、先験的悟性論というものがあり、その中で、私たちは空間とか時間というのは先験的感性として認識することはできる。さらには、そこからいくつかの範疇でもって、ものということを考えて、推論を重ね、認識することはできる。だが、この四つのアンチノミーだけは、どうしても認識できないと。あるいは、これを認識することは、もはや人間であることを超えてしまうという、そういう限界。つまりここまではありえるが、ここから上は、もう人間として認識ができないのではないかということを丁寧に説き明かした力作が、カントの手柄といわれています。

 それでは、その四つとは何か。まず(一)「時間と空間に関する世界の限界」。これは人間として認識できないのではないか。もちろん天文学あるいは宇宙物理学などの分野では、今、様々に新しいことを発見していますが、カントの時代より百年以上過ぎた現代でも、宇宙すべてが解き明かされたわけでもなんでもありません。

 つぎに、(二)「全ては分割不可能な部分から構成されているものの実在」。例えば、半分ずつ切っていったときに、もうこれ以上切れない、そういうようなものの存在が実在するか否か。そこのところで、本当にもう分割し切れている、それの中の本当の根源というのは分かるのか、分からないのか。実はこの二つは、世界の限界だとか、あるいは、分割不可能な部分から構成されているものの実在。これをヨーロッパでは神という名前で語られています。これらから神というのは、本当に人間が理性の中で認識できるのかどうかというところが、カントの疑問点の淵源にあります。

 そして、(三)「自然法則に従う原因性に関する自由の問題」。これも難しい言葉ですが、自然法規則に従っている、つまり原因と結果が一体何か。そして、原因があって結果があったら、その間に自由ということがどれだけあるのか、そういうことは実際よく分からないのではないかと。それがカントの考え方にあります。

 それから、(四)「必然的存在者の実在」。これも神様みたいなものですが、必然的に絶対こういうものは存在しているんだというのも、実在に関しては、人間の理性ではほとんど分からない。つまり四つのアンチノミーの二律背反という形で、それこそ論理を超えてしまうという。これは、カント以降にゲーデルという有名な数学者が、ゲーデル理論というのを作りまして、不完全性定理というものができました。つまり自分自身を問題にする数学の公理系というものは、それ自身証明不能であるということが、二十世紀の初頭に数学で証明されています。四つの自己矛盾から人間の理性の範囲と限界。つまり中世以来の妄信的宗教観から、ありのままの人間としての思想を構築しようとしたのが、カントです。

 これは先ほどの十難無記と、全部が一緒とは言わないですが、非常に近い。つまりお釈迦さまが最初に仏教を説かれたとき、人間に対してどういうことを考えたのか。まず、はじめに、いわゆる私たちが仏になる。つまりそれ以外の、神であるとか、そういうものの実在、つまり超越的な何かの実在というものを一切認めなかった。そうではなくて、私たち自身の内でできることとは一体何かと考えたときに、この形而上的な議論、実はそれが成立するのかどうか、大きな疑問形を投げかけているというのが、十難無記のひとつのスタートになります。

 これは、仏教の非常に大きな特徴と考えられていまして、例えば、後の大乗仏教であるとか日本仏教というのも、このスタンスというのはそんなに変わってません。もちろん宗教的側面がたくさんみられます。ですから、観音様にお祈りすればどんなときでも助けてくださる。あるいはこれは同じような意味で、すべてのものをなげうって浄土教の阿弥陀様におすがりする。これがインドの宗教であるとかヨーロッパの宗教とは違うところですが、別に阿弥陀様が天国の扉を開いてくれるわけではありません。天国の扉と極楽は全然違います。極楽というのは、そこの中で修行すると最も仏に成りやすい、そういう条件を整えてくださっている場所だということであって、決して阿弥陀様が、御自身で私たちを、それこそキリスト、あるいはアッラーの神様みたいに、私たちをすべて天国に導いてくれるということではないのです。ここを間違えてしまうと仏教の本質がなかなか分かりづらい。極楽に往生できるということは、やはりそこは条件が整っている場所なので、そこからスタートして、一生懸命すると、いわゆる凡夫の娑婆世界にいるときよりは非常に悟りに近くなるというロジックが使われているわけなので、そこのところをよく考えていただきたい。

2.五戒について

 それでは次に、仏教は具体的に私たちに何をしなさいというのか。形而上学的なものが争いのもとであるならば、ではどういうことをすればいいのか。実をいうと、このことは経典に記述されています。その上経典の解説書、後に阿毘達磨という注釈書群が山のように作られてもいます。その注釈書群の中に、どの順番で行うのがいいか。お釈迦さまは、いろんなことをおっしゃたけれども、その中で、御自身のおっしゃってる中の正しいこととは一体何なのだろうかということを考えた。そういう思想著作群が残っておりまして、その中で最初に説かれていることが、実は、この五戒ということです。五戒とは、不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不飲酒の五つです。特に最初の四つというのが一番古くからあって、恐らく不飲酒というのは、後世に付け加えられて五つになったのではないかと言われています。つまり殺してはならない、あるものを盗んではいけない。男性に対しては他人の奥さんに、あるいは女性から見ても、セクシャルなことは控えなさい、正当なことだけをしなさい。うそをついてはいけない。それから、お酒を飲んではいけない。不飲酒というのは、現代でいうとドラッグみたいな、つまり自分を見失ってしまう、あるいは心をコントロールできなくなるようなものはやめなさいというのが、基本の五つなのです。でもこの五つというのは、もしも治安というものがない世界にいたとしたら、誰もがやってしまう可能性のある五つかもしれないということに気がつきました。

 お釈迦さまの時代は、考えてみると、現代のように警察がいるわけでもありませんので、治安なんてまるでない、非常に殺伐としたような時代でした。今から二千五百年前ですが、現代の世界でもそういう地域がいっぱいありますので、そうすると、やはり五戒というのは非常に基本的な、あるいは人間性が持つ五つの特質を、よくぞ並べたというところに気がつきました。そして仏教を勉強すると、例えば煩悩を減らすとかありますが、五戒はそういうものではない。人間が人間としてスタートするなら、少なくともこの五戒をきっちり守らないと、その人間は人として成立しないのではないか。つまり仏を目指して煩悩をなくしていくというのは、その先の話であって、仏教の基本として、つまり人間として他の人とあるべき、本当に最低限のルールの一つとして、この五戒というものがやはりあるのかなと思いました。

3.無慚と無愧(大不善地法)について

 では、正しいこと正しくないことというのはどういうところにあるのかというと、最初期の仏教は非常に面白いことを分析します。それが五位七十五法と言われているものです。これは仏教の心理作用であるとか、あるいは、人間もその法(ダルマ)によって構成されてるというようなものですが、この中の、大不善地法に無慚と無愧の二つがあります。言い換えれば、不善(悪)はその二つだけなのです。善法というのは大善地法を十として、信、勤、捨、慚、愧、無貪、無瞋、不害、軽安、不放逸とあります。

 実は善悪判断というのはとても難しくて、同じものをある人から見たらいいこと、ある人から見たら悪いことという不確定なものが基本的な善悪判断です。実は仏教においては、善の善たるもの、あるいは悪の悪たるものという概念はないのです。これはギリシャ文化だとか、あるいはキリスト教などでは、善の善たるゆえんのものは何かといったら神なのです。あるいはギリシャ思想では、それをイデアという。しかし仏教は、そういったものは想定しない。つまり善とか悪というのは、対象たるその人によって、すべて変わってくることなのだと。ある人にとってそれはいいかもしれない、しかしある人にはあまりよくないかもしれない。これは仏教のとても大きな特徴の一つになります。それでも、絶対してはいけない不善、つまり悪ですね、不善というのは二つある。それが、慚と愧の無いこと、すなわち無慚、無愧です。サンスクリットだと、アーフリクヤとアナパトラープヤという二つです。これは何かというと、無慚とは「自らの行為を省みて恥じる心の動き(慚)がないもの」、無愧とは「自らの行為を他に対して恥じる心の動き(愧)のないもの」、つまりこの二つだけが不善ということです。

 どういうことかといいますと、仏教では先ほど言ったように、自業自得ですから、自分のした行為というのは必ず自分に跳ね返ってくるというのが基本構造になってます。それなので、自分で考えて、自分で責任を取る。自分のした行いがいいことなのか悪いことなのか、そこはとても難しい判断になってきます。そうしたときに、本当に悪いことって何かというのは、無慚、無愧の状態である。つまり自分がしたことに対して、後から考えてみて、本当によかったと思えるのかどうか。ここのところが仏教にとってのとても大切なものになります。煩悩のようなものはたくさんあります。けれども、その行為がいい行為か悪い行為かということは、自分でそれを考えてみて、本当にそれが、まず自分自身に照らし合わせてみて恥じることのないものか否か、あるいは他の人の行動を見て、他の人にとって自分のした行為というのは恥じるものであるのか否かという、この二点だけが不善をなすという、仏教の独特なところです。神様が言ったとか言わないとかではないのです。つまり自分自身が、したことをもう一回考えてみて、恥じるか恥じないか。その点がまさにその人の本質に関わってしまいます。その中で、今度は自分自身が何かという基準というものが出てくるのです。

 神様が言うからそれが正しいのではない。その形而上的なことというのは、もはや沈黙するしかない。個々のものでは分からない。それでは、何をしたらいいのだといったときに、五つの事柄(五戒)がある。その五つの事柄の実際というのは、自分の行為を省みて恥じるか恥じないかということに基準が置かれる。そういうところが仏教のとても奥深いものになっております。このことが、部派仏教の典籍では中心的に説かれています。

4.初転法輪について

 それでは、お釈迦さまは具体的に私たちに対してどのようなことをおっしゃっているのか。お釈迦さまが悟りを開いて、菩提樹の下で、自分自身で悟ったと確信されて、そして、自分の最も親しかった友人(五比丘)たちを訪ねて語ったのが初転法輪という考え方になります。具体的によく言われてるのは、四諦八正道、四諦というのは、苦諦・集諦・滅諦・道諦をいい、八正道というのは、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定をいいます。その四諦八正道というのが、初転法輪の内容とされています。つまりこの世の中は苦しみであると、そういったところからスタートする。

 でも、この苦しみとは、漢訳だと「苦」という漢字ですが、これが本当に現代語でもそう訳していいのかというのは、今、とても大きな疑問が呈されています。もちろん苦の意味もありますが、この原語は、ドゥッカ(duhkha)です。どういうことかというと、この苦だと非常にペシミスティックな意味が強すぎるように思えます。例えば、この世の中は苦しみである。確かに苦しみなんですけれども、いや、でも、すごく楽しいことも少しはあるよ。家に帰ったら小さい子供もいる、どうにか平和に暮しているし、その中では楽しみ、あるいは日常の中での面白さというのはあると。それで幸福だなと思った、感じたことは恐らく皆様にもあると思います。

 実はドゥッカ(duhkha)の原語の意味は、不愉快なとか、艱難に充ちているとか、憐れなという意味です。現代語に一番近いのは、思うとおりにならない、という言葉です。ドゥッカのもともとの言葉の意味は確かに苦しみなんですけれども、思うとおりにならないという言葉だと、なんかとてもしっくりするような気がします。この世の中、思うとおりにならない。確かにそうかもしれない。それが苦痛かというと、またちょっと微妙な違いがあるように考えます。

 よく、苦しみというのは、生老病死という四つと、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、それから五取蘊苦と、四苦八苦とよく言われている。八つあると言いますけれども、例えば、生老病死の生というのは、生きるというか、生まれ出るってことです。生まれ出るというのは、苦しみであるというとなんか変だなと。老病死は、確かに苦しみかもしれない。そうではなくて、生きることというのはどうなのかといったときに、先ほど言ったとおり、思うとおりにならないという解釈をとるならば、そんなには外れてはいないのだろうかなと思います。つまり、この両親のもとに生まれた、確かに思うとおりにならなかったかもしれない、いいかもしれないし、悪いかもしれないとか。何でこの現代に生まれたのか。本人にとっては、それはもう思うとおりにならないことなんだ。そういうふうに言葉をもう少し原語に近しく広げてみると、なるほどそうなのかなと。

 先ほど言った、愛別離苦。つまり愛してる者と別れなければいけない。例えば、子供に先立たれた親というのは、もうどうにもならないくらい苦しいことだと思います。つまり思いどおりにならない。あるいは、求不得苦。欲しいものが手に入らない。それは、苦しみと言えば、苦しみになると思います。もう一つ、お釈迦様がよくぞ苦しみの中に入れたなと思うのが、怨憎会苦です。もう嫌な奴、会いたくもない奴に会ってしまうという苦しみです。あらゆること、私たちのこの世界というのは思うとおりにならないというところが、実はスタートだということです。では、どうして思うとおりにならないのか、それは原因があるからだと。そして、その原因というのは、様々なことは自分一人でできているのではなくて、いろいろな関わり合いによってそれが生まれてくる。これを縁起の理法という、そういう考え方になります。それは無明(無痴)から始まって、行(業の位)、識(識別作用)と続きます。十二因縁として有名ですが、十二種のパターンがあって、これを阿毘達磨という仏教では六因四縁五果という。とても難しく、ややこしいのですが、因と果というのはこのようにあるといいます。さらにそれが、現在、過去、未来にあって、三世両重因果論というのが作られます。つまり十二因縁というものを、過去、現在、未来の三世に当てはめるという、これは仏教の非常に煩瑣哲学的な思想体系の一つです。

 まず、この因果関係というのが、一つではなくて、つまり一人で存在するのではなくて、あらゆる関わり合いによって、つまり相対的な形でしか自分が存在しない、ということが、この世は思うとおりにならないということです。なぜ思うとおりにならないのか。自分が一人で成立して、つまり自分が神様のような、もうそれこそ超能力でもつかえるならば、あらゆることは解決するのかもしれないけれども、やりたいと思うことも、実はいろんな関わり合い、つまり自分が今ここにいるということも、自分一人でいるのではなくて、様々なものの関わり合いによって現在があるという、そういう考え方になります。

 ところが、その解決手段はあるにはあるんだよと、先ほどの四諦のうちの三つ目の滅諦ということです。お釈迦さまが、その解決手段について具体的に何をすればいいのかというのが、四つ目です。つまりこの世は思うとおりにならない。それには原因があるのだ。だけど、それはどうにかすることはできるものだ、自分自身で悟りを開くことができるのだよということを約束してくれた。では、具体的に何をすればいいのか。八つの正しい行いをしなさいというのが四諦八正道で、八つの正しい道とは何かというと、先ほど述べた、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つです。正しい見解をもって、正しい思惟をもって、正しい言葉づかいをして、正しい行いをして、正しい生活を行って、正しい努力をして、正しい記憶で、正しい心を統一させなさい、ということです。では正しいってなんだろうか。ここにある四諦八正道は、とても「あたりまえ」のことを言ってるわけです。

 実は仏教とはそういうものでして、教えを学ぶと、確かに心の琴線に触れる言葉とかいっぱいありますけれども、つまるところ「あたりまえ」のことしか言っていません。先ほどの五戒もそうです。殺しちゃならん、盗んじゃいけないなど、あたりまえのことなのです。ただその「あたりまえ」のことが「あたりまえ」にできない、それができずに、例えば、怒りに包まれてしまったり、欲しいものがあってどうしょうもなくなったりします。

 もちろん、自分一人で生存しているわけではないから、やはり日本というこのシステムの中にいるわけですし、周りが戦争を始めてしまったら、自分は嫌だと言っても、戦争に巻き込まれてしまうと、まさにそういうような状況下にあるわけです。そうしたときに、自分自身が本当に正しいというのは一体何か。四諦八正道でいう、正しい行い、正しい行為、正しいうんぬんっていうのも、同じ考え方になっております。お釈迦様のおっしゃってる一番正しいことは何か。正しいか正しくないかというのは、いったいどこを見ていうのか。それは、自分で判断するしかない。善悪というのは、実は仏教では規定されていない。つまり自分自身が恥じるか恥じることがないか、あるいは、他の人から見てそれはどうなんだというもの。それを自分自身が自分自身の頭で決めて、そして、これが私の行動なのだということで、それを実際に行う。それらのことが、仏教が他の宗教とは大きく違うところです。他の宗教は、聖書にこう書いてあるから、あるいは、アッラーがこう言ったから、その他にもいっぱいありますが、神に対して、では何がいいか悪いか、そしてそれが正しいか正しくないかは、信仰のみに起因するということが強く言われます。

 そして、その信仰が本当に間違っているか間違っていないか。仏教における信仰というのは、「愛」の一つの属性ということで、後世には「信じる」ということを強調することもありますが、実は自分自身で、先ほど言った慚愧という形で、何度も振り返って、本当にそうなのかということを自問し考えつづけるという思想体系になっています。

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ブダガヤ大菩提寺大塔

 つぎに因果関係というのは、一本の矢印で進むのかという問題があります。つまりこの世は自分の思いどおりにならない。それはなぜかというと、あらゆるものは、原因から結果へという形になっているから。つまり因があって、そして果に戻ってくる。そして因果関係というのは、一本の矢で射って、その関係が非常にいろんなことにあるから思うとおりにならない。

 因果関係というのは、ウパニシャッド時代から伝わるインド一般の自業自得の考え方というのがあります。ところが、インド一般の思想と仏教の大きな違いというのは、仏教の考え方には、ここにもう一つ縁というファクターを持つことにあります。因縁論といいます。本来、原因があって、結果というのは一方向にしか進まない。ところが、縁というもう一つのファクターをこれに挟み込むことによって、この方向は別のところに変化する。つまり別の果が出てくるというのが、仏教独自の非常に面白い考え方になります。因と縁という複数のファクターが絡まっていて、様々な結果に反映される。これはヒンズー教であるとか、仏教以前の考え方、あるいは仏教以後でもそうですが、大きく違うところです。

 どういうことかというと、先ほど言った五戒を破る、例えば人殺しをする。仏教では、アングリマーラという、九百九十九人殺人を犯した極悪人がいました。あるいは、ダイバダッタという、お釈迦さまを殺害しようとした極悪人がいました。しかしながら、彼らはお釈迦さまに出会うという縁があって、いわゆる仏縁というのがあり、アングリマーラも、ダイバダッタもついには仏になれたというのが、それです。本来だったら、そういう人殺しをする、あるいはとんでもない罪を起こしたから結果として地獄に落ちて、永遠に地獄にいるというのが自業自得の考え方です。けれども、縁というもう一つのファクターがかかることによって、例えばお釈迦さまとお会いするという縁があると、その結果は最終的に変わってしまう、悟りを開けるのだという。つまり原因があって結果がある、それは一つではない。いくつものファクターがあってこそ、様々な結果を生み出す事ができるというのが、仏教の非常に独特な特徴の一つになります。

5.無我について

 そして、無我という考え方、これは因果関係の自由論をいいます。先ほどカントによる自由意思について少し触れましたが、原因と結果において自由意思というのはどこに働くのかという問題です。仏教において自由意思は、つまり原因があって、行為がなされる。それに対しての善悪は自己の反省に任される。その結果というのは、その間の縁という複数の事象にゆだねられる。つまり、原因という自己の意志と縁という別の自己の意思によって、様々な形で結果が変化するという、独自性というものを持つ思想なのです。これもまた世界でとても珍しい思想体系の一つであります。  インドのヒンズー教のカースト制度が、現在もなぜ残っているのかというのは、まさにヒンズー教の思考方法に縁というファクターがなくて、いわゆる因と果という、この二つしかないことがあげられます。唯一救ってくれるのは、シヴァだとかヴィシュヌとかいう神様に無条件の信頼を寄せれば、若干神様の気まぐれによって変えてくれることはありますが、基本は自業自得ですから、因から果に向けて一方向の流れになる。ですから、ウパニシャッドをはじめインドのヒンズー教の考え方では、例えば、貧乏な人の子供として生れたら、一生涯親の職業を継がなければならないのだという考え方になります。

 なぜインドでカースト制度がいまだになくならないのかというと、そういう信仰がとても強いからです。ものもらいとか、乞食というのは最下層カーストですが、そこに生まれたら、その子供にどんなに力があっても、例えば、運動がうまくて、それこそ野球の選手やサッカーの選手になる、あるいは頭がよくて医者や弁護士になる、総理大臣になるという可能性があっても、そんなことはしてはいけない。なぜならば、そのカーストに生まれたということは、既に前世で悪いことをしたから、その結果として貧乏な家に生まれてくる。それは因果関係が厳然としているから。つまり果として、人がうらやむような有力な家に生まれるということは、既に前世でいいことをしてるからである、そういう考え方なのです。子供が前世の業の結果として生まれたときに、そこにおいて自分の職業を自由に選択して、より自分の可能性を広めるということは、前世での業の結果にもとることであり、インドでは逆に罪になる。これは、バガヴァッド・ギーターをはじめとして、各種インド哲学で説かれているものです。

 ではどうすればいいか。それは、例えばものもらいの家に生れたら、一生涯ものもらいをつづければ、つまり前世の業を今世で償えば、死んだ後に生まれ変わって、来世に今度は裕福な家に生まれるという、そういう考えです。でも、これは現代日本の考え方からみると、やはり間違っている。仏教はまさにそれを、ヒンズー教の持っている、因果が一本の矢印でつながるのではなくて、必ず縁というものを含むのだと。そして、人間には自由意思というのがあるのだと主張したのです。つまりその子供が、もしも自分自身で、職業選択において、勉強したら医者になれるかもしれない、あるいは、政治家になれるかもしれない、それはその子の持っている自業自得の自分自身の行いの結果であって、決して前世に決まっていたことではない。前世からの因果応報で回っている輪廻の因果関係というのは、いい方に解釈すれば、それはそれでとてもすばらしい考え方になるかもしれないですけれども、悪い方に解釈すると非常に危険な考え方にもなってしまうということです。

 そして、現代でもインドでは強力な差別意識が残っています。金持ちに生まれたのは前世でいいことしてきたから、金持に生まれてこなかった人を差別しても、あるいは虐げても、それはあたりまえのことなのだということが、インド社会の中の教育が非常に遅れている地域では、その考え方が非常に強い力を持っています。もちろん現在インドの憲法では、人を差別してはいけない、カーストなどあってはいけないと規定していますけれども、インドではまだまだ多くの、自分の名前も書けない人たちというのはたくさんおりますので、そうすると、そういう古来からあるしきたりというのは、非常に強く色濃く残っています。現在でも、それが大きな社会問題として未解決であります。

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おわりに

 仏教も数千年にわたって様々な地域に伝播し、様々な文化を紡いできましたので、歴史をはじめ異文化の事象を丁寧にみて、そして、自分の頭で考えていただいて、そして、判断していただく。釈尊のメッセージが現代にどうもたらされているのか、現代に培われているのかということを、せっかくの機会ですから勉強していただければと思います。(終)

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