蓑輪顕量先生

日本仏教史(第31期スクーリング講義録)

2019年4月10日

 私たちが「仏教を学ぶ」と言いますと、学問をするというイメージを持っている方が多いのではないかと思います。それはインドからの流れを考えていきますと、意外に日本的な特徴ではないかと思うようになりました。なぜかと言いますと、実は、仏教の歴史の中に、早いときから学問的な研鑚と修行という二つの柱を見出すことができるからです。学問の方は、日本仏教の歴史の中で非常に伝統がありまして、伝来した当初から一生懸命やっているような気がします。



時代区分

 日本に仏教が伝来してくるのは紀元後六世紀の半ばぐらいです。実際にはそれ以前から仏教の片鱗を伺うことができますけれど、日本の社会の中でしっかりとした形を持って表れてくるのが、六世紀の半ばから四~五十年たった、推古朝の聖徳太子等が出てくるころ、その頃にあるのではないかと思います。

 そうしますと、七世紀の初頭になるわけですけれども、七世紀の初頭というのは、東アジア世界がちょうど激動していた時代です。六百年代っていうのは、中国におきましては、隋が滅んで唐が成立します。その混乱の中で、為政者にとって社会を指導する理念として仏教が採用された時代です。そのような時代に一番東側の日本においても、隣国に負けないような立派な国家体制ができていることを示さなければならない状況に迫られていたのではないかと思います。

 そのときに活躍した人物が、後の聖徳太子推古天皇蘇我馬子の三人です。この三人による寡頭政治が、七世紀の初頭ぐらいの状況です。その時代に仏教は日本社会の中に、重要な意味を持って受け止められるようになったと考えられます。この時期の仏教は伝来期の仏教と名前を付けても良いと思っています。

 この伝来期の仏教の特徴は、法会を盛んに行うところにあります。儀礼的な感じがしますが、経典を講説するとか、経典の中身についての質疑応答をするとか、そういうものが法会の中で行われています。それから、懺悔や悔過のための法会もありまして、初期の仏教は法会を一つの特徴とします。

 これは日本に伝わった仏教が百済経由で、中国の南朝の仏教を継承しているからだと考えられます。中国は北地と南地とに分かれるんですけども、現在の上海とか広州とか山東半島ぐらいまでは南地と言っていいと思います。南の方で盛んに法会が行われるという特徴がありました。北の方の仏教には修禅の伝統があったといいます。仏教が受容されていくときに、南地の伝統を百済経由で日本は受け入れたようなのです。日本に最初に仏教を伝えたと言われているのは百済の聖明王ですし、百済は中国の南の王朝と非常に密接な関係を持っていました。ですから、中国南地から入ってきた仏教が、日本の初期の仏教の在り様というのを形成したと考えられます。

 この伝統は現代でも大きな影響を与えています。おそらく皆さんも、日本の仏教に最初に接した機会は、何らかの形の法会だったんじゃないかなと思うんです。一番身近なところではお葬式ですね。あるいはお正月に行われている修正会あるいは日本独自の法会だと言われていますが、春と秋の彼岸の法会ですね。あとは、有名なところでは、七月または八月に行われています盂蘭盆法会です。ときには施餓鬼会という名でも呼ばれたりしていますけども。そのような法会を中心として私たちは仏教を考えているんじゃないかなと思うんです。それは伝来期の仏教に一番の淵源があると考えられます。
 

法会の盛んな時代

 そして、その後、九世紀から十六世紀の初頭ぐらいまでと考えられるのですが、法会を中心とした仏教が一番栄えています。その間には鎌倉時代があって、いわゆる鎌倉新仏教が起きて来る時代じゃないかと思うかもしれませんが、今につながる宗派が非常に元気になっていくのは、実は、十五~十六世紀ぐらいからでありまして、特に浄土真宗および日蓮宗の例を考えると、それも社会的な勢力になって大きくなるのは、もう少し時間がかかります。彼らが登場したときには、まだ伝統的な仏教の方が、社会の中で非常に大きな力を持っています。法会というものが重要なものとして、改めて位置づけられていくのが、だいたい十世紀前後ぐらいだと思います。

 何故改めてそのようになったかといいますと、歴史学の先生方がよくおっしゃるんですが、古代において非常に大きな事件がありました。承平天慶の乱です。東の方で、平将門が反乱を起こし、西の方で藤原純友が乱を起こします。そのような状況の中で、より社会の安定を求めて、何が起きたかと言いますと、政治的支配者側の貴族の人たちも仏教界に対して期待をする。対して仏教界側も政治の世界の方に対して「こういうことができますよ」とアピールするようになりました。そして、政治の世界と宗教の世界が持ちつ持たれつの関係であるという考えが成立します。この考えを王法仏法相依と呼びますが、王法と仏法がお互いに相手を必要としているんだという考えが成立します。実際には、仏教界の方が朝廷の方にかなりすり寄っている時代です。

 十世紀前後ぐらいから、法会がさまざまに整備されていき、十一世紀の半ばになりますと、奈良の都と京の都に三つずつ有名な法会が出来上がります。この法会、南都三会とか北京三会と言いますが、その上に三講という有名な法会が、法勝寺の御八講、宮中の最勝講、仙洞の最勝講という、一番格式の高い法会が出来上がります。

 法勝寺は京都の白川町にできた寺院です。白河上皇が作ります。今はもう何も残っていません。ただ単に、法勝寺跡という石碑が建っているだけなんですけど、当時は非常に巨大な伽藍がそびえ立っていました。長い間、非常に格式の高い法会がここで行われました。それから宮中の最勝講。これは宮中において『金光明最勝王経』を講説し、また質疑応答の論義が行われました。それから仙洞の最勝講。上皇のいらっしゃった仙洞でも仏事法会が行われていまして、それが法会の中では最高のものとして位置づけられていました。

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  東大寺遠景:南大門をくぐって中門・大仏殿を望む
 当時は非常に有名なお寺が四つほど存在しており、四箇大寺と言います。比叡山延暦寺、園城寺、奈良の興福寺、東大寺です。四つの大きなお寺という名前で、四箇大寺という名前で呼ばれ、非常に力を持った寺院になっていました。

 延暦寺は天台宗の総本山、園城寺は現在でも大きなお寺ですね。奈良の東大寺。これは朝廷が作った一番大きなお寺。東大寺の周辺のお坊さんたちとお話をしていて、あるときに、東大寺のお坊さんたちのことを「あそこはおかみだから」っておっしゃっているのを聞きまして、今でも八世紀半ばにできた官寺としての意識が奈良に残っているのには、少しびっくりしました。

 それから、興福寺です。中世より少し前の時代ぐらいからですけども、興福寺は藤原氏の氏寺として存在していました。興福寺の住職さんを別当と言いますが、別当が大和国の守護を兼ねるという時代があるんです。興福寺の住職が奈良県知事を兼ねるという感覚です。それくらいに中世の時代に興福寺は大きな力を持っていました。

 こういう大寺から、学問に秀でた僧侶たちが、天皇あるいは上皇からの招請によって法会に出席していきます。この法会には、実際にはいろんな役職があります。まずは講師。こちらは講説する人です。それから聴衆。聴衆というのは、その法会の場に出席し、お話を聞いて質問をする役割の方。最初は聴衆に呼ばれ、何回か出席して質疑応答の質問係をしまして、よい質問をするなという感じになりますと、やがて講師として任命されます。聴衆や講師を経験すると地位を上がっていけるようになっていました。お坊さんの世界の格式とは一体何かと言いますと、中国に最初あって、それから日本にもたらされてきたものです。日本は独自に、お坊さんたちに階位を付けたんです。僧綱位が七世紀に出来上がります。代表的なものを挙げますと、下から、律師、僧都、僧正。実は朝廷の中に二官八省という役所があり、そこにヒエラルキーが出来上がっています。それと対応するような感じで、お坊さんの世界の中にも官職名が付いているんです。この官職名がやがて実質的な機能を失って、お坊さんの世界で上下関係を表す称号に変わっていきます。お坊さんの世界のヒエラルキーを表す称号に任命されるためには、格式の高い法会の聴衆や講師を経験しなければならないという体制が出来上がっていってしまうんです。

 何時ぐらいから出来上がっていったのかというと、最初は桓武天皇のときからだと考えられています。役職がどんどん増えていって、法令の体制がしっかりと出来上がってくるのがだいたい十一世紀の半ば過ぎです。これが鎌倉時代から南北朝、室町のころまでずっと続きます。ですので、古代の仏教が日本の社会の中に定着して独自の体制を作り上げていったのが、九~十五世紀ぐらいまでで、これを古典期の仏教というふうに呼んでもいいのではないかと思います。

 それで、社会的な勢力として、伝統的な流れの上に乗っかって、研鑽を積んでいたお坊さんたちが社会の中で中心的な勢力を占めていたのが、だいたい十五世紀の末ぐらいまでです。それが、中世の時代に登場してきた新しいタイプのお坊さんたちによって、勢力図が逆転するのが、ちょうど十六世紀の最初です。十六世紀以降の仏教を新仏教中心の仏教と言うことがあります。遁世門と書きましたが、このタイプの仏教者たちが社会の中で大きな勢力になっていき、前の勢力とほぼ互角になり、やがて超えていくのが十六世紀ぐらいと考えてよいと思います。


各期の仏教の特徴

 時代区分のところでだいぶ話をしてしまいましたが、古典期の仏教が思想的にはどんな特徴があったのかを次にお話ししたいと思います。古典期の、九~十六世紀ぐらいまで、顕密仏教と呼ばれることがあります。顕教と密教を両方兼学しています。お坊さんたちはどんな勉強をしていたのかというと、仏教経典の中で明らかに教えを説いたものと、秘密の教えというものという二つに分かれます。その言い方が、平安期以降、かなり大きなウエイトをもって継承されます。

 奈良の時代の仏教は中国や朝鮮半島から入ってきました。その仏教がそれぞれに名称がつけられ勉強されました。倶舎論を修学する倶舎宗。それから、戒律について勉強する律宗。三論宗も出てきます。この三論というのは、インドで、龍樹が作られた『中論』という著作がありますけれども、「この世界というのは、実態を持たないものである」というものの見方が正面に出てまいります。一番基本になるのが中論ですけれども、『百論』それから『十二門論』、これらを修学する学派が三論宗っていう名前で呼ばれます。それからあともう一つ、有名なのが法相宗ですね。法相宗の中で一番重要なのは『成唯識論』です。あとまた、成実宗、華厳宗というのもあります。『華厳経』に基づいて出来上がった華厳教学がありますが、それが華厳宗という名前で勉強されました。平安時代の初期には、天台宗が入ってきます。中心には『法華経』、それから、修行実践の集大成みたいなものですけども、『摩訶止観』が修学の対象になっていました。『摩訶止観』は全二十巻で、分量が多いですけれども、格式の高い法会においても、ちゃんと議論の対象になっていることが記録から分かります。南都六宗と天台宗の教えを全部まとめて顕教という名称で呼びました。これは、お釈迦さんが明らかに、はっきりと分かる形で説いたものだからとされます。

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  高野山の壇上伽藍(根本大塔と御影堂)
 それに対して、ある時代から、密教と呼ばれるものが出てくるようになってきます。密教の中にはとても興味深いものが含まれました。インド伝来のさまざまな儀礼が入ってくるんです。特に、インドのバラモンの人たちがやっていました、火の中に供物をくべて、神様に届けるというやり方、ホーマの形式が密教の中に入り込みました。ホーマが護摩と翻訳されて、密教の中に流れ込んでくるんです。ですから、皆さんも、今、真言宗のお寺さんに行きますと、本堂の真ん中に護摩壇が据えられていて、火が焚かれて、いろんな願い事を書いた護摩木を入れて燃やすというのをご覧になっていると思うんです。その火を使って願い事を仏様に届けるという形式は、インドにおいて紀元後の六世紀ごろぐらいに、仏教の中に取り込まれたものだと考えられています。

 あともう一つはマントラ。真言と訳されますけれども、秘密の言葉を唱えて仏さんと同じ境地を実現することができるという、少々、飛躍的な、象徴主義的な考え方が入ってきます。マントラと一緒に実践されるものがムドラーと言われますが、印です。手を動かして何かを象徴するような動きを見せます。印を結ぶと表現されます。蓮の花が花開いていくような様を象徴しているとか、色々なものがありますが、このような象徴主義的なものを取り込んできます。

 それからもう一つ、一番特徴的ではないかと思うんですけど、様々なものを肯定的に捉えていきます。それまで否定的に捉えられていたものを肯定的に捉える。こういう傾向が密教の中に出てまいります。例えば、人間にとっての死とか、性の問題、男女の間の営みとか、そういうものを、できればあまり表にはしたくないというのが伝統的にはあると思うんですけども、否定的に捉えられていたそれらの問題を、肯定的に捉えていくという傾向を持つようになっていきます。それまで、どちらかというと貶められていたものも、平等に見ていくというのをすごく大事にしています。平等に見ていくことは、インドの言葉ですと、サマヤと言うんですけども、それ以前の否定的に捉えられていたものも肯定的に捉えて、すべてのものを平等に受け止めていくことを特徴にします。

 このようなことを主張した経論は何かと言いますと、『大日経』とか『金剛頂経』です。この二つが重要になります。天台宗の中には、もともと密教の考え方はなかったんですけども、日本天台の特徴として、天台の中にも密教修学が入ってきます。

 それから、奈良の伝統的なお坊さんたちの中でも、密教が重要なものとして、一緒に兼学されるようになっていきます。ですから、奈良時代から平安、鎌倉期にかけて、伝統的な仏教者たちが顕教の勉強と密教の勉強の両方をしているんです。そのようなお坊さんたちに代表される仏教を、歴史学では総称して顕密仏教という名前で読んでいるんです。

 ところが、もし、それだけであったら、なかなか名称をつけにくいと思うんですけど、この顕密のお坊さんたちに対抗するようなお坊さんたちが実は、十二世紀の後半ぐらいから登場してくるんです。顕密を修学しているお坊さんたちというのは、先ほど言いましたように、法会の世界で活躍する人たち、あるいは、加持祈禱で活躍する人たちでした。朝廷との結びつき、ある時期からは武家との結びつきも出てきますけど、どちらかというとお坊さんの世界の出世みたいなものが正面に出てしまう仏教になってきたということです。それに対して、反旗を翻す人たちが登場します。だいぶ世俗的だと批判する人たちが出てくるんですね。だいたい十二世紀の半ば過ぎぐらいから登場します。

 彼らが、遁世といわれる行為をするようになるんです。お坊さんたちの名聞を求めたあり方から離れて、別にお坊さんの世界の中で出世しなくてもいいと、律師や僧都や僧正に任命されなくても、本当にきちんとした仏教の修学をしなくてはいけないのではないかと気が付いた人たちが登場してくるんです。その背景は中国から禅宗を始めとして新しい仏教が伝えられてきたことにあるのではと思います。

 こうして、お坊さんたちの世界に遁世と呼ばれる営みが出てきます。彼らは出世につながる法会に出ないということをしていきます。当時の寺院は、格式の高い法会に向かって動いておりました。出家する人たちは、小僧さんのときから、お寺の中で簡単な修学から始めていきます。その修学の中で、寺内の、規模の大きくない法会がありまして、それに出て勉強をしていきます。小さな法会で勉強して場数を踏んで、寺内の少し大きな法会に出仕して、それからその地域のお坊さんたちが集まって執行される格式の高い法会に出仕して、最終的に三講につながるというシステムが出来上がっていました。そういう出世につながる法会には出ないというお坊さんたちが登場してくるんです。

 奈良の地では、東大寺で面白い現象が起きていました。大仏殿で行われる行基菩薩の舎利会というのがあるんですけど、行基菩薩の舎利は戒壇院に置かれていました。ですから舎利会を行うときには、戒壇院のお坊さんたちが、舎利を大仏殿まで運んでいくんです。ところが、戒壇院のお坊さんたちは、その法会に出仕しないで、大仏殿の回廊のところで待っているんです。中のお坊さんたちにお舎利を渡してしまうと、外で待っていて、終わると、また、舎利をもらって帰るという感じです。大仏殿で行われる舎利会へ参加していないことが確認されるんです。大仏殿の舎利会は、実は出世につながっていた法会なんです。遁世と言われる人たちは、出世につながる法会には出仕しないという形で、伝統的な在り様をしている人たちと、違った行動をしていました。

 このお坊さんたちが何をしていたかというと、新しい仏教を作っていくようになります。南都の世界では解脱坊貞慶、この人が重要な役割を果たしています。その後、唐招提寺を復興します覚盛とか、有名なところでは叡尊ですね、西大寺を中心に活躍します叡尊という方が、遁世のお坊さんとして出てまいります。それで、北の方の比叡山でも、同じように遁世をしていくお坊さんが出てきます。遁世のお坊さんとして最初に登場する方が法然です。法然さんの場合には、出家したときから明らかに出世につながるような法会を前提に勉強している人たちと違うところがありました。比叡山の中でも黒谷と言われるところは、そういう遁世者の人たちが集まるところだったと見えます。法然は最初からそっちの方へ行っています。

 それから、栄西、道元、日蓮も全体の傾向から見て行きますと、やっぱり、遁世系のお坊さんというように言っていいと思います。格式の高い法会に出て出世していくということを全くしないで活躍をしていきます。


修行に関心を持った僧侶

  
 この新しい仏教ブームを起こした人たちは、どういうものを新たに主張していくかと言いますと、一つ、重要なのは、修行に関心を持ちました。栄西、道元などもそうですけども、一つは、修行を見直します。止観という名前で呼ばれる禅定体験を大事にしていきます。それからもう一つは、庶民を意識する人たちが登場しまして、簡単な行に集中していくような傾向を持つようになります。選択と易行という言い方がされますけど、何かを選び取っていく、それと行い易いということを、この時期に登場する方たちは、意識をしていくようになります。

 その背景には中国から禅宗という、坐禅を通して修行して、悟りを目指すという仏教が紹介されたことがあり、伝統的なお坊さんたちの中にもその影響を受けて、修行をもう一度見直してみようという人たちが登場してきて、やがて、その周りに人々が集まってきて集団を作って、大きな勢力になっていったと考えられるわけです。実際に鎌倉期に入りますと、どういう言葉で当時の仏教が勢力分けされていたかと言いますと、顕密、浄土、禅という言葉です。これは十三世紀ぐらいの言い方です。一一〇〇年代の半ば過ぎぐらいには、すでにこういう言葉が出ておりました。顕密というのは、伝統的な修学をしているお坊さんたち。それから、浄土と言っているのは、法然さんを中心とするグループのお坊さんたち。それから、禅と言っているのは、栄西さんや円爾や道元さんでしょう。栄西さんを最初とするのですが、たぶん円爾弁円とか蘭渓道隆というお坊さんたちを中心として出来上がってくるものです。鎌倉時代から南北朝にかけては、中国からたくさんお坊さんがいらっしゃって、中国式の仏教が紹介されていきます。もう少し後になりますと、法華と呼ばれますが、日蓮さんを中心とするグル―プも、それなりの勢力を築くようになってきます。

 十三世紀以降は、顕密、浄土、禅が登場して、この人たちが結構、大きな勢力になってきていることは間違いありません。そして、顕密の勢力と遁世の勢力、後者の勢力が社会的に過半数を占めるようになってくるのが、だいたい十六世紀と言うことができるんじゃないかと思います。

 それで、中世の時代に登場してきたお坊さんたちの修行を見直すという動き、現在も同じような動きが起きているのではないかという気がしますので、修行のお話をしたいと思います。


日本における修行道

 現在、日本の社会の中に新たな仏教が紹介されつつあります。それは、一九九〇年代ぐらいから、スリランカのお坊さん、スマナサーラさんという方が最初ではないかと思うんですが、彼から始まります。もちろん、戦後間もなく、ミャンマーのお坊さんがいらっしゃって、北九州にミャンマー寺院を作るんですけど、あんまり社会的な運動にはなりませんでした。ところが、一九九〇年ぐらいからは、上座部系の仏教が少しずつ社会の中に入ってくるようになりました。しかも修行だけを伝えます。その修行を、サマタとヴィパッサナーという言葉を用いて呼びました。これはパーリ語です。前者が止と訳され、後者が観と訳されます。

 これが一九九〇年代ぐらいで、スリランカの方が最初のムーブメントを起こしていくような感じがしますが、その後、タイのお坊さんたちも入ってきます。現在、タンマガーイという名前で呼ばれる集団も、日本社会の中に結構、出てきます。その後ですけど、二〇一〇年代からですけども、今度は、仏教の装いを取らずに、マインドフルネスという名前で入ってきました。マインドフルネスっていうのは心の観察のことを言います。

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ティク・ナット・ハン師  
 マインドフルネスを提唱した最初の方は、実はベトナム人のお坊さんです。ティク・ナット・ハンという、ベトナム戦争のときに反戦運動をしまして、ベトナムから外に出ざるを得なくなりまして、フランスを拠点にして活躍するようになりました。この方はヨーロッパやアメリカで、ご本人が受けた大乗仏教の修行方法を世の中に広め始めていくんです。ティク・ナット・ハンさんは、その修行を表現するときにマインドフルネスという言葉を使いましたので、これがマインドフルネスの最初として、アメリカで定着するようになっていきます。その後、マサシューセッツ医科大学の先生で、ジョン・カバット・ジンという先生が現れます。彼は、日本の曹洞禅を学んでおられまして、曹洞禅の中に伝わっている心の観察方法というのが、私たちのストレスを軽減するのに役に立つと見つけ出します。そしてストレス軽減法としてマインドフルネスという名前で紹介し始めました。ティク・ナット・ハンさんのときにはまだ仏教の瞑想なんですけれど、ジョン・カバット・ジンさんになりますと、仏教の装いを取り除き、つまり宗教的な部分を排除した、テクニックとしてだけ出てきているような気がします。ご本人がお医者さんでしたから、今では心理学の世界で結構、注目している人たちがおられます。臨床心理士さんがこのマインドフルネスを正面に出して多くの人々に教えるようになってきました。

 でも、その元は何かというと、仏教が伝えてきたヴィパッサナーという名前で呼ばれる観察方法です。マインドフルネスとイコールと言っていいと思いますね。仏教が伝えられてきたときに、テクニックだけではなくて、もう少しいろんな視点が入って、他者に対する慈しみだとか、そういうものもきちんと実施していきましょうと主張するのですが。特に、ジョン・ガバット・ジンさん系列のマインドフルネスは、ストレス低減法という名称が端的に表しているように、ストレスが減りますよと。それから集中力がつきますよ、会社の業績が上がりますよ、というところに強調点が行ってしまいました。

 ストレス軽減になりますよ、会社の業績が上がりますよ、という部分は、アメリカでグーグルが、ジョンさんのマインドフルネスを採用してから以降、世界的に有名になりました。でも、これは、それなりの理由があったと言われています。グーグルとか現在のIT産業界はストレスフルな働き方で、社員の方が毎年のように何百人と、入社した人たちの二~三割が、会社を辞めてしまうという状況なのだそうです。これを何とかしなきゃいけないというので、マインドフルネスに気が付いて採用するようになったと言われています。

 現代の世界は、経済を重視する風潮がずっと続いています。ですから、そのためにはストレスを軽減することができればいいんじゃないかということで、マインドフルネスがもてはやされるようになり、今、いろんなところで実施されています。


仏教の伝えた止と観

 でも仏教が伝えてきたサマタとヴィパッサナーでは実際、どんなことをしているのかといいますと、細かく知ろうと思うと、意外に知られてないような気がするんです。止観という言葉は、皆さんよくご存じだと思います。『摩訶止観』の止観です。止はサマタの訳語、観はヴィパッサナーの訳語です。一番大切な点は何かといいますと、さまざまなものを対象にして、今の一瞬一瞬を気付くことと説明されます。これが一番の原則です。心の働きが静まる方に行くと、それは止と言われます。

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  お話の中で様々なトリビアも紹介されました
 止の一番典型的なものは、例えば私の前にお茶がありますので、お茶のペットボトルをずっと見つめ続ける。こういうものも止になります。ですから、今の一瞬一瞬を対象化して気付くことなんですけども、対象が一つのものに限定されていると、心の働きは静まる方に行きます。インドから伝わってきた観察方法の中で、一番基本になっているのは、入る息と出る息を観察することです。入息出息観と言われますけども、この入る息、出る息、鼻のところから空気が入ってきますから、入るのを「入る」、出て行くのを「出る」とずっとつかまえ続けていく。たったそれだけのことですけども、一つのものを対象にして見つめ続けていきますと、心の働きがどんどん静まってきます。

 そのときに実は、とても大事な点が一個あります。それは何かというと、気付くときに、言葉が入っているか入っていないかです。今、「呼吸を観察してください、入る息、出る息をつかまえてください」と言って、実際に皆さんにしていただきますと、鼻の穴から空気が入るときに「入る」、「出る」というふうに、音声には出さなくても言葉で捉えてしまう人が出ると思います。これも観察の仕方としては確かにあるんですけども、大事なのは言葉を使わない、でも空気の流れみたいなものを感じられますから、それを「入る」、そして、出ていくときにも同じように感覚的につかまえられますから、それを「出る」というように、言葉を介さないでつかまえることです。こっちの方がほんとは大事です。

 その感覚が、最初はなかなか難しいんですけども、動きを観察するというのをやりますと、意外に言葉を介さないでつかまえるというのが納得しやすいかと思います。例えば、歩く観察というのがあるんですけども、皆さんが歩いている時は、気付きの対象にしている人はほとんどいないと思うんです。歩くのを気付くときに、足を上げて下す、上げて下す、と動作をちょっと分けまして、足を上げたときにちょっと小休止を入れて、それから下す。また足を上げて、ちょっと止まって、また下す。これを集中してやっていきますと、言葉で確認していなくても、自分の上げて止まったところ、下したところで、ちゃんと気付けるようになってきます。そうすると、気付くときに、言葉が関与して気付いている場合と、言葉が関与しないで気付いている場合の二つがあって、それが実感できるようになってきます。実際に、この歩きの方は、もっと細かく分けられます。三つぐらいに分けるのが分かりやすいと思うんですけど、足を上げて、前に出して、下す。最初は言葉で確認しながら自分の動きも観ながらやっていくんですけども、慣れて集中してきますと、言葉がなくても自分の足の動きをつかまえている何かというのが分かるようになります。

 この言葉を介在させないで気付いている心の働きが、初期の経典の中では、sampajañña(正知)という言葉で表現されています。言葉を使って確認している方は、satimāというように出てきまして、これは念と翻訳されています。念というのは、おそらく言語機能が介在して気付いている場合だと思います。今、一瞬一瞬を対象化して気付いている、その心の働きを起こすことがとても大事で、これが出来るようになってくると、実は日常の私たちの生活の中では、いつも言語機能が働いているというのが逆に分かるようになってきます。

 さまざまなものを、私たちが見たときに、実は言語機能をすぐに起こしているんです。言葉の働きを起こしてしまうんです。例えば、皆さん、これ、なんだと思いますか。漢字の「大」だと思った人、どのぐらいいらっしゃいますか?人の姿だと思った人? 結構いらっしゃいますね。だいたい、この二つに分かれるんですけど、ほんとは、何かっていうと、実は、白いところに黒い線があるだけなんです。私たちは、もう、人間の心の働きとして当然なんですけども、パッと見たら、その姿形を見て、それに対してすぐに判断が働いちゃうんです。これは言語機能だと思うのですけど。多くの人たちは、ああ、これは、漢字の「大」だとか、人の姿だと判断が起きるんです。その判断が起きた後に、その言葉がきっかけになって、いろんな思いが次から次へと生じてくるんです。私たちの日常生活の中で感じる悩み、苦しみっていうのも、実は外界のものを捉えて、それに対して判断が生じて、それがきっかけになって、次から次へと起きているというのが、仏教の見ている世界なんです。

 例えば、「勉強しなさい」と言うと、子どもの方は「勉強しなさい」と聞いて、勉強したくない、嫌だなっていう気持ちになって、逆にそんな気持ちになれないとか、イライラしてくるとか。いろんなものが引き起こされて悩み苦しみになっています。

 接触感覚も同じですね。例えば、普通、私たちが道を歩いていて、肩と肩が触れたとすると痛いですよね。でも、その痛みがきっかけになって、怒りが生じることってあると思うんです。でも、本当は、私たちは、身体がぶつかっただけですから、痛みを感じただけなんですよね。ですから、痛みを痛みとして、今の一瞬に起きたことをちゃんと気付けば良いんです。このようにしていると、私たちの心の中に回路ができるというのでしょうか、今の一瞬一瞬だけを捉えられるようになってくるんです。それが日常生活に戻っても、きちんと応用されまして、悩みとかさまざまな感情につながらないように心が変わってきます。


仏教のめざしたもの

 ですので、仏教の大事なところは、自らの心を見つめていく、止と観の観察がとても大切なところでして、これを実践することによって、私たちの心を変えていくことができます。その道筋を示してくださったのがお釈迦様であり、歴代のお坊さんたちでした。特に中世のお坊さんたちの中にその点がとても大事だということに気付いた人たちがいて、その人たちが新しい運動を起こしていきました。明治以降は、学問中心になってしまったという気がしますが、学問だけではないことが、仏教にとってはとても大切な点です。

 ということで、日本の仏教というのは、インド伝来の心の観察方法というのをきちんと伝えてきていましたし、今、また、東南アジアの仏教とか、マインドフルネスとかいうものの影響を受けて、再認識されている時代ではないかという気がします。日本の仏教界も伝えてきていて、まだしっかりと持っていますから、そこの部分をもう一度見直していく必要があるのではないかと最近考えております。ご清聴ありがとうございました。


 
補足

 観は、対象は一つじゃなくて、さまざまなものを気付いていくこと。パッパッパと気づいていくという感じの方が観になります。最近の観のやり方で面白いのは、タイのお坊さんたちの中で出てきている方法ですけれども、座っていてもできる行法です。手の動きで観察するんです。

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具体的に瞑想法の紹介をされる箕輪先生  
 皆さん、ひざの上に手を置いて、ペタっとくっつけておりますけども、最初にこれをポンと立てます。そうしたら、これを今度上に持っていきます。ここのところで一回止めて、お腹に持ってきます。同じように反対の手をポンと立てて、上に持っていって、お腹のところに持ってきます。今度は、この腕を胸の方に持ってきて、また上に上げて、それからまた下に立てておきます。こういうふうに手の動きを観察の対象にして、動きの一つ一つを止まったところでちょっと気付くという感じです。これをやっているときに、心の中にさまざまな思いがパッと浮かんでくることがあります。そのときにもそれをただ気付く。「ああ、こんな動きが出てきた、でもいいや、OK」という感じで受け止めて、また手の動きを観察するというふうに、観察の対象を複数のものにして、いろんなものが起きてきてもそれも全部OKという感じで受け止めていくのが、観の方です。

 座っているときの観の場合は、自分の呼吸を気付いていて、皆さん、座っていますから、自分の姿勢が座っていることって気付けますか。姿勢に気付くのが難しかったら、お尻が座面に触れている感覚なら分かりますよね。呼吸をしながら、触れている感覚も気づきの対象にしていく。ですから、入る、出る、触れていると、言葉を使わないで気付いていくんですね。音が聞こえてきたら、音を聞いているのも分かったりしますから、ああ、聞いているっていうのもつかまえていく。そういうふうに、いろんなものを気付きの対象にしていくのが、観の方になります。

 天台宗の中では、観の対象になるものは何かという視点から、きれいに分けてくれているんです。それは、歴縁と対境とに分けられています。歴縁は何かというと、行往坐臥。歩いている、立っている、座っている、横になっていることです。それから、作々、すなわち行動です。先ほどの例はこの作々に入りますね。それからもう一つは言語です。言葉、これも気付きの対象になります。対境と言っているのは、色、声、香、味、触、法です。色は視覚の対象になるもの、それから、音、香り、味、身体の接触感覚の触、いろんなものを全部含めて法と言っています。

 歴縁と対境とグループに分けられていますが、これらが私たちの気付きの対象になります。ですから、日常生活の中のすべてが気付きの対象になるんですね。ただ、日常生活の中でいつも気付き続けようと思うと、どんどん自分の動きがゆっくりになってきますので、四六時中やろうとすると、ちょっと問題が生じる場合もあります。

 それから歴縁、対境と言っておりますけど、今の一瞬一瞬を対象にしているんです。そうすると、実はこれ以外の対象、心の中に存在する貪りや怒りなどが出てくることがあるんですよね。これは摩訶止観の中では、煩悩境という名前で呼ばれて、なかなかに対応していくのが、大変だという感じのものが出てまいります。これも、実はただ、気付きの対象にして、とらわれることなく、きちんと眺めることによって、対処していけるんです。また観察を続けていると、過去のいろんなものが浮かび上がってくるとか、そういうものが必ず出てきます。これは業相境と呼ばれますが、そのときに、迷わないというのが大事なところだと思います。とはいえ、基本は現在の一瞬一瞬で、歴縁と対境という名前で呼ばれているものが観察の対象になります。ですから、何でも気付きの対象になります。(終)

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