小峰彌彦先生

日本仏教史(第32期スクーリング講義録)

2019年10月10日 仏教文化199号

一、はじめに

 日本の仏教史というテーマですが案外、個々の仏教のことについて考察されても、全体的な流れについてはなされていないのかもしれません。もう一つ言えるのは日本の仏教史を考えるときに密教の影響が非常に強いということです。でも密教が何だか分からないので、どこがどういうふうに影響しているかというようなことがなかなか分かりづらいのが看過される原因であります。大乗仏教と密教はどこが違うのか。そのへんのところを含みながら考えていきたいと思います。


●日本における仏教伝承の経緯と問題点


 まず、仏教がどういったかたちで日本に伝承してきたかというところと、その問題点について考えていかなきゃいけないのですが、日本における仏教伝来の経緯っていうのは、やはり、朝鮮半島の仏教と日本の仏教というものをよく考えておかないと分からないっていうことなんですね。

 よく、倭の国っていうのは、例えば、邪馬台国が北九州か大和かっていう説がありますが、中国、朝鮮半島南部、いわゆる新羅、あのあたりに住んでいた人たちも、それを倭というふうに呼んでいた。もちろん、日本海側の地域の人たちも倭と呼ばれていたんですね。ですから、倭と言っても非常に幅が広い。

 今、私たちは国境というのがはっきりしていて、国と国はまったく別個ですけれども、その当時、いわゆる新羅、百済、高句麗という三国時代のころはあのへんは一つの文化圏なんですね。船で行ったり来たりする。私、何年か前に、このテキスト(『神と仏の日本文化』)を書くにあたって対馬へ参りました。船で行って、二時間ぐらいで博多から着くんですね。一番朝鮮半島寄りのところに行きますと、そこから朝鮮半島が見えるんですね。ですから、ちょっとした船があれば、あちらから日本に割合簡単に来られる。だから、ある意味シルクロードを日本までとすると、最後の一番日本に近い国際都市が対馬だったというふうに考えることができます。

 ですから、対馬へ行きますと、あそこにあるものが、日本の文化の原型みたいなものを残しているところがあります。ある神社へ行ったら、満ち潮になると海の水がそこまで、神社のところまで来て、そして引き潮になると、かなり遠くまで陸地になると。で、そこに鳥居が、海の中に建っているんですね。言ってみれば、厳島神社の原型みたいなものがあるんですね。ですから、平清盛も、そういった厳島神社を造るにあたって、そういったようなものがあるということを知っていて、そして、それを日本的にさらに大きくしたというふうに考えられます。

 つまり、仏教文化っていうのはそういったような、もう少し、歴史には表れていませんけれども、そういうような原型みたいなものをしっかり認識していく必要があるかなと思うんですね。ですから、仏教が伝来したときに、一体どういうような仏教が日本に来たのかと。百済の聖明王が、新羅にやられてしまうちょっと前にですね、日本に仏教をもたらしましたね。五三八年と言われておりますが、いろいろ説があります。しかし、欽明天皇のときに来たということは事実ですね。

 そのときの、日本に持ってきた仏教とは一体何でしょうか。お釈迦様が紀元前三八〇年ごろお亡くなりになって、どんどん何百年も経ってくると、仏教はどんどん変化する。小乗仏教があって、それから大乗仏教があって。それから、七世紀になると密教が出てくる。というふうに、歴史的に展開しながら来るんですね。

 それで、五三八年というのは、まだまだ仏教が教学化されていないと言いますか。例えば、法相宗とかありますね、慈恩大師・基が作った、それを作ったのが六〇〇年代ですね。日本に入ってきたときには、そういうものはまだなかった。それから、浄土宗にしても、例えば善導さんとか、あるいは天台大師、智顗さんとか、いろんな人がいますが、ずっと後の人なんですね。つまり、日本にはまだ、教学とか仏教がきちんと整理されたかたちで伝わってきたんじゃないと言えますね。

 日本に献上されたお経は、テキスト二十一ページをご覧になっていただきたいのですが、『説仏起書巻』という経典なんですね。これは、今申し上げたように、さまざまな宗派の教学とか、あるいは哲学を書いたものじゃなくて、いわゆる、これは仏教を説ける書物という意味ですから、ジャータカみたいな、お釈迦さまがどうやって仏になったかみたいな物語的なものではないかなという推測がされるわけです。それからもう一つ、仏教を伝承したときに、仏像が来た。その仏像っていうのは、おそらく、半跏思惟像で有名な弥勒菩薩の像だと思うんですが、その弥勒菩薩の仏像が来たと。こういったようなことがありまして。

 ここで大事なことは、坊さんが来てないんですよ。つまり、仏教が伝わったと言っても、かたちの上で伝わってはきておりますけども、実際に宗教活動みたいな感じで来ているわけではない。ですから、そういったことをまず認識しておく必要があります。

 日本に、いろんな今申し上げた教学的な問題とか、大乗経典とか、そういったお経がまとまって入ってくるのは、やっぱり奈良時代ですね。もちろんその前に、聖徳太子のときに『三経義疏』が書かれておりますから、そういったものもわずかではありますが入っております。しかし、本格的に日本にそういったものが入ってくるのは、やっぱり奈良時代ということです。

 先ほど申し上げましたように、インドでは、お釈迦さまの仏教、それから大乗仏教、それから密教という流れだった。それが、日本に入ってくると、最初はそういったジャータカみたいなものが入ってきたけれども、奈良時代になると、いわゆる小乗、大乗を含めた経巻類、あるいは論書類がいっぺんに入ってくるんですね。そして、その後に、空海さんと最澄さんが真言宗と天台宗を開くわけですね。つまり、天台宗というのは『法華経』を元にしていますから、これは、いわゆる大乗仏教ですね。それから、空海さんは、真言宗を開いたというのは密教ですが、これが入ってきたと。つまり、大乗と密教がいっぺんに入ってきたと。いっぺんにそこで、宗派として成立したというのが日本仏教の原型ですね。

 そして、鎌倉時代になると、浄土宗とか、それからいわゆる禅宗とかね、そういったたくさんの、鎌倉新仏教と呼ばれる、そういう仏教が登場すると。でも、それらは全部大乗仏教なんです。ですから、歴史的に言うと、日本の場合は密教が平安時代に入ってきて、そして、密教を中心とした考え方の中から、大乗仏教の動きが出てきたというふうに考えられるんですね。

 ちなみにですね、江戸時代は三百年と言いますが、平安時代は四百年もあるんですね。それだけ国内に大きな戦乱とかそういうのが起きないときは、やはり、文化が盛んになるわけですね。ですから、その中で中心的なものは、密教の考え方と言えます。それは何故かっていうと、例えば、小乗仏教で言われている部派アビダルマは、お釈迦さまの残した経典をいろんなふうに議論をして、そして、例えば、『大毘婆沙論』や『倶舎論』といった論書を作ったと。そうすると、大乗仏教ではいわゆる僧侶じゃない人たちはそういうことはできない、専門的な修行もできないということではなくて、お釈迦さまが大事なものは、悟ったことはもちろんだけども、菩提樹から立ち上がって四十五年間説法をしたというところが大事なんだと。つまり、社会におけるいろんな働きかけというものを重視したのが大乗仏教。つまり、利他とか衆生救済の活動、これをメインとしたのが大乗仏教ですね。

 密教は、またさらに時代が経ってきますと、やはり菩薩といっても、修行してお釈迦さまと同じような追体験というのは必要なんじゃないかというようなことから、空海さんは、即身成仏と言って、お釈迦さまと同じような追体験をするようなことをメインにしてきたと言えます。しかし、お釈迦さまがお悟りになるということに衆生救済ということはあまり考えられない。つまり、修行して仏となるっていうのは、そういう自利的な行が中心ですから、どうしてもそういうことになってしまう。

 しかし、大乗や密教では、そういった中でも、やはり、慈悲という他を利益する。他を優先するという考え方を根本に据えていることは、これは全部の仏教に共通していることなんですね。だから、仏教っていうのは、新しく仏教運動が起きても、他を否定するんじゃなくて、そういうものを基盤として、そして、さらにそれを自分たちがどう理解し、どう解釈しどう実践するかっていうふうにしていったのです。

 ですから、大乗仏教のときも、たくさんの大乗経典ができた。『大智度論』とかいう論書もできる。そのときには、いわゆる部派アビダルマの教義っていうものを根底に置きながら、大乗的な解釈をそれにプラスアルファしていく。

 大乗っていうのは第二の転法輪。お釈迦さまが初転法輪といって初めて法を説いた後、大乗仏教はもう一回それを構築し直して、もう一回、自分たちはどういうふうに捉えるべきかということを考えて、新しい革命的な仏教をやると。だから、第二の転法輪って言う。

 密教の場合は第三の転法輪というようなニュアンスがある。つまり、今までの部派アビダルマ、それから大乗仏教、そういった教義を踏まえたうえで、さらに密教ではそれをどういうふうに解釈し、実践していくかが示されました。ですから大乗は、それまでの部派アビダルマを反省して。密教は、その二つをもう一回反省している非常に総合的な視野に立ったもの。これを曼荼羅というふうに後で述べさせていただきますが、専門性を重視するんじゃなくて、総合性をまず踏まえたうえでの個別の働きを重視するものといえます。

 お釈迦さまは医王と言われ、薬師如来も大医王仏といわれるように人を治す医療と同じような発想があります。大乗仏教では浄土宗が南無阿弥陀仏と、日蓮宗は南無妙法蓮華経というふうに、一つの個別の専門性を重視する。それは、総合病院で言えば、例えば内科を専門にする、あるいは外科を専門にする、あるいは精神科を専門にする、というようなのが大乗仏教ですね。人を治すというのは一緒なんだけれども、そこに、実際のやり方としては個別の方法論を掲げたと。南無阿弥陀仏だけでいいよというような、あるいは南無妙法蓮華経だけでいいよというふうな。

 ところが、密教は総合病院だって考えてください。曼荼羅は総合的なもの。ですから、いろんなものがありながら、そして、どんな人が来てもそれに対応すべく、理論を構築した。それが曼荼羅理論なんですね。

 仏教が日本に伝来したときには、まだそこまではいってないんですね。仏教が入ってきたときには、仏教といわゆる神信仰が一緒だったんですね。これは、例えばインドから中国に渡ったときに、道教とかそういったのと融合しながら栄えてきたわけですが、そういったように神信仰と仏教っていうのはごちゃごちゃで。どっちがいいとか悪いとか、そういうことを議論する以前の問題なんですね。


二、仏教伝来時の状況と展開

●蘇我氏と物部氏の争いの原因は仏教か

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仏教の伝来について説かれる小峰先生  
 ですから、そういったような問題点がまずあるということで、次の話に移りますが、蘇我氏と物部氏の争いの原因は仏教か。蘇我氏は、仏教は大変大事なものだから大切にしなきゃいけない、国教にすべきだと。物部氏は、仏教をむしろ排斥すべきだと。日本には神さまがいるじゃないかというようなことで、蘇我氏と物部氏が争って、そして、蘇我氏が勝ったというようなことが言われておりますが、実はそうじゃないんですね。いろんな人の研究を参考にしながら私なりに考えさせていただきますと、もともと、仏教と神信仰というのは、日本に伝わったときから、実はごちゃごちゃだったと。入り混じっているということを申し上げたいのです。例えば、新羅が国を統一したときに、ファラン(花郎)が中心になって、国王を支えて戦ったと。彼らはいわゆる弥勒信仰を持っていて、山岳に行っていろんな神と交わるということもする。神と弥勒信仰が混じったような仏教ですね。それが日本に入ってきているということなんですね。

 ですから、日本で受け入れるときに、仏教がいいとか悪いとか、そういうようなことを論ずるほど、日本はまだ文化が発展してなかったんですね。ですから、一番いい例が、日本で一番古いお寺は飛鳥寺ですよね。その飛鳥寺を造ったときに、日本人は誰一人も携わってないということなんですよ。つまり、全部、百済から来た人たちが造った。

 何故、お寺を造れないか。そういう技術があるかないかっていう問題じゃなくて、お寺っていうのはどういうふうに造ったらいいか、例えば、僧堂はどうするとか、食堂はどうするとか、塔がなぜ必要なのか何も分からないわけですから、そうした現実のお寺を模倣して日本で造るには、百済の人しかできなかったということなんですね。その後、五十年間ぐらいのあいだにあちこちにお寺ができます。

 それから、先ほど日本に仏教が入ってきたときに、坊さんがいなかったと。日本でも、仏教が入ってきたからにはお経をあげたりさまざまなことをする必要があるんで、坊さんが必要だと。ちなみに、日本で最初に坊さんになったのは三人の女性なんですね。十二歳ぐらいの。で、日本で得度ができないから、百済に行って百済で得度をして。その十二歳の女性が仏教の教義を知り尽くしているとはとても思えないんですね。だから、その三人の女性たちは、そういった仏教を説くというような人じゃなくて、むしろ、シャーマンみたいな人が神の中に入って神の言葉を告げるみたいなかたちで、いわゆるブッダの言葉を受け止めて、こういうふうにおっしゃったというような人だったわけです。

 そうすると、そこで、いわゆる仏教は排斥すべきだという、そういったような発想は全然浮かんでこないんですね。むしろ、外国から来たものはいい文化だっていうのが、日本の大きな特徴なんですね。日本は四方が海で、敵に征服されたことがないので、来たものは全部いいものだと。文化として受け入れてしまうという、そういう傾向がある。

 ですから、先ほど日本海っていうのは一つの文化圏だと言いましたけれども、その文化圏の中で入ってきたものを、百済の聖明王が欽明天皇に仏像や仏典を献上したとされる公伝によって、具体的な信仰が入ってくるわけですね。どうしてその公伝が大事かっていうと、公伝というのは国が認めているということですから。国が認めるということは、今度は組織的に坊さんを作ったり、お寺を造ったり、仏教を宣揚したりということができる。ですから、公伝っていうのは非常に意味があるということですね。

 また、物部氏との争いというのは、実は、天皇の跡目相続の争いなんです。テキストにもちょっと書いておきましたけど、穴穂部皇子と泊瀬部皇子の争いなんですね。用明天皇が亡くなって、あと三人の皇子のうち穴穂部皇子と泊瀬部皇子二人残って。それが、片っ方が蘇我氏を味方にした。で、穴穂部皇子は、確か物部氏がということなんですね。力の強い部族を味方につけなきゃいけない。それで選ばれたのは物部氏と、それから蘇我氏ということですね。いわゆる権力の問題であって、仏教はそこには介在しないということなんですね。基本的にはそういうことだったと思います。ですから、原因は仏教ではないということですね。


●百済がもたらした仏教とは如何なるも のなのか?


 先ほど言った、百済がもたらした仏像、仏教とはいかなるものなのかということも、経典、仏像、弥勒信仰ということで語ることができるんですね。半跏思惟像は、朝鮮へ行くと、博物館へ行くと同じようなものがいくつもあるんですよ。本当にそっくりですね。あれが日本で造られたんじゃなくて持ってこられたんじゃないかなというふうに考えるのが普通じゃないかなと思います。ただ、造っている木材が、朝鮮半島はマツで造ったりするんですが、日本ではそういう例があまりないですね。日本ではヒノキとかケヤキとかいうので造るんで、それは日本独特の仏像の発展になるんですが。向こうでマツを使うということはヤニが出るから、ヤニを出さないためには塗らなきゃいけないんです。青とか朱色とかね、塗らなきゃいけない。だから、「あおによし奈良の都の」っていうの「あおに」っていうのは、「ブルー」と「朱色」っていうことなんですね。屋根とか、あるいは柱をブルーと朱色で塗る、そういった朝鮮から来た文化を象徴的に示している言葉だと言えます。

 朝鮮文化が日本に与えた影響というのは非常に強いといえます。日本海側へ行くと、新羅神社っていうのがいっぱいありますね。それから、有名な八幡さん。宇佐八幡が代表的ですが、その八幡さん、日本で三万とも四万あるとも言われているぐらい大きな神社ですが、それもスサノオノミコトが、いわゆる朝鮮半島の神さまだったというようなことも十分に考えられるわけなんですね。

 そういったことで、百済がもたらした仏教というのは、仏教だけを考えれば、弥勒信仰に伴った神信仰を含めたものと言えると思います。


●聖徳太子の存在


 それで、日本で最初に仏教に対して注釈書を作った、聖徳太子ですね。この聖徳太子は、非常に優れた人だと思うんですね。この時代に仏教がほとんど入ってこないときに、あれだけのことができたと。それから十七条の憲法。「和を以て貴しとなす」と、その和というのは、仏教の言う平和なんだというふうに解釈してきたわけですけど。それは、やはり、仏教精神に則って憲法を日本で初めて作ったというふうに解釈してよろしいかなと思います。

 井沢元彦さん(大正大学客員教授)は第二条に「篤く三宝を敬え」ということが書いてあるのは、仏教だったら一条に持ってくるべきだというふうに言うんですが。私はちょっと違うんじゃないかと思います。一条っていうのは大きな理念を言って、二条から具体的なかたちに入っていくのだと思うのです。つまり、経典、例えば『般若経』なんかもそうなんですが、第一章っていうのは、いわゆる哲学、理念的なものが説かれている。第二章から具体的な問題に入っていく。これが一つのパターンなんですね。ですから、十七条憲法もまず理念を説いて、そして、具体的にはまず、篤く三宝を敬えという実践から入っていくということで、聖徳太子は仏教を根本に考えていたうえで作られたんだろうということが分かります。


三、奈良期の仏教と密教

●奈良仏教の特徴

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  講義にひたすら集中!
 先ほど申しましたが、奈良期に入ってきますと、玄昉が経論を五千巻持ってきたとかいろんな説がありますが、たくさんの人たちが唐や隋に渡ってですね、日本に経典をもたらしたり、向こうから外国人が来て持ってきたりと、いろんなことがいっぺんに入ってくるんですね。ですから奈良時代の仏教というのは、大乗だと法相宗とか華厳宗とかありますね。それから、成実宗といった小乗仏教の論書も入ってくる。ということで、大乗、小乗交えたものがいっぺんに入ってくるんですね。そうすると、どうしても、それらを整理整頓しなきゃいけないんですね。

 いわゆる小乗仏教が、自利で他に対する働きかけが薄いというふうに言われるわけですけど、これはしょうがないんですね。というのは、お釈迦さまが残した言葉を経典にすると。そうすると、経典にしたときに、その経典が誤った解釈をしちゃいけないんで、必ず、それに対してきちんと整理をしている論書ができるわけです。ですから、まず、そういうような作業をしていくと、いわゆる仏弟子たち、声聞と呼ばれる仏弟子たちは、そういったことをしなきゃいけない。それから、お釈迦さまと同じような追体験をやんなきゃいけない。ですから、僧院を出て、衆生救済というところまで手が回らなかったというふうに。

 それと同じように、奈良期もたくさんの仏典が入ってきた。それを整理していかなきゃいけない。そして、それをきちんとした方向付けをしていかなきゃいけない。そうすると、忙しくて、まず経典の整理整頓が優先課題となる。そうすると、すぐさまそれが、衆生救済、利他的な大乗仏教の運動としてはつながっていかなかった。


●雑密とは


 でも、仏教っていうのはそうじゃないんだと感じる人もいるわけで。そういう人たちは、山岳宗教、山に行って、それでいろんなところで修行をしながら、宗教体験を積んでいって、そして、そこでブッダの本当の智慧っていうのは何かということを体験をしていく、そういう動きが出てきた。その代表的なのが、いわゆる雑密と言われる密教の人たちなんですね。

 この雑密の人たちは、どういうふうに考えたかというと、代表的なのは、虚空蔵求聞持法という虚空蔵菩薩の真言を百万回とか唱えて、唱えきったときに、自然智って言いますかね、いわゆる表裏的なことを頭だけで考えたんじゃなくて、体験として得られる本当の智慧っていうものを身に着けようとした、ということなんですね。

 よく、仏教っていうのは分からないとか言われますが、説明しても、ある意味分からない。つまり、体験がないと駄目なんですね。理論としては素晴らしい理論を言うかもしれないけれども、それが直接伝わってこなかったらそれだけですよね。特に、仏教の場合は宗教体験、お釈迦さまが菩提樹下で悟ったと同じような、そういう体験というものが必要なんだということです。

 ですから、雑密の人たちは、山の中を駆け巡り、そして、そこでいろいろな仏教の行をしながら求めていった。そういう人たちが、その修行の途中にいろんな人たちに対して、衆生救済の手立て、薬をあげたりとかね、さまざまなことをして働いた。直接、一般の人と結びつくような行動もとったということなんですね。それで、密教の場合はですね、そういったかたちでやっていくと。

 奈良の坊さんたちも、実は、三カ月とか区切って山へ行って、同じような修行をしたというのはあります。ただ、やはりメインは、全部の文献、経典の整理っていうか、そっちの方がやはりメインになりますので、直接的な衆生救済の行動はなかなかとれなかったわけです。


四、平安期の仏教

 それをやったのが、平安時代に登場した最澄さんと空海さんということになります。空海さんは、何故坊さんになったのかということがよく取り沙汰されますね。それは、あそこが官僚を養成するところだから、大学はね。そこでは出世ができないと。だから、大学を中退して坊さんになったんじゃないか、なんて言う人もいるぐらいなんですね。でも、私はそうは思わないんですね。空海さんという人は、最初から素養を身に着けるために大学に入った。もともと坊さんになるつもりでいたんだというふうに考えております。

 また、空海さんという方のお母さんは阿刀氏。阿刀氏というのは物部氏の一族なんですよ。大和川、大和の国から難波潟へ下りてくる川があるんですが、そのちょうど海につきあたる所は阿刀氏の場所だったんですね。だから、そこに阿刀神社とか、いろんな阿刀っていう名前の地名なんかがあります。その阿刀さんというのは、弘法大師に教えた阿刀大足っていう人も阿刀氏なんですね。それから、奈良時代に出た有名な坊さん、義淵とか。それから、道鏡なんかもそうなんですね。とにかく、いろんな人を並べてみると、とにかく有名な坊さんは全部、阿刀氏だったということが分かります。それと同時に仏像を造ったり、経典を書写したり、そういった仏教に関わることを一族がやっているんです。

 その阿刀氏の一族の人が四国から渡ってくると。そういったときに、やはり、そういった人たち全部がカバーしたんじゃないかと思うんですね。そして、もともと坊さんになるということを前提としながら、いろいろな勉強に携わったりもしたと。

 実は、弘法大師が入唐しますよね。入唐した理由というのが、密教を求めるということですね。それは、自分の意思で行ったのか、あるいはそれ以外のいろんな働きがあったのかって、考えたことありますか? 奈良期に雑密が盛んになりましたが、雑密には教学がないんですよ。つまり、密教の教学というのは、空海さんが打ち出したものなんですね。それは、例えば、法相宗は慈恩大師窺基といったように、中国の人がそれぞれの教学を作っていった。密教は、いわゆる空海さんの師匠である先生、あるいは、その上の先生である誰もがそういった教学的なことを書いてないんですね。密教教学を最初に作ったのは空海さんなんですね。

 ですから、実は、密教を知っていたけども、まだ日本ではきちんとした密教の伝承がない。つまり、密教に必要な曼荼羅とか、例えば五鈷杵とか、いろんな密教法具、そういったものは日本になかった。まあ、わずかにはあったかもしれないけど。いわゆる体系的なものとしてはない。

 それで、密教が盛んになってきますと、密教を信奉している人たちは自分たちが頼るべき人だと思って空海さんにお願いしたんじゃないかと思うのです。中国へ行って、本当に密教を学んできて、密教の教学を作ってほしい、みたいなですね。そうすると、空海さんが中国に渡ったときに、一年半ぐらいで五メーター四方の曼荼羅とかね、たくさんのものを持ってきていますよ。ああいったものは、お金がかかるんですね。

 それからもう一つは、向こうへ行ったときに、人間関係ができてないと、何も分かんない人が、ただお金を持っているだけでいろんなことができるわけがないんですね。それをちゃんと情報提供する人たちがいた。それが、ちょっと私の極端な言い方ですけど、八幡神の信仰者です。空海さんと八幡さんの関わりを示す伝承というのはたくさんあって。東寺にもありますよね、八幡さんの三神像。それから、高雄山神護寺とかにも「互いの御影」とかね。八幡さんと空海さんが同体であるというようなものが実際に残っているというんですね。それらの例に見られるように八幡さんとの関係が深い。

 八幡さんというのは、先ほど言ったように朝鮮の神さまです。私の先生でカラシマ先生という人がいて、「ちょっと先生、カラシマっていうのは、もしかしたら朝鮮の関係じゃないんですか」って言ったら、「君よく分かるね」なんて言われたんですが。「実は俺のところは、宇佐の血脈で、自分の何代か前はあそこの神官もしていた」と。その一番先祖はスサノオノミコトだと言うんですね。宇佐八幡は、もともとは伽耶ですね。今の釜山あたりにあった伽耶の国から、カラシマっていう一族が渡ってきて、そして、大分のところに居留地を設けた、それが宇佐八幡の元だって言うんですね。

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  胎蔵曼荼羅(東寺)
 伽耶っていう国は鉄の産地で、非常にユニークな場所だったんですね。鉄っていうのは戦争や農耕には絶対必要なものですが、その鉄の技術を持っていたと。ですから、奈良の東大寺の大仏を建立するというときに一番力を貸したのが、宇佐八幡なんですね。

 ちなみに日本では金が取れなかったんですね。それで、天皇が、遠くから輸入しなきゃというふうに言ったら、宇佐八幡が神託を出して、日本から出ると。それが平泉から出たということなんですね。で、その平泉から出た金でもって金箔を作って、それを貼ったと。そういうことですから、日本全国にね、宇佐八幡の力が及んでいると。特に源氏が帰依することによって、さらにその信仰が深まって。で、あちこちに八幡さんの拠点ができる。

 そういったことで、密教が伝わってきたときに、結局、最澄さんも、天台宗は天台宗としてやるけれども、またそこにプラスアルファで密教が必要だということで、弘法大師のお弟子になって、灌頂を授かりました。こうして日本では真言宗の東密と、天台宗の台密という、二つの大きな密教の流れが作られていったということです。

 ですから、平安時代っていうのは密教の考え方が覆っていたんですね。例えば、平安末期から鎌倉にかけて、たくさんの図像集が出るんですね。そのたくさんの図像集というのは、例えば、覚禅抄とか阿娑縛抄とか、いろんなものがあるんですが、いわゆる大蔵経でいうと図像部に載っておりますが、もうかなりの量ですね。それが盛んになったということは、密教が非常にたくさん受け入れられていたということなんですね。


五、鎌倉新仏教と密教の二つの流れ

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  金剛界曼荼羅(東寺)
 よく、私たちは、鎌倉仏教になると、もうそれまでの密教は廃れてしまってなくなってしまったと思うかもしれませんが、実はそうじゃない。それが逆にですね、むしろ浸透していったということなんです。それについて、これからもう少し話をしていきたいと思います。

 すべてを総合して、全体像を見せたのが都会曼荼羅です。総合的な曼荼羅っていうのは、実は自利的な、自分自身が悟りの境地にどうやったら達することができるか、どうしたらその悟りと自分が一体となるかを示したものですね。

 それに対して、別尊曼荼羅というのがあります。例えば、家内安全、自分のうちが安全であるように観音さまにお祈りしたいといったときに、観音さまの曼荼羅を作って、そしてそこで護摩を焚いたりして、それを祈るというものですね。あるいは、うちでは病人がいるからとお薬師さまを中心として曼荼羅を作って拝むと。そういったように別尊曼荼羅はそれぞれの個別の信仰に合わせたかたちで、もうたくさんできるんですね。

 ですから、密教実践の自利的な、悟りを求める即身成仏的なあり方と、それから、現実世界の中でそれをどう生かしていくかという、二つの流れがある。

 ですから、胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅という、二つの曼荼羅があります。金剛界曼荼羅っていうのは、九つに分かれた、九会曼荼羅とも言うんですが、それは、悟りの世界っていうのはどういうふうになってるかということをさまざまな角度から示したものです。それに対して、胎蔵曼荼羅というのは、一人の行者がどうやったら悟って、そして、それがどういうふうに全世界に発展していくかということを述べたものです。

 よく、曼荼羅に関しては、昔、頼富本宏先生が書いておりましたが、胎蔵曼荼羅はオーケストラだと。指揮者のもとに、全部がいろんな働きをする。それぞれに違う分野を持ちながら、全体的には統一されたハーモニーを作り出すと。それが胎蔵曼荼羅的な発想だった。それに対して、金剛界曼荼羅は、舞台を描いていくと。役者がいろいろ舞台を描いて、登場人物は同じでも、それぞれの役目を描いていくことによって、違う盛り上がりを模していくという、そういうふうなことをおっしゃっておりますね。こういった曼荼羅的な思考というのは非常に重要なんですが、また最後の方に説明できればと思っております。

 こういった鎌倉時代にできた仏教というのは、日蓮さんや法然さんや親鸞さん、それから道元さんや栄西さんといった方が作り出した個別的な働きだということは、前に述べました。実はですね、密教というのは揚子江とか黄河みたいな大きな大河の流れを作る。それに対して、この水を利用して、たくさんの運河ができます。これが、いわゆる鎌倉新仏教なんですね。


六、伊勢の神信仰と密教の関わり

 「伊勢の神信仰と密教との関わり」と最後に書いておきましたが、もう、室町時代ぐらいになりますと、完全に密教化してくる。例えば、アマテラスオオミカミは大日如来から生まれた、というような考え方。外宮が金剛界曼荼羅、内宮が胎蔵曼荼羅というようになってきました。

 これ、『沙石集』なんかを読んでみるとよく分かるんですが、ある坊さんが伊勢へ行ったと。坊さんは、どうしてこんな密教と関わっているのか疑問に思ったんですね。「沙石集が語る伊勢の状況」というのがテキスト一六二ページに書いてあるんですが。例えば、その『沙石集』を紐解くと、そこには神信仰と密教とが不即不離の関係となっていることが具体的に語られていると。無住という坊さんが書いた本なんですが。寄稿が弘安二(一二七九)年、脱稿したのが弘安六年。まだこれは鎌倉時代ですね。その無住という坊さんが、伊勢大神宮に行ったときに、密教化していたにも関わらず、伊勢では密教を表面には立てようとせず、むしろ隠していた。無住は彼らの行動をいぶかしく思い、盛んにその理由を尋ねた。その問いに答えて、社官は、伊勢に密教が深く浸透しているにも関わらず、仏法僧の三宝帰依を表立って言わず、また、社僧が社殿近くに寄らないことには深いわけがあるということなんですね。

 その次のページ、一六四ページには「都ては大海の底の大日の印文より事起こりて、内宮外宮は両部の大日とこそ習い伝えて侍べる。天の岩戸というは兜率天なり。高天原ともいうなり。」とありますね。いわゆる建物も、密教の曼荼羅の考え方と重ね合わせることができるというようなことなんですね。要するに、もう伊勢は、完全に密教的な、いわゆる両部神道と言いますか、そういったものになってくる。

 これがですね、実は一八六八年、明治最初の年に神仏分離令が出たことによって、いわゆる国家の政策で、神さまと仏さまを物理的に分けるということになったんですね。なかなか分けきれないところがいっぱいあるんですよね。それでも無理やり分けるということをやった。

 例えば、高尾山ってあるじゃないですか、そこにね。あの高尾山なんかも、飯縄権現っていうのが仏さまなんです。権現さまっていうのは、仏教だか神道だかよく分かんないんですね。あそこには鳥居もあるしね。で、私の知っている限り、結構、神官さんはその隣のお寺の檀家さんであるっていう人が多いんですよ。例えば、あっちの方に田無神社ってあるんですが、隣の総持寺には神官のお墓があるんですね。昔は一緒だったから、そういうことが当然あり得るんですが。

 ですから、全然一緒になっていることには問題はなかったんですね。ただ、神仏分離令ができたときに、だいぶ変わったわけです。今の若い人たちに、「神社とお寺っていうものは違うものだと思う?一緒だと思う?」って尋ねると、大体違うものだと答えます。分離令から百五十年しか経ってないのに、もうそういう意識になっているんですね。

 それがですね、例えば、先ほど言った宇佐八幡ってありますね。私も見に行って調べてきたんですが、あそこには弥勒寺ってお寺があったんですよ。法蓮さんという坊さんがいて、その法蓮さんは、奈良時代に大仏を造った行基の弟子。そのお弟子さんだった人が、九州に帰って仏教運動をしたと。そのときに弥勒寺を造ったというんですね。弥勒寺のメイン行事は放生会。今は、中秋祭って言うのかな。明治の神仏分離令のときに、弥勒寺は全部壊されちゃった。跡しか残ってないんですね。

 法蓮さんの当時、あそこに隼人っていう地元の部族と大和朝廷が戦争をした。元々しょっちゅう小競り合いあったんだけど、最後はとても大変な戦争になって、千何百人も死んだっていうふうに『日本書紀』なんかに載っているんですが。法蓮さんは、まず、その相手、亡くなった相手の人を供養したと。そのために、放生会、川にいろんな生き物を逃がすことによって不殺生を実践したということなんですね。今でも、それがずっと、宇佐八幡の行事として続いてきたんですね。もともとは仏教の不殺生による行動だったのですが。

 それがですね、神仏分離令によって分けられちゃったことで、じゃあ、その行事はどうするのかっていう問題になるんですね。簡単に人の気持ちは変えられないんだということで、名前を変えて、中秋祭となっております。やっていることは同じなんですね。貝とかいろんな魚を逃がして、命の尊さをみんなに訴えるという行事。そういうことになりました。


補論 曼荼羅的な思考

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曼荼羅の世界に興味津々  
 廃仏毀釈は中国でも起こりました。空海さんが唐に渡って、曼荼羅を持ってきたんだけど、天台宗では持ってこられなかったから、円仁さんや円珍さんが行って、そして曼荼羅を請来することを頼んだんですね。『入唐求法巡礼行記』という本があるんですが、それを読むと現地で曼荼羅を描かせているんですね。ところが、会昌の廃仏毀釈ということで、中国で四回ぐらい廃仏毀釈があった中で一番大きいものと言われているのですが、その廃仏毀釈によって曼荼羅を焼かれちゃったと。そのため持ってこられなかったということが『入唐求法巡礼行記』に書いてあるんですね。

 だから、いわゆる都会曼荼羅、金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅という曼荼羅は、空海さんだけが持ってきたんです。ですから、それがなかったら、ある意味、曼荼羅は世界には存在しないということになりますね。恵果阿闍梨は「あなたが来るのを待っていた」と述べたって書いてあるんですね。弘法大師の本にね。そして、すべての灌頂とか終わって、密教を授け終わったときに、すぐ帰って日本に伝えなさいというふうにおっしゃったと。つまり、待っている人がいるっていうことを知っているんですね。みんなから請われて来て、すべてを得たんだから、早く帰って教えを伝えなさいということなんですね。

 昔はですね、まあ確かに、東シナ海を日本から渡るのは大変です。遣唐使というのは、二十年に一回しか出ませんからね。そんなにちょいちょい行っているわけじゃない。ですが、朝鮮半島の方には、陸にそって船で中国に行けるわけですよ。そして、居留地をあちこちに作っていくから、しょっちゅう貿易とかそういったことでやっている。ですから、それらのルートをたどれば、いくらでも人は行けたわけですね。そういった関係を保てるのは、八幡神の信仰者しかいないんじゃないかっていう気もするんですね。

 このように密教を支えている人たちは、弘法大師にすべてを託して中国に渡ってもらったんじゃないかと。そして、大師もそれに応えてすべてのものを持ちかえって、そして、最後には真言教学を打ち立てたということになります。

 弘法大師の真言教学というのは計画的に書かれているんですね。一つは『弁顕密二教論』。顕教と密教、どこが違うのかということを明らかにしております。それから、即声吽です。密教の一番大事なのは即身成仏だということで、『即身成仏義』という、密教の世界観と実践の方法を書きました。声っていうのは言葉ですね。言葉というものをどこまで凝縮できて、どこまでそこに仏が内在しているかっていうことを表す真言について『声字実相義』の中で書かれた。『吽字義』というのは心の問題。これら体系化した理論を作っていったということなんですね。

 南無阿弥陀仏といえば浄土宗とか浄土真宗だと思い込んでおられる人もいるかもしれませんが、密教の中にもちゃんと阿弥陀さんがいたのです。例えば、川崎大師で開かれる、十年に一回の大開帳では赤札が配られますが、そこには南無阿弥陀仏って書かれております。それも弘法大師真筆って書いてある。それから、浄土宗の百万遍知恩寺というところにある利剣名号軸には南無阿弥陀仏と刀の穂先みたいな字で書いてある。ここにも空海真筆と書いてあるんですね。それは、後醍醐天皇のとき、京都に疫病が流行ったと。そのときに百万遍の人たちが念仏を唱えて、そのお礼として天皇が御下賜したのが、その空海真筆の南無阿弥陀仏だということです。

 以上、日本に入ってきた仏教っていうのはどんな仏教だったのか、そして、それがどんなかたちで日本の中で浸透していったか。そして、そこには密教がかなり関わってきているということもお話をさせていただきました。皆さまにはご清聴いただいたことを心から感謝を申し上げたいと思います。(終)

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