蓑輪顕量先生

日本仏教史(第27期スクーリング講義録[ダイジュスト版])

2015年1月10日 仏教文化172号

一、はじめに


 本日は「日本仏教史」の概要について話をいたします。私たち、日本に暮らしていますので、日本の仏教がたくさんの宗派に分かれていて、それぞれの交流があまりなさそうだというようなことは何となく知っていると思います。でも、実際に各宗派に分かれて成立してきたのは何を起源にしているのかとか、日本の仏教の特徴みたいなものが何かというようなことはあまり考えたことはないように思います。本日は、少し大風呂敷になりますが、その辺りのことをお話ししたいと思います。

二、日本仏教史上における時代区分


 まず最初に、日本仏教史上における時代区分ですが、私たち、普通に歴史を考えるときには、古代・中世・近世・近代・現代というふうに分けることが多いと思います。ところがこの時代区分というのは歴史学の方面からつくられたものであります。しかも歴史学における時代区分とは、ヨーロッパの歴史を見るときにできたものです。分かりやすい見方というので、古代・中世・近代という分け方ができました。そのヨーロッパの歴史の見方を日本の歴史研究者の方たちが、日本の歴史にも当てはめられるのではないかと考えて、日本も古代・中世、そして近代というふうに最初は区分しました。しかし中世が長過ぎるというのと、江戸時代というのが近代を準備する前の段階として、ヨーロッパとはまたちょっと違った展開をしているのではないかと考え、それで近世という時代区分が入りました。

 仏教の歴史も同じように古代から中世、そして近世、近現代というふうに分けて考えることが多いような気がするのですが、実はその見方ですと、大きな流れがつかみにくいところがあります。逆に、政治経済的な歴史の変遷とは少し切り離して、日本仏教の伝統的な歴史、日本仏教教団の展開というように考えてみたときには、もう少し違った見方ができます。実は古代史が専門の名古屋市立大学の吉田一彦先生が、次の時代区分を提唱されました。六世紀から八世紀までを伝来仏教、九世紀から十五世紀位までを古典仏教、十六世紀から二十一世紀までを新仏教(遁世門)というふうに、大きく三つぐらいに区分した方が分かりやすいのではないかという主張をなさっています。

 この見方というのは、仏教教団、教団という言葉は近代になってから使われるようになった言葉ですが、それ以前は僧伽という言葉が使われますが、日本の仏教僧伽の歴史を考えても、結構妥当な見方だと思います。六世紀から八世紀までの仏教というのは、日本に伝来してきた仏教が各地に根を下ろしていく時期です。実際にどこから伝わってきたかといいますと、朝鮮半島の百済を経由して、公式な形で伝えられます。百済の聖明王という方が、五三八年とか五五二年とか、最近は五四八年という説が見直されております。韓国では百済の王様のお墓の発掘とか、さまざまな遺跡が今どんどん出ておりまして、百済の歴代の王様の年代がほぼ確定してきています。それによると五四八年という説がかなり信憑性が高いのではないかと考えられるようになってきています。

 そのとき伝えられた仏教というのは、朝鮮半島の百済で栄えていた仏教です。では百済はどこの仏教の影響を強く受けていたのかといいますと、実は中国の南朝の仏教の影響を受けております。中国で北朝と南朝と分かれた時代がありますが、それを隋が統一していきます。その隋になるまでの間に、南の方に宋・斉・梁・陳という四つの王朝が栄えますが、そのうちの梁の時代に百済と非常に親しい関係を結んでいます。そのような関係から、梁の仏教が百済に伝わり、南朝風の仏教が百済を介して日本に入ってまいります。ですから初期に伝わった仏教は、中国の南朝の仏教の特徴を持っていたと考えられます。

 では南朝の仏教はどんなものであったのかといいますと、経典の講説を大事にする仏教であったと考えられています。これは中国仏教の研究を志す人が必ずといっていいほど目を通している著作に、横超慧日先生がお書きになられた『中国仏教の研究』というのがあるのですが、その中で明らかにされていて、その後大体継承されている考え方です。中国の南北朝時代において、北の方で修禅の伝統が栄えていた、いわば修行を大事にする仏教が広まっていた。それに対して南の方は、経典の講説、講経を大事にする伝統が存在していた。中国ではもともと儒教経典を講説する伝統が先に存在していたようです。儒教経典の講説のやり方を仏教者たちが真似るようになって、それが中国の南朝において栄えたと考えられています。ですので南朝の経典の講説を大事にするというのが、初期の伝来仏教の特徴だといっていいと思います。

172-4.jpg仏教の歴史を振り返る

 これが社会の中に定着をしていきます。実際に初期の仏教はどういうものであったかといいますと、朝廷とのかかわりでよくいわれるのですが、朝廷側が仏教を必要としていた時代だと考えられています。この時代の仏教を一般に護国の仏教という言い方で呼ぶことがあります。なぜそうだったのかといいますと、七世紀初頭に摂政を務めたといわれる聖徳太子が登場いたします。七世紀初頭というのは、東アジア世界が激動の時代です。つまり、南北朝が統一されて隋が興き、隋によって高句麗が滅ぼされてしまう。そして、隋は周辺に拡張していこうとしていた。やがて唐に取って代わられますが、そのような激動の時代に東アジア諸国は、仏教を国を指導する理念として採用していました。そのような状況の中で、恐らく日本も他の国に引けを取らない立派な、独立した国なんだということを示す必要に迫られて、七世紀の初頭、聖徳太子(上宮王)と推古天皇と蘇我馬子の三名が共同体制で大和朝廷を指導した時代が出てきます。

 この時代に朝廷は、仏教を最先端の宗教であり、さまざまな文化を伝えてくれる大事なものとして位置付け、仏教の理念に基づいて国を運営しようと考えました。ですから、朝廷が仏教を必要とした、その時代の仏教は護国の仏教であったといえます。これが聖武天皇とかが登場する時代まで続きます。ですから八世紀末位までは、日本の仏教の特徴を一言で述べたら、政治的な観点からいえば護国の仏教といえます。また、経典の講説を大切にする仏教ともいえるわけであります。

三、古典期仏教の特徴


 その後、九世紀から十五世紀位まではどんな仏教であったかといいますと、吉田一彦先生は古典仏教という言い方をしています。古典仏教という言い方がふさわしいかどうか分かりませんが、その古代に伝わってきた仏教が花開いて、日本の社会に定着して、独自の形態をかなり発展させた時期、これが九世紀から十五世紀位までと考えられます。

 いわゆる平安時代の初期から鎌倉時代から中世までかけての状況です。この時期は、朝廷と仏教界の関係は非常に密接な関係にあります。朝廷が仏教を必要としていた時代から少し変化が出てきまして、お坊さんの側からも、仏教は社会にとってとても大事な宗教だよと、国に積極的に働きかけていく時代だといってもいいと思います。それで、国を鎮護していくためには、仏教が大事な役割を果たせるんだということを主張しまして、この時代に始まる仏教を、鎮護国家の仏教ということがあります。

 それで、朝廷と仏教の関係を見ていくと、少し性質が違いますので、護国の仏教という言い方と、鎮護国家の仏教という言い方は区別して使った方がいいのではないかと、吉田先生は主張します。この鎮護国家の仏教のときに盛んにいわれたのが、王法と仏法が相依するということです。王法というのが朝廷が考えている世俗的なものです。それに対して仏教の方は、この時代、仏教といわずに仏法と言っていますが、仏教という言い方は明治以降につくられた言い方でありますが、王法と仏法が相依する時代だといわれます。朝廷側だけではなくて、仏教界からも朝廷に積極的に働きかけていく、そういう時代の、そういう特徴を持った仏教だというわけです。

 このときの仏教にどのような特徴があったかといいますと、実は盛んに法会を行います。これは古代の仏教の延長線上にあると考えていいと思うのですが、法会を行って、経典の講説、そして講説の後には必ず仏教教義に関する質疑応答が行われました。その質疑応答のことを論義といいますが、その論義が盛んに行われた時代が鎮護国家の仏教といっていいのだと思うのです。これが九世紀から十五世紀位までの仏教界に見られる現象であります。もっとも法会を中心としていくというのは、初期の段階の、百済から伝えられた仏教が、南朝の経典の講説を大事にした仏教であると申し上げましたが、それもきちんと継承しています。現在でもこの伝統は継承されており、基本的に日本の仏教は法会というのを大事にする仏教になってきます。

 お正月の修正会、七月、八月の盂蘭盆会、あるいは私たちの通過儀礼と結び付いたところでは、お葬式とか年回忌法要とか、なぜか儀式張った感じのものを通じて仏教に接しているのではないかと思います。そのように見ていきますと、仏教が伝わった初期から実は経典の講説を大事にする仏教というのが、日本の社会の中に定着していったのではないかと思います。

 これに対するアンチテーゼみたいなものというのでしょうか、少し新しい動きというのが、十二世紀位から起きてまいります。古典仏教が盛んだった時代に、実は新しい動きが胚胎していまして、これが鎌倉時代の新しい宗の運動になっていきます。新しい宗というのは、浄土系と禅宗系、それから法華系の三つが新しい運動を起こしていきます。実際に浄土系の運動は院政期の十二世紀後半位から始まります。そして、新しい禅宗というのも、栄西禅師から考えていけば大体十二世紀後半からで、大きな活動は十三世紀の半ば位からです。十三世紀の半ばになりますと、法華系でも日蓮聖人が登場しまして、後の日蓮宗になる動きが出てまいります。

 実は中世の時代に、浄土系と禅宗系と法華系の新しい動きが登場します。この三つを軸にした、新しい主張をしたお坊さんたちは、それ以前のお坊さんたちと比べると少し違った特徴を持っていました。それが何かといいますと、遁世という言葉で呼ばれるのですが、お坊さんたちの世界に存在していた僧位僧官等の名聞利養を求めないという形で登場してまいります。

 実は、鎮護国家の仏教では、法会の論説や論義をすることによって、お坊さんたちが、お坊さんの世界の中の出世の階梯を歩いていくというのができあがっていました。法会の講師を務めると、やがて僧綱に任命され、律師や僧都、僧正に任命されていきます。平安時代の初期の律師や僧都、僧正というのは大変に権力を持っておりまして、お坊さんの世界の重要な問題を全部審議して、その解決策を探したりとか大変な役割を持っていました。

 ところがこの役割は、時代がたつにつれて形骸化していきます。逆に階層をもっと増やしていき、お坊さんの世界のヒエラルキー、階層秩序を表す用語として再生していきます。現在のほとんどの宗派に存在していると思いますが、若い新参のお坊さんは、講師から始まり、やがて律師、少僧都、あるいは大僧都になっていきます。やがて権官も付きまして権僧都になります。僧正から大僧正まで進んで、お坊さんの世界における位を表すようにもなっていきます。そう考えていきますと、律師、僧都、僧正というような名称が最初に出来上がったのは、天武天皇の時と言われています。法会の講師を務めた者の中から選んでいくというやり方は、平安時代に入ってからであります。講師になるためにはどうしたらいいかといいますと、仏教教理の研鑽をしっかりやりまして、そして法会の席に設けられた論義の場で、十人の講師から十問の質問を受けます。それに対して五題以上(初期は七題以上)しっかりとした答えができると合格とされまして、その合格者の中から講師を選んでいくという形が出来上がってくるのです。つまり、お坊さんの世界の最高峰である僧正に任命されるためには、実は有名な南都における三会というのがあるのですが、そこの講師を務めなければいけませんでした。つまり、平安の頃から、仏教はますます学問を中心とした仏教になっていきます。これも日本の仏教の特徴の一つだと思います。いわゆる学解の仏教という言い方がよくされます。つまり、仏教を勉強することは、学問のように経典を勉強したりすることだと暗黙のうちに考えてしまいます。ある意味偏見だと思うのですが、そのような価値観が出来上がってきてしまいます。

 法会を中心とした仏教が大きく展開していきますのは、院政期から鎌倉期にかけてです。いろいろな変遷がありますけれども、奈良の地に出来上がりました有名な法会としては、興福寺の維摩会、それから宮中で行われました御斎会、薬師寺で行われる最勝会というのがありまして、南都三会と呼ばれました。この南都三会を経た人たちが僧鋼に、律師、僧都、僧正に任命されていくという形が出来上がったのです。

 鎌倉時代になりますと、京都の町にも北京三会と呼ばれるものができまして、その北京三会と南都三会が大体同格のものになります。そうすると、奈良のお坊さんたちと京都のお坊さんたち、両方が出仕して競い合う、もう一つ別のグループが出来上がります。これが三講と呼ばれまして、法勝寺という上皇が造りましたお寺の御八講、宮中で行われる最勝講、それから上皇のいらっしゃる仙洞の最勝講が、院政期の頃から三講と呼ばれて、当時の仏教界の非常に重要な法会になっています。鎌倉時代も実はその体系がずっと続いておりまして、当時のお坊さんたちは学問的な研鑽を積むことによって、お坊さんたちの世界の上位に立っていくというようなことが行われていました。ですから、明らかに学解を中心とした仏教が栄えていたということができるかと思います。しかし、実は仏教というのは学問的なものだけではありませんでした。

四、遁世門の出現―新仏教の祖師たち


 ところが、そのような状態のときに、遁世門といわれる人たちが登場してきます。この遁世門の人たちというのは、法会の論義のための仏教ではなく、「私」、「自己」にとっての「仏教とは何か」ということを追求し始めたのではないかと見ることもできますし、かつまた、忘れられていた行の世界を追求する人たちとも見ることができます。行の世界に対する関心を引き起こした理由は何かですが、恐らく中国で当時盛んになっていた禅宗が日本に紹介されたことが、一つの要因として考えられるのではないかと思います。

 禅宗の祖というと、例えば臨済宗でしたら栄西、曹洞宗でしたら道元と、すぐ名前が挙がると思いますが、実は栄西の前にも、天台宗で覚阿という方が中国に渡って禅を学んできています。ですので十二世紀後半位から、大陸に渡ったお坊さんたちは禅に対する関心を持っていて、日本のお坊さんたちにも大きな影響を与えました。そして法会を中心に考えていく在り方から、ちょっと異なった在り方を模索する人たちを生み出していったのではないかと考えられます。これが行の世界も重視したというように書いた内実であります。

五、遁世の歴史的経緯


 この当時のお坊さんたちが行の世界にも関心を持って学び始めたときに、実は「遁世」と呼ばれる行動を取りました。この遁世という言葉自身は少し時代的な変遷があることが明らかにされています。まず最初期は、世を儚んでの遁世です。最初は移ろい行くこの世界を非常に儚いものに思って世を逃れてしまいます。また山中に籠ったり、世間から離れたりしました。そして中期の十二世紀後半から十三世紀中葉位に登場する遁世というのは、名聞利養を離れて真摯に仏教を探求しようとするお坊さんたちでした。この人たちが重要な動きをつくっていきます。十三世紀後半から十四世紀前半になりますと、遁世門の特徴が失われていって、伝統的な流れと合流してしまうような感じになります。

 実際にどんな人たちが遁世門と呼ばれているかといいますと、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、禅宗の栄西・道元、それから日蓮宗の日蓮、時宗の一遍など、鎌倉時代の新仏教の祖師にされている人たちは、ほぼ遁世門の方々です。

 中世の鎌倉時代というのは、王法仏法相依論を主張し、法会を実行すること自体が、鎮護国家につながると考えていたお坊さんたちがいて、社会の主流を占めていました。ところがそのような在り方に少し批判的な態度を取られて、別の道を歩みだす人たちが登場して、現代につながる宗を興していくことになります。

 現在では、当時の仏教界は中心部に伝統的なお坊さんたちがいて、交衆と呼ばれていますが、実はその周辺部を構成するのが、この遁世門の人たちだったのではないかと考えられます。実際には遁世門の人たちはグループをつくっていきます。例えば、初期に登場するグループの中心人物は法然です。禅系では、初期の代表者である栄西のグループというのは、実は栄西が生きていたときには、弟子たちの活躍というのはあまり知られていないのですが、栄西の次の円爾弁円あるいは中国からやって来ました蘭渓道隆のときから、禅宗教団が非常に大きな勢力になっていったと考えられています。

 ですから、当時の仏教界を大きく分けたとしたら、お寺のお坊さんたちは法会に出仕して、出世の階梯を上がりながら、国の安泰や一般の人たちのことも考えて、さまざまな加持祈祷に務めたりする、交衆と呼ばれる平安期から続いているお坊さんたちが、多分、鎌倉時代の初期のころには仏教界の中心部分を占めて、その周辺に遁世の人たちが現れ、独自の視点から仏教を追求していくようになったのだと推測されます。

 実際にはその交衆の中にも、院政期の頃から、禅や修行に関心を持つ人たちが存在していたことが分かっておりまして、お坊さんの世界に学侶と禅侶という身分の相違が生じていたことが分かっています。禅侶といわれる方たちは、実は修行を大事にしたお坊さんたちです。伝統的なお坊さんたちは勉強ばかりしていたように思うかもしれませんが、このグループの中にも、修行もやっていた人たちが実は存在しています。勉強を続けていく人たちが学侶型のお坊さん。それ以外の人たちが一応、禅侶といわれるお坊さんです。人数的には学侶は少ないです。禅侶の方が圧倒的に多かったと思います。この禅侶の中の志の高い人たちは、遁世の人たちが登場してきたときに、その周辺部に合流していったと考えられてもいます。いずれにしましても、遁世門の人たちが、新しい運動を起こして、現在のいわゆる鎌倉新仏教といわれる派をつくっていくことになりました。

 この遁世門の仏教が社会の主流に躍り出てくる時期が、大体十六世紀です。日本ですと室町時代が終わり戦国時代に入る頃です。この時期に伝統的な仏教者たちと、その遁世門を起源にして生じてくる新しい仏教者たちの勢力が逆転していきます。伝統的な仏教者たちの方が少なくなり、新しい理念を持った人たちのグループが、徐々に数を増やして社会的に大きな力を持つようになり、現代に至ります。それで十六世紀から二十一世紀は、中世の時代の新しく登場してきた仏教が、社会の主流の仏教になった時代ということができるのではないでしょうか。

六、八世紀初頭の仏教に対する認識


 では、日本の仏教がある意味忘れてしまった部分とは何かというと、恐らく行の部分だと思います。しかし、行の部分というのは、仏教が伝わってきたときから学問とともに入っていて、為政者たちにも認識されていたということが分かる資料が出てまいります。それが、『続日本紀』の中に登場いたします。養老二年(七百十八年)十月十日、僧綱への布告の文書です。「法門の師範に足る僧侶を顕彰しなさいと命じたもの」ですが、「およそ僧侶たちを浮游させてはいけない」。浮遊とは、あちこち歩き回るという意味です。「僧侶はさまざまな教理を講論して、さまざまな義理を学習するか、あるいは経文を暗唱し禅行を修め、それぞれに分業せしめ、皆、その道を得させるのである」と、書かれているところがあります。実はここのところが二つの範疇に分けられます。つまり、一つは「講論衆理」と「学習諸義」(=学・教)。これは学問のことです。二つは「暗唱経文」と「修道禅行」(=行)ですが、実は行という言葉で代表されることがあります。この二つは非常に対比的に考えることができるわけですけども、八世紀初頭の朝廷の文書でもありますが、お坊さんたちの世界というのは、実は「学」と「行」の二つの世界からなっていると認識されていることが分かります。

七、行の基本―止観(四念処→歴縁・対境)


 この伝統は、実は日本の伝統だけではなく、インドの仏教とつながっています。インドにおいても、もともとはお釈迦さまは菩提樹下で勉強したわけではなくて、実際には坐って、インドの伝統である心を見詰める観察方法の「止」と「観」と呼ばれる心の観察をして、そして悟りの世界に入られていったと考えられています。ですから、仏教の場合の「行」というのは、心を見詰めていく「止」と「観」といわれる、この観察方法が一番の基本です。それに対し、「学」といわれているのは、お釈迦さまの教えを学ぶことです。お釈迦さまが説かれた教えというのは、当時のサマナといわれる、務め励む人々といわれている人たちですが、その人たちに伝授されていたものもありまして、それと共通することが指摘されています。例えば、「恨みは実に恨みによってやまず」や、「己こそ己の寄るべ。己を置きて誰に寄るべぞ。よく整えし己こそ、まこと得難き寄るべなり」とか、短い詩文で伝えられている教えがあります。そのうちの幾つかは、サマナの中に共通に見られる教えであるという指摘がされています。

 そのような教えと、実際にお釈迦さまがお説きになられた教えを、弟子たちが全部耳で聞いて覚えて、そうしてお釈迦さまが亡くなった直後には、王舎城の郊外の七葉窟において、確認の作業をしています。現在はラジギールというところです。これが仏典の「結集」といわれるものになります。その経典をきちんと理解することが必要になってきて、いわゆる学問的な営みが生じてくるのであります。

 ですからインドにおいても、やがて出来上がってくる経典とか、規則の律とか、注釈書の論とか、こういう経律論の三蔵を勉強する伝統というのもお坊さんたちの務めとなっていきます。ですから、「学」と「行」の伝統というのは、基本的にインドからの伝統と考えることができます。実際に言葉も残っており、グランタデュラ、ヴィパッサナードゥラという名前で呼ばれます。この伝統が東アジア世界にも紹介されたときに、恐らく「学」と「行」という言い方で表現されるようになったのだろうと思います。日本に紹介された仏教も、実は経典の講説を大事にしますけれども、行の部分がまったく伝わってこなかったわけではないのです。奈良朝の初期には為政者の人たちも、当然お坊さんたちも、これは大事だよ、ということを認識しています。しかし、お坊さんの世界で出世するためには、勉強をしなければいけないという制度が朝廷によってつくられます。桓武天皇がその方向性を築いたのではないかと教えられていますが、いつの間にか日本の仏教が、学問を中心とする仏教に変わっていったわけであります。

 では「行」の部分というのは一体何でしょうか。行の基本は、止・観ということですが、観察の対象は四念処といわれるものから、東アジア世界ですと歴縁と対境というように変わっていくのですが、心の観察の仕方というのがきちんと伝わってまいります。バーリ語の経典の翻訳部分ですが、止や観というのは一体何のためにするのか、という目的がしっかり書かれているところがあります。これは『思念を発す一念処経』(中部経典・第十経)サティパッターナ・スッタという経典ですが、「比丘たちよ、ここに一本の道がある。有情たちを浄化し、もろもろの憂い悲しみを乗り越え、もろもろの苦しみ、悩みを終わらせ、正しい道(真理)を証得し、涅槃を作証するためのものである。すなわちそれは四つの思念を発すことである」。目的は何かというと、もろもろの憂い悲しみを乗り越え、もろもろの苦しみ、悩みを終わらせることなんです。仏教を信仰することによって、お金持ちになったりとかそんなことではなくて、私たちが日常の中で感じている、あるいは生み出している苦しみ、悩みを終わらせる方法だと言っているわけです。そのためはどうしたらいいのかというと、それは四つの思念を発すことだというように出てくるわけです。

 この四つの思念というのは身受心法と言われるものです。身体あるいは感受を観察し、そして心に生じる働きを観察し、かつ法と呼ばれる、ある種類の心に生じる働きを観察していくことだと出てまいります。そのうちの一番基本的なところを紹介しましょう。「比丘は森に行き、あるいは樹のもとに行き、あるいは空屋に行き、脚を組んで坐り、身体を真っすぐにして面前に思念を生起させて坐る。彼は思念をそなえたまま入息し、思念をそなえて出息する。あるいは長く入息しつつ「私は長く入息している」と知り、あるいは長く出息しつつ「私は長く出息している」と知る」と、このように出てきます。何をやっているのかというと、実際に今、自分の体が起こしているさまざまな動き、あるいは体が受け止めているさまざまな刺激を、そのままに受け止め気付いていることであります。具体的に何をしているのかというと、受け止めているのですが、心をその受け止めている対象に結び付けていることであります。心を何か一つの対象に結び付けるというのが、仏教の用語では三昧と呼ばれます。ですから三昧の実践をしていることになります。

 この三昧とは、心を一つの対象に結び付け気付くことですから、まず体の動きに結び付けることができます。これが四念処のうちの最初の身念処となります。例えば、歩くということも心を結び付ける対象になります。歩いているときには左脚、右脚、左脚と確認しながら歩いていきます。これが自分の心を一つの対象に結び付けていることになります。この練習は簡単に見えても、いざやりますと、やっぱりすぐ心がどこかに飛んでいってしまいます。そうならないように、もっと動きを細かく分けて、一つ一つを確認の対象にしていくというやり方が存在します。例えば歩くときにも、脚を上げる、それから下ろす。脚を上げる、下ろすというように気付きながら歩いたりする。もっと細かい動きになりますと、歩くときにカカトが上がる、これが一つのパターンです。だから全体が上がる、で気付きの対象にして、前に出して、ここで一回止まって気付きの対象にします。つま先を下ろして気付きの対象にします。それからカカトを下ろして気付きの対象にします。これを実際に一つ一つやりながら歩いていきます。ゆっくり歩いているように見えますけど、大事なことは、心をそこに振り向けることです。脚を上げてるところに心を振り向けて、上に上がったところに振り向けて、脚を前に出したところに振り向けて、つま先が下りたところに振り向けて、カカトが下りるところに振り向けてと、このように一つ一つを気付きながら歩いていますと、とてもゆっくりになります。

 お坊さんたちが修行の中で、お堂の中をただゆっくり歩いているのを見ていると、何であんなにゆっくり歩いているのだろうかと思われます。でも、大事なのは、心を一つの対象に結び付けることです。これは歩くだけではなくて、手を上げていくところ、下げるときも気付きの対象にすることができます。ご飯を食べるときには、おはしでご飯をつまんで、口に入れて、噛んでるのを、噛む、噛む、噛むと確認することができます。本当は言葉を使わないのが正解だと思いますが、その噛むを言葉を使わないで、心を振り向けるだけで気付くようにしていきます。これが実はとても大事なことです。その体の動きを気付きの対象にしていくのが、四つの思念を起こすことのうちの身体の「身」に関する観察になります。

 「受」は感受ですが、苦であるとか楽であるとか、苦でもなければ楽でもないとかいうように気付いていくのが「受」です。心に生じてくるさまざまな働き、例えば、怒りの気持ちでも、ねたみの気持ちでも、なんか嫌だなと思うような嫌悪の気持ちでもいいです。またいいなと思うようなことでもいいのですが、心に生じてくるさまざまな情動作用というのでしょうか、感情を気付きの対象として、自分に今そういう気持ちが生じていると気付くのが、「心念処」になります。

 最後の法念処といわれているのは、これは誰もが瞑想すると感じる、起こす心の働きです。どんなものがあるかというと、何でこんなことしなきゃいけないのだろうという疑問の気持ちが必ず生じます。それから、必ずといっていいほど、やっているうちに眠気が生じます。この眠気も気付きの対象になります。誰にでも生じるものだからというので、人間の感情なんですけども「法」という言葉で、指し示されます。

 もう一つの方法として出されているのは五蘊でありまして、外界を認識するときに私たちの心に生じている働き、これを気付きの対象にするというのが法になっています。この五蘊の教説というのは、原始仏教以来、いろいろなところにたくさん出てまいります。それだけ大事な教説だったと考えていいと思います。五蘊は、私たちの外界の認識のありようを考えると、理解しやすいのではないかなと思いますが、例えば人間の顔と一本の木があると思ってください。私たちが物を見てるというのは、目を通して光が入ってきて、その刺激が網膜を介して脳に伝えられ、それで認識される対象としてのイメージをつくるはずなんです。そうすると、それを見た瞬間に必ず判断の働きを起こします。この関係を、実は仏教者たちは瞑想の中で見つけ出し、その一つ一つの働きに名前を付けました。木だという判断の働きには、実は「識」という名前を付けました。ここのところに浮かび上がってくるイメージのところには「想」という名前を付けました。外界に存在しているものは、これ、実は「色」です。五蘊というのは、色、受、想、行、識といわれますが、私たちが物を見ているときには光刺激が入ってきて、頭の中にイメージが描かれ、何らかの判断を起こしていきます。ですから「識」というのは判断了別の世界です。

 これだけで私たちの認識が成り立っているかというと、実はそうではありません。説明できない現象を、私たちは人生の中でたくさん経験していると思います。具体的な例として、道を歩いていて、知り合いの誰かに会ったという場合を考えてみましょう。あ、誰それさんだと思って、思わず声を掛けたら全然別人だった、こういう経験はたくさんしていると思います。ということは、私たちの認識というのは、外界にあるものをそのままの形で頭の中に描いているかというと、描いてないんですね。例えば、後ろ姿を見てAさんだと思ったときには、Aさんの姿に描いてしまっている。仮にそれがBさんだったとしても、自分でAさんに描いていたということがあるんです。ということは、私たちが何かを受け止めて影像を作り上げていくときに、何らかの力が働いていると考えた方がいいのではないかと見たわけです。その働きに「行」という名前を付けました。かつ、それがAさんだと分かったという判断が起きたということは、この判断了別を起こすときにも、知っていなければいけないわけですから、過去の経験やら記憶が働いているわけです。それも「行」という名前で呼び、その作用が働いているというように考えたと思うのです。これが、実はサンスカーラと呼ばれるのですが、「行」と呼ばれる働きなのです。

 もう一つは、実際に影像があれば必ずイメージが描かれるのかというとこれもそうではありません。目は開いていても物が見えない目の不自由な方は、外の刺激があっても、頭の中につかまえられる対象としてのイメージが出来上がるためには、もう一つ「受け止める」という働きがなければならないと考えて、ここのところに「受け止める」という働きを立てました。これで、「色、受、想、行、識」という五つの働きが揃います。この五つの働きが存在しているというのが、私たち人間だというようにとらえたのであります。

 実は、それぞれの働きが、心の観察の「観」といわれる観察の方でできるようになっていくと考えられています。それはどこにあるのかといいますと、名色分離智にあるとされます。一つのものだと思っていたものが、二つに分離されるという言い方をしますが、これが認識をしている方ですので、何々だという判断了別が働くと、その対象になっているものが出来上がっていることになります。実際にはこの「行」まで含めた方がいいと思いますが、判断了別をしている働きかけの方を、これを最初に、「名」という名前で呼び、つかまえられている方は、大きく分けると「色」と呼んだようです。

 瞑想の観察をするとき、呼吸の観察をしているときに、入ってくる息を「入る」、出ていく息を「出る」、というようにつかまえて観察してくださいということがあります。そうしますとある瞬間に、入ってくる空気の流れのようなものがあって、それに対して心が「入る」というように、名前を付けているだけではないかと思われる瞬間が訪れます。この瞬間が実は名色の分離といわれまして、名前と色の分離なのです。つまり、つかまえられている対象と、つかまえている心の働きに分離されるのです。この瞬間から五蘊の働きの、最初の入り口が開かれてくる感じになり、もう少し進んでいくと、心の働きの中に、つかまえられている対象としての「想」だけではなくて、何かもっと別の働きもあるのだなと実感されるようになります。ですから、入息、出息の観察の中で、名色の分離というのが非常に重要な働きを持っています。ここに行けると、悟りの世界に少し近づいていきます。

 それで、悟りの世界に近づくときに、実は観をするとき何をしているかといいますと、実際の修行では一つのものに心を結び付けるのが基本ですので、例えば呼吸の観察だけに心を結び付けていると、次第に心の働きが静かになってきます。これは、瞑想の場合には「止」といいますので、「止」の練習をするときには歩くのもいいですが、呼吸の観察も気付きの対象にします。心を振り向ける対象の一つです。

172-9.jpg地蔵菩薩座像 湯浅瑞鳳作(22期)
 ところが「観」といっているときには少し方向を変えます。心を一つの対象に結び付けるのは変わらないのですが、現実には複数のものを見るように心を訓練していきます。例えば坐っているときに呼吸が「入る」、「出る」というようにつかまえることができます。そこに心を振り向けて、「入る」、「出る」とやるわけですが、それに今度は自分の姿勢を気付くというのが一つ加わっていきます。つまり「入る」、「出る」、「坐っている」。自分の体が坐った姿勢になっているのを気付きの対象にします。これで三つのものに気付くことになります。

 これに慣れてきたら、もう一つ気付きの対象を増やします。坐面に触れている感覚もつかまえる対象にします。そうすると「入る」、「出る」、「坐っている」、「触れている」という四つの感覚を気付くことができます。(この気付きの対象のことを業処といいます。)

 この練習をするときに、心を振り向けるだけで、言葉を使わないでやると、判断了別の識、五蘊の働きの中でいうと、最後の「識」のところが生じないように、心が少しずつ変わっていくわけです。つまり、この「識」の部分がなくなっていく方向に行きます。そうすると、どういう世界が実現してくるかというと、見ているけれども、判断了別の働かない世界が生じるのです。これが実は悟りの世界の一つになります。仏教では、これが何々だというように判断するのは分別といいますが、この分別がなくなった状態を無分別といいます。これがいわゆる無分別智につながるわけです。つまり、色形のあるものだけが映っています。だけど、それが何々だというような判断はしていません。そのような境地に入っていきます。この境地に入ったときに、私たちの心にどのような変化が生じるでしょうか。判断了別の入らない世界に居ますと、実は色と形だけの世界でして、自分と世界がつながって見えると言われます。自他の区別がまったくなくなるんです。このときに、その体験をすると、普通の認識のところに戻ってきても、実は世界の見方が少し変わって、慈しみの気持ち、悲しみの気持ち、他者とのつながりというのがしっかりと意識されて、自己を中心的に考える在り方から脱却することが現実に可能になるわけです。このときには喜びが自然と生じてくる状態だといいます。つまり、判断了別の入らない世界は、色と形だけの世界だといわれますが、その世界が体験できたときに、私たちの価値観といいますか、物の見方が変化していくのだと思います。それを仏教者たちは、観の実践の中で体得しようとしていったものだと思います。でも大事なことは、その境地をただ体験するだけではなくて、本当はこの境地を体験したときに見えてくる私と世界とのつながりとか、喜びの気持ちというところから、価値観が変わっていくことの方が大事なのです。

 もう一つは、判断了別が生じないということは、例えば判断了別が生じることによって私たちの悩み、苦しみが生じていることが分かるようになってきます。例えば音を聞いて、あなたは何でそうなの、とか悪口を言われると、その言葉を聞いて私に対する批判だ、嫌だなという気持ちがすぐ起きるわけです。それは意味を判断して、嫌だなという気持ちが生じてきているわけです。ですから、観の体験をしていますと、判断了別のところから先に進まないように心が少しずつ変わっていきます。すなわち言葉に対して、いわゆる怒りだとかそういう気持ちを起こさなくても済むように変わっていくことができます。ですから仏教が伝えてきた心の観察は、止と観といわれる、心を見詰めていく方法というのは、人間であるが故に私たちが持っている認識の構造を明らかにして、悩み、苦しみを超えて、かつ人格の完成という円満な人間をつくっていくことを可能にしているのだと思います。

 このようなことが実際に日本の仏教の中に伝わっていると考えていいと思います。まず最初に、心の働きをきちんとつかまえるようにするためには、「止」と呼ばれる集中力を高めることと、心の働きを静めるということをしないといけません。その心の働きを静め、集中力を高めていくための行法として、東アジア世界に登場してきたものが幾つかあります。それが、一つは念仏です。仏の御名を声に出して唱える。それをゆっくりと唱えるというのが、心の働きを静めていく方向に働きます。比叡山の称名念仏の伝統は、中国の善導から流れてきてるものが比叡山に入ってきまして、お念仏をゆっくり唱えるところに、心の働きを静めていく目的が見られます。

 浄土宗の中には、お念仏を唱えるということでそれを可能にしているところがあります。日蓮宗のお題目も現実にはそういう視点を持っています。お題目は、昔からゆっくり唱えなさいといわれるのですが、それは心の働きを静めていく方に働くからです。実はお題目を行の中に取り入れたときには、最初にゆっくり唱えて、徐々にテンポを速くして、それからまたゆっくりして、その後、静かに坐るというものがあります。全体の流れの中で見ていきますと、実は抑揚がついていますので、心を落ち着かせていくのにやりやすい方法であるととらえることもできます。浄土教のお念仏、あるいは日蓮宗のお題目というのは、行の視点から見ると、心を静めていく方向に使われているということができるかと思います。

 それから、禅宗において、曹洞宗の中で伝わっているものは、すべてのものをきちんと受け止めていくんだよ、ということを前提にして書かれているものがあります。例えば道元禅師の『正法眼蔵』の現成公案の中に、「仏道を習うとは自己を習うなり。自己を習うとは己を忘るることなり。己を忘るるとは万法に証せらるるなり」という有名な言葉があります。これはまさしく外界の刺激を自分がすべて受け止めていく、あるがままに受け止めていくということを多分表現しているのだと思います。それは「観」の世界につながっていくところがあります。臨済宗が主張する看話禅ですが、話頭を看る禅というのが出てきます。絶対矛盾の問題を心の中に抱き続けていく工夫として使います。例えば、「仏とは何か。庭先の柏の木。」というのが出てきますが、これ、何のために使われているかというと、意味を理解しようとして使っているのではなくて、「仏とは何か。庭先の柏の木。」「仏とは何か。庭先の柏の木。」と、心の中にずっと抱き続けていく対象として使っています。心を一つの対象に結び付けるという心一境性即ち三昧の工夫の一つとして使われていきます。

 このように、日本の仏教の中にも心を見詰める伝統というのがきちんと入っていて、少しずつ止の世界と観の世界に入れるように伝わっていたと考えていいと思います。臨済宗の工夫の中に、円爾弁円が書いた資料で、実はお釈迦さまの教えは三つに分けられるという記述が出てくるところがあります。お釈迦さまの教えには、理致機関向上という名前で呼ばれる三つに分けられる。その向上といわれるものは、公案のことですが、どんなものかというと、「水はこれ水、山はこれ山。」というように出てきます。すなわち、あるがままにとらえているということだと思います。つまり、そのままに受け止めている。かつそれは判断了別を入れてないことだと思います。やはり判断了別を入れない世界を、言語で表現しようとしているのではないかなと考えられます。

 このように見ていきますと、日本の仏教の中にも、学の部分の教えと、行という実際に体験している部分と両方が存在しています。そして大事なところは、自ら体験していくことだと思います。(終)

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