蓑輪顕量先生

日本仏教史(第30期スクーリング講義録)

2018年4月10日 仏教文化190号

はじめに~マインドフルネスと仏教

 最初に研究を始めたころ、インド哲学、仏教学という分野以外の研究者の方たちと、日本の仏教について共同研究をする機会をいただきまして、日本の仏教は本当に学問を中心とする仏教が主流として継承されていったのだなと実感するようになりました。それと同時に、中世の時代のお坊さんたちで、修行道についても一言残している方たちが出てまいりまして、仏教の修行をどの様に理解すればいいのかということも関心として持つようになりました。その結果、仏教の瞑想と、最近市民権を得つつ有るマインドフルネスに関心を持ち、いろんな資料を見たりしています。また、実際に修行を体験しながら考えるという感じで研究を進めております。

 ちなみにマインドフルネスと仏教の瞑想は重なっている所がありまして、仏教の瞑想の中で観といわれている観察方法があるのですが、それが今のマインドフルネスという名前で呼ばれているものと基本的には同じものです。気付きは同じなのですが、仏教の方はもう少し幅広く、慈悲とか、社会的な視点みたいなものを持っています。しかし、マインドフルネスの場合には、自分の心をどう整えていくのか、ストレスを低減させ、悩み苦しみを超えていくためにはどうしたらいいのかという、テクニックに焦点が当てられているような気がします。

 仏教の伝統は智慧と慈悲という二つの柱があるのですが、マインドフルネスは智慧のほうを大事にして、慈悲の部分が追いやられてしまったようです。マインドフルネスによって心が整えられていくと、実際に自らの心にいろんな思いが生じても、それにこだわらずに流していけるようになるというのは、確かにそのとおりだと思うのですけれども、使い方を間違えると非常に危ないと思っています。例えば、マインドフルネスは今、企業で結構はやっていますけれども、企業の業績が上がりますよということでやるとか、あるいは、何があっても、自分の心が動かなくなります、悩むことがなくなりますよ、ということで軍隊の中で人を撃たなければいけない時に撃てるようになります、あるいは撃っても悩まなくてもよくなりますよという方向に使われる危険性があるのですね。

 それを仏教は心得ていたように思います。他者を考えて、慈悲がいかに重要な役割を持っているのかを意識していて、心の観察の中で、共に他者に対する慈しみの気持ちを身に付けていけるように工夫をしているような気がいたします。そういう点から考えますと、ただ自分の心を見つめればいいというマインドフルネスには、若干疑問を感じる部分があるんじゃないかなと思います。 




一、伝来期の仏教

 日本仏教史とは全然関係ない話から始まりましたけど、どのような流れがあったのかを、まず、最初にお話ししたいと思います。日本に仏教が入ってくるのは紀元後の六世紀です。大体六世紀の半ば頃までは、日本に渡来系の人たちを介して仏教が伝えられたと考えられています。エポックメーキングな事件として語られているのは、百済の国の聖明王という方が、仏像や幡蓋を五三八年、または五四八年、あるいは五五二年に伝えたといわれております。しかし、それ以前から仏像を祭ったという記事が見えてきますから、おそらくは六世紀の半ば前後あたりのころから、もう何らかの形で仏教が伝えられていたことは間違いないようです。

 ところがそれを祭るべきかの議論が宮中の中で起きます。まず、欽明天皇が臣下に諮り、議論が起きて、蘇我蝦夷が祭りましょうと、物部守屋のほうは、祭らなくても良いという進言をしたんだということになっています。蘇我氏が仏像を祭って、しばらくすると疫病がはやります。それに対し、物部氏は仏像を祭ったからだとして天皇に申し上げます。結果、仏像を破却するということが通ってしまいます。そして、物部氏は、蘇我氏の邸宅を襲って邸宅を焼き払い、仏像は難波の津に捨てたということになっています。

 当時の都というのは飛鳥の地ですから、現在の橿原神宮から東側の山裾の所辺りが飛鳥の地です。ということは結構、内陸部なんです。そこから難波の津までは、かなり離れています。ですから、もし仏像を壊すだけであれば、仏像もその近くに捨ててしまえばよかったはずですが、なぜかわざわざ難波まで持っていって捨てているんです。記録の上では。これは意味があるのだろうと研究者の人たちは考えるようになりまして、おそらく当時の人たちは、朝鮮半島からもたらされた仏像が病の原因になった、いわゆる疫病神として仏像を考えたんじゃないかと解釈するようになりました。そこで外国から来た疫病神は、神様ですから、神様と同じようなものとして考えて、百済の国に帰ってもらおうと思って、わざわざ難波の津まで持っていって海に捨てたと考えるのが良いのではないかという説が出されるようになりました。

 それから、最初の段階で欽明天皇が、祭るべきか祭らざるべきかを臣下に問うたというのも、これも理由があるんだろうと考えられるようになりました。それは、神様を祭る、そこにおけるあるルールみたいなものが関係していたのではないかと言われるようになりました。親祭することができるのは直系の子孫でなければならないという原則が、この時代に既に存在しただろうと考えられています。直系の子孫でなければその神様を祭ることはできないという考え方に基づき、朝鮮半島の百済から伝えられた仏像に対して、天皇は自分で祭ることはできないと考えたのではないか、そこで臣下に任せたのではないかと考えるようになりました。これは委託祭祀と言いますが、臣下の人に諮って、蘇我氏に祭らせたのではないかと、最近では考えられています。ですから、初期の段階では、仏像等が入ってきましたけども、仏教が伝わったとは言えないようなところがあるような気がします。

 実際に仏教が伝わるというのはどのようなことかといいますと、その地にお釈迦様の教えを信奉するお坊さまたちの集団が出来上がったときが、仏法が初めて伝わったのだという考え方が存在しています。現在の東南アジアがその典型でありまして、サンガが別の地域に成立することをもって仏教が伝わったと言っています。仏像がそこの地に行ったから仏教が伝わったとか、経典がそこの地にもたらされたから仏教が伝わったとは考えていないんですね。その地においてお釈迦様の教えを信奉する専門的な宗教者、いわゆるお坊さんが複数、それもサンガですから、四名以上ですが、仏陀の教えを信奉して、それを実践しているお坊さまの集団がその地に成立して初めて仏教が伝わったと考えています。

 確かにそのとおりで、例えば今、立派な仏像がアメリカの博物館に展示のために運ばれたとして、それで仏教が伝わったとは普通、言わないですよね。経典がどこかにもたらされても、その経典が持っていかれたにしても、ただ積んでおかれたのでは意味ないでしょうし、経典が場所を変えただけでは別に伝わったとはいえません。結局お釈迦様の教えを信奉する人が生まれて、そこに専門のサンガが出来上がることによって初めて仏教が伝わったんだと、東南アジアの人たちは現在でも考えておられます。

 そのような観点を日本の仏教の古代に適用してみますと、実際に仏教サンガが出来上がって、お釈迦様の教えを曲がりなりにも信奉するようになったのはいつ頃かといいますと、五八〇年頃からです。日本で最初の寺院であります飛鳥の地に法興寺ができるのですが、法興寺が出来上がったときに、実際にサンガも出来上がっているようでありまして、五八〇年代ぐらいに初めて日本の地に仏教が伝わったと考えて良いのではないかと思います。仏教の独自性をきちんと理解し受け止めたかというと、初期はそうではないような感じがしますが、七世紀の初頭、聖徳太子が登場いたしますと、それなりに仏教の理解が進んでいくような気がいたします。

 そして、七世紀の第二四半世紀すぎに中国で三論宗という名前で呼ばれた教学が入ってきます。それから少し遅れて法相宗、この二つが七世紀のころの日本のお坊さんたちによって修学されていた内容であることが分かります。三論宗というのは三つの典籍に基づいた教えです。『中論』、『百論』、それから『十二門論』といいますが、この三つに基づいて、出来上がってきます。聖徳太子のころに、聖徳太子の先生になります慧慈、慧灌等が三論の資料を持ち込んできていることが知られますので、最初に日本に入ってきた仏教は、教学的には三論宗といえます。なお『大智度論』も共に修学されていることが特徴の一つです。

 その次に入ってきますのが法相宗です。こちらは日本人のお坊さんで道昭という方が、三蔵法師で有名な玄奘三蔵の所で学んで伝えます。この頃の宗というのは教えという意味なのですが、その教えが少しずつ修学されていきました。

 このように、日本の初期の段階では三論宗、法相宗が入り、この二つの教学に対する研究が始まります。この時代の勉強の仕方は、優秀なお坊さんがいろんなお寺に居られて、それぞれ個別に経論を持っていたようでありまして、関心のある他のお坊さんたちは、その先生の所に行って、経論を借りて読ませていただくという感じの勉強であったようです。そのような先生の所を、実は「師所」という名前で呼んでいます。当時としては非常に貴重な資料ですから、いろんなお寺に沢山の本があったわけではありません。例えば奈良の地の道昭の法興寺の禅院には結構、経論がありましたけども、それ以外の地域の所では、誰々先生の所には、何々という本があり、それに関する勉強をしようと思ったら、その先生の所に行かなければならなかったようです。

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   東大寺・南大門
 少し時代が下り、八世紀に入りますと、官立の非常に大きな寺院ができます。それが東大寺です。東大寺ができたときに、実は修学の体系がちょっと変わります。東大寺でさまざまな教義が勉強できるように国のほうが状況を整えていきます。それぞれの教えの学べる場所として「宗所」というのを作るんです。東大寺の中では六宗厨子というものが有ったことが分かっていまして、このお厨子の中に律宗、倶舎宗、成実宗、三論宗、法相宗、それから華厳宗ですが、それぞれの宗の基本的な典籍が収められたと考えられています。どうも八世紀の半ばくらいに「宗所」という場所ができ、ここも学びの場になっていったようです。

 九世紀に入りますと、天台宗と真言宗が新しい宗として登場します。そして、特定の寺院において、それらの教義に関する専門的な修学ができるような場が出来上がってきます。このように見てみますと、日本の仏教は、伝来の当初から九世紀の最初ぐらいまでは、おそらく唯一、師所といわれる場所で勉強し、この形態が基本になるようです。やがて、それぞれの宗についてまとまった形で勉学ができるような「宗所」といわれる所で学ぶようになってきます。宗所が出来上がるくらいまでが、おそらく日本の仏教の伝来期で、資料もあまり残されていない時期であります。

 宗所が成立して、それぞれの宗に関する勉強が集中的にできるような状況が整ってきますと、日本人僧侶による専門的な注釈書も作られるようになってきます。専門的な注釈書が知られるようになるのが八世紀の後半からです。七八〇~七九〇年代ぐらいから、漸く日本人の僧侶による資料が知られるようになってきます。八世紀ぐらいまでは、ある意味で伝来期の仏教で、まだきちんと理解するのが精いっぱいという感じなのかなという気もするのですけれども、あまり大きな展開がないまま、経典が必要なものとして受容されていた時代というのが伝来期の仏教だと思います。




二、古典期の仏教

 その次に出てくるのが平安期以降の仏教です。これを古典仏教という言い方で呼ぶことがあります。古典仏教の時代は日本独自のものが華開いていった時代ではないかと思います。実際にどんな特徴を持っていたのかと言いますと、経典の講説と、論義というのですが、経典の内容についての議論を構成要素とする法会が、存在したことです。

 現在、私たちが仏教に接する際、一番身近にあるのが法会です。お正月に寺院で様々な行事がありますが、経典の読誦や祈祷などというのがありますけども、そういうのを総称して法会ということができます。経典を読んで解説をするという法会も古代には存在しています。それから、その内容について質疑応答を行うというものもあります。これは論義法会と呼ばれます。論義は基本的に一対一で議論するものです。また複数の僧侶のなかで議論するようなものは談義と呼ばれます。

 これ以外にも、例えば悔過のための法会、すなわち過ちを悔いるための法会が存在しています。このように、様々な法会を大事にするのですが、これが伝来期の仏教が持っていた特徴ではないかと思います。そしてその形態が発展いたします。これが古典期の仏教と呼んで良いのではないかと思います。経典の講説に伴って論義が行われて、そのための修学として談義が行われる、法会を中心として仏教が見られるという特徴が日本の古代から始まって、古典期の仏教の中でも大きな特徴になっていくのだと思います。

 実際に論義や談義を通じて、教義の研さんも行われるようになっていきます。談義というのは、一人の指導者の方を中心に周りにお弟子さんたちが集まって行う形式と、同等の立場で議論する形式の二つがあるのではないかと考えられます。談義を専門にしながら修学をする場所が成立していきますが、こちらは「談所」という名前で呼ばれるようになっていきます。

 ですから、日本の仏教における学び場は面白い展開をしていると位置づけられます、最初が「師所」、それから「宗所」、そして「談所」というように、みんな二文字で、下には所という字が付いています。もっとも基本は師のところ、すなわち「師所」でしょうが、やがて「談所」と呼ばれる所で勉強するように変わってきます。談所は、最初は天台宗の中で院政期ぐらいには登場してきているような気がします。鎌倉時代の半ばすぎぐらいには新しい運動が起きてきますが、そこでも「談所」という言葉が登場します。江戸時代になると、談所というのが名前を変えまして、檀林というのが出来上がりました。ですから、師所、宗所、談所、そして檀林と、学びの場の展開が有ったようです。なお古典期の仏教というのは九世紀から十六世紀初頭頃まで続いたと考えられます。




三、身分階層と遁世

 古典仏教の特徴は法会ですが、実際には法会の場でさまざまな論義をしたりとか、あるいは経典の講説、唱道といいますけども、唱道をしたりとか、学問的な研さんの成果を披露するような場でもありました。それをつつがなくこなすことができた優秀な、学問に秀でた僧侶の方々が、僧侶世界で出世するという体系ができていたのが古典期の仏教です。

 さて、古典期の仏教の特徴の一つに身分階層の分化もあります。学侶と禅侶、学侶が身分的に上位で、禅侶(時には堂衆とも)の上に立ちますけれども、身分階層が出来上がってきます。そして、また一方で、出自による階層の区別というのもできます。貴種、良家、凡人という区分ですが、院政期頃から見ることができるようになります。ですから、中世の時代の仏教は、私たちのイメージする仏教とは結構、違っていて、お坊さんの中にも身分階層が存在し、特に天皇家出身の僧侶は、非常に高い格式を持っていて、僧侶世界の上位を占めるような感じでありました。

 そのような中に新しい動きが登場します。それが遁世です。遁世というのは世をはかなんで世から逃れるという感じのものが最初です。山中にこもるとか、世間から離れていれば、それでも遁世みたいな感じで出てきます。ところが中期になりますと、名聞利養を離れていくお坊さんたちが登場します。寺院社会における出世から一線を画した僧侶が登場してきまして、この僧侶が遁世の僧侶と呼ばれるようになっていくんです。これが十二世紀の後半から十三世紀の中葉ぐらいまでです。つまり院政期の後半期から鎌倉時代の中期頃までしょうか、この時代の遁世といわれる行為がとても注目されます。寺院の僧侶の多くが、特に学侶系の僧侶ですけども、出世につながる法会に出仕することを当たり前にしていた時代に、そんな出世につながる法会には出ないと、その代わり別の道を歩む方々が登場して、その人たちが遁世の僧侶だと呼ばれるようになっていきます。

 少し時代が下ると、そのような僧侶のことを、遁世者または遁世門という名前で呼ぶようになっていきます。ですから、遁世というお坊さんの個人的なありようが社会化されて、お坊さんの一つの身分みたいなものとして認知された時に、遁世者とか遁世門という言い方がされるようになったのではないかと思います。

 どういうのが遁世者の仏教になったかといいますと、実は今私たちが鎌倉新仏教という名前で呼んでいるお坊さんたちも、ほぼ皆さん遁世者の出身者です。浄土宗の法然さん、真宗の親鸞さん、禅宗の道元さん、日蓮宗の日蓮さん、もう一つ、禅宗の栄西さんとか、時宗の一遍さんとか、こういう人たち、みんな遁世のお坊さんたちです。ですので、古典期の仏教が盛んに行われていた時代に、遁世という営みが生じてきて、その人たちの教えや活動に賛同するお坊さんたちが少しずつ増えていって、そして、遁世者系の僧侶と、伝統的な僧侶の勢力が入れ替わる時代がやがて訪れます。




四、新仏教の隆盛

 この入れ替わる時代が大体十五世紀から十六世紀ぐらいです。時代区分でいうとだいたい戦国時代だと言われます。戦国時代頃に法会を中心とした伝統的な僧侶たち、それから遁世をした僧侶たちのグループが勢力的に逆転して、遁世者系の仏教者が日本仏教界の中で過半数を占めるようになります。それ以降は遁世者の仏教が中心になった時代と言っていいでしょう。遁世者の仏教の中の代表格が、実は浄土系の浄土真宗と、禅宗系の中では曹洞宗です。

 ちなみに現在日本に存在しております寺院数というのは約六万五千といわれています。六万五千のうちの約一万七千が曹洞宗の寺院です。それから、浄土真宗系が、東西の本願寺やその他の流派を合わせますと、二万を少し超えます。ですから、禅宗系と浄土真宗系を合わせただけで四万位になりますから、六万五千カ寺のうちの四万カ寺は遁世者系の仏教者によって占められていることになります。ということは、日本の仏教は、伝来期の仏教から新しいものが生まれてきて、それが遁世者系の仏教ですが、これが社会の中で大きな勢力になって、現代に繋がっていると考えれば良いのではと思っています。




五、仏教の二つの柱~学問と修行

 一つ言い忘れてしまいましたが、法会を中心とした仏教というのは、実は日本だけの特徴ではありません。中国の南朝にもあります。中国の南朝は、今の浙江省からその少し上ぐらいの所までがその版図でした。山東半島を経由して朝鮮半島にすぐ繋がっています。そして海を挟んで隣同士の関係になる百済と南朝の梁は、とても親密な関係にありました。日本に初めて仏像等を渡した百済の地は、実は南朝と密接な関係にあって、南朝の仏教が百済に大きな影響を与えていたことが分かっています。ということは、中国の南朝の仏教が百済経由で日本に入ってきたことになります。そして、その仏教の特徴が法会を中心とする仏教でした。北朝の仏教には修禅の伝統があったといわれます。

 ですから、日本の仏教は、伝えられた当初から法会を中心とし、経典を講説することが大事にされていました。経典の講説のためには学問をしなければなりません。このような仏教を学解の仏教と言うことがありますが、この学解の仏教が主流として継承されていくことになるんだと思います。ただ、修行の伝統がなくなったかというと、決してそういうわけではありません。道昭が伝えた仏教が修行を大切にしたように、日本の仏教の中にも基本的に修行の伝統が存在しています。南都系の法相宗や三論宗にも存在していますし、天台宗とか真言宗の中にも修行が大事なものとして存在しています。でも、伝統的に経典の講説をする学解のほうが正面に出てしまいます。

 古代に学問と修行という二つの視点から仏教が捉えられていたことを伝える資料が、『続日本紀』の養老二年の中の記述に出てまいります、十月十日の僧綱への布告です。そこに、およそ僧侶たちを浮遊させてはいけないと書かれています。これは遊び歩かせてはいけないという意味ですね。僧侶はさまざまな教理を講論して、さまざまな義理を学習するか、あるいは経文を暗誦し、禅行を修め、それぞれに分業せしめ、皆その道を得るのである、という記述が出てきます。出家僧侶のありようとして、教理を講論して、さまざまな義理を学習するか、あるいは経文を暗誦して禅行を修めるというのが考えられています。経論を暗誦するというのは、修行の中の一つとして位置付けられています。でも、ここに存在している価値観は、学問と修行が仏教の中の二つの柱ですよということだと思います。つまり、日本の仏教も確かに学問を中心として流れていくような歴史がありますが、内部においては基本的に学問と修行という二つの柱が常に存在していて、それを大事にしていかなければいけない、というのがあったことが分かります。




六、行の基本~「知」と「念」

 次に、少し脱線のような感じですけども、行の基本は一体何かという点に触れておきたいと思います。実は、初期仏教以来、四念処が一番大事なものだったと考えられています。それは私たちの心の働きを観察していくことです。最初は、心の働きをさまざまなものに結びつけていくことです。パーリ聖典のサティパッターナ・スッタの中に出てくる表現ですが、『比丘たちよ、この道はもろもろの生けるものが清まり、愁いと悲しみを乗り越え、苦しみと愁いが消え、正理を得、涅槃を目の当たりに見るための一道です。』とあります。

 この文章は非常に面白いと思うのですけれども、修行が何のために行われているのか、その目的が「愁いと悲しみを乗り越えて、苦しみと愁いが消えて、正理を得、涅槃を目の当たりに見るためのものだ」と記されているんですね。

 最初に言いましたマインドフルネスの目指しているものと殆ど同じです。その内容が次の記述です。『すなわちそれは四念処です。四つとは何か。ここに比丘は身において身を見続け、熱心に正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と愁いを除いて住みます。』

 四念処の最初に出てくるのは、身念処、身体を観察するというものですが、「身を見続け、熱心に正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と愁いを除いて住みます」と出てきます。つまり、修行の中で大切なものは、正知と念をそなえて観察し続けることだと言っているんです。

 私たちは、漢字の世界に生きていますが、「知」という働きと、「念」という働き、どこがどう違うのか、なかなかに難しい問題を含んでいるようですが、念というのは、英語ですと、メモリーとか、リメンバーなんて訳されています。「覚えている」なんですね。ですから、言葉の働きが入っていて、ものごとを確認しているようなのが「念」のようです。「知」というのはそういうものではなくて、言葉の働きとかは入らないけれども、確実に対象を捉えている心の働きのようです。

 実は、お寺でバングラデシュの上座部の比丘の方にお願いして、仏教の基本的な修行を体験する二泊三日の合宿をやっていますが、その中で、いつもその比丘の方は「歩く瞑想をやるときに必ず、最初は言葉でちゃんと捉えてください。足を上げる、下ろす、足を上げる、下ろすというふうに自分で確認しながら歩いてください。でも、大事なのは、言葉で確認することじゃなくて、実際の動きをつかまえることです。」とおっしゃっていました。最初は良く意味が分からなかったのですけど、しばらく続けて行っているうちに、実際に足を上げて下ろすというのは、言葉の力を借りなくても、自分の動きをきちんとつかまえることができるようになってくるんですよね。でも、最初のときには、言葉を使って、上げて、下ろす、上げて、下ろすというふうに確認します。慣れてきますと、言葉はなくても、自分の動きをちゃんと対象化してつかまえている心の働きが生じてくるようになります。そういう働きが「知」です。

 念のほうは、言葉を使って後から確認しているようなものです。言語を使ってきちんと確認する念と使わない知とは、両方ともお釈迦様のときからずっと存在していたのだろうと思いますが、どちらを強調するかで流れが変わってきます。念のほうを強調すると、言葉で確認してきますから、初めて修習するときには便利なように思います。自分の心の中に生じてくる働きに、例えば怒りの気持ちがあったら、「怒り」というように心で捉えていきます。それから、その怒りが継続して、いつまでもなくならない。これも実は怒りの感情の一種なのですが、「怒り」とは異なる働きであると捉えて、別の名称が付きました。これが「忿」です。激しい怒りと日本語で言っても良いかもしれませんが、継続する怒りですね。このように自分の心に生じてくるさまざまな感情を、一個一個名前付けする方向に流れていくのだと思います。

 仏教の歴史を考えてみますと、念のほうの流れに登場してくるものが、いわゆる説一切有部に出てきます五位七十五法でしょうね。さまざまなものを区分立てして、存在しているものとして七十五個の法に分けていますが、これは言葉で捉えられた世界です。その延長線上にあるものが、大乗仏教の唯識に登場する五位百法だと思います。これらは「念」のほうの流れの上に出てくるんだと思います。

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  日本仏教の歩みとは
 「知」のほうはどちらに行くのかといいますと、実は対象を、言語を使って捉えていないですから、実は無分別の世界に近づいていく方向です。そして、こちらは「知」の原語から派生する名詞形ですが、般若を強調するようになります。ですから、般若経典などは、正知のほうの伝統を踏まえて発展していくのでないかと考えられます。この般若はやがて中観の考え方に発展します。そしてインドの中観は、東アジア世界ですと三論宗に展開していきます。ですから、このように捉えてみますと、仏教というのは知と念と両方持っているんですけども、ウエートの置き方が「知」の側に来ると、般若から中観、そして三論へと展開し、「念」の方にウエートを置くと、有部の五位七十五法から五位百法へ、そしておそらくは瑜伽行派の唯識といわれる方向に展開していくと捉えられるのではないでしょうか。そう考えますと、対象を観察する働きである「知」と「念」というのは、仏教の大きな流れを、すなわち中観と唯識に分かれていく流れを作る契機になっていると捉えることができるように思います。

 日本の禅宗は正知のほうを強調しますね。日本の法相宗は正念のほうを大事にしているようです。結局、現在の仏教の中にも、正知を大事にする方向性と、正念を大事にする方向性とが存在しているようでして、東南アジアから日本に伝わってきている瞑想グループの中にも両方が感じられます。皆さんがよくご存じのスマナサーラさんは修行の中で、とにかく心に生じてくるもの全部名前を付けてラベリングしますよね。これは正念をやっていると捉えられます。それに対して、ベトナム人僧侶のティク・ナット・ハン師は、瞑想はただ単に眺めていればいいですよ、みたいな感じで指導していますので、基本的に言語を使わないで捉えていく世界を大事にする方向に居ます。

 ところで、サティパッターナ・スッタの中では、どちらがより大切なものとして捉えられているのかと言いますと、正知のほうではないかと思います。理由はなぜかといいますと、この経典の記述を見ていきますと、最初は「正知をそなえ、念をそなえ」という表現が登場してきますが、後半のほうに行きますと、全部「知る」という言葉で表現されるようになるからです。念の語が落ちるんです。ですから、最終的には、言葉がなくても一つ一つきちんとつかまえている、知っているっていう状態のほうを理想にしていたんだと思います。それが実現できると、私たちが日常生活で起こしているさまざまな悩み、苦しみが、自分の心が引き起こしているものだということが本当によく分かってきて、流せるようになっていくからだと思います。そこに悩み、苦しみを超えることができるのだと捉えたのだと考えられます。




七、教学の進展~現実の肯定

 さて、次に学問の話に入ります。日本仏教における大きな特徴というのは、日本独自のものが、中世の時代から生じてくるところではないかと思います。実際にはもう少し前から考えても良いと思いますが、日本独自の考え方というのは、一つは本覚思想といわれるものです。これは日本仏教の特徴の一つだと思います。現実を非常に肯定的に受け止めていきます。否定されるような二元対立するものを平等に見ていきます。どちらも是認するというような、そういう発想を持って展開していきます。天台宗の中に起きた思想だと捉えられていますが、真言宗の中にも同じような思想は見てとれます。ですので、院政期ぐらいから表面に出てくる考え方だと思いますが、この世界を肯定的に捉えていくのが一つの特徴なんだと思います。特に二元対立するようなものを両方とも是認するというところに特徴が見てとれます。生も死も、両方とも大事なものとして、そのまま受け止めていきます。

 現実を肯定的に見ていく傾向は、禅宗の中にも浄土の教えの中にも存在しているように思います。最初に浄土の教えに触れておきたいと思いますが、浄土教というのは法然のときから独立したものと位置づけられます。法然の特徴は、お釈迦様の教えに聖道門と浄土門の二門を立てまして、聖道門では末法の世の人々を救うことができない、かつ、凡夫には実践することができない、と位置づけます。そして浄土の教えのほうが良いのだと主張して浄土門を選んでいきます。浄土の教えによって、称名念仏こそが末法の時代の凡夫を救う手立てであるとしまして、「往生の業は念仏を本となす」という言葉を残していきます。とにかく念仏を唱えれば往生することができるんですよという言い方をしました。

 興味深いことに、法然が浄土教の上では一つの転換点になっています。浄土の教えは法然が登場する前から日本に存在していました。浄土の教えは奈良の時代から存在しています。例えば奈良の地の浄土の教えがどんなものであったのかと言いますと、その典型的な信仰が當麻寺や元興寺に見て取れます。當麻寺には當麻曼荼羅と呼ばれる曼荼羅が存在しています。この當麻曼荼羅というのは通称でして、本当は浄土変相図です。この浄土変相図は善導の『観無量寿経疏』に基づいて浄土の姿が描かれていて、十六想観を実践するためにつくられたものです。水想観とか、日想観とか、お日さまを心の中に思い浮かべるとか、水がこの世界に遍満しているっていうように観察することなのですが、いわゆる十六想観といわれるものを修習するために作られたものでした。

 念仏というものは、今は一般に言葉で南無阿弥陀仏と唱えるものと理解されることが多いと思いますが、この念仏は、観想と称名の二つに分かれます。観想の念仏と、称名の念仏です。そして、古代は、観想の念仏も称名の念仏も両方ともやっているんです。奈良の地では、観想の念仏が盛んに行われていまして、その名残が當麻寺の浄土曼荼羅や、元興寺にあります智光曼荼羅に見て取れます。ちなみに当麻曼荼羅は九世紀に、智光曼荼羅は八世紀の後半ぐらいにできています。これも浄土変相図です。

 つまり、奈良の地には法然が登場する前から浄土の教えがすでに流布していまして、お念仏を唱えるということも行われているんですね。そして、大事な点は、観想の念仏も称名念仏も、何のために行われているのかと言いますと、実は修行の一つなんです。つまり、教理や教学とは違うものとして、浄土の教えというのは、奈良の地で奈良時代からずっと受容されていました。

 それが法然のときに、一宗として独立したのだと捉えられています。法然の興味深い点は、浄土の教えを宗として独立させたところに大きな特徴があります。それ以前は浄土の教えは、それぞれの教学に応じて、皆さんが修行の一つとして実践すればいいものであったのです。ところが法然は、浄土の教えを、しかも称名だけを取り出してきて、一つの宗に完成させてしまいました。ここに特徴が見てとれます。

 その中で何を大切にしたのかと言いますと、「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、年々に捨てざるを、これを正定の業と名づく」とありますから、名号を念じることでした。念じていますから、言葉が入っています。南無阿弥陀仏と声に出す出さないは、ここからは分かりませんけれども、どっちでもよかったんでしょうね。念仏を念じることによって浄土に往生することができますと言っていきます。それで、浄土に往生できる、そのためには南無阿弥陀仏と念じることが大事だということを象徴的に表す言葉が「往生の業、念仏を本となす」です。これは法然の特徴だと思います。

 ところが、法然の弟子になりますと、少し強調点が変わってきます。親鸞さんの考え方の中では信心為本という言葉が出てくるのですけれども、信じる心が一番の本であると、信心が正面に出てまいります。何を信じるのかと言いますと、阿弥陀様の本願を信じることが一番大切だとします。本願というのは、阿弥陀様は実は法蔵比丘であったときに四十八個の願を立てていて、その願が成就して阿弥陀様になったのだとされています。これは『無量寿経』の中に出てまいります。その『無量寿経』の中の、特に第十八番目の願ですけれども、この世の中の一切衆生が悟りを開くのでなければ、私は悟りをとらない、という、願を立てています。その願が成就して阿弥陀様になったと位置付けられていますので、その本願を信じることができれば、私たちはもう悟りを開いている仏なんだと考えることができます。そして、念仏を唱えることよりも阿弥陀様の本願を信じることのほうが大事な点だと主張するようになります。これが「信心を本と為す」になります。

 法然の場合は「念仏為本」でしたので、まだ唱えることが残っているんですね。それが親鸞では「信心為本」に変わります。信じることが大事だ、となったのですから、法然から親鸞へ飛躍があるような気がします。浄土宗と浄土真宗の違いはここに端的に表れています。ですから、阿弥陀の本願力を信じることが一番大切なことだというので、信を中心とした仏教が出来上がってきます。これが日本仏教の特徴の一つになります。

 基本的に信じることができれば、それ以外は何も必要ないということになります。ところで、それが一体何を目的にして信心を大事にしたのかという点から考えてみますと、興味深い記述があります。『親鸞聖人御消息』の三十、「しのぶの御房の御返事」という所です。

 「まことの信心の定まることは、釈迦・弥陀の御はからいとみえて候ふ。往生の心疑いなくなり候ふは、摂取せられまゐらするゆゑとみえて候ふと。ともかくも行者のはからひをちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力と申すことにて候へ」

 大事なのは「行者のはからいをちりばかりもなし」ということ。換言すれば、私たちのはからいがないことなります。これを大事にしようと言っているのです。阿弥陀のはからいはあって、でも、私たちのほうのはからいはない。私たちがこの世の中を生きていくときに、はからいのないあり方を、信心によって可能にしようとしているものだと思います。

 江戸時代になりますと、妙好人という方が登場して、真宗の信仰を分かりやすい言葉で表現するようになります。大変興味深い発言が存在しています。それは何かというと、「何事もあなたまかせの南無阿弥陀仏」です。あなたというのは阿弥陀さんのことです。何があってもすべて阿弥陀さんにお任せしていますよと、ですから、南無阿弥陀仏という念仏で、怒りの気持ちだとか、こうしてほしいとか、そういうはからいを起こさなくなると見ているのです。それを江戸時代の妙好人といわれた人は、俳句みたいな感じですけれども、こういう歌に詠み込んでいます。つまり、人間の側、こちらの側のはからいがないような、そういう生き方を大事にしようとしたのだと思います。

 実は、はからいがないというのは、そのまま様々なものを受け止めていくとも理解できますので、瞑想で実現しようとしていることと、かなり一致します。瞑想のときには、私たちの心が何か受け止めたときには、それをそのとおりに気付いていくということを行います。何かがあっても、何かが生じても、それをそのままに気付いて、先に進まないようにさせていきます。

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心の働きはいかに起きるか
 例えばここにおいしそうなケーキがあったとすると、私たちの視覚を通して頭の中にケーキの絵が描かれますよね。そうすると、私たちの心の中には、一瞬にしてケーキだと判断が生じます。私たちに「ケーキだ」という判断が生じると、すぐ次の心の働きが誘発されます。「おいしそう」あるいは「食べたい」と。でも、そうすると、糖尿病だから食べられないなとか、色々な思いが私たちの心の中に、次から次へと生じていくのです。嫌な言葉を聞けば、すぐそれに反応して、嫌な思いを生じ、時には相手に対する怒りが生じたりします。ですから、私たちは外界の刺激を受け止めて、それに対して、心の中で捉えられる対象になる何かを描いて、そしてそれに対してすぐに判断を起こして、その判断がもとになって、さまざまな悩み、苦しみを起こしているわけです。

 瞑想の場合には、ケーキであればケーキを認識したところで切ろうとしています。先に進まないように一つ一つ捉まえているんです。それに対して、「何事もあなたまかせの南無阿弥陀仏」というのは、何かが起きても、それを認識したら、これは阿弥陀様のはからいに他ならないのだと考えて、こちらのはからいを起こさないようにしているのだと思います。

 ということは、両者の目指している世界はかなり近いのではないかという気がします。浄土真宗の信心為本の世界も、はからいがない心を、つまり、何かを受け止めたときに、あれこれと心が動いて、ああでもないこうでもない、とかあるいは、こうしようああしようと思う心が生ぜずに、そのまま受け止めればいいと捉えているのだと思います。ですから、これは瞑想が目指していた世界とほぼ重なると考えていいと思います。このように修行道の観点から見ていけば、浄土真宗の信仰も瞑想の世界に繋がっているのではないかと思います。




おわりに

 日本の仏教は、インドの仏教が朝鮮半島を経由し、それも南朝の仏教の影響を強く受けましたので、法会を中心とする存在のありようを持っていますけれども、その中に、仏教の中に伝えられた学問と修行という二つの道筋はきちんと継承されています。様々な宗の人たちが、それぞれ自分の言葉でお釈迦様の教えを語り直しているのだと思うのですが、そこには、一本、筋の通った有りようが目指されていたのではないでしょうか。ご静聴有り難うございました。(終)

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