佐野靖夫先生

仏教概論(第31期スクーリング講義録)

2019年2月10日 仏教文化195号

はじめに

 本日は「仏教概論」、特に釈尊のメッセージということでお話しさせていただこうと考えておりますが、私自身が仏教学を勉強して、あるいはお寺の実務をさせていただきながら思ったこと、それを含めて釈尊のメッセージのひとつになるのではないかと思います。

 仏教概論ですから、仏教の最も古い時代のお釈迦さまの思想の基本的なこと、それだけではなくて、今この世界で、私たちの身の回りで起こっていることについても繋がらないと、単なる学問の領域だけで満足している、それではまるで意味がないのではないかと考えます。これからお話しすることは、お釈迦さまが直接説かれたとされる言葉が基本です。

 皆さんが身近で、あるいは私が現在お寺で行っている仏教というのは、もちろん日本仏教です。日本仏教というのは大乗仏教という、これは特に中国伝来以降、インドでもそういう時代はありましたけれども、おそらく西暦紀元前後以降に培われたものです。ところが今日のお話、私の専門はインドの最初期の仏教ですが、お釈迦さま、すなわち歴史上のゴータマ・シッダールタという人物の、実際に言葉でつづられたとされていることについてであります。仏教が日本に最初に伝来したのは、聖徳太子の古い時代ですが、仏教学というものが明治以降に日本に入った時点で、お釈迦さまの言葉だとされている文献自体も後世のものではないかという知見がある分野です。それでも世界で現在行われている一番古い仏教といわれているものは、タイであるとか、ミャンマーであるとか、東南アジアのほうに伝わっているもの、あるいはスリランカに伝わっているものが、一番古い形態を残しているといわれています。タイとか、ミャンマー、それからスリランカにある仏教というのは、形態は古いものを引きずってますが、現実には非常に新しい仏教でありまして、大乗仏教よりも新しいのではないかと、現在考えられている仏教です。そこのところを間違えてしまうと、とても大きな誤解となります。実はそういう仏教というのは本当に新しい、日本でいえば鎌倉時代以降の仏教と同じくらいにつくられてきたのが、タイとか、ミャンマー、あるいはスリランカに伝わる古い形の信仰の形態を独自に発達させたものを現代に伝えているということであります。

 本当に古い仏教というのは、実は現在インドでは歴史的には滅んでしまったとされています。特に北回りで、いわゆるインドから中国に入る中央アジアの伝播ルートというのは、後にチンギス・ハーンをはじめとする人々、あるいはそれ以前にはイスラームの人々によって破壊された場所です。昨年、トルクメニスタンのメルブという仏教遺跡、世界で一番西の外れの仏教遺跡という、シルクロードの西方、ほとんどイランのテヘランに近い場所なのですけれども、そこはもう現在では砂漠の遺跡で当時の形はなくなっている。北回りの仏教というのも中国を始め現実には存在していない。あるいは現在あるインドの仏教というのは、二十世紀、第二次世界大戦後につくられた仏教ということですので、本当に古いものというのは、遺跡のみで歴史のかなたになくなってしまっている、あるいは伝わってきて、別の形となって変容しているというのが事実であります。

 変容したものがいいのか、悪いのかということを言うつもりはありません。ただ、日本の仏教とインドの最初期の仏教というのは、かなり違いがあります。日本では、例えば三回忌、十三回忌、三十三回忌というようなご先祖様のご供養をしますけれども、インドでは四十九日後に必ず生まれ変わってしまうという、そういう背景もありますので、同じ仏教の因果論であるとか、あるいは輪廻転生というのも、日本仏教の輪廻転生論とインド仏教の輪廻転生論というのは、かなり違っております。そういう違いというものを研究するのが仏教学という学問であるわけですが、その違いがどうしてできてきたのか、そして現在私たちが信じているという仏教、これは古いものであろうと、新しいものであろうと、それ自体が意味あるものであるのかと、そういうことを含めて考えていただきたいと思います。

 仏教というのは他の宗教と違って、インド文化圏、中国文化圏という、巨大な、まるで生活の仕方も違う二つの文化圏を抜けてきて、現在ではグローバル社会の中にあるという歴史的背景を持っています。同じ世界宗教であるキリスト教であるとか、イスラームであるとか、そういう宗教とは非常に違った形になっております。ただ、インド仏教というように見たときに、どうしてインドの仏教が滅んでしまったのかという大きな理由というのは、実は最初期の仏教というのは、インド人の生活様式、あるいは社会システムに非常に負っているところがあるということです。形式的には民族宗教の一つではないかといわれております。ところが大乗仏教運動以降、世界宗教の一つとして展開するわけでして、世界宗教となったものが具体的に中国に伝わり、朝鮮半島、そして日本に伝わった北伝の仏教、あるいは世界宗教という名の半分民族宗教の色合いを残した形で、東南アジアの方に伝わってきた南伝の仏教というのが現況であります。

 具体的にどういうことかというと、日本の社会で現在、お釈迦さまと同じような生活ができるだろうか。簡単に言えば戒律にありますが、ご飯はお昼までに食べるということがひとつあります。ところが、お昼までに食べるといいながらも、いわゆる乞食といいますが、皆から貰ってこなければならない。そうすると、ある日一転奮起して、自分が今、隣の人の家に行って、朝ご飯をくださいと言って、本当にその人がくれるのか。現代ではそういう社会習俗がないですから、なかなか難しい。インドでは当時、今でもそうですけれども、そういう人が来たら、例えばそれは仏教徒であろうがバラモン僧であろうが、必ず施食をするということは社会通念として存在するわけです。ところが、中国とか、現代日本において、そういう習俗というのは非常に薄くなっている。京都だとか、永平寺の周りだとか、そういう所ではもちろん残っておりますが、一般の家を回ると怪しい人が来たということで相手にされないというのが、おそらく現代の日本では事実だと思います。それはインドのいわゆるバラモンをはじめとする、お釈迦さまもそうですけれども、そういう人たちを必ず供養するという社会制度がきっちりとできた所においては、それは成立します。そうでない所、例えば中国においては施食するという習俗が一切ありませんでしたので、中国に仏教が伝来したときに、そこのところは大きく変えなければいけない。つまり、仏教の戒律の基本的なシステムを変えなければならないということが歴史的にありました。

 そういうことがあって、仏教はそのままでは世界宗教にはなり得なかったと考えられています。それをふまえて最初期の仏教が一般の人たちに何を説いたのかということを、はじめに考えてみたいと思います。
 現在の世の中を見回しますと、「嘘」というものが非常にまかり通っている。自分は嘘をついているのだけど、「私は嘘をついていない」ということが、国際社会のさまざまな外交問題、あるいは国会などにおいても、また毎日のニュースを見ても世間を賑わせています。結局自分が正しいと思ったことをやっているのか、やっていないのかと。職場で上の立場の人は、「私はそのようなことは一切やっていません」というようなことを表明していると。それが本当かどうかというのは、ここでは問題にしません。お釈迦さまはそういうことに対して、何をまず考えて、あるいは、それに対してどういう態度をとったのかを知ることは、仏教が現代に本当に意味を持つのであれば、やはり考えていくことが必要なのではないかと思いました。

 そして最初に、嘘というのは、「ついていい嘘」と、「ついてはいけない嘘」があるということを仏教では言います。(一)「嘘も方便、あるいは嘘と方便」というのは、一体どういうことかを考えてみようと思います。そして、(二)五戒というのが、実はこれはお坊さんの一歩手前ですね。一般の人たちが最低限守らなければならないという、その五つの徳目というか、これは仏教全体に通じることですが、仏教徒であるのならば、この五つは守らなければいけないよというのが五戒であります。そして、(三)無慚と無愧(大不善地法)。何がいいことで、何が悪いことなのかと、そういうことを仏教ではどう考えているのか。(四)初転法輪。仏教の思想というのは、基本的な構造としてどのようにあるのか。(五)無我と十難無記。これは仏教の持っているひとつの大きな成果であると思いますが、その五つの項目というものをトレースさせていただいて、本日のお話にさせていただこうかと考えております。



一、「嘘も方便」、嘘と方便

 まず、嘘も方便とか、嘘と方便というのは、仏教でどういうように取り上げられているか。これは次の五戒というものの基になるわけですが、嘘という言葉、これは現代語にかなり近い言葉です。仏教用語の最初期のものとしては、妄語という形で出てきます。サンスクリットではムリシャバーダという言葉です。同じように、特に最初期の仏教でも出てきますが、あまり重要視されなかった言葉で方便というのがあります。ところが西暦紀元前後頃、実は大乗仏教においては、方便というのはとても大きなキーワードのひとつになります。最初期の仏教では、実はあまり取り上げられていなかったことが、先ほど言った世界宗教となる大乗仏教という考え方のときに、「方便」思想はとても重要なものとして展開したという歴史があります。

 具体的にどう違うのか。実は妄語というのは、お釈迦さまは頭から否定します。なぜならば、これは信頼を損ねるからだと。お釈迦さまは、この妄語、つまり、自分の得になるというか、自分自身が利益を得ようとして相手を騙すという意味の「妄語」という、そういう言葉はとことん否定いたします。マッジマ・ニカーヤという経典に、「人格を完成した人は、たとえ真実のことでも、相手のためにならないことであるならば、語らない。しかし、真実で、しかも相手のためになることであるならば、たとえ相手に不愉快なことであっても、それを語ることがある」という、そういう文章があります。非常に深い言葉だなと思います。一方、巧みな方便は、ウパーヤカウシャルヤというサンスクリット語で、先ほどのムリシャと違うといいます。それだけで十分なのですけれども、言葉が違う、言語が違うということは、概念そのものが違うわけなのです。方便という言葉は、嘘も方便とよくいわれますが、実はさまざまなものに対して、嘘というのは本来ついてはいけないのだけれども、相手のことを思って行うものであれば、それだったら嘘はついてもいいと。方便というのは、後の大乗仏教ではとても重要な概念になってくるわけで、中心的概念になります。ただ、本当に方便がすばらしいかというと、これは現代の大乗仏教の大きな問題点のひとつですが、私たちの認識を離れるのではないかという疑念が正直言ってあります。実は大乗仏教でのひとつの成果、日本とか中国では『法華経』という経典が中心的な位置を占めますが、特に法華経というのは、まさに方便の教えであるということになっております。

 この方便という考え方が出現したので、それまでインドで一番古い最初期の仏教では、例えば占星術のような、「占いのようなものは決してしてはならない」と、お釈迦さま自身が強く言ってきました。ところが大乗仏教が出てくるころ、ちょうど法華経だとか、実際には大集経という経典なのですが、それらが生まれるころには、「もしも多くの人々が占いとか、占星術によって、よいことを得ることができるのならば、それはやってもよろしい」というように、大きく変わるわけなのです。本来仏教というのは、自然の肉とか血とか、そういったものを神様に供えるということは一切しなかったわけですけれども、それもひとつの方便として可能であるというように、経典自体が大きく変化するということがありました。特に大乗仏教の分野ですので、あまり深く立ち入りませんが、法華経などはだいぶ違っています。それ以前の、例えばアビダルマといわれるインドの最初期の仏教では、例えば人が死ぬこと、つまり、お釈迦さまが亡くなったときも、十大弟子たちが泣くなどはとんでもない話でした。死は当たり前のことだから。それを受け入れるための心をちゃんと自分で制御しなさいということを言います。ところが法華経を読むと、そうではない。泣いていいわけなのです。十大弟子が泣いてしまうわけなのです。そして、あまりにもお釈迦さまが恋しい恋しいと号泣し慟哭した先に、十大弟子以下の人々が泣くことによって、あるときふと自分で気が付くのだと。お釈迦さまもこういう涅槃というようなものに入るのだということに気が付く。そこではじめて仏心が芽生えると。そういうことが法華経では説かれます。

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  ブッダガヤ・マハーボディ寺院の釈迦牟尼仏像
 それ以前のインド仏教では、心を騒がすという、一切そういうことはとんでもない話でありました。心は制御するものと考えます。ですから大乗仏教の色濃い日本で、お釈迦さまの涅槃図を見ると、長谷川等伯の画もそうですが、高野山金剛峯寺にある日本で一番古い涅槃図なども、確かに十大弟子が泣いているのです。ところがインドの古い思想では、泣いてはいけないわけなのです。いわゆる阿羅漢といわれる人たちは、人が亡くなるというのは当然のことなので、どちらかというと無関心を装わなければならないと。逆に泣くなどということは、それは執着があるわけで、煩悩であり、いけないものであるというのが最初期の仏教の考え方です。ですから、どちらがいいとか全くそういうことを言うつもりはないので、ただ、その違いというのは、そのものとしてある。その違いは文化的なものかもしれないし、その違いを認めることによって、大きく仏教そのものが変化、変容しているということを見ていただければいいと考えております。

 現在でも変化していることはありまして、例えばがんの告知ということは、数十年前は患者にしてはならないという常識がありました。私の父もがんで亡くなっているのですけれども、そのとき父に「あなたはがんだよ」ということは、正直言って、私たち子どもは医者から聞かされていましたけれども、今から三十年近く前ですね。父に告げるべきか、どうなのかということを、子どもとしてまず迷うと。それで、やっぱりやめておこうかなといって、父は、うすうすは気付いているかもしれないけれども、お互い黙っていようということになりまして、私の父のときには、がんの告知っていうのはなされなかったのです。ところが、今はそうじゃない。八割か九割近くの人は、自分はがんであると、自分もお医者さんも告知すると。その方が治療としていいのだと。嘘をついてもいいのか、いけないのか、そう思いながらも、相手や社会が実際に変わってきている。これはひとつの例なのかなと思います。

 そうすると、一体どこまで相手のことを思いやれるのか、がとても大切になってきます。これが仏教のとても深く複雑なとこなのですけれども、例えば嘘をついてもいいといったときに、どこまでなのか。今あまりいい言葉で使われていないですけど、忖度という言葉、ありますよね。つまり政治家に対して忖度するからいけない。官僚はしてはならないということで、大騒ぎになっているわけですけれども。でも忖度っていうのは、本当にあるのか、ないのか。あるいはKYという言葉、空気を読むということと、忖度をするということは、非常にニアリーな、細かいところは違いますが、近しい考え方の一つだと思います。そうしたときに、一体どこまでが、本当にその人のことを思っているのか。自分がそれで利益を得るか否かというところで、判断されているということがあります。


 
二、五戒

 次に、五戒についてですが、①不殺生②不偸盗③不邪淫④不妄語⑤不飲酒という五つです。つまり、まだお坊さんになる前に、仏教徒であるならば、仏教を信じるならば、殺生はしちゃいけない。人のものを盗んではいけませんよと。不邪淫というのは、一般の人たちに対して言っているわけですので、自分の奥さんには手を出してもいいけれども、人の奥さんだとか、現代でいう不倫みたいなことは、してはならないよと。不妄語は、嘘はついちゃいけない。これは信頼関係を正面から崩すものだから。不飲酒というのは、おそらく五戒の中で最後に付け加えられたといわれています。お酒を飲むと自分自身の心が制御できない、そういう状態がいけないということです。当時のインドでお酒っていうのは相当強い、大半はいいかげんなお酒で、本当に貴族しか、いいお酒って飲めなかった。そうすると、現在のドラッグに近いようなものを、おそらく飲んでいた可能性もありますので、それはいけないと思います。

 この五つの戒め。戒めであるということは、どうしてもしてはならないということではないのです。これは仏教が現代まで生き残ってきた、何千年も続いた最大の理由というのは、実はそこにあるのかなと思うのです。殺してしまうこともある。これは戦争とかも含めてですね。盗んでしまうこともある。盗みっていうのも、何も他の人の家に入って、物を取ってくるというだけではなくて、隣の人の持ち物をちょっと持っていっちゃったとか、あるいはコンビニに行って、雨降ってきたから、そこにある傘を使っちゃったというのだって、盗みといえば盗みです。そういうことをしてもいいのか。それから、先ほど言った不倫関係みたいなもの。それから嘘というのも、個人でどこまでつくのか。実は、今一番厳しい修行僧といわれる、タイとか、ミャンマーのお坊さんの中でも、たとえ罪を犯しても、それを懺悔すればクリアされるということが確かにあります。ただ、お釈迦さまはこの五つは根元的であり、してはいけないよと言っております。

 なんでこの五つなのか。現代の日本では、例えば殺生っていうのは、アリを踏んでしまうこともゴキブリをスリッパで追い回すことも殺生であるかもしれない。あるいは肉なんかは切り身としてスーパーで売られているけれども、これも殺生かもしれない。戦争状態ではないので、自分が人を殺すということはなかなかないだろうと思います。ただ、当時、あるいは現代でも本当はあんまり変わらないと思うのですが、戦争状態にあるような所、あるいは、現在は警察がしっかりしていて、うちの物を盗まれたら、警察に届ければどうにかなるだろう、あるいは出てくるだろうっていうふうに考えるのですけれども、治安がまるでない世界や現場から見たら、この五戒というのは、人間の持つ本性の本当に基本的な五つなのかなと思います。治安も何もない、自分しかその場に居なかったときに、人間が行うものとしては、ぐずぐずいうと面倒くさいから、あいつ殺しちゃおうとか、あるいは、目の前にある物を略奪してもいいんじゃないかとか、女性男性にかかわらず不倫するとか凌辱するとか。嘘だって同じように、信頼関係がある、ルールが守られているからこそ、嘘はついちゃいけないと言うのだけれども、ルール自体が非常に怪しくなってくると、嘘をついてしまうんじゃないか。そうこう思うと、五戒というのは、お釈迦さまというか、本当に仏教がよくぞこの五つに絞ったなというような五つかなと思います。理屈や知識としては、五戒というのは若いころから知っているつもりなのですけれども、年を取ってみると人間が何かをするときに、最低限五つのルールがあるとすれば、この五戒なのかなということをとても強く感じるようなところがあります。



三、無慚と無愧(大不善地法)

 第三番目の大不善地法。どういうことかというと、今まで言った、嘘をついていいか悪いか、あるいは殺生をしてもいいか、悪いかというとき、あるいはどうしたら人のためになるのかといったときに、自分自身で判断するという仏教の大きな流れにおいては、実は善悪の判断というのはこの二つだけになります。これは五位七十五法という、後に仏教教団の賢い人たちが一生懸命議論を重ねて、これを七十五のダルマというのにまとめるのですが、そうしたときに大不善地法というのがあって、それは無慚と無愧の二点だけだと。つまり無慚とは自らの行為を省みて恥じる心の動き(慚)が無いもの、それは当然悪であると。善いものではないんだと。それから、無愧という自らの行為を他に対して恥じる心の動き(愧)の無いもの。この二点だけが、最初期の仏教における悪いものになる。不善ですね。ですから、善ではないものということになります。

 どういうことかというと、どちらもそうなのですけれども、自分の行為を省みて、過去やったこと、その言葉を出してしまったときに、あるいは何かを殺生してしまったときに、自分のやってしまった行為を見て恥じることができるかどうかという心の動きです。こういうものがあるか、無いかということ。つまり、無ければそれは悪なんだと。それで、恥じるということを、もしも自分自身で自分の行為を省みて、これはちょっとまずかったかなって思ったら、それは善きことだと。無愧っていうのは、自分の行為を他に対して恥じる。例えば目の前の皆さん方に対して、私が何かをしたときに、私のやったことっていうのは正しいことなのか、あるいは恥じるべきことなのか、ということを、私自身が自分で決定するということなのです。これが他の宗教と大きく違うところ。あるいはルールといわれていますけれども、そのルール自体を自分自身が頭で考えて決めなさいということになります。

 例えばキリスト教とか、イスラームというのは、「右の頬っぺたをたたかれたら左の頬っぺたを出しなさい」と聖書に書いてあるから、それで左の頬っぺたを出すのは善なわけなのです。ところが、自分の行為を省みて恥じるか、あるいは自らの行為を他人に対して、恥じるかどうかっていうのは、あくまで本人の考え方次第です。間違っていたら、それは本人が責任をとればいいだけなので、実は仏教というのはそこが大切なところなのです。つまり、キリスト教とか、イスラームというのは、神様というものがおります。私たちがどうあがいたって、神様にはなれない。正確には異端とされる思想ではなれることもあるのですが、基本的にはイスラームでも、キリスト教でも、ユダヤ教もそうですけれども、あるいは日本の神道でも。私たちがどんなに頑張っても天照大神、あるいは八幡様にはなれないわけなのです。

 ところが仏教というのは、誰が仏になるのかといったら、お釈迦さまは確かに仏になられている。それだけでなくて、私たちがそのまま仏になるわけなのです。つまり、自分自身が仏になる。自分がなるとしたら、その判断基準は何なのかというのは、あくまで自分にあるというのが最初期の仏教になります。そして先ほど述べた大不善地法五位七十五法というのは、何がよくて、何が悪いかということを分析した中で、自分自身が本当に恥じるか、恥じないかという、この点だけに特化した私たち自身が判断する考えになります。これが仏教の非常に大きな特徴であり基本の概念です。誰かが決めるわけではない。例えばお酒を飲むか、飲まないかっていう不飲酒戒。飲む人がどういうふうに、まず判断するか。皆さんに対して恥じるかどうか。そこのところの決定権をあくまで自分が持つのだと。それが仏教というか、お釈迦さまの教えというと、いかにもルールみたいには思うのですが、その宗教として独特なものになっております。



四、初転法輪

 具体的にお釈迦さまはどんなことを言って、何を教えとするのかというのが、四番目の初転法輪ということになります。お釈迦さまはこの世界は苦しみであるということを説きました。ドゥッカすなわち苦という言葉があるのですが、これは漢訳で、「苦」という言葉に縛られてしまうきらいがあります。もちろん漢字で、もともとはいろんな意味があったんだろうと思うのですけれども、現代で私たちがこの世の中は苦しみであると、苦であるというふうに読むと、どちらかというと、苦という言葉は、英語の「ペイン」、痛みを伴った、苦痛を持ったしかめっ面しなきゃいけないみたいな、そういうニュアンスをこの言葉から感じます。ところが、元はサンスクリットの「ドゥッカ」という言葉なんですけれども、この世はドゥッカであるという言い方をします。そうすると、苦だけじゃなくて、確かに苦しみというのもあるのですけれども、もっと端的な形で、自分の思うとおりにならないというのが、元の言語の意味なのです。例えば四苦八苦とよくいわれますが、生、老、病、死の苦があると。生まれ出ずる苦しみとなってくると、まさに産みの苦しみ、お母さんが赤ちゃんを産むときの苦しみのことを指しているのかなっていう、とんでもない話になってきてしまいます。もともとそうではなくて、生まれるということは自分の思うとおりにならないのだ、つまり自分自身で自分の親を選べるわけではない、また、時代や場所を選べるわけではない、というのが仏教の基本的な考え方なのです。

 そして、ですね。老いも病も、自分の思うとおりにならないわけなのです。ある日突然病気になる、あるいは年を取ってくる。そして死というもの。いつ死ぬかは分からないです。きょう帰るときに、車にはねられて死ぬかもしれない。だけど、今は忘れてしゃべっているわけなのです。そういうことというのは、正直言って分からないのだけど、まさか車にはねられることはないだろうという勝手な思い込みで、今生きているわけなので、そのように死ぬということも自分の思うとおりにはならないわけなのです。私は何月何日の、何時何分、どういうときに死のうとかいっても、なかなかそれは実現するものではないし、同じように生まれることも実現するわけではない。病気になるとか、あるいはそういうのもすべて自分の思うとおりにならない。これらの現代語のほうが、おそらく元の言語の意味に近いのかなということがあります。お釈迦さまは最初に苦を説いたわけです。確かに苦を説いているが、その苦というのはドゥッカを説いていることなので、本当にこの世の中は自分の思うとおりにならないというのが大前提であるということです。思うとおりにならないから、どうしようかっていうことを考えていくというのが、仏教の最初の出発になります。

 そして、初転法輪の中に四諦苦集滅道というのがあります。はじめに、この世の中は苦である。それには原因がある。その原因は滅することができる。そのためには何々をしなければいけない。ということが苦集滅道といわれている四つのことです。つまり、この世の中は思うとおりにならないのだと。なぜ思うとおりにならないかという集諦は、縁起(プラティーティヤ・サムウトパーダ)という「原因と結果」があって成り立っていくからなのだと。だから、諸行、あらゆるものというのは、実は変化していくものである。けれども、それを受け入れる手段というものはある。というのが、これがお釈迦さまのひとつの回答です。ただ、これを実践するにはどうしたらいいか。毎日何をすればいいのかというのが、八正道という概念の中にある。これが最初に初転法輪という言葉でお釈迦さまが説いたとされている基本的な概念になります。この苦集滅道の初転法輪というのは、実はそれ以後何千年間、日本仏教まで伝わる、中国・チベットの仏教、あるいはタイとかミャンマーの仏教であっても、この苦集滅道をどういうふうに捉えるのか。それの解釈の違いということを頭に入れておいていただくと、非常にすっきりと全体が見渡せるのではないかと考えております。


 
五蘊とは

 また五蘊という考え方があります。五つのまとまり、パンチャ・スカンダといいます。サンスクリットで「パンチャ」というのは五つという意味です。蘊は、ウンとかオンとか読みますけれども「まとまり」を表す。ちょうどそれがパンチャ・スカンダということで、①色蘊、②受蘊、③想蘊、④行蘊、⑤識蘊となっています。色「ルーパ」というのは、私たちの身の回りの形象をいいます。受、想、行、識っていうのが、私たちの心のありさまの形態と働きを指します。私たちという、生きとし生けるものというのは、インドにおいては必ず五蘊、つまり形と心を持つもの、これが「生き物」だと言います。私たちが何かをするには必ず「心の動き」がある。そして、私という「人間という形」を持つ。そういうことを考えます。ということは、この机などは心を持っていないから、こういうものは器物ということになって、先ほど言った色はあるんだけど、受、想、行、識すなわち心というものはないということです。これがひとつの、悟りを開けるか、開けないか、つまり「机は悟りが開けない」、なぜなら「生き物」ではないから、ということがインドの仏教の考え方です。

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  菩提樹の下に集う巡礼者
 ところが、中国から日本に渡り伝わって、それが大きく変わってきます。天台教学というか、中国のほうでは、「」という字を書いてタオと読みますが、後に道教として展開するのですが、タオというのはどこにあるのか。これは『荘子』の一節ですけれども、実はそこらの石ころの中にタオがあるんだよと。そればかりでなく、トイレの中で使う「へら」の中にも、実はタオというものがあるんだよと。そういう物語が『荘子』の中にあって、タオというのは宇宙そのもの、どこにでもあるのだという、こういう考え方になります。本来、五蘊を持っている者しか「悟り」というのは開けない。当たり前のことです。インド仏教では、石であるとか、あるいは植物も五蘊は持っていないと考えます。現代の生物学では、植物と動物とどこが違うのかというと、とても難しい話になるのですが、インドでは植物は、色は持っているけど、受、想、行、識という、心のほうは持っていないと判断します。そうすると、インド仏教では、植物は一切悟りを開くものではないのだと。同じように、木でつくった机であるとか、黒板であるとか、そういうものは、一切心というものはないということです。「生き物」ではありません。

 実は日本仏教の祖師たちは、この問題に対してすごく大きな疑問を投げ掛けます。石や金属でつくった仏像を拝んでも意味がないではないかと。植物でつくった、例えば繊維製品、あるいは紙みたいなものに仏像を描いて、それを拝んでどうするのかと。例えば今ここに法輪ありますよね。でも、この法輪というのは、確かにシンボルではありますが、先ほど言ったみたいに悟りは開けないと。だから、仏像をいくら拝んでも意味がないではないか。逆に仏像というものに意味があるのなら、あるいは仏画という紙に描いた仏様に意味があるというのならば、私たちは涅槃図とかを見て拝みますよね。それはなぜかというと、それ自身が「仏」だから拝むわけなのです。仏でなければ、単なる描かれたものであったら、そんなものは一切拝んだって、それこそ病気を治してくださいとか、お金を工面してくださいとか、いい出会いがありますようにとか、そういうことを祈願したって、まるで意味がないではないかと。仏像を拝んでもしかたがないではないかというのが、インド仏教の、とても大きな問題点になりました。

 中国では、タオといわれているさまざまなものは、ありとあらゆるものにあるのだと。中国の天台宗の第六祖、妙楽湛然という方がいらっしゃいますけれども、これは大乗仏教の話ですが、その人が金剛錍論という議論をいたします。『金剛錍』という書物を書かれて、その中で初めて草木成仏論というのをとなえます。日本の人たちがとてもそれを大ヒットさせまして、特に天台本覚思想では、日本の「さまざまなところに仏がある」というのは、生き物だけということではなくて、机であろうが木や石であろうが、あるいは自然界のさまざまなものであろうが、そこに仏が宿るんだという。そしてそれは美しいものなんだと。平安時代につくられた、日本風の美意識の基となる考えが出てくるわけです。

 つまりインド仏教では、五蘊というものが想定されて、少なくとも形があって、心があるもの、これが生き物というように見るのですが、日本仏教はそうじゃない。桜の花の散るさまであるとか、あるいは朝露のひと滴の中に仏の世界があるという言い方をします。これは日本文化の美意識の、日本独特に展開した仏教の優れた感じ方なのですけれども、特に近畿地方の京都近辺の自然界というのは、そこが仏の世界そのものなのだという、これは皆さんもかなり共感すると思います。そういう感じ方は、草木が成仏するという前提がないと考えられなかったものです。特にインドでは一切そういうことはないし、議論すらされなかった。インドでも仏像は、西暦紀元前後くらいでしょうか、作られ、信仰されますが、そうしたときにも論理的なところでは、ほとんど整理されていなかったというのが事実です。ところが中国から日本に仏教が伝わってくると、疑問が生じてしまいます。特に日本仏教では、そのうえさらに「仏というものが悟りを開いた」という、「あらゆるものを救ってくださる」ということなら、仏であるならば、必然として悪人でさえ救ってくださるだろうと。善人は救われるのは当たり前なんだと。悪人こそ救わなければ、仏としての意味がないではないか、みたいな話になってきて、親鸞聖人であるとか、あるいはその他の宗派でもそう考えました。特に江戸時代になると、あらゆる人が死ぬと、すべて仏さんになるという言い方が出てきます。インドでは、仏というのはお釈迦さま一人だけです。さらに五十六億七千万年ぐらいたつと、あるいは、五億六千万年か分かりませんが、少なくとも五億年という驚異的な日にちを経ると、お釈迦さまの次の弥勒菩薩が仏になる。その間、無仏の時代がずっと続くわけですから、そういう意味では、一切悟りはないと。そういうふうに考えられます。そこがインド仏教と日本仏教の大きな違いになります。

 したがって最初期の仏教で苦集滅道ということが説かれて、それがどういう意味を持つのかが重要になります。先ほど述べた四つのことが基本的な初転法輪の内容になります。具体的に集諦といわれている、これが原因という論理的な背景というのが、十二因縁論という形で展開いたします。無明から始まって、行、識、名色...と、この十二縁起には、順観、逆観の二つがありますが、つまり逆から十二番目の老死から、生になって、有になってという、それを逆観といいます。さらに因果関係といいますが、原因から結果へという一本のベクトルに対して、因と縁という二つのファクターを放り込む、そして結果として自由選択をとるというのが、仏教のとても珍しい思想といわれるところなのです。


 
縁起(十二縁起)

 縁起とは、原因があって結果があるということ。これはインドのオーソドックスな考え方なので、因があって、果がある。しかし仏教は、「因」と「果」の間にもう一個、「縁」という考えを持ち込みます。実はインド・オーソドックスのヒンズー教(バラモン教)というのも同じく因果関係で成り立っています。それに対して仏教では、縁というファクターをつくるのだと。例えば本来、因から果という道筋があるならば、悪いことをしたら悪い結果がある、善いことをしたら善い結果が出るという考えがあります。現在インドではカーストという大きな事象によって、それが現実として残ってます。インド憲法ではカースト制度は悪い制度として廃止されているのですが、いまだに因果関係というのは一本の矢で成立しているというのが、とても大きな原因です。どういうことかというと、善因善果であるので、前世で善いことをしたから、今王族や金持ちに生まれているのである。あるいは今生まれた子どもが非常に貧乏人に生まれたとする。貧乏人に生まれたということは、前世で悪いことをやったから、悪因悪果であるので、貧乏人に生まれているのだと。原因があって、結果があるわけですから。ヒンズー教の考え方では、職業選択をしてはならないということがあります。貧乏人で生まれたら、一生貧乏人の中で過ごすことによって、例えば乞食に生まれたら、一生ものもらいをすることによって、その業を務めることによって、その者が死んだ後にその業がクリアされて、もう少しいい所に生まれ変わるという。それがヒンズー教の考え方として現在も続いてます。

 ところが、仏教は縁というものを導入します。因果関係だけでなく、縁があって、つまり原因としては、とてつもない殺人鬼であった人でも、お釈迦さまにお会いするという仏縁があったら、その人は悟りを得ることができる。つまり結果が一つの方向に向かうということではなく、縁というファクターで、このベクトルがゆがめられる。変わってしまうというところが、仏教の因縁論の非常に大きなところです。ある意味現実主義的なところがあります。ヒンズー教では因果は絶対なわけでして、変わることはないのです。どんなにその子どもが、生まれて後優秀であっても、それこそスポーツ選手になったり、あるいは総理大臣になったり、お医者さんになったりするような能力があったとしても、それはなってはならない。なぜならば、その悪い環境に生まれたというのは、前世で悪いことをしたから。つまり、その悪環境を続けることによってのみ、その悪業をクリアすることができる。それは死んでから、次に生まれ変わる所は善き場所にきっと生まれるでしょうというのが、現在のインドのカースト制度を成立させている基本概念になります。

 仏教はそうではなくて、因と縁という二つ以上のファクターを放り込むことによって、果というのがひとつではなくて、複数出る可能性があるというところを、自由選択が可能になるということを、皆さんでいくつか考えていただければいいかなと思います。因と縁の結果が、六因四縁五果に表わされ、それをさらに十二因縁に配当させて、過去、現在、未来という形で丁寧にまとめたのが、三世両重因果論というものです。これはおそらく因果の関係について、あらゆる哲学の中でも最高峰のひとつになるかなと思います。これは部派仏教思想のつくり上げた、とても大きな成果のひとつなのですけれども、あまりに煩瑣過ぎてしまって、現在あまり顧みられることはないのが残念です。



五、四諦八正道

 同じように四諦八正道で、①苦諦、②集諦、③滅諦、④道諦があります。その中で道諦というのが八正道で、①正見(正しい見解)、②正思(正しい思惟)、③正語(正しい言葉)、④正業(正しい行い)、⑤正命(正しい生活)、⑥正精進(正しい努力)、⑦正念(正しい記憶)、⑧正定(正しい心の統一)の八つです。仏教の基本的な、この八つの行為をすれば、涅槃、ニルバーナに至る。つまりこの世の中、苦である、思いどおりにはならない。さらに、なぜ思いどおりにならないのかということには、因果論、因縁論があるからだと。だけれど、それには結論として意味がないことではないと。その代わり、私たちがやらなければならないこととしては、何をかというのが、八正道ということになります。

 皆さんに考えていただきたいのは、正しい見解、正しい思惟、正しい言葉と並んでいるわけなのですが、この正しいとは一体何なのだろう、ということ。正しさというのは、どこから見て、何をもとにしたら、正しくなるのかということを考えていただきたい。そうしたときに、善悪の判断は、先ほど言った、自らを省みるか、省みないかの、大不善地法というのがキーワードになっているとは思うのですけれども、「正しい」というのは何かというのを本当に考えてみていただいた方がいいという気がします。

 大乗経典の中で、日本で一番読まれている漢訳『妙法蓮華経』というのは、『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』といいます。プンダリーカというのは白蓮華で、妙法蓮華の蓮華なのですけど、白蓮華というのはお釈迦さまの隠喩として昔から使われていました。つまり、妙法蓮華経とはサッダルマ、最も正しい法という意味なのです。「お釈迦さまが説いた最も正しい法が説かれた経典」ということですが、それが正しいかどうかというのは別として、少なくともそういう経典が大乗経典の中の、それこそトップレベルに、皆が歴史的に読んでいる経典の名前になっているということです。

 そして正しい見解、正見を持ちなさいとは言っているけど、何が正しいかということは、お釈迦さまはひとことも言っていないのです。



六、無我と十難無記 

 そしてお釈迦さまは無我と十難無記ということを言います。ありとあらゆるものは、自分自身、無我(アナートマン、ニラートマン)なのだと。アートマン、つまり自我、霊魂、輪廻の主体となるものはない、ということを説きます。輪廻の主体がないということのために、五蘊ということをわざわざ考えます。つまり、あらゆるものは五つのかたまりによって、そのときにたまたまできたのだと。因と果が、あるいは縁が重なって、例えば人間という五蘊のかたまりができたというのが、お釈迦さまの考えになります。そこのところがどうして我が無我であるかということを考えるときに、我(アートマン)というものが存在すると何が不都合かと。我というのは、ヒンズー教をはじめインド・オーソドックスの諸宗教・哲学が認めるものです。つまり、原因から結果が導き出されると。その一方で仏教というのは、ヒンズー教(バラモン教)を正面から否定します。まさに無我はそのために考えられた言葉であります。なぜかというと人間の持つ自由意思というか、自分自身の頭で考えて、自分で行動するということが、仏教の根本的なところです。誰かに言われたから、これがいいと。もちろん人の言うことはちゃんと聞かなければならないのだけど、判断は自分で行う。なぜならば、自分が仏になるから。自分は神様に似せてつくられたものではないと。あくまで私が仏になるというのが仏教の基本になります。

 そうしたときに、一番古いインド最初期のお釈迦さまがどのようなことをしたかというと、十種の難題について無記を通された。お釈迦さまが形而上学的な難問に対して答えたかどうかということと一緒の話になります。正しいとは何かということは、実は形而上学的な話題になってしまいますので、そういうものに対しては、お釈迦さまは沈黙をもって答えた。つまり、何も言わなかったのです。言わないことに意味があるというふうに。何に対して言わなかったかというと、①この世の中は常住であるのか、②無常であるのか、③有辺であるのか、④無辺であるのか、⑤身体と霊魂とは同一なのか、⑥違うのか、あるいは、⑦完成された真理達成者は死後に存在するのか、⑧否かと、⑨存在し存在もしない、⑩存在するのでもなく、存在しないものでもない、何とかみたいな。論理的な議論になるのですけれども、そういう形而上学的な問いに対しては、お釈迦さま自身は沈黙を通したということです。なぜ沈黙を通したか。これも考えていただきたい。沈黙を通さなかったら何があるんだと。言ってしまったらどうなるのかと。そういうことを、仏教を勉強する上において、自分自身で、自分の頭で考えて、そして、それなりの結論をつけて、それが正しいか、正しくないかは、多くの人の意見を聞きながら、そして自分で判断していく。それの繰り返しというのが、実は仏教の大きな特徴ではないかと考えます。

 自分自身の頭で考えて何かをしなさいということが、お釈迦さまの一番言おうとしているところなのかなと、これは私の釈尊観ですので、そういうようなことを頭に入れた上で、いろんな教理だとか、いろんな習俗、あるいは、さまざまな事柄を勉強していただければと考えております。どうもありがとうございました。(終)

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