佐野靖夫先生

仏教概論(第30期スクーリング講義録)

2018年2月10日 仏教文化189号

はじめに

 仏教では最も手強い煩悩として三毒というのがあります。貪・瞋・癡と言われるものですが、ご存じの方も多いかと思います。これは仏教の基礎であるわけですが、その煩悩の中で悟りを開くもっとも障りになるものとして三毒というものが、古来、それこそ二千数百年前の仏教から現代に至るまで、数え上げられています。むさぼりの心と、それからじんというのは怒りですね、怒りの心。そして何よりも大きいのは、貪・瞋・癡の三つ目の、愚痴の心というものです。これからお話ししようとしていることは、この三つがどうして最も根本的な、厄介な煩悩になったのか。なんで二つじゃないのか、あるいは四つじゃないのか、必ずこの三つなんだっていうところに皆さんの考えを巡らせていただきたいなと。そこのところが仏教を勉強するにおいて、もしかすると何よりも大切ではないかと思うからです。


 実際に、私の専門のアビダルマですと五位七十五法であるとか、十二因縁であるとか、法数と言いますけれども、いろいろなものを数え上げます。どうしてその数になったのか、なぜそのように収束してきたのか、諸先生方に聞くと、それは個人の問題みたいに言われてしまうこともあります。確かに、歴史的に何千年というスパンでそれは語り継がれてきたものなのですが、それに対して自分自身として、どのように思って、どうしてそのものになるのだろうかということを、まずは最初に考えていただきたいと思います。

 

一、宗教と仏教学

 今日、始めにお話しすることは「宗教」ということ。それと私の専門である「仏教学」ということ。これが同じであったり違ったりするところがちょっとありますので、そこの言葉の整理をしていきたいと思います。実は宗教といわれるもの、もちろんこれは個人の信仰であるとか、皆さんももしかするとお坊さんになるかもしれないですよね。そうするとやはり信仰というのは非常に大切なものであると。だけど仏教学というのは、宗教と同じなのか違うのか、ちょっとお話しさせていただこうかなと思います。


 私もお寺でお檀家さんの前でお話しすることと、大学の仏教学科で授業として仏教学をお話しするところは違っております。何が違うのか。もちろん仏教の話しをするわけですから内容はそんなに違わないんですけれども、そこにおける立位置というか、基本的なスタンスが違っています。というのは、やはり宗教というのは、まさに個人の価値観そのものであるというのが、これらを言い表わすのに最も適切に考えます。例えば、仏教圏ではなくて、それこそ生まれ育った環境が、ずっと何千年もキリスト教の伝統をもつ世界に生まれたとしたら、自然にキリスト教の価値観を持ってるわけでして、その人が持ってる宗教はおそらくキリスト教であるし、同様にイスラームの価値観を持っていたら、その人はイスラームを信仰しているということです。仏教とイスラーム、仏教とキリスト教はどういうふうに同じで、どこが違うのか、あるいはどうしたらいいのか。今、それこそ世界で宗教の名の下に戦争が行われていますよね。そういうことに対して、本当に何か物を言うときに、その価値観を引きずっていたとしたらどうなのかっていう問題があります。


 というのは、私がお寺の仕事をしていた一つの体験ですけど、先日岐阜県で法要させていただきました。うちの檀家というのは基本的に東京ですから江戸の文化圏ですが、岐阜は関西の文化圏なんですよね。そのお檀家さんというのは、東京から岐阜に移り住んで二カ月後にお母さまが亡くなったんです。ですから、岐阜でお葬式するということなので、私もそちらにお邪魔してお葬式をさせていただいたわけです。そこでびっくりしたのは、お骨を拾って入れるときに起こった出来事です。お葬式は無事に済み、火葬場に行って、じゃあ、お骨を骨壺に入れようとしたときに、東京圏というか関東以北は、だいたい全部お骨を入れるんです。ところが、関西圏は一部のお骨だけを取ってきて、本当に骨壺もとても小さい。それで喉仏であるとか、頭の骨の少々を骨壷に入れて、残りは処分、その場で火葬場に置いていくっていうのが関西の習俗なんです。


 その時に、お檀家さんはどう思ったかというと、これからうちの東京のお墓に埋葬するわけなんですが、そうしたときに親の遺骨を半分捨てて帰る、「捨ててく」っていうような発想になったらしいのです。それはどうしても許せないということになって、全部持って帰るんだっていうことを火葬場で言い出したわけなのです。ところが岐阜の火葬場には、そういう例がほとんどないわけです。大きめの骨壺もまずない。それから東京ではお骨を拾うときに、塵取りというと失礼ですが、お骨を集めるそういう道具がある。関西ではそんなに拾わないからお箸しかないんです。お箸で、ばらばらになって出てきた遺骨を集めるっていうのも、これまたものすごい大変なわけでした。このように関東と関西では、身近なところですが、本当にある意味価値観が違うわけなのです。


 別にどっちが正しいということでは、なんでもないのです。自分たちがずっと長くやってきたものごと、習俗というのは、やはりそれなりに、その人にとっての思い入れというのがあります。そう思うと、実は宗教という名がつくこと、仏教もその宗教の一つとなってくると、どっちが正しいではなくて、確かに関西圏では遺骨の大切な一部だけを拾って入れて、あとは処分してしまうというのも当たり前のことなのですけれども、関東圏の人々のような、そんなのは一切許せないって思う心の動きというのは、なるほどそうなのかなというのが確かにあります。


 そうすると、日本っていろんな宗派ありますよね。実は、日本では宗派の違いよりも、地域の違いの方が大きい可能性があるんです。ですから、東北の葬祭儀礼のやり方と、九州の葬祭儀礼のやり方、もちろん関東の地方と都市部のやり方っていうのも違うし、それぞれ大きく違ってくる。でも、それは価値観に根ざしているからと考えるのが、一般的な考え方になります。


 それらをふまえて考えると、仏教学を学問として教えるときにはどうしたらいいか、これがとても難しいのです。仏教も宗教の一つであるというのならば、もちろんその教えの素晴らしいところを教えればいい。だけど本当に仏教の教えは、素晴らしいものだと思っても、仏教が歴史的にやってきたことが、現代の発想から見て正しいかどうかっていうことは、実際評価が分かれるのではないかということが大きくあります。


 実は、これ他の宗教だとそれがもっと、私たちはそういう文化圏にいないんで、キリスト教がやった魔女裁判、あるいはイスラーム過激派が今やってるジハードみたいなのはどうなのか。イスラームの、それこそムハンマドが出現したあたり、六〇〇年代にイスラームが拡大したときのジハードというのは、やはり戦争と一体化してるっていうところはあります。現在のイスラーム過激原理主義というのと、伝統イスラームの正統というのは主張が大きく違います。それは言っておかないと誤解を生じるかなと思いますけれども。ですから、そういう意味においてこそ、仏教という宗教の見方でなく、仏教学という学問体系で考えてみることが必要だと思います。


 仏教学の先生は、私もそうですがお寺さんが多いです。そうすると、気が付いてみると、お釈迦様の自己弁護をやってる可能性があるんです。それは本当に素晴らしい内容なんだけど、ほんとに自己弁護をしてしまっていいのかなっていうところも、若干頭の中にあります。仏教学というのは「学」ってついてるから学問体系で、しかも大学で教えてるっていうことはアカデミズムの一つであると考えます。いや、そうでなければ、お寺で宗教を教えればいいのです。それはもう仏教は素晴らしい、何々祖師たちは素晴らしいってことをどんどん信者さんに教えていけばいい。おそらくそれで、過去を含めて、大きな間違いもきっとなかったかもしれませんけれども。


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ナーランダ僧院跡
 ところが仏教学というのはそうではなくて、やはり実証性というのか、もしくは論理整合性っていうとちょっと難しくなりますが、ほんとにどうなのかっていうところがないと仏教学というのは学問にならないのかなっていう気がするんです。でもたとえば宗学という分野、あるいは仏教学の分野でも、あるいはもう少しいろんな所でも、私自身インド仏教、アビダルマを専攻していますが、特にインドのアビダルマなんて現在は存在していません。実際に現在インドには仏教はほとんどないので、テキスト上の古い仏教という、そういうものしかありません。今、インドで仏教というのは、第二次世界大戦後のアンベードカル運動であるとかそういうものの一つとして、現代インド仏教っていうのはあるわけなんですけれども。少なくとも、それこそお釈迦さまの頃、それからお釈迦さま以降一千年ぐらいかかったインド仏教文化というのは、いっときイスラームが侵入したのを契機というか、八世紀くらいのあたりで消えてます。イスラームが他を破壊したといっても、でもヒンズー教はずっと現代まで残ってますから、仏教だけがなくなってるんです。何で仏教がなくなってヒンズー教は残ってるんだという、そういうのはまた大きな問題になるわけであります。


 でもやはり仏教はなくなってると言われてるし、現実問題として、そのときの仏教のトップであったナーランダ大学のお坊さんたちは、みんなチベットに亡命してるわけです。そして、チベット仏教というのが七世紀から八世紀ぐらいに非常に活発になるというのが、よく仏教史でやるところなんですけれども。そうすると、学問の実証性と論理整合性っていうことは、別にそのものが、つまり仏教というのは正しいか正しくないかという価値観とは別のタイプの話になってくるわけなのです。それを自分自身の中でどう思うか、ということです。


 宗教というのは、ほんとに価値観に縛られてますので、それはその人それぞれの好き嫌いの段階にかなり近いところがあるのですが、仏教学となると、どうしてそうなったのか、との疑問点に対する解明が求められます。例えば仏教でも、歴史的に悪いことをしたのではないか、あるいはお釈迦さまのおっしゃってることは、それはもう素晴らしいことではあるのは間違いないのですけれども、お釈迦さまの時代ということをやっぱり考えに入れないと、間違った形で解釈する可能性があるんじゃないかと。つまり現代の私たちの感覚で、それがいいとか悪いとかと言うということは、現在の私たちの価値観で話をしているわけです。そうするとお釈迦さまの最古層のものとされている文献とか、そういうものを取り扱うときに、それでいいのかどうかを、ぜひ考えていただきたい。


 仏教学というのは、他の学問と比べても日本に伝わってまだ浅い学問体系と考えられます。取り扱ってる文献等資料は古いですよ。ですけれども、学問としてはほとんど、それこそ明治以降に西欧で学んだ先生がいて、その一世代、そのお弟子さんたちは中村元先生とか、そのお弟子さんぐらいの年ですよね。さらに今は、若い先生方が頑張っているというそういう分野なんで、考えてみると、まだ二世代か三世代ぐらいしか経っていない。仏教そのものは日本の建国ぐらいからものすごく古くて、仏教に対する学問というのは、とても古くからあるんですが、実は仏教学という学問は新しい学問である、そういうことを頭に入れながら、お話を聞いていただきたいと考えております。


 結局何を、どういうことやってるかというと、学問ですから、例えば数学なんかと同じレベルで考えます。数学を勉強するときに、ユークリッドだとか、ピタゴラス、ガウスなど有名な数学者がいるわけです。別にガウスとかユークリッドが、日常言ってることが正しいか正しくないかなんて一切考えてないわけです。現代数学というのはそうではなくて、数学、学問体系の中で、どういうふうに論理的なのか、整合性があるのかということで学問がつくられているわけです。


 同じように仏教学も、確かに先師、昔の人たちの素晴らしい人、思想家も大勢います。多くの思想家たちが、どういうふうに言っているのか、そういうことをもう一回考え直してみようと。さらに、これがとても重要なことなのですけれども、例えば歴史的に見ると先師たちは、お釈迦さまの本心って何だろう、実はこれなんじゃないか、あれなんじゃないかってことで、その時代時代、あるいはその人独特の解釈の仕方によって回答を持ってます。ところが、本当にそれが歴史上のお釈迦さまにつながるのかなっていうのも、事実考えなきゃいけないことだと思います。私はアビダルマを専攻していますが、アビダルマって結局何かというと、経典として取り扱っているのはアーガマと言われている、本当に古い経典で、たとえば大乗経典はアビダルマに入ってはいません。そうすると大乗経典に書かれていることというのは、歴史的なお釈迦さまに遡れるのかとなると、仏教学でちょっとそれはよく分からないよと言われてます。アビダルマというものの、いわゆる現在あるアーガマと言われている文献、一番古いものはスッタニパータと言われてるんですけど、そういう文献は、だいたいタイだとか、ミャンマー、スリランカとかに伝わっているものですけれども、それがお釈迦さまの一番の古いところに繫がるかというと、実はそれが疑問であるということが、明治期の宇井伯寿先生の頃からずっと言われてきました。


 ということは日本に仏教が入ってきて、その後江戸時代とは違った、明治期に仏教学が西欧から輸入された時点で、少なくともアビダルマと言われ、最古層だと言われている分野でさえ、ほんとにお釈迦さまに遡れるのかというのは分からない。なぜならば、お釈迦さまは自分自身で文章を書いていないからです。ご自身の直筆の文章は一切残ってない。他のお弟子達が話を聞いたとされていて、そうなると本当に言ったのかなっていうことがよく分からないのです。だから正しいとか正しくないって話とは別なのです。本当に分からないんです。だからと言って、お釈迦さまの教えと、今まで伝わってるものは価値がないものなどと、そんなことを言うつもりもないし、価値はすごくあると思うのです。ただ、ほんとにそれが歴史上のお釈迦さまにつながるかどうかという、そういうことだけは分からない。


 そういうようなところがあって、仏教というのは自分自身が書いた、つまりヨーロッパ型のものですね。例えば誰々が書いたって言われている思想書、現代思想のものなんかは、これはカントが書いたとかヘーゲルが書いたなっていうのは分かるんですけれども、そこに対してのいろんな議論があるとしても。でも、基本的に書いた人が分かればなんかが分かるんじゃないかと。それに対してお釈迦さまに関してはよく分からない。これはキリスト教のキリストさまもそうですよね。キリスト教のテキストも、あくまで本人じゃなくて、後のお弟子さんたちが、キリストはこう言ったっていうことを書きまとめているだけですから、ほんとに言ったかどうかは正直言って分からない。だけどそこに書かれていることはずっとあって、現在のキリスト教学というのがつくられるわけなのです。もちろん仏教学にも、そういうものが多々あります。


 本質的に、これはお釈迦さまにつながるか、つながらないかとなると、正直言って分からないとしか言いようがない。そうではなくて、そのテキストがどうしてその時代に登場してきたのか。例えば偽経と言われる経典があります。あくまでこれは中国でできたのであって、インドのお釈迦さままではつながらない。それでも日本の文化にとても大きな影響を持ってきた。例えば父母恩重経であるとか、盂蘭盆経というのがあるわけですけれども。盂蘭盆経は偽経だから、こんなのは仏典じゃないよ、したがってそういう議論をする必要はない。そうじゃなくて、お盆の習俗が書かれている盂蘭盆経というのは、現在でも日本の習俗として成立している、やはり必要があって出てきた可能性があるのだろうということです。


 そこで、なぜ今までなかったところにそういうものが出てきたのか、そこに興味の対象を移すというのが新しい問題提起というか、最近の学問の体系の中ででてきました。従来言われてきたように、本物は何かという問いよりは、偽物がなぜその時代に生まれてきたのかというところにポイントを絞って、その必要性を見つけることに意味があるのではないかと考えるようになりました。その意味で、現在、仏教学というのも、あるいは、宗教としての仏教というものも、もう一回再考されなければならない、そういう時代になってきてます。


 もう一回確認しますけれども、宗教の価値観というのはもちろん必要ですし、日常生活の中では、全然否定するつもりもありません。それどころか、そういうのがあるということを知って、もう一回ご自身で考えてみる、あるいはほんとにこれが宗教の価値観としていいのかどうか。先ほどの例のように、骨壺に収めるのは全部の骨が必要かどうか、それは個人の価値観になってしまうのかもしれませんが、うどんが好きなのか、そばが好きなのかみたいな話になってしまうのですけれども、それだけではなくて、どのようにしてそれが生まれてきたものかっていうことを考えないといけない。そういう意味で、仏教のさまざまなものをもう一回、自分自身の頭で考えて判断する。そして、判断したらやっぱり本人が責任持ってやってみると、結局それがインド仏教の古いお釈迦さまに繋がるものじゃないかと。

 

二、十難無記について

 実は、それと同じようなことをお釈迦さまは十難無記という文脈で説いています。このことは中村元先生の『原始仏教』の中にも書かれています。最初期の仏教では争いの根源を形而上的対立と見ている。これに対する反論もいっぱいあると思いますが、少なくともお釈迦さまのいうところの、つまり意見の対立というだけではなくて、形而上的意見の対立っていうのが非常に独特なところです。形而上的意見とは何かってなると、形而上という言葉も定義をしなきゃならないんですけど、恐らく、アリストテレスの形而上学というのがあるから、たぶんそこから日本語として、それの翻訳で使われてるんだと思います。結局はこの世界が何でできてるかみたいなことを議論する。これは、古代ギリシアでも結構そういう議論がされました。この世界は水でできてるとか、あるいは火でできるんだとか、あるいは数でできてるんだとか、それは古代ギリシアの話ですけれども、それと同じようなことが、実は古代インドでもあったんだと。そうしたときに、お釈迦さまは、それに関しては一切沈黙をもって答えなかったよというのが、この十難無記です。答える必要がないというふうに判断する。なぜ判断されたかっていうのが、また大きな問題なのですけれども。


 その十個の形而上学的意見って何か、すなわち十難無記で、あるいは十四難無記というふうに言われているものです。世界は常住であるか、あるいは無常であるか。どういうことかというと、時間的に無限であるか、あるいは時間的に有限であるか。あるいは世界は有辺であるか、無辺であるか。世界は空間的に有限であるか、無限なものであるか。そうすると体と霊魂とは同一なのか、プルシャって言ってますけれども、私たちの霊魂と言われているものは私たちの身体と同一なのか、他のものなのか。それとか、真理達成者、如来、仏陀というものは、死後にも生存するのかしないのか、あるいは生存し、また生存しないのか、生存するのでもなく、また生存しないものでもないのか。こういう疑問に関しては、ここで答える必要はないんだよっていうので沈黙をしたというのが、最初期の仏陀の、お釈迦さまの立場であったと。なぜならばこれらの議論をすることは、ほんとに意味があるのか、あるいは意味がないのかと。


 それで参考として、とても面白いんですけれども、近代哲学の大成者と言われているドイツ観念論の巨人のイマヌエル・カントですが、彼が『純粋理性批判』という著作の中で、同じように人間の理性の限界というものがあるのではないかと。つまり、それまではヨーロッパではすべて神が世界をつくったとしてきたし、神がすべてのものを、人間とか、そのものを生み出したのだというのが、社会通念の当然の帰結だったわけです。でもほんとうに、私たち自身は世界を創造した神というものを認識できるのかどうか、カントは非常に疑問を持ちました。彼の仕事は、人間が認識できるものの限界というのは、どこからどこまでは分かるけど、ここから先は分からない、と分析したことにあります。


 それが、実はここにある時間と空間に関する世界の限界に対するもの、すべては分割不可能な部分から構成されているものの実在、自然法則に従う原因性に対する自由の問題、それから必然的存在者の実在。これに関しては正直言って、私たち人間には分からないのだと。つまり人間が神になるなら別だけれども、人間が人間であるのならば、これはもう分からない、認識できないことであると、現代哲学の中で最初に実証したのがカントであります。もっと後になると、ゲーデルという数学者がいて、自分自身を問題にする行為というのは、一切それは証明できないということを証明したという、そういうとても面白いことが数学の世界でありました。つまり自分自身が何なのかと考えたときに、一切回答というのは証明不能になってしまう。つまり数学では、取り扱えるものではないのだということです。これが不完全性定理という世界的に有名な公理になっているわけですが、それは現代数学の中から出てきたものです。つまり人間と神というものをどう捉えるのか。最初期のお釈迦さまは、人間と神というものを大きく切り離す、そこにスタートがあったのではないかという気がします。


 ところが、後の時代になってくると相当違ってきます。例えば大乗仏教が成立してくると、新しい菩薩という名の神さまというのが登場してきます。観音さまであるとか、何か困ってるとおすがりすると助けてくれるお地蔵さまもそうです。いわゆる菩薩という名の神さまが登場してきます。さらに中国から日本に仏教が伝わってくると、最初期の仏教はアートマンというのを完全否定します。アートマンとは何かというと、先ほど言った十難無記にも書かれてますけれども、いわゆる霊魂です。それまでのカースト制度を基にするインドのヒンズーの教えの中では、必ずアートマンっていうものがあって、それは魂なんだと。だから、それが輪廻転生して、ずっとそれが続いていくんだっていう、とてもシンプルな考え方で、そのように言われてたのですが、仏教はそれを否定いたします。


 アナートマン、あるいはニガートマンといいますけれども、無我を説きます。仏教の中では、アートマン(霊魂)というものを一切見てこない。これは最初期の仏教で説かれます。後に無我を説く教えが、大乗仏教では空の理論になりまして、インドでできた空の教えが、中国、日本に伝わります。さらに中国では、神滅神不滅論争というのがありました。神とは、いわゆるキリストの神様と違いまして、中国で神というのは霊魂、人は死ぬと神になる。中国では人が死んでから霊魂は滅するのか、滅しないのかというこの論争がずっとあった。無我だと「神滅」という形になるのですけれども、中国では「神不滅」の主張が勝ちます。論争で勝つ。それに対して異論もあるのですけれども、結果として勝ちました。


 さらに、日本仏教では霊魂を認めます。認めないと私たちが日常行う一周忌だとか、三回忌だとか、十三回忌法要というのが、まるで意味をなさなくなってしまいます。なぜかというと、輪廻転生思想になりますが、実はインドでは四十九日後に必ず生まれ変わると考えます。ですから輪廻転生の猶予は、四十九日間、中有の時期というのがありまして、これはアビダルマだけでなく、インド全般の思想です。それをそのまま継承したチベット仏教でも同じです。そうすると、例えば、一番古いジャータカっていう、お釈迦さまの前世譚の中では、「そこにいる馬をいじめちゃいけないよ。なぜならば、それはあなたのお父さんとか、お母さんが生まれ変わってるからだよ。」という言い方をします。ところが、日本ではそういうことは絶対言いません。なぜなら死後、自分の親はどこか他の別の世界におり、追善のお経をあげるわけですから、三回忌もやるし三十三回忌もやるし、もしかすると五十回忌までするかという形になります。つまり四十九日以後にも、霊魂はとどまっていて、毎年お盆になると帰ってくるわけです。自宅に戻ってきて、そして子孫を守ってくれるというのが、日本の感性であるわけです。そうするとインド型の輪廻転生とは違った輪廻転生というのが、日本で必要になってくるわけです。


 実際どうしたかというと、これは地方によっても若干違いますが、日本の場合は死んでからも還暦というのがあって、つまり還暦って何かというと歳星です。歳星とは年ですね。これは木星の軌道を計算するときに出てくるものですが、それで一歳、二歳というふうに歳星の軌道を数えます。木星は十二年で一周します。それに干支を配置し、中国の十干と十二支を重ねると、十二と十の最小公倍数で、六十で一周する、そうして暦を作ります。日本では、つまり人は死ぬと六十年間はずっと祖霊に加わる。そうやってご先祖様になるわけです。例えば、私が死ぬとする。死んだ私は佐野家の祖霊に加わる。だけど六十年間は人格が残ります。人格があるから六十年間は基本的に個人の供養をするわけです。三回忌、七回忌とずっと追善の供養をして、残された子供たちの現実的寿命から、だいたい親の五十回忌を越えると、自分自身ではなかなか供養できないということになります。そうすると死後六十年たったらどうなるかというと、つまり人格を離れて、佐野家の祖霊の一人になります。ご先祖様の一人になって、今度は佐野家の子孫の誰かに生まれ変わるという、そういう輪廻転生をとります。なので日本の物語の中では、親の因果が子に報うという次第になるわけなのです。つまり、同じ佐野家から出ない。一つの家の中で、霊魂がぐるぐる回っているというのが、日本式輪廻転生になる。ところがインド式輪廻転生では、そういうことは一切ありません。そうすると、中国ですでに神不滅、つまり霊魂というものを認めているので、日本仏教は霊魂を認める形の仏教のあり方になっているといえます。


 実は、日本に来ると仏教は大きく変わってきているので、インド型の仏教とは随分違います。インド型仏教の一番古い形がスリランカ、ミャンマーだとか、あるいはタイの仏教として残っているとされますが、今、お坊さんの形として一番たぶん違うのは、日本のお坊さんは、髪の毛があったり、あるいは妻子がいたり、お酒も大好きで飲みます。そういうことは本来いけなかったはずなんです。インドの仏教徒は、例えば男性の僧侶になったら、女性に絶対近寄っちゃいけない。仏典や戒律の中にあって、溺れた女性を助けるのをお坊さんがしていいのか、いけないのかって、それが議論になるくらい、つまり女性の肌を触って川から引き上げるということは、それはいいのか悪いのかみたいな、そんなことで議論するんです。そういうことから、古い戒律どおりに生きるというのは大変なことです。日本はそうではなくて、鎌倉時代、末法思想以降は、お坊さんという概念こそ成り立たないという宗派がいっぱい出てきます。そうじゃない宗派もありますよ。でも基本的に、もうそういうのからは外れちゃってる。今さら戒律とかを守ってもなかなか難しいということで、また違った形になる。それがいいかどうかは全然分かりませんし、海外の仏教徒から見ると、日本の坊主というのはとんでもない、お酒も飲むし堕落したやつだみたいに言われる場合が多いです。正直いって日本仏教は理論的に戒律を外すということがあったために、現在も、それこそ有名なお寺の貫首さんでも、奥さんや子どもがいらっしゃるというのは事実です。しかしそれは日本仏教にとっては悪いことではありませんし、善であり、むしろ当然の帰結であるとされてます。これは独特な日本式の仏教の展開の形になります。

 

三、五戒について

 話を戻しますけれども、最初期の仏教では十難無記という形で、形而上学的なことをお釈迦さまは一切見ない、あるいはぜんぜん相手にしない。それでも五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)という、一般の人がしてはならないことのきまりがあります。お坊さんはさらにプラスアルファで三毒までしないと悟りにいけないということを言いますが、少なくとも殺生と、人の物を盗んじゃいけない、人の奥さんに手出しちゃいけない、それとか、嘘をついちゃいけない。あるいは心を平静に保てないようなお酒を飲んじゃいけないという、五つの戒めが最初期の仏教でつくられた。


 これは、私個人的に見ても、今まで知識として五戒というのは、それこそ仏教の初学者が教わるような、何年も前から知ってたことですけど、最近になって、おそらくお釈迦さまの時代というのは一切治安なんてない時代だろう。今なら何かあったら警察に駆け込めばどうにかしてくれるかもしれない、あるいは誰かが助けてくれるかもしれないと思うのですが、治安が全然ないときに、一般の人がしてしまうこととして、残念ですが、この五つというのはとてもよくあってしまうことかなと考えるようになりました。


 ここでは不飲酒というのは、自分自身を酔わすもの、つまり自分の意識がなくなるくらいのもの、今で言うとドラッグなのか、あるいはお酒もそうですけど、人によって違うとは思いますが、つまり自分自身の理性を保てなくなるようなもの、これはやっぱりやめた方がいいのではないかという話です。


 ただこれに関しても、お釈迦さまの時代では、人殺しをしちゃいけない。だから仏教というのは戦争反対なんだっていうと、本当にそうなのかって、実は、今の仏教学の中でいろいろ問題にされてます。つまりお釈迦さまの時代には、戦争反対は言ってないのではないかと。つまり出家者は殺生してはならないとはあるけれども、お釈迦さまが徒党を組んで、戦争をやめさせるような運動をしたかというと、していない。そういうところを見ると、やはり大きく仏教も変わったのかなと。同じインドであっても、随分違っている可能性もあるかなと思います。

 

四、無慚と無愧(大不善地法)について

 その中でいろんな議論がされますが、いったいどういうものが良くて、どういうものが悪いのかというときに、仏教の最古層では大不善地法という考えがあります。何が善いか、何が悪いかというときに、たったこの二つだけを主張します。つまり無慚と無愧。これが悪いもの、悪である。善悪判断って、この二点しかないと最初期の仏教では言います。何かというと、自らの行為を省みて恥じる心の動きがないもの、あるいは、自らの行為を他に対して恥じる心の動きがないこと。これはゆっくり考えてください。自分自身で何かを思う、そして自己の自由ということを仏教はとても大切にします。つまり仏教というのは、神さまの存在があってもなくてもいいよという、スタートはそういう考えです。後期の仏教は神さまをどんどんその中に取り入れてきますけれども、最初期の仏教というのは、そうではなくて、自分自身が仏になるという前提ですから、そのためには何をしたらいいのか、どういうことをしてはいけないのかということを考えていくというのが、大きな特徴になります。


 そうすると、その善悪判断は、何が善いか、何が悪いか。つまり神がこういうことを言ってるから善いとか、悪いではなくて、すべて自分の行為を省みたときに、自分が他に対して恥じるか、自分自身で恥じるかという、その一点だけが、その価値観の基本になる。つまり圧倒的に自己を信頼してるわけです。ほんとにそれができるか、できないか。つまり他の人に対して嘘を言う、あるいは自分が利己的にうまく、つまり忖度ということが生まれる。他の人を慮る心というのは必要だけれども、それが自分の利害に関係するからしてしまうところが問題になるわけで、そうではなくて、目の前にいる人が困っていたら、それに対して自分はなにかできるかどうかを考える。できなければしかたがないけれども、できるように努力することが今度は問われるわけで、それが自分自身に対してどうなのか、あるいは他の人に対しても、自分の行為を他の人の行為に照らし合わせてみて、どうなのかを判断する。それを自分の頭で判断するというのが、最初期の仏教の一つの考え方になります。

 

五、初転法輪について

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初転法輪の地 サールナート・ダメーク・ストゥーパをのぞむ
 そういうことを考えていただく。そして有名な初転法輪を考える。先ほどの無我というものを説明するために、インド一般のように自分が霊魂を持っているということにしてしまうと、とても簡単です。何故なら輪廻転生というのは、霊魂が転生するとか、しないというところから議論が始まります。無我の立場ではどうするかですが、色・受・想・行・識っていう五蘊ですね。その五蘊が因果の力によって組み合わさって、心あるもの、生物が成立したり、この世を離れたりするという。この五蘊の色というのは、物質的なものをいいます。そして受想行識というのは心です。つまり心を持ってるものが生き物だというのが、インドの最初期の仏教の形になるわけです。


 実は大きな疑問が、中国だとか日本で出てきます。生命とは心を持ってるものしかない。ですからインドでは、必ず悟りを開けるものは、心を持っているもの、そして物質を持っているもの、これは現実問題として、現代の生物学でいう動物に限られます。その中で地獄の亡者とか、あるいは餓鬼とかはいますが、基本的に動くものということは、植物であるとか、石だとかそういうもの、例えばこの壁なんかは一切生き物に入らないです。そうすると大きな疑問が出てくる。特に植物ですね。つまり植物で作った紙に描かれた仏画を拝むことに意味があるのか、あるいは石ころで作る仏様、石仏であるとか、あるいは、金属でつくる仏様、仏像、そういうのを拝んでも意味がないではないかと。なぜならそれらは悟れない、仏にならないのだからということが、長い間中国で議論になります。


 そうすると、どんなに仏画がすばらしいと思って、そこにお祈りしても、今日の一日を無事に過ごせるようにしてくださいとか、病気を治してくださいとか、そういうことを願っても何しても、そんなのはもう絵に描いた餅って言えばそれまでだし、それは仏にはなれないというのがインドです。ところが、それではまずいなということで、またもう一つ、議論がいろいろあるんですけれども、恐らく中国では古くからタオという、「道」という考え方ですね。タオというのはどういうところにあるのかというと、これはありとあらゆるものの中に存在するという。例えば、タオはどこにあるのかという問いに対して、これは『荘子』の一説ですけれども、本当にそこらにある稗だとか何かの草木の中にもあるよ、あるいは石ころの中にもタオというのは存在するよ、というのがその考え方です。


 そして仏教が中国に入って、天台宗の第六祖、妙楽湛然のときに、草木成仏論というのが説かれます。草木が成仏する。それはどうしてか、先ほど言ったように仏画を拝んだり、仏像を拝んだりすることに意味があるのかないのかということで、非常に大きな議論があって、結論として草木も成仏するのだから何ら問題はないという。それが日本に伝来して、特に平安時代に大ヒットするわけです。後に天台本覚思想と呼ばれるものとなります。日本では、草や木だけではなくて、森羅万象そのもの。つまり桜の花びらが散りゆく様も仏の世界だし、あるいは、小川のせせらぎの音も仏の世界だし、朝露のひとしづくの一瞬しかない中に仏の世界がある。つまり日本の自然ですね。中国とかインドの圧倒的な自然じゃなくて、日本の、特に、京都あたりの自然の、紅葉をする山であるとか、あるいは地球そのものみたいな、そういうものも実は仏の世界そのものなんだと。それがあるからこそ、そこの中で修行するということに意味があることなんだというので、本当にインド仏教とはまるで違った解釈というのが、日本仏教の中でなされます。


 それがあってインドの諸行無常というのは、つまり一つの形にとどまらず、変化していくさまをあらわしたものが、日本では非常に美的なものと関わって、まさに欠けていくお月さまとか、お陽さまが昇っていく瞬間瞬間に、曙だとか朝ぼらけであるとか、暁だとか名前を付けていく。あるいは十二単もそうですが、色を重ねることによって別の色を見ていくというその感性、そういうものが非常に日本独特のものとしてつくられてきます。


 それで仏教では、縁とか因縁というのは、例えば六因四縁五果だとか、三世両重の因果論という、おそらく仏教の中でもアビダルマというのは、非常に繊細なことまで議論されています。なぜかというと二点ありまして、一つが仏教の中でそれを見ていく、つまり何かをする、説明していくっていうことにアビダルマの一つの派が、特に説一切有部っていいますが、インドで最大の版図を得た部派ですけれども、その部派というのは、あらゆるものを言語化しようとしました。それが成功したか、失敗したかは別として。つまり禅定の中身、例えば後の大乗仏教の中だとヨーガチャーラ、瑜伽行唯識派という人々が、禅定の中身は瞑想すれば理解できるという。中国の禅宗もそうです。そうではなくて瞑想の段階が増えていくとしたら、これはどうなるということを全部言語化していく。そういうところに執念を燃やした学派というのがありまして、それが実はインドで一番勢力を誇ったものになっているわけです。


 もう一つは、アビダルマとは何かというと、お釈迦さまに間違いはないというとこからスタートします。お釈迦さまは絶対です。ところが説かれることは、ある意味全然違うことを言ってる。お釈迦さまは対機説法ですから、こっちの人には、例えば友達をつくりなさい。こっちの人には一人でいなさいって言うわけです。でも、それは相手がいる。相手がいるということは、何かその背景に意味があるのではないかということで、それで議論したのがアビダルマということなのです。それに対して大乗仏教はそうではなくて、お釈迦さまの言葉そのものをつくってしまった。例えば、法華経も般若経もそうです。あるいは華厳経も。大乗仏教運動は、それまでに言われていたものとは違った、つまり経典そのものを編んでいくという非常に独特な運動として展開していったわけです。ですから、アビダルマはお釈迦さまを絶対、これはもう欠くことができないと考えますから、大乗仏教側からは逆に、お釈迦さまの絶対化はアートマンと同じではないかと言われてしまいます。そして、それは小乗仏教とされ、大乗仏教側、いわゆる空の思想から見ると、執着している。つまりお釈迦さまに執着しているのがアビダルマなので、そういう意味において、強く攻撃を受けたものになりました。


 ただアビダルマにおいて、具体的に、十二支縁起だとか初転法輪に説かれたことごとを、形づけようと考えた結果が三世両重因果論であり、一つの哲学体系の極みとされています。


 お釈迦さまが四諦八正道というのを一番最初に説かれました。ずっとインド仏教においては、最初から最後まで四諦八正道が、それをどう解釈してくかということで、それこそ日本仏教までも続く非常に大きな問題になります。何が問題か、二点を述べます。苦集滅道(苦諦、集諦、滅諦、道諦)というのが有名ですけれども、「苦」すなわちこの世は苦しみであるというのが、お釈迦さまのスタートになるわけですが、ただこの苦という漢字を当ててしまったがために、苦しみである、なにか痛みを伴った苦痛という感じになって、のちに厭世主義というのと同義にとられるということが非常に多くなった。実はそのことを語源的には言ってなくて、原語ではドゥッカと言います。もともとのサンスクリットの意味は、不愉快だとか、艱難に満ちている、哀れなとか、そういう意味で、現代の日本語に直すなら、「思うとおりにならない」というのが一番しっくりくるとされます。


 例えば生老病死。生まれてくる苦しみというのは、実はその人にとって思うとおりにならない、つまり親を選べるわけでもないし、もう子どもとして生まれてしまったら、その環境っていうのは、例え裕福な家庭とかそうではないにしろ、あるいは戦争のあるところに生まれてしまった、あるいはとても平和な世の中に生まれた、そういうことに関しても、別にその本人が望んでなったわけではない。つまり思うようにならない。だから、生老病死と一般に言われている中の苦しみの中の一番はじめにくる。生まれる苦しみというふうに解釈してしまうと、これを苦痛の〔ペイン〕という、痛みを伴う苦痛と考えてしまうと、それは間違いであると思います。


 実際は、中国で「苦」と訳されたから、ずっと「苦」で今まできているのですけれども、苦しみっていうのは大変な痛みを伴うという意味ももちろんありますが、そうじゃない意味も強い。つまりほんとに自分の思うとおりにならない。そうすると四苦八苦とされているもの、特に、お釈迦さまが言った「怨憎会苦」、会いたくない人と会わなきゃいけない苦しみっていうのも理解できます。


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釈尊のメッセージとは何か?
 もう一つは、四諦八正道の一つで、「道諦」というのがあります。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つです。ここで問題になるのが「正しい」ということです。正しいって一体何なのか、正しさって何なのだろう。お釈迦さまはけっして、これこれこういう生活をしなさいとは言わないのです。正しい生活をしなさいという。何が正しいか、正しくないかの判断というのは、さっき言った無慚、無愧のその二点だけなんです。自分自身で振り返ってみて、これが正しかった、あるいはそうでないかというだけなのです。正しい生活をして、正しい見解を持ちながら、正しい記憶をして、正しい精神統一の仕方をするという、そういう八つがあって、それをなしたならば悟りを開くというか、この世の中のあらゆる物事に平安な心を通わせることができると説いているのが、最初期の仏教の考え方になります。

 

六、仏教の伝播について

 最後に仏教の伝播についてですが、上座部仏教という名前で、今スリランカをはじめとしてタイやミャンマーに伝わり南伝とされているのが南伝アビダルマ。先ほど話した説一切有部というのは、西北インド、つまりガンダーラ地方あたりでできて、ガンダーラとかカシミールに広がり、そして滅んでしまった北伝アビダルマ。ですから細かく見ると、今の南伝とは違うんですけれども、非常に近親的なものがある。また北伝の、つまり中国経由で日本に入ってきた大乗仏教とは非常に違った仏教であるということが特徴です。もう一点は、非常に新しい時代に伝わった仏教です。十一世紀とか十三世紀、それくらいに伝わりました。日本で言えば、平安時代末から鎌倉期ぐらいに、最古層の仏教がタイだとかミャンマーに伝わっているという、これは歴史の非常に面白い独特な形であります。つまりそれが伝わる前は、大乗仏教とかが伝わってたわけです。それを全部駆逐して、国家単位で。先般亡くなられたタイのプミポン国王というのは、まさにその南伝仏教の大変な聖者の一人だと言われてましたので、そういう意味では最初期の仏教のひとつと言われているのですが、実は一番新しい最近の時代に伝わって現在も社会を動かしていると。

 

おわりに

 仏教というのはほんとに文化的に見たら西洋も含んでるし、あるいは、東洋も含んでいる、非常に独特な世界宗教の一つということであります。まさに勉強をされていくには現代的なとても面白いものではないかなというふうに考えております。必ず仏教を見るときは、単なる歴史的な過去の遺産ではなくて、今どうなんだろう、自分にとってどうなのか、あるいはこれがほんとにそうなのかと、いろいろなことを考えていただくことによって、いろんな世界が開けてくる。そういう意味で勉強していただければうれしいかなと思います。以上で本日の仏教概論を閉じさせていただきます。どうもありがとうございました。(終)

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