蓑輪顕量先生

日本仏教史(第28期スクーリング講義録)

2016年1月10日

一、日本仏教史上における時代区分

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  きょうは、日本仏教史ということでお話をさせていただきます。最初に、日本仏教史上における時代区分についてですが、日本仏教を考えるときに、仏教がいつ伝わってきて、それがどんなふうに展開していったのか、どんな特徴を持っていたのかというのは関心のあるところではないかと思います。


(一)伝来した仏教の展開

 日本に仏教が入ってきたのは、紀元後の六世紀から六世紀の半ば頃と考えていいと思います。最初に伝わったのは、だいたい五百年代ぐらいですが、もう渡来系の人たちの中で信奉をされていたのだと思います。実際には、司馬達等という方が歴史の中に登場いたしますが、その人が仏像を祀っていたという記事も出てまいります。それは『扶桑略記』という資料に登場するのですが、六世紀の初頭ぐらいに既に仏教や仏像とかが入っていたことは間違いなさそうであります。

 日本仏教は、お隣の国の百済の聖明王という方が仏教を伝えたということになっており、これがエポックメーキングなこととしてよく語られます。『上宮聖法王帝説』とか、『元興寺』ならびに『流記資財帳』というのがありますが、そこで出てくる年代は五百三十八年です。それから、『日本書紀』の中に伝えられる記事ですと、五百五十二年とされています。ところが、仏教が伝わるというのは、一体何をもってそのようにいうことができるのか、よく考えてみないといけない。経典が伝わったからといって仏教が伝わったといえるのか、あるいは、仏像が来たからといって仏教が伝わったといえるのか。実は、明確に仏教が伝わるというのは、その地に僧伽が出来上がって仏教が初めて伝わったといえるのだという考え方をしているところがあります。どこの地域の人たちかといいますと、上座仏教圏がそのような考え方をしております。仏教が伝わるというのは、経典が伝わることでも、仏像が伝わることでもなく、教えを信仰する人たち、特に専門的なお坊さんたちが、その地域に僧伽を形成したときに初めて仏教が伝わったといえるのだと、このように主張しております。

 実際に私も、バングラデシュに行きましたときに、まさにそのような状況が生じておりました。バングラデシュというとイスラム圏という意識が強いと思いますが、実は数え方に幅がありますが、百二十万人から二百万人を超える仏教徒の方たちがおりまして、チッタゴンという町を中心にして、仏教教団が存在していることは間違いありません。そのチッタゴンのお坊さんの集団が、そこから、何百キロか離れた地域のある町に僧伽をつくろうとしており、その地域は、昔、仏教徒がいたのですが、いつの間にかいなくなってしまって、それをもう一度復興したいのだということです。その現地の人たちが何人か出家して、そしてチッタゴンのお寺に修行に来て、最終的には自分たちのふるさとに戻って、そこに僧伽をつくった。それによって、その地に初めて仏教が伝わったのだということになるんだと主張しておられました。ですから、日本に仏教が伝わったというのが、仏教を信奉する人たちがその地に登場して、正式なお坊さんたちが僧伽の営みを始めたときに、初めて仏教が伝わったと考えることができるのかもしれません。そうしますと、五百三十八年とか五百五十二年という、仏像や幡蓋が伝わったというのは、本当の意味で仏教が伝わったとは言えないような感じがいたします。

 では、本当の意味で仏教が伝わったのは一体いつなのでしょうか。六百年代に入って初めてお坊さんたちが登場し、寺院が出来上がってきますので、七世紀の初頭と考えていいのかなと思います。そして、その後僧伽形式の生活スタイルが始まったといわれているのは、もう少し時代が下りまして、玄奘三蔵法師に学んだ道昭というお坊さんがいますが、この道昭というお坊さんのときから、正式な僧伽形式の仏教が始まったのだろうという伝承が奈良の地のお寺に伝わっております。ですので、日本に仏教が本格的に始まったのは、やはり七世紀、六百年代を過ぎてからと考えていいのではないかと思います。


(二)最初期の仏教の特徴

 最初期の仏教は、どのような特徴を持っていたのか。朝鮮半島と中国からダイレクトに入ってきたということもあると思いますが、どんな仏教であったのかといいますと、法会というものを介して仏教に接するという特徴を持っていました。法会とは、例えばいろいろな宗派では、法要という儀礼的なものをしていますよね。それらを中心として受け止めている仏教が日本に紹介されます。この法会中心の仏教の起源は、中国の南朝です。

 中国の南朝というのは、有名な宋の国とか、斉の国、梁の国、陣の国とかがあって、それから隋が統一をしていきます。梁の時代の武帝という方が、大変な仏教信者であったといわれておりますが、武帝の時代に、中国のいわば天子ですが、天の方が経典の講説をするということが出てきました。実際に経典の講説をするというのは、中国の古い儒教の伝統の中にありまして、皇帝が孝経を講説するということがあったそうです。皇帝が孝経を講説するという伝統を、仏教者たちも継承したようで、経典を講説するという営みを始めていきます。仏教の中には、基本的に修行を大事にする流れと、学問的な研鑽を大事にする流れの二通りが存在しますが、学問的な研鑽の方が、中国の南朝の仏教の特徴になります。法会という言い方をしましたが、これはだいたい経典の講説を中心にしました。お経も解説するというのが大事な営みとして行われていきます。つまり、日本の仏教は中国の南の方の地にあった仏教の形態を、朝鮮半島を介して、受け入れていったようです。

 朝鮮半島というのは、日本に仏教を伝えてくるルートの非常に重要な地でありまして、百済の時代に、たくさんのお坊さんたちが日本にやってきますが、実は南朝の影響を強く受けていたようです。それが日本に入ってくる仏教は、起源をたどれば中国の南朝の仏教のあり方を、百済経由で初期に受けるようであります。それが講説を中心とする仏教です。具体的には法会という名前で呼ばれる営みを盛んにする仏教として受け止められます。


(三)聖徳太子の登場

 最初に聖徳太子が登場しますが、聖徳太子は『法華経』や『勝鬘経』を講説したと伝えられます。天子が経典を講説するというのは、おそらく中国の南朝の梁の武帝のあり方を踏襲したのだろうと考えられます。それで、日本の仏教の受容の最初のときに、やはり経典を講説するというあり方が、お坊さんたちの営みとして入ってきました。そして、その経典を講説するというところから日本の仏教は始まります。やがて護国の三部経というのが登場いたします。経典の重要なものとして『最勝王経』や『法華経』、あと『仁王般若経』です。こういう経典を講説することが護国のために重要であると受け止められる時代というのが、まず登場いたします。これが、伝来記の仏教だと考えていいと思います。


(四)平安期の仏教

 この仏教が大きく華開いていくのは、平安期後半の院政期からです。前の時代の仏教を継承し、華開いていきます。十一世紀ぐらいに、法会を中心としてお坊さんたちの世界の営みという体系が新たに位置づけられました。あるいはお坊さんたちの世界の階級も、その法会を介して決められていくという制度が出来上がりました。実際にまずその方向性を築いたのは平安時代初期に活躍する桓武天皇であっただろうと考えられています。

 桓武天皇は、経典を講説するときに大変優秀なお坊さんが望ましいと考え、学問に秀でたお坊さんを、幹部候補生にするという制度をつくります。その制度をつくったが故に、恐らく日本の仏教界の主流が、学問的な研鑽を積むことになっていき、こういう方向性が、日本の仏教界の中にできたのだろうと推測されます。

 平安時代後半の院政期になりますと、朝廷が関与する非常に格式の高い法会ができます。実際にはもう少し前から、地域ごとの重要な格式の高い法会が存在しており、その上に院政権も関与して、もっとも格式の高い重要な法会が出来上がります。その重要な法会は、三講と呼ばれました。三講というのは、宮中で行われます宮中の最勝講。この時代も、まだ『最勝王経』が重要なものとしてよく講説されております。それから、仙洞の最勝講。仙洞とは、仙人がいらっしゃるところを仙洞といいますが、朝廷で仙洞という言い方をしますと、これは引退した上皇がいらっしゃったところです。それから、院政期の一番有名な白河上皇がつくりました法勝寺というのがありますが、この法勝寺に法華経を講説する場が設けられ、これを法勝寺の御八講といいます。


(五) 法会中心の仏教

 この三講というのが院政期のころに出来上がりまして、日本のお坊さんたちは、この一番格式が高いと考えられた法会に出仕することが、一番の名誉なことであると考えていたようです。ですから伝来した仏教が経典の講説を中心とする、法会中心の仏教を受け入れて、それが大きく展開して独自の形をつくり上げ、朝廷も関与する格式の高い法会が院政期のころに出来上がりました。いつ頃まで続いたかというと十四世紀まで、すなわち千三百年代ぐらいまで続きます。かなり長い間、三講というのが存在していたことになります。格式の高い法会に出仕して、そしてお坊さんの世界の高い位をもらうということは、ある意味で世間的な営みであったということができます。それで、その営みをしていた人たちが中心だったのではないかと捉えて、九世紀から十五世紀までは伝来した仏教が発展した形態であるとの考えのもと、名古屋市大の吉田一彦先生が、そのような仏教を古典仏教と名づけられました。


(六)遁世門の仏教

 ところが、伝来して発展した仏教が、院政期に最終的な形ができあがり、それが鎌倉時代から南北朝、室町の最初のころまで続いているのですが、実は鎌倉期ぐらいから、また違った仏教が登場してまいります。それが何であるかと言いますと、それが遁世門の僧侶による新仏教です。前から続いている営みをする人たち、出家したはずのお坊さんたちが、出世を求めて活動するという感じがあり、これはお坊さんたちの世界の世間的なものだと考えていいと思います。この世間的なところから出てしまうと、いわゆる出世間をする人たちが登場するようになります。この出世間の人たちを当時は遁世と呼びました。時には遁世門とも言われました。なお、一方の伝統的な世間のお坊さんたちは、交衆という言い方で呼ばれました。

 世間的な営みである、学問を中心に勉強して、そしてお坊さんの世界で出世していく。実際に出世してどうなったかといいますと、やはり今でも残っていますが、お坊さんの格式ばった位に、律師、僧都、僧正とかの呼び方がありますね。この称号が、実はお坊さんの世界の出世を表していたのです。この称号自体はいつ出来上がったかといいますと、天武天皇のころに僧正が確認されます。出世の階梯と結びついて、学問に優秀な人たちを選んで、そのような職や地位に任命していくという制度をつくった方は桓武天皇です。桓武天皇以降、発展していきます。実質的な機能は失っていくのですけども、お坊さんの世界の階層秩序を表す用語として使われるようになっていきます。

 ですから院政期のころからは、完全に実体を伴わない称号になっているのですが、律師や僧都、僧正、そのうち権官ができて、権僧正とか権僧都などという名前も付いてきます。さらに細かく分けて、少僧都とか、大僧都、というような名称も付いてきて、その結果、位が複雑に分かれました。十一世紀から十二世紀頃には、既にお坊さんたちの世界に階層を表す称号として、律師、僧都、僧正というのが使われるようになってきていました。法会に出仕し、位を上がっていく、そのような世界に生きるお坊さんたちが、交衆という名前で呼ばれることが普通だったのです。

 それに対して、それは変なのではないかと考えた人たちが登場してきます。このような出世の階梯に入るのを「名聞利養」を目指していると批判して、嫌った人たちです。この人たちが遁世という名前で呼ばれるようになりました。遁世の有り様というのは、早いところですと十世紀ぐらいから、そのようなお坊さんたちが登場しているのではないかと思われるのですが、典型的なものは、院政期の後半から鎌倉時代の初期にかけてです。だいたい千百五十~千百六十年ぐらいから千二百五十年ぐらいまでの、わずか百年ぐらいの間ですけども、遁世という言葉がとても注目されます。

 さて、では、この人たちは何をしていたのでしょうか。彼らは大陸から伝わった仏教、禅宗の影響を結構受けているのではないかと思われます。それ以前の仏教界には、学問を中心とした仏教の流れができていました。勿論、きちんとした修行の体系もあるのですけれども、少しないがしろにされていたような感じがします。ところが十二世紀後半から十三世紀初頭には、修行をとても大事にする禅宗が伝わってきます。その人たちの影響もあって、出世のための学問をするよりは、もう少し違った視点から仏教を考えていこうという人たちが登場いたしました。この人たちが遁世門という名前で呼ばれ、その最初期を飾る有名な人物が、実は法然上人です。それから禅宗のお坊さんである栄西や道元、叡尊などもそうです。法華宗の日蓮もそのような傾向を持っています。

 この人たちを祖とする遁世門のグループが、現代に伝わっています。法然上人を中心としたグループは、今、浄土宗という名前で呼ばれ、栄西や道元を中心としたグループは、臨済宗、曹洞宗と呼ばれています。日蓮は、歴史的には法華宗という名前で呼ばれましたが、明治以降、日蓮宗になります。叡尊のグループは、現在の真言律宗です。つまり十二世紀後半から十三世紀半ばにかけて、登場してくる遁世門の人たちの中に、グループリーダーになる人が登場して、その人を中心に新しい運動が起こっていきます。

 やがて、出世のための学問を中心とした仏教とは違った仏教を主張したこのグループが、いつの間にか仏教界の半分以上を占める、いわゆる主流になっていく時代が訪れます。その主流になった時代は、だいたい十六世紀の初頭ぐらいと推定されています。戦国時代あたりから、勢力的に逆転していくのではないかと考えられています。そして、遁世門のグループは、仏教界の主流になって現在に至るわけです。

 今、日本にお寺がどのくらいあるのか、数の上では十万ヶ寺と言われますが、実際に活動しているお寺は、約七万ヶ寺と言われています。七万のお寺のうち、道元禅師を中心とした曹洞宗のグループは今、日本全国で一万七千ヶ寺ぐらいあります。それから親鸞聖人を中心とした教団は、現在の浄土真宗と真宗、本願寺のお東とお西に分かれていますけども、この両方を合わせるとだいたい二万ヶ寺を超えます。禅宗のグループと浄土系のグループを合わせるだけで、実は七万ヶ寺のうちの半分を占めるわけです。従って現在は、遁世門系のグループが日本の仏教界の主流を占めているということになるかと思います。

 そう考えてみますと、日本の仏教は三つぐらいの時期に分けることができるのではないかと思います。まず伝来期の仏教が大変に華開いた最初の時期と、遁世門系の新しいグループができて、それが拮抗していた時期、最終的には遁世門系のグループが社会の主流になった時期という、三つに分けてもいいのではないかと思います。この時期区分は、名古屋市立大学の吉田一彦先生の区分でありまして、伝来期の仏教と古典仏教、それから最後は新仏教と、私は書きましたが、実は吉田先生は、最後のところは葬式仏教という名前を付けています。葬式仏教という名前を付けたのは、遁世門系の僧侶はお葬式を厭わずに積極的に行っていたというので、葬式が一つの特徴ではないかと考えて、葬式仏教と命名したのでした。

 でも、よく考えてみますと、古代から、僧侶の方たちは、お葬式に関わっています。平安期のお坊さんたちも、お葬式で遺体の処理には関わらないのですが、追善の供養から、亡くなられたときのいろいろな法要まで結構やっていたようです。ただ、そういうのをやると穢れが付着すると考えて、穢れが付いてしまったお坊さんたちは、公式の行事には出ないという事態が生じていました。このように捉えますと、葬儀は、別に遁世門系のお坊さんたちだけの特徴ではありません。また、これは、日本の仏教の特徴かというとそうでもありません。現在の上座部系の仏教者たちも、葬儀は大事なものとして受け入れています。実際、タイ、ミャンマー、バングラデシュでは、お坊さんたちが葬儀に積極的に関わっています。ですから人間の通過儀礼に宗教者たちが関わるというのは、これは、ある意味当たり前のことだと考えていいのだと思いますが、社会の中の宗教者が仏教者であった時には、仏教者にとって、葬儀は重要な行事だったのでしょう。ですから、お葬式が遁世門系の仏教の特徴だと位置づけることにも、少し憚れるところがあります。私は、明治以来の位置づけの如く、新仏教と捉えてもいいのではないかと思い、新仏教と名付けたいと思います。


二、中世以降の仏教の展開


 それで勢力が逆転してからの、中世時代以降の仏教が、どのように展開してきたのかというのを中心にお話をしたいと考えております。戦国時代頃から社会的にも大きな変化が起きまして、仏教界の中にも独自の動きが登場してまいります。だいたい近世というのは、いつぐらいから始まるのかというのは、歴史学の研究者によってもその設定時期が少し違います。一般的には十五世紀末の応仁の乱(一四六七年)あたりから、社会的に大きく変わっていくのではないかと言われます。また、戦国時代が終わって、安土桃山時代のころからを近世と見る研究者も多いと思います。つまり、十五世紀末あるいは十六世紀半ばころからが近世だという二つの考え方が存在しています。しかし応仁の乱が、やはり大きな転換点になっていることは間違いないと思います。


三、近世以降の仏教の展開


 その仏教界の大きな遁世門系の勢力が社会的な主流になっていくのが、近世以降、すなわち十六世紀半ば以降と考えますと、その仏教が、もともとどのような特徴を持っていたのかを位置づけておくと、新しい動きがよりわかり易くなると思います。その一つとして考えられるのが、為政者との関わりです。この点で、大きな転換があったと考えていいと思います。それは何かといいますと、古代は仏教側を「仏法」と言い、為政者側を「王法」といいますが、基本的には王法と仏法というのはお互いに必要で依存し合っている存在だと考えていました。これを王法仏法相依論と言います。立場的には、ほぼ同格みたいな感じで、宗教権力と政治権力とが対峙していたような感じがします。ところが、これが崩れてくるのが、戦国時代からだと考えられます。どちらの勢力が強くなったのかといいますと、実は王法の方です。王法が強くなって、いわば仏法界の勢力というのが王法の傘下に入るようになっていきます。

 これが、戦国時代からの大名領国制による一国支配、または一円支配と言いますが、戦国大名が、ある領域を支配するようになってから成立します。領国の中の寺院、あるいは宗教に対して、政治権力がさまざまな制約をかけるようになっていきます。それはどういうことかというと、仏法の上位に王法が付くという傾向をもったことに他なりません。この流れが、基本的に、江戸時代から明治、そして大正、昭和、平成まで、ずっと続いているような気がします。戦後は感覚的には少し違ってきているかもしれませんが、近世の江戸時代は、明らかに政治権力である幕府が宗教界の上に存在します。その中で何を仏法の方に求めたかといいますと、仏教界に社会の支配のための一翼を担わせるということが起きるようになってまいります。


(一)江戸幕府の仏教政策

 実際に、それが江戸時代、江戸幕府の仏教統制政策になっていくのですが、新しい寺院を造ってはいけないとか、あるいはキリシタンの禁制と相俟って、いわゆる檀家制度というものが出来上がっていきます。

 檀家制度とは、寺請制度というのが本来の名称ですが、お寺に民衆の支配すなわち戸籍管理を任せることでした。宗教上、仏教徒であるというのを証明する機関として、仏教界を幕府が支配するようになります。その過程にどんなことがあったのかというと、諸宗の末寺帳をつくるということが、寛永年間にありましたが、これはあまり成功しませんでした。その後、寛文年間に寺院の整理というのが各藩単位で行われましたが、この時、各藩が仏教寺院を非常に細かいところまで把握するようになり、日本全国の寺院は寺社奉行の配下に入ります。

 それは農工商の民に国の構成員としての正当性を付与する機関になったという言い方がされますが、これが寺請制度です。幕府は、キリシタンを排除していきましたので、多くの国民がキリスト教徒ではないと、お寺の台帳(過去帳)に名前が記されていることによって、お寺がその人の身分を保証したということになるわけです。

 もっとも寺請証文という言い方をされるのですが、これはキリスト教徒であった人が信仰を変えて仏教徒になったときに、お寺がこの人はキリシタンじゃないよと証明するために出した証文です。これがやがて拡大適用されていきまして、日本国民の全部が必ずどこかのお寺に所属するという形式が出来上がったということでしょう。寺請制度が出来上がったということは、実際に寺院は寺社奉行の配下に入り、幕府の支配下で、幕府が求めていたことを実行する機関として生まれ変わったことになります。つまり戦国時代ぐらいから日本の仏教界、仏法という名前を使えば、もともとは仏法と王法はそれぞれが独立した関係で動いていましたのが、王法の方が上に立ち仏法の方が下に付くようになってしまった。そうして、仏法の方が社会にとって必要なことを提供する感じで活躍するようになっていきます。


(二)江戸時代の思想的特徴

 江戸時代には、どのような思想的な特徴が出てきていたのでしょうか。この時代の特徴は戒律主義と心学重視の二つであると言われます。戦国時代が終わって社会が安定してきますと、為政者にしてみれば、人心の安定というのが一番の課題になります。争いを起こさないで、自らを律してくれるような価値観が求められます。実際に、上の立場、すなわち為政者側から下の方に向かっては朱子学がその役割を果たしたといわれます。では民衆レベルでは、実は仏教者たちによって、それが担われていたのではないかと言われています。これが戒律主義という名称で呼ばれます。政治の倫理に基づき、全人民を対象に、人倫の指導者、思想善導の牽引車としての役割を仏教界が担わされたことになります。

 この傾向は、確かに見て取れるのでありまして、江戸時代は、自らを律するという意味では、戒律を中心とした運動が何回も起きてきます。最初は明忍というお坊さんが、それから慈雲という方が登場して、戒律復興をやります。慈雲尊者は、十善戒運動を起こします。これは、怒らない、貪らない、嘘をつかない、二枚舌を使わない、おべっかを使わないなどの十善戒といわれる戒めを民衆に勧めます。これは、原始仏教の時代から存在する大事な、日常への戒めです。これが江戸時代に流行いたします。ですから、江戸時代の仏教は、民衆の心の安定と、自律的な傾向を促進するという役割を担って動いていたところが確かに感じられます。十善戒は、近世の時代の特徴になるものです。

 もう一つが心学重視です。心学は、私たちの心がとても大事であるということを主張しました。今でいうと、心の時代です。江戸時代も、心の時代みたいなところがありまして、心を重視する学問というのが展開いたします。仏教や儒教、神道がみな、心を説くものだとして同一視され、三教一致という言い方も出てきます。実際、心を大切にするということがさまざまな資料の中に登場するようになります。その一例として、仏教者の中で最初に主張したと思われる人物は、鈴木正三という方です。

 彼は曹洞宗のお坊さんですが、己心の弥陀という言い方をします。己の心の中に阿弥陀さまがいらっしゃるんだ、自分の心が阿弥陀さまに他ならないというような言い方も出てきます。


四、幕末から明治期にかけての日本の仏教


(一)心の重視

 心の重視を言い始めてからしばらくたって、今度は千八百年代初頭、江戸時代も後半に、少し世の中が乱れかけてくるのですが、このときにまた心の重視ということが盛んにいわれるようになります。そのときには、一般向けに「道歌」というものが流行して、やはり心を大事にするお話がたくさん出てまいります。注目すべき資料として、道歌『こころの姿見』や、『こころの写し画』などが存在します。とにかく江戸時代は、自律的な傾向と心を大事にしようということが叫ばれた時代で、仏教者たちもそういう方向での発信を結構していました。

 『こころの姿見』や『こころの写し画』を書いた方は、三五円月麿という、臨済宗に造詣の深い方であったと推定されます。この著作はとても面白いものですが、『こころの姿見』の中に興味深い歌があります。

「世の中は ただに座頭の丸木橋 渡る心で 渡るなるらん」

という有名な歌が紹介されています。世の中というのは、目の見えない人が丸木橋を渡るかのように、今、自分がしていることを一つ一つきちんと気づきながら過していくんだよということを詠んでいます。実は、仏教の修行の世界をとてもよく表した歌ではないかと思います。
 今、自分のしていることに注意を振り向けていくというのは、修行の中の一番基本でありますので、その基本を短い和歌に詠み込んでいるということです。それが、江戸時代の後半ぐらいには、版木によって刷られて流布していきます。貸本屋の記録にも登場しますので、いろいろな人たちが読んでいた形跡があります。やはり江戸時代の特徴の一つとして、心がとても大事にされていたのだと思います。


(二)明治維新と仏教

 そのような仏教が、明治維新を迎えますと、大変な転機を迎えます。江戸時代までは、幕府は仏教を必要としていました。ところが、明治以降は、為政者は仏教を必要としないと考えたのです。明治新政府を樹立した中心は薩、長、土、肥ですが、その人たちに大きな影響を与えていたのは、国学と水戸学でした。

 国学は、江戸時代に登場してくる純粋に日本的なものを求めた学問です。平田篤胤や本居宣長などがそうですが、最初は僧契沖という人から始まりました。国学が江戸時代に台頭し、仏教以前に戻ろうという運動を展開します。

 関わる話を一つしたいと思います。国文学の方では、九世紀の初頭に日本で最初にできた仏教系の説話文学が『日本霊異記』であり、その後に出てくるものとして、とても有名なものは『今昔物語』です。これは興福寺のお坊さんたちが、お説教をするときの題材として集めたものではないかと推定されています。いずれにしても、日本の説話文学と仏教との関わりは切ることのできないものとして存在しています。

 ところが、国学の世界では、仏教以前に戻ろうというところから始まりましたので、仏教を切り離そうとする傾向を持ちました。そして、国学の伝統の上に、今の国文学が乗っかっています。ですから、国文学には、江戸時代の国学の影響がいまだにあって、日本の文学と仏教とは切っても切り離せないと思いますが、その研究の中では意図的に切り離されてしまうところがあるのです。

 それから、もう一つが水戸学です。水戸学も、幕末から明治にかけて大きな力を持ちました。水戸学は儒学の一つですが、最初の出発点は、十七世紀、明朝の末期にありました。明が滅び、それを復興しようという運動も起きますけれども、明末の知識人たちが、混乱を逃れて日本にやってきます。有名なところでは、隠元というお坊さんです。そのころ、やはり儒学者として大変に有名な方が朱舜水先生です。先生は水戸藩に抱えられますが、水戸まで行かずに、江戸の上屋敷でずっと教鞭を執りながら、弟子たちを育てていきました。水戸学は、実は仏教と神道が一緒になっているのは不純であると考えていました。仏教と神道の習合は不純である、純粋じゃないという考え方を持っていた人たちなのですが、この人たちが明治維新のときに、精神的な指導者の役割を果たします。国も、こういう人たちの影響を強く受け、神様と仏様を分離していこうとの方向性を持ちました。それをやろうとした一番の大きな目的は、江戸幕府が密接に結び付いていた仏教界を、明治新政府が国を新しくつくっていくときの精神的な理念として使うことはやめようと考えたところにあるのだろうと思います。

 明治新政府は、基本的に仏教は不要だと考えました。それでは国民の基本的なものの考え方は何に基づいて身につけていくのでしょうか。そこで、神祇信仰に基づいて、国民の精神的なものを支えていこうと考えたようです。最初にやったことが、当時まで、仏教と神道はほぼ一緒の形で展開してきていますので、仏寺の中に神様が祀られていたり、神社をお坊さんが管理したりという例が結構あります。実際に、日本の仏教界と神道界はどんな関係だったのかというと、基本的に融合していました。中には、融合を拒んだところもありますが(拒んだのは伊勢神宮と出雲大社の二カ所です)、それらも、神仏の融合を表向きは拒みましたが、実際には集合的なものを持っていました。明治新政府は、神と仏が融合しているのはよくない、分離しようと考えましたが、歴史的には神様と仏様はかなり融合して展開してきていました。

 ここで神仏の関係について触れておきます。最初の有名なお話は、奈良朝期に神様と仏様の関係について、さまざまな物語がつくられて、神様が仏様の力によって神の身を逃れたいと思っている、などという伝承がつくられました。また東大寺の大仏を創建するときには、神様は仏様を守らなければいけないという伝承もできました。そういう神と仏の関係は神仏の習合と呼ばれました。融合といってもいいと思いますが、これが基本的に中心になっていきます。実際にどのようなあり方だったのかと言いますと、お寺が先にできたときには、そのすぐそばに鎮守社という名前で呼ばれる小さな神社ができます。ところが、最初に神社があった場合には、すぐそばにお寺がつくられ、神宮寺という名前で呼ばれます。ですから、お寺と神社というのは常に一体化して、奈良朝期の半ば過ぎぐらいからずっと展開していきます。神社の中でも、非常に大きな力を持った神社が、伊勢神宮と出雲大社だと思います。伊勢神宮と出雲大社にも同じようなものができますが、平安時代のころから離れなきゃいけないという物語がつくられるようになってまいります。

 もう一つ興味深い形の神社ができます。それはお寺と神社がほとんど重なってしまうところが出来上がったことです。これは宮寺(みやでら)という名前で呼びます。したがって日本の神社とお寺の関係は三つに分類できると思います。両者が全く重なってしまった宮寺、そして神社が先にあって後からお寺ができた時の神宮寺、お寺が先にできて後から神社ができた時の鎮守社の三つです。奈良の東大寺だとか、薬師寺、興福寺、西大寺などの場合はお寺が先で神社が後からでき、八幡さまが鎮守社になります。

 日本全国のいろいろな神社とお寺の関係を見ていきますと、だいたいお寺があるところには、必ずすぐ近くに神社があります。また大きな神社の近くには必ずお寺があります。例えば諏訪大社も、近くに神宮寺としてのお寺があります。江戸時代までの私たちの先祖の信奉は、神様も仏様もほとんど区別なく一緒にして信奉していたのだと思います。


(三)廃仏毀釈と仏教界の護法運動

 これを明治新政府は、江戸幕府がお寺と仲良くして、檀家制度や寺請制度によって支配の一翼を担っていたということを、たぶん嫌ったからではないかと想像しますが、何とかして仏教界を排除して、仏教を精神的な支柱から外そうとしたのだと思います。それで神社を中心にして、国民共同の思想的な伝統を、神祇信仰の方に担ってもらおうと考え、いろいろと動いてくるわけです。その最初が神仏分離令(明治元年三月二十八日)です。最初は「中古以来某権現或は牛頭天王之類、その仏語を以て神号に相称え神社は少なからず候、何れもその神社の由緒委細に書付早々に申し出ずべく候事、但し勅祭之神社、御宸翰、勅額等これ有る候向きはこれまた伺い出でるべし、その上にて御沙汰あるべきの候......」と言って、あと「仏像を神体といたし候神社は以来相改め申すべく候事」とあり、神・仏が一体化していたものを分離したわけです。

 ところが、明治元年の神仏分離令が出された後、実際に日本全国で、仏教を排斥する行動が起きてしまいます。寺院をあるいは仏像を壊してしまうなどの事件が起きます。そこで、明治四年三月十八日に「神仏判然は廃仏に非ず 廃毀合併は慎重にすべき件」というのが出され、「廃仏の儀にはこれなし 殊に昨冬中無録無檀の寺院にて......」などの言葉が出てきます。神仏判然令という政令では、神仏が分離されること、ただ分けたいと明治新政府は考えていたようですが、実際にはお寺を破却してしまうという場合が出てきてしまい、しかし行き過ぎだと考え、それを止めようとしたものでした。

 そして、決定的なものが、明治五年四月二十五日「僧侶の肉食妻帯蓄髪勝手たるべき件」です。内容は「今より僧侶の肉食妻帯蓄髪等勝手たるべきの事」と、「但法用の外は人民一般の服を着用苦しからざる候事」です。江戸時代までは、為政者は仏教界を必要としていますので、お坊さんたちの世界の綱紀粛正に結構、力を尽くしています。寺社奉行が存在していた時代には、問題があったお坊さんは還俗させるということが起きていました。

 ところが、明治になると、お坊さんたちの身分を剥奪することに他ならないのですが、一般の人と変わらないよと言うわけです。お坊さんたちが、肉食、妻帯、結婚してもいい、髪の毛を伸ばしてもいいよというのです。つまり、世俗の法律を守っていれば罰しませんよということをやります。これはどういうことかと言えば、明治新政府にしてみれば、仏教界は自分でやってください、新政府は特に仏教界を必要としていませんから、と言ったに等しいのです。

 それと同時に、明治四年四月二十五日に、教導職を置き教部省これを管轄するという令が出されます。「今般教導職を置かれ等級別紙のとおり相定められ候事」とあります。この教導職へ教則三条が公布されます。それが「第一条 敬神愛国の旨を体すべき事」、「第二条 天理人道を明らかにすべき事」、「第三条 皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事」という内容でした。明らかに、神祇を中心とした世界をつくっていこうとの方針が打ち出されてくるわけです。これに対して仏教界がそのままでいたのかというと、決してそうではありません。「護法運動」などさまざまな運動が起きてまいります。その中で、どういう傾向を仏教界が持つようになるのかというと、明治以降の仏教界は、社会的に有用であるということを自ら示そうという方向性を持ってくるような感じがいたします。廃仏毀釈と仏教界の護法運動―神仏判然令から大教宣布へ―ですが、以上のような流れが存在していました。


(四)仏教界からの運動ー護法運動の勃発

 護法運動の一例をお話ししたいと思います。そういう廃仏運動に対して、浄土真宗の島地黙雷という方が、護法運動を起こしていきます。そして『三条教則批判』を書き、政教分離や信教の自由を主張しました。神道の下にあった仏教の再生、大教院からの分離を図ったといいますが、神道が仏教の上に立つという状況で進められた改革に対して、反旗を翻しまして、仏教界は独自の路線を歩み始めます。その中で何を目指したのかというと、仏教は社会的に有用であるということを示そうという方向に動いていきます。


(五)仏教界内部の動向

 それから、もう一つ明治以降の流れの中で興味深いことは、いわゆる高等教育機関の中で、仏教親派の人たちが現れて、その発言が社会に大きな影響を与えたということです。その一つとして有名なものが、村上専精という方が登場して、大乗仏説論批判をやりました。大乗仏説論批判とは、江戸時代から少しずつ出てきていますが、大乗仏教はお釈迦さまが説いたものではない、という主張が登場し、それを通常、「大乗非仏説論」といいます。

 江戸時代に富永仲基という方がおり、彼は、黄檗宗の寺院に出入りをしていましたが、一切経の開版事業に関わっています。これは、日本人のお坊さんで鉄眼という方が興した事業です。日本で初めて仏典のすべて、一切経といいますけども、これを版木に起こして印刷し、仏教を広めようとします。富永仲基は鉄眼の一切経の開版事業に関わっていたといいます。そして、大乗仏教は、お釈迦さまが説いたものではなくて、後代の人が付加して出来上がってきたものではないかと、非常に学問的な立場に立って主張を始めます。

 この「大乗非仏説論」は、それ以降、日本の仏教界の中で大きな問題点になっていきます。これに対する反論みたいなものを、東大のインド哲学科の初代教授の先生であり、浄土真宗のお坊さんであった村上専精が、正面から取り扱います。そして、この批判をどう切り抜けていくかということをやります。

 村上専精は、大乗非仏説論というのは、これは歴史的な問題であって教理的(思想的)な問題ではない、よって大乗は仏説であると説きました。つまり、歴史的には、大乗仏教はカピラで生まれてクシナガラで亡くなった、あの仏陀が説いたものではない。しかし、仏教思想の中で考えれば、思想的には仏説である、大乗の経典が述べていることは、思想的に考えていけば、歴史上の仏陀が説いた延長線上にあるので、それは仏説と言うことができるのではないか、という非常に興味深いことを言っています。

178-9.jpgブダガヤ大菩提寺大塔
 この評価は分かれますが、大乗は仏説であるということを主張して、『大乗仏説論批判』を書き、その後『仏教統一論』も書くのですが、非常に大きな展開を見せます。これが明治期の大きな動きの一つとして存在していると思います。

 もう少し時代が下って、明治の半ば過ぎから大正にかけて、後に名を残す有名な人たちが登場して仏教界の中で活躍いたします。田中智学清沢満之です。この二人は、時代的にもほぼ重なっていますが、明治のころの仏教界で非常に大きな影響を与えた方です。田中智学は日蓮宗系で、清沢満之は真宗大谷派です。日蓮宗と真宗の特徴として、どちらも、実は「信」を強調します。仏教の中で大事なものは何か。真宗は、阿弥陀さまの本願が成就しているから、私たちは、もう救われているのですよ、というところから始まっていきます。日蓮宗は、法華経の教えが一番尊い、法華経を信じなさいといいます。南無妙法蓮華経を唱えれば、皆さん救われますよ、という言い方をします。どちらも「信」を強調する宗教が、明治の世の中で非常に大きな影響力を持ちました。これが、私たちが仏教を理解するときに、「信」を中心にして考えるという傾向を生み出した原因の一つではないかと思います。仏教は、別に「信」だけではありません。「学」「行」を大事な視点として持っている宗教でもありました。本来は学問的なものと修行、この二つが常に一体として両方が存在して展開していくのが、仏教のあるべき姿であると捉えられてきたのが、歴史的にはたぶん主流だと思います。

 インドの世界でも、学問的な研鑽を大事にする人たちと、心を見つめる修行を大事にする人たちの二つの流れが存在しています。中国の世界でも、学と行というような言い方が存在して、両方大事にしています。日本に伝わった仏教も、基本的に学と行という二つの視点を持っていたようです。でも強調されるのは、平安時代の初期から学問の方になり、かつ明治のころに活躍する田中智学や清沢満之のお二人が「信」を強調するので、ますます「学」を中心とする方向に流れたのではないかと思います。


(六)戦争中の仏教界

 明治以後の仏教は、明治新政府から、基本的に国民教導のための思想提供者という役割を、公には外されたような感じがありますので、仏教界は仏教界できちんとしたものを持っているのだということを主張して、社会の役に立とうという方向で、いろいろな運動をしていく感じがいたします。その一つが、実は戦争協力なのではないかと思います。

 仏教教団の生存をかけた行動だったという評価をする人もいます。当時は協力をする人も居ますが、仏教思想から考えて、戦争はいけないと、反戦運動をした人たちも登場いたします。ところが、多くが実は戦争に協力するという形をとりました。これは明治期に政府から突き放された仏教界が、社会の中で有用であるということを、やはりどこかで示そうとした、その風潮が強かったからではないかと思います。

 例えば日露戦争のとき、本願寺派の法主だった大谷光瑞師の宣言というのが残っています。「帝国未曾有の事変に挙国一致で対処すべき 真宗門徒は兵役や軍資募集などに積極的に応じ 国民として王法を守るよう」、こういう宣言を出したりしています。

 あるいは、協力したお話がいろいろな資料に残っています。「この戦争が仏教の殺生戒とは矛盾しないこと、平和のための戦いであること、慈悲の精神から捕虜や非戦闘員を助けるべきこと、そして恐怖心が湧いたときは南無阿弥陀仏を唱えよ、国家のために死ぬのは名誉であり、靖国神社にまつられるのは身に余る幸せである」という説き方がされたりもしていました。

 このように国家が要求しているものに、積極的に呼応しようとした動きもあれば、逆にそれはおかしいのではないかと反対の立場に立つ人たちもいました。反戦論者として有名な人として、高木顕明と井上秀天がよく挙げられます。井上秀天は、曹洞宗のお坊さんだったといわれていますが、「平和は宗教の理想、目的であって、宗教的な根帯なき平和論は、真に地上に平和を求めんとする善良なる方法としては、あまり価値あるものではない」という言葉を残しています。戦前の社会情勢を見ていきますと、やはり戦争に協力せざるを得ないという状況の中で、仏教界も協力をしていったというのが、実情であったのだと思います。


(七)戦後の仏教界の歩み

 戦後は、それを反省するところから始まっていきます。有名なところでは、一九四七年に全日本宗教平和会議が開かれます。「我らは昭和六年九月満州事変以来の軍国主義的風潮を阻止することができず、......慚愧に堪えないところである......我らはかかる凄惨なる戦争の勃発する以前に、身命を賭しても平和護持の運動を起こし、宗教の本領発揮に努べきであった」という、大変な反省文を出すところから始まっています。

 戦後の仏教界を眺めてみますと、それぞれの宗派が集まって連合組織をつくるという傾向があるようにも思います。そのうちの一つとして注目されるのは、全日本仏教会です。やはり戦争に対する反省というものがあって、さまざまな国の人たちと交流しようとする運動を起こします。国際的会議の開催ということですが、いろいろな国際会議が開かれるようになります。中には、インドのネール首相の提唱に応じて、インドに多くの国々の仏教徒が集えるような場所をつくろうというのがありました。日本も協力して、昭和四十年代に入ってから施設をつくったりしています。

 それから、各宗門がそれぞれ檀信徒の方を対象にして新しい運動を起こします。真宗による同朋会運動や門信徒会運動、浄土宗知恩院のおてつぎ運動など、各宗派のさまざまな改革運動が登場します。そういう戦後の半世紀があって、そして、最近注目されることとしては、千九百九十年代より上座系の仏教が日本の社会の中に紹介されるようになってきたことではないかと思います。ミャンマーに、レーディ・サヤドー、マハーシ・サヤドーという方がいたのですが、マハーシさんが中心になって教えた、心の観察の方法というのがあるのですが、そういうものが東南アジアのお坊さんたちを介して、日本の社会に入ってきています。またスリランカのお坊さんで、スマナサーラ師は、マハーシの方法をかなり踏襲しているようです。したがって千九百九十年代から、仏教の行に対する関心というものが少しずつ生じているのではないかという気がいたします。

 それから、これは私の個人的な見方に過ぎませんが、明治維新以降、日本の仏教界がもった特徴は何かというと、社会の中においてどのような働きをすることができるかという視点が、お坊さんたちの中に強く持たれるようになったことなのではないかと思います。自覚しているかどうかは分からないと思いますが、社会的な貢献みたいなものを、かなり仏教者の方たちが意識しているような気がいたします。

 その一つの典型が、二千十一年に起きた東日本大震災ではないかと思います。このときの宗教者の方たちの活躍というのは、大々的には報道はされませんけれども、なかなか大変なものがありました。また仏教界の団体(全日本仏教会)が、十一月十四日に「脱原発宣言」を出しています。これらはかなり社会的な意味合いを持っていると思います。

 つまり、明治以降の日本の仏教界は、社会に対して何らかの関与、有用な働きをしなければいけないという意識を強く持って、かつ社会に関与していこうとの姿勢を強く持っているのではないか、と思われます。

 実際に社会に関与していこうとの傾向が、明治以降強く出たのにも背景があったと思います。恐らくは戦国時代の為政者と、王法と仏法の関係において、王法の方が上に立つようになった時代以降に、顕著に出てきているのではないかと思います。そういう点から見てみますと、社会参与あるいは社会関与の仏教というのが、近世以降の特徴ではないかと思います。

 どんな形で関与していくのかということが実は問われているのだと思います。精神的な部分で関わっていることが大事だと考えるのか、具体的に社会的な活動として動いていくのが大事だと考えるのか、の相違です。これは、これからの課題でしょう。

 社会関与の仏教というのは、エンゲイジド・ブッディズムという言い方でいわれることがあります。エンゲイジド・ブッディズムの中にも、実際に、社会的に社会に関与するソーシャリー・エンゲイジド・ブッディズムと、精神的に社会に関わるスピリチュアル・エンゲイジド・ブッディズムとがあると言われます。社会的に関与するのか、精神的に関与するのか、この二つがあるのではないかというのは、今、現在の指摘です。両方があっていいと思いますが、仏教の仏教らしいところは、恐らく精神的に関与することだろうと思います。

 実際に、どうやって悩み苦しみを超えていくのでしょうか。私たちが持ちがちな、自己を中心として物事を考えていく、いわゆる自己中心性をどのようにして脱却していくのかというのが、仏教が目指していた一番大事なところだと思います。自己中心性を脱却することは、個人にとっても大事なことでしょうし、それをまた、社会の人たちの中にも広めていくという点で社会に関与していくのが、たぶん望ましい形なのではないかと思います。
 
結語 六世紀から二十一世紀の現代まで話をさせていただきました。伝来期の仏教が展開し、法会中心の仏教が花開いたこと、名聞に対する反省から遁世門の仏教が生じ、やがて仏教界の主流になったこと、近世以降の為政者との関わりの中で、仏教自身が社会と積極的に関わる傾向を持つようになったこと、そのような歴史的な経緯のもとに現在の仏教のありように至り着いているのではないかと思います。(終)

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