中野東禅先生

「あの世」に喜びを見よう 第25期スクーリング特別講義(講演録)

2013年2月13日 仏教文化第161号

(一)

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一、東日本大震災で患者を避難させて津波にのまれた、看護師であるお母さんのことを、若いお医者さんが、三月の月末ごろ、新聞に投書しました。
 「母は看護師として、最後まで人のためを思って死んだ。だから私は医者として、将来、あの世で再会したときに、恥ずかしくないように生きなければならない」。ここに、あの世というのは、はっきりしてくるんです。お母さんは、人のことを考えて、人のために死んだのですね。この人にとっての、お母さんにとってのあの世というのは、患者たちを助けたい、そういう思いのあの世ですね。そうすると、あの世というのは非常にはっきりしてくる。

二、その後、キャンディーズのスーちゃんこと田中好子さんが亡くなりました。そのメッセージもすごいです。田中好子さんがいったのが、「津波で亡くなった人たちのことを思うと肝がつぶれそうだ。私はもう頑張りきれないかもしれない(乳癌二十年)。だから私は、天国で復活して、(天国で復活というのはキリスト教の言葉なんですけど)津波の人たちを支えたい」と。ここも田中好子さんのあの世というのは、非常にはっきりしてるんです。つまり、人さまを助ける。そういうあの世ですね。

 こういうふうに見て参りますと、あの世というのは、今まで難しくばかり考えてたけれども、実は案外単純なことだと見えてくるわけです。イギリス人で、確かゴーラーさんだったと思うんですけど、『死と悲しみの社会学』という、三百五十人の遺族を調査した報告書があります。その中に、あの世に関することを聞いてるのです。

 社長が亡くなって、社長夫人にインタビューしてるんです。「あなたのご主人は亡くなってどこへ行きましたか」「天国に行きました」。「天国ってどういうところですか」そうすると、社長夫人が、「知りません。天国はどういうところか知りません。だけど、天国というだけで十分です」。これを読んで、私はショックを受けたんです。天国ってどういうところか、人間が説明したら、それは人間の物差しでしょう。天国は、私には分かりません。私の物差しでは分かりません。ただ、天国というだけで十分です。つまり、人間の物差しを超えた、神の世界へ行った。この論理はすごいですよ。日本人にはこういう考え方、なかなかできないと思いますね。そういうように、天国の問題、あの世の問題って調べていくと、重要な問題が見えてくるわけです。

三、最近、スピリチュアル・ブームでもって、そういう人たちがいってるのは、天国とかあの世というのは、儀礼を介在し、儀礼でだけいっているから、本人にはさっぱり分からん。本人が納得するあの世であるべきだ。本人に納得できる、本人が感じ取れるあの世であるべきだと。これはなかなか重要な問題です。

 「おくりびと」という映画の原作は、青木新門という人の書いたものなのです。富山県の葬儀屋さんです。その青木新門さんが、全日本仏教会で講演して、「私は葬儀屋として、随分たくさん、坊さんたちのお説教を聞いてきた、お葬式に立ち会って。だけど、坊さんは、あの世に行く手続きばっかりしゃべって、あの世のことはしゃべらない。」見事な指摘ですよ。戒名がどうだとか、お布施がどうだとか、棺桶に入れるときには手甲脚絆でこうやってとか。手続きばっかりいって、肝心のお浄土というのはどういうところだってことは一言もいわない。

 

(二)

 私たちは、あの世というのはもっと真剣に考える必要があるんじゃないか。あの世の特徴は、必ず善悪と連動する。これはニーチェもいってるし、哲学者たちがいってることなのです。人間が葬儀をした一番古い証拠は、フランスの洞窟にあったご遺体に調査した結果、お花の花粉がたくさん見つかったんです。何万年も前の洞窟です。それで、死者に花を供えた最初の記録とされているのです。だから、動物と違って、人間だけは、人が死んだときに、そういう葬儀をしてるわけです。花を供える。これはなぜかということなんです。

 それが発展してくると、必ず、あの世は善とか悪と連動している。人間は善や悪を行ってますから、それが死んでおしまいっていうと、ニヒリズムです。死んだらおしまいだったら、この世で何してもいいことになるのです。いろんなことをしたら、それだけ責任があるじゃないか。だから、死んでおしまいには、どうしても考えられない。第一、生まれてくるときに、何で健康な人であったり虚弱な人だったり、男だったり女だったり、違いがあるかっていうと、前が何かあるだろうと、こう考えざるを得ない。遺伝子的にもそうですからね。遺伝子的に、われわれは両親から、三十何億年かのタンパク質の歴史を引き継ぐわけですから。前があるんです。前があって、われわれ、この世でいろんな活動してるならば、死んだらそのまま終わりには考えられないということになりますね。人間の死後というのは、善悪と連動して考える、と哲学者もいってるわけです。

 対象としてのあの世と、主体として行くあの世という問題もあるのです。あの世に行くのは、霊魂が行くとか心が行くとかというふうな主体の問題と、あの世というのはどういうところでという三つの問題があるわけです。

 

(三)

 お釈迦さんが、四人の妻という話をしているのです。あるところに一人の商人が居りました。その商人は四人の妻を持ってました。あらいいね、奥さん四人も持てるのと思ったら大間違い。これは家を守るためのシステムで、この夫たる人、四人の妻を持つことは、四人の妻をみんな平等に扱える人。自信のある人はあんまり居ないと思うんですけどね。しかも、四人の妻はみんな、絶対争わない。しかも、第一婦人というのは、あとの三人の妻の面倒を全部見るんです。他の妻が産んだ子どもは、全部、第一婦人が育てるんです。これが、タイの辺りから地中海ぐらいまである習慣なんですね。ただし、これは資産のある人です。

 そこで、お釈迦さんがいうんです。あるところに一人の商人がおりました。その人は四人の妻を持っていました。第一の妻は、いつでもそばに置いてかわいがっている妻でした。第二の妻は美人で、人と争って取った妻でした。第三の妻は、時々会ってほっとするような妻でした。第四の妻は働き者で、ほこりだらけになって、夫から忘れられている妻でした。あるときその商人が旅に出ることになりました。インドでいう商人の旅というのは、キャラバンなんです。一番大きな資本家が隊長です。他の小さな資本家がそれに加わるんですね。町から町へキャラバンで行きます。

 古代の町は、必ず城壁で囲ってあります。盗賊を防ぐためなんです。町民を守るためだけじゃなくて、商人を守るためなんです。商人が来たら、その町の中に入れまして、そこで、交易をいたします。交易をした税金が、町に入ります。こういうシステムになってる商人なんです。インドの商人たちは、そうやってインド亜大陸を行ったり来たりしております。

 あるとき、その商人は旅に出ることになりました。今度の旅は少し長いから、寂しいから、妻を一人連れていきたいと思って、第一の妻のところへ行きましたら、その妻は行けないといったんです。しょうがないから、第二の妻のところ行ったんです。私は好きであなたの妻になったんじゃない。あなたが私を取ったの。だから、そんな危険なとこ行く義理はないでしょって断ったんです。第三の妻のところ行ったんです。そしたらすごく心配してくれる。だけど行かれないから、せめて町の外まで送らせてくださいといった。しょうがないから第四の妻のところへ行ったんです。そうしたら、私はあなたの妻ですからといって、このほこりだらけの妻を連れて、この商人は旅に出たと、お釈迦さんはいうんです。

 お釈迦さんは、さらにいうんです。この商人とは誰か。それはあなた自身だ。旅とは何か。死出の旅路、あの世に行くことだと。第一の妻って何だ。いつでもそばにおってかわいがってたのは、あなたの肉体だ。二番目の奥さんは、美人で、人と争って取った妻、これは財産ですって。私は好きであなたの財布の中に居るんじゃないんだ、あなたが取ったからここに居るんだから、そんなとこは行かれませんって。三番目の妻は、時々会ってほっとする妻、親族ですって。皆さんだって、お葬式やら結婚式やら、何かのときに親族集まると、商売のこと関係なしに、あそこのおばあちゃん元気かいとか、そんな話するでしょう。だから、親族ってのは、時々会ってほっとする。世間の商売と関係ない話をする。心配だけど、一緒に行くわけにはいかないから、せめて町の外まで送らせてくださいっていうのは、町の外ってお墓ですって。親族はお墓まで来てくれる。だけど、墓穴には入ってくれない。

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 そこで第四の妻。働き者で、ほこりだらけになってる妻って、あなたの心だって。心はほこりだらけになって、居ることさえ忘れられてる。その心という妻は、私はあなたの妻ですから離れませんというから、この商人は、心という妻を連れて、あの世に行ったっていうことは、あの世に行くのは心だ。心がつくるものだ、心が見るものだ、ということなんです。
 お釈迦さんのお説教です。分かりやすいでしょ。そうすると、心が、私が喜べば、あの世も喜びになるんです。私が借金であいつに貸したのがどうだとか、あの野郎、許せないとか、そういうの思い出して死んだら、地獄なんですよ。単純明快でしょ。

 

(四) 

 正法眼蔵の言葉です。「たとい百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり。」

 たとえこの人生の百年の、日月は毎日ですね。声色ってのは、般若心経にも出てくるところの外界のことです。声、それから物質、味わい、香り、音。これが外界の刺激です。その奴婢と馳走すってのは、奴隷となって走り回ってる。毎日、あくせく、ニュースがどうだとか、タレントがどうしたとかって、本当にわれわれ走り回ってる。けれども、その中一日の行持、その中で一日、ありがたかった、よかったって喜ぶと、一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり。この人生がみんなよかったになると同時に、あの世もよかったになるんだ。

 つまり、あの世というのは、自分が喜んだら、喜びのあの世がそこに実現する。そうしたら、この人生の一生涯がみんなよかったになる。シェイクスピアのいう、終わりよければすべてよし。死ぬときも、あなたは人生修行でつくるものだ。これがあの世だっていうことなんです。
 千葉県の八千代に、在宅医療を勧める会っていうのがありまして、そこのボランティアのひとが、勉強会やるから来てくれ、というんで、行きましたら、市民ホールに四百人ぐらい、聴衆が集まってまして、九十分ぐらい話しました。終わったらそのボランティアたちが、反省会をやるから付き合ってくれというんで、小料理屋みたいなとこへ行ったんです。

 ボランティアのご婦人たちが十数人、それを応援してる地元の名士や坊さんが六~七人居ました。乾杯が終わりましたら、一人の老人が立ち上がりまして、きょうの会合はご婦人が多いから、聞きたいことがあるんです。女の気持ちっていうのを聞きたいっていうんです。「私はことし八十になるんですけれども、六年間寝たきりの家内を、看護して、数年前に看取ったんです。ところが家内が息を引き取る三時間ほど前に、突然「あんた、愛してる?」って言ったんだ」って。愛してるなんて言葉は使わない世代。だから、びっくりしたんでしょうね。

 「それは、惚れた腫れたじゃなくて、私たち結婚してよかったかっていう質問なんじゃないんでしょうかね」っていったら、女性たちが、そうだそうだといった。ある女性が、「ところでおじさん、どうしたの」って聞いた。「もう困っちゃって、小一時間考えた」って。それでやっと腹が決まって、女房の枕元へ行って、「わし、おまえと一緒になれてよかったよ」っていったんですって。そうしたら、奥さんもう声が出なくて、口をもぐもぐするのが精一杯だった。それから一時間ちょっとで息を引き取ったんですって。ある女性が、「おじさん、間に合ってよかったね。」そうです、終わりよければすべてよし。この一言で奥さんは、あの世へ行っても、ありがとうっていう世界へ行ったんです。心が行くっていうと、心というものが行くんじゃなくて、心がつくるあの世。こういうことをいってるんです。

 

(五)

 行為・心を引きずって「見るあの世」、善悪とあの世の問題ですね。人間が死に直面したときの、過去や心の問題っていうのをどういうふうに整理したらいいかっていうと、表のようになります。業論といいますけど、まず、生まれるという字に、有ると書いてあるでしょ。ショウウと読みます。有るっていう字は、仏教ではウと読みます。有というのは、存在という意味です。生有というのは、生まれるという存在の在り方。具体的にいうと、受精から、自発呼吸しておぎゃあというまでを、生有といいます。つまり、お母さんの胎内に居る状態が生有ですね。

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 その隣に本有と書いてありますね。本有というのは、いいにくいからホンヌと発音したりしますけど、一般的には。自発呼吸をしてから心臓が止まるまでの自立している生命。今、お互いは、だから本有ですね。本有の次が、死有って書いてありますね。死有というのは、心臓が衰えて、完全に心臓が止まるまでの時間です。交通事故なんかですと、ほとんど一瞬だったり、意識を失ってから一、二時間だったり。脳梗塞や心筋梗塞なんかですと、五~六時間だったりとか、いろいろ人によって違いますが、心臓が止まるまでの間を、死の存在、死有といいます。

 それで終わりとは考えられないから、何らかの形で他のものになるだろうと、明らかに物質としては他のものになりますね。土になったり灰になったりしますね。それでまた自然に返るわけですから。だけど、心も、そこで終わりとは考えられないから、インド人は中有ということを考えたんです。中有というのは、空という意味です。ウは存在。そうすると、空の存在って何だ。肉体がない存在という意味です。中道っていう言葉。仏教では、中道って、右翼と左翼の真ん中行くっていう意味じゃないんです。何者にもひっつかないという意味なんです。

 インド人は、最初の中有を七日と考えた。初七日ですね。何で七日かというと、太陽の巡りと地球の関係を割っていくと、黄道といいますけど、太陽の道、それを割っていくと、二十四節気というでしょう。割ってくと、一番小さい数が七になります。ですから、今、暦は全部七日でしょう、日曜日から始まって。これは宇宙の巡りの関係で、七は、紀数といいます。七日の間に何かに生まれ変わるだろうと、そういうふうに説明的に作ったんです。だけど、最初の七日で生まれ変われなかったら、二回目の七日。最大七を七回で、四十九日の間に何かに生まれ変わるだろうということが、四十九日の出発点なんです。これがインド人が考えたものです。

 こうやって、生有、本有、死有、中有と、われわれは存在を繰り返してる。受精によって母体に宿りますね。医学的にいうと、卵管の真ん中で受精するんです。それから、一分割、二分割して、八分割ぐらいになったころに、だんだん子宮壁に出てきて、そのときに出すホルモンによって、胎盤ができるんです。受精卵がホルモンを出さなきゃ、胎盤はできないんです。胎盤ができて着床する。生命の持ってる不思議ですね。

 いのちと心と行いを業といいます。それは①依報、生命は環境の中に生まれてくる。地球環境。水分も、両親っていう家族、現代の日本という環境。これが依報です。そして、①ー2正報とあります。環境に支えられて、個体となるということです。そして、②旧業と書いてクゴウと読みますが、お釈迦さんが亡くなった後から、この言葉はできるんだそうですけどもね、これは、命のことです。業というのは行為のことですから、心と行為の基本は生命だといっているのです。

 人間は二本足で歩いて、人間の脳みそもらってるから。犬は犬で嗅覚が発達して、嗅ぎながら歩いてるでしょう。ゴキブリはゴキブリのようにしか生きられないでしう。心の基本は生命なんですよ。生命で心ができるから、男はやっぱり男的だし、女は女的なんですよ。虚弱な人、丈夫な人、音楽の得意な人、スポーツマン、みんなそれぞれ違うでしょ。これが行為の一番基本と考えるんです。

 そして、③、宿業ってのは、コンプレックスです。心の習慣や潜在意識。④、共業ぐうごうといって、本人の責任じゃなくて、社会の影響で起こる行為の習慣です。戦争の時代に生まれたばかりに、戦争に行かなきゃなんないとか、その下の不共業は、他人と共有しない業、自業自得という意味です。
 ⑤が三時業。行為の影響力、心の影響力は、三つの時間差で表れる。お釈迦さんがミルクと同じだっていってるんですね。ミルクは、かき回すとすぐに固まる部分、しばらくして固まる部分、ずっと後に固まる部分に分離する。今やった影響力がすぐ現れる。しばらくして後に現れる。三番になると、忘れたころに現れる。結婚しようなんてときに、親せきのおばさん、反対した。おばさんがすっかり衰えてから、おばさん、私、結婚するときに、うちの亭主の悪口いったわね、なんて仕返ししたりしてね。忘れたところに影響力が表れる。こういうふうに、お釈迦さんはいってるんです。

 逆にいうと、今、影響が現れてないことがあるってことでしょう。本人が、やったこと忘れていても、今、現れていない影響。それがもっと後から出るかもしれない。

 それから、⑥異熟業というのは、物理学では、ガスを一〇〇燃したらば、五十が水を温めて、五十は空気を温めた。そうすると、空気を温めたのと水を温めたので、五十と五十で、元の一〇〇になるでしょう。物理学の因果関係は、原因と結果は等しくなきゃいけない。ところが、人間は違うんです。子どもがお父さんに向かって、ばか、なんていったりするでしょ。お父さんは、何だ、ごつんとやったりする。そうすると、ばかっていったらぶん殴られたら、原因と結果、違うじゃないですか。心を通すからですって。夫婦の間柄だって、売り言葉に買い言葉ね。結構、異熟なんですね。

 そしてその次。⑦、新業。この①番から⑥番までを引きずって、朝から晩まで新しい行為をやるのを新業というんです。例えば、レストランに入って、きょう、何食べようかしら。ゆうべ、肉を食べたし、きょうは盛りそばにしよう、なんて、胃袋と相談しながらね。つまり、われわれが自己決定をしてるのは、みんな、過去を引きずって自己決定してるんです。好き嫌いもそうですね。そうすると、新業ってのは、そういう、朝から晩まで新しい行為を自己決定してるんですけど、それには二種類ある。

 一番は引業。過去を引きずるんです。それでまた愚かになってしまう。また悪口いっちゃった、また夫婦げんかしちゃったというのが、引業で、それを輪廻といいます。過去の愚かさを繰り返すという意味です。二は、満業といって、喜びや良きことが熟成して、これを別解脱ともいえます。ハラダイモクシャっていうんですけどね。別というのは一つ一つ。夫婦げんかをして、これではいけないと反省して、次のときに、夫婦げんかにブレーキかけて。そうすると、夫婦げんかを一つ解放される。繰り返しから解放される。それを別解脱といいます。そうすると、この新業、新しい行為の選択のときに、本人が、知恵が働いたら、愚かさを繰り返さない。知恵が働かないと、また夫婦げんかしちゃったり、悪口いったりね。お酒や薬物でもって道を誤ったり、中には、女子高生のスカートの中を写真を撮っちゃって捕まったり。万引きもそうでしょ。癖になってるね。ですから、引業、満業、自己責任で毎日毎日、私たちは選択してるんです。自己決定してる。そのときに、何を目指すかです。良きものを祈って、そういう行動をするか、または甘えで、あるいはまた、お酒を飲み過ぎたりしますね。私も人のことはいわれない。でも、最近ありがたいことに、体力が弱くなってきましたから、たくさん飲めなくなってね。朝までぐっすり眠れることがしばしばあります。これも引業なんですよ。

 これが本有で、われわれはずっと、一生涯これを繰り返してるでしょう。ところがこれが、死有のところの下に、イとロで、恐怖の死と穏やかな死とあります。どっちなのかですよ、死に直面したときに。そのときに、さっきの八千代のおじさんみたいに、本当に、死に直面して、喜びになるかどうか。中有のときに本人が見るあの世。つまり、本人が意識朦朧の中で、あの世を見るっていうんです。それがa、b、c、dとあります。

 aは、人生本当に満足している、解脱です。悟りの喜び。悟りという世界を見てるんです。倶会一処。倶ってのは、ともにという意味です。浄土真宗のお墓に時々あります。ともに一処で会いましょう。一処って何だって、阿弥陀様のおいでになる、蓮のうてなのところ。あそこで待ってるからね。つまり、じいちゃん、ばあちゃんがあそこに居るんです。阿弥陀様も居るんです。私も先行って待ってるからね。子どもたちも孫たちも、みんな来るのよって。これが倶会一処。ホスピス問題で非常に有名なんです。海外のホスピス関係の人も、日本にはすごいお墓があるというんです。知ってるんです。それがこの倶会一処。阿弥陀様のところ。そこに父さんも母さんも私も子どもたちも来るんだよ。見事でしょ。あの世というのは、悟りという、仏さんの世界というあの世を念じてるわけです。

 bは、喜びの中有を、さっきの八千代のおじさんみたいなもんです。喜びという天の世界へ、あなたのあの世は天の世界だとなります。

 そうするとcのところ、恐怖、あるいは憎しみで、あるいは女房がこうしたとか、亭主に裏切られたとか、そういうのを思い出す、そういうあの世ですから、それを地獄というんです。

 dは、ある悪いことをした人が、死に直面したら、地獄が見えてきた。おれは悪いことしたら、やっぱり地獄へ行くんだよな。本当に悪いことして迷惑掛けたなと反省したんです。そうすると、反省というのは謙虚ですから、そういうあの世が現れて、地獄の中有が消えて、良きあの世が現れてきて、この人は天へ行った、とお経に書いてあって、これを道元禅師も『正法眼蔵』で取り上げているんです。つまり、死ぬ瞬間もあなたの修行ですよ。あなたが何を祈るかによって、死ぬ瞬間に変わるってことをいっているのです。

 それからe、非常に罪深い人だったんだけど、いいこともしていたために、死に直面したときに、喜びの中有が見えたんですね。天が見えたんです。おれは、悪いことばっかしてきてるのに、何でこんなにいいあの世が出てくるんだと思いまして、お釈迦さんは、善因善果、悪因悪果っていったけど、おれみたいな悪人が、こういういいあの世を見るってことは、お釈迦さんがいったことはうそだったんだと疑いの心を持ったために、たちまち天の中有は消えて、地獄が現れ、この人は地獄へ行った。このdとeをいうために、今日これだけの話をしているのです。つまり、最後の最後まで私たちは、人生修行だってこといってるんです。

 

(六)

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 私たちは、死ぬときにもひたすら悟りに憧れなさい。念仏ってのは、仏に憧れるという意味ですから。だから、悟りに憧れなさい。そうしたら、悟りの中有に行きますよといっているのです。久坂部羊という医者が書いた本に、フィリピンだかインドネシアで、村で、長老に、人はいつ死ぬかっていったら、そんなこと決まっとる。足が衰えて、歯が駄目になって、目が見えなくなったら死ぬっていったって。見事な説明でしょ。目が見えなくなってくると、道元禅師もいってんですよ。目が見えなくなってきたら、いよいよ自分も最後だと思って、ひたすら念仏唱えなさい。仏に憧れなさい。そうしたら仏の世界へ、そういう良い世界に行くから。つまり、自己責任の修行をしなさい。それによって、あの世は変わるんです。

 お釈迦さんが旅に出るので、残る坊さんたちが、今、病人が居るけど、あの人、病気重くなったらどうしようって、お釈迦さんに相談する。そうしたら、仏と悟りと修行の仲間を思い出させてあげなさい、つまり念仏させなさい。そうしたら、そういうあの世の行くからっていうこといってるんです。ですから、お釈迦さん以来、何で戒名もらったり法名もらったり、仏さんに帰依する儀式をするかっていうと、そういうあの世に行きたいという儀式なんです。ところが今の日本のお葬式では、戒名・法名をいただくのは、本人の息がなくなってからやっている。鎌倉時代の坊さんたちは、生きてるうちにやってたんです。道元禅師もそうです。京都の興聖寺で、在家の信者が病気になったからお寺で死にたい。じゃ、どうぞっていうんで、お寺へ来る準備してたんだけど、元気になってきたから、準備、途中でやめちゃった。年が明けたら急に悪くなって、準備間に合わないから、慌てて、先輩のもの借りてやってきて、もう間に合わないっていうんで、道元禅師が、前の晩に戒名を与えて、お弟子にするんです。だから、間に合って良かったっていっているんです。

 浄土系ですと、今でも比叡山にもありますけど、阿弥陀様の胸のところに釘があって、そこから五色の糸を引っ張って、病人に持たせて、死を看取ったのです。そういうことをやっていた。鎌倉の光明寺、今、宮林先生が住職してますけど、それ開いた良忠さんっていう人が、書いた『看病用心鈔』があります。看病の本は、平安末期から鎌倉時代に二十冊ぐらいあるんです。目的は全部、そこで悟りに憧れよう。そうしたら、悟りの世界に行かれる。そのために看病をしているんです。

 供養というのもそうなんです。私たちが何で、亡くなった人にお経で、お念仏やお題目で供養するかっていうと、亡くなった人たちに、悟りというあの世界を、贈り物としてあげる、お釈迦さんはこういってるんです。パセナディ王という人が、お母さんを埋葬して、祇園精舎に寄ったんです。そのときに、お釈迦さんがいうんですね。亡き人への供養というのは、遠き人に、餉するが如し。カレイというのは、保存食とかお弁当っていう意味です。皆さんも、家族がロサンジェルス行ってます、上海へ行ってます、どこそこの外国の大学に留学してますとかっていうと、食べ物送るでしょ、季節季節の。そういうような、手が届かなくなった人に、安らぎという保存食、お弁当を贈りましょ、といってるんです。これが亡き人への供養。つまり、亡き人に悟りを贈る。

 ですから、戒名もらったり何だりするっていうのを、単なる習慣じゃありません。江戸幕府以来、習慣的になったみたいですけども、基本的には、私は悟りに憧れて、仏の弟子になった、キリスト教だったらば、洗礼名をもらった。それで安心して神様のとこへつながっていくんだ。神様の待ち合わせ場所へ行くんだと、こういうために、法名もらって弟子になる作法してるんです。それを、儀式だけやってるから分かんなくなっちゃう。あの世というのは、皆さんが自分でつくるところ、自己責任ということなんですね。

 ここ仏教塾の卒業生の人が、「去年の三月十一日は、私は宮古におりました。仲間の五人の医者と打ち合わせ会をやり、朝食が済んで、午後から東京に用事がありますので、これで失礼といって、東京へ帰ってきたら地震が来ていて、今朝まで一緒に居た五人の医者は、全員亡くなりました。」「その宮古の病院って、海岸からどのくらい」と聞いたら、「五百メートルぐらいです。四階まで全部、津波にやられました。」

 亡くなった人たちはみんな、自分のこと考えてなかったと思うんですね。患者のことを考えていた。私たちはやっぱり、自分でつくるあの世でなきゃいけないということなんですね。

 死の臨床研究会での日赤の看護師さんの発表だったんですが、「あなたが看護師になって、最初に患者が遺体になったときに、どう感じましたか」、と聞くんですね。そうすると、「とても厳粛な気持ちになった」という人たちが二十四パーセントぐらい。「怖かった」という人が、五十数パーセント。
 きのうまで手握ったり食事の世話したりしてた患者が、きょう、ご遺体になったら、何で怖くなるんですか。看護師ってのは、だいたい二十歳前後で働きますから、ご家庭で死者を見たことがない。自分がきのうまで脈取ってた人が、ご遺体になったら怖かった。ところが、二十何パーセントの人は、厳粛な気持。私のところのおばあちゃんやおじいちゃんと同じようだったわ、といういう人がご遺体になったら、怖くないんです。断絶と連続です。ご遺体になったら怖かったっていうのは、人格がつながってないから、断絶してるから怖い。人格がつながった人は、連続してるから。面白いおばあちゃんだった。その人がご遺体になったら厳粛な気持。あの世もそうなんです。

 あの世というものに憧れや連続感があったら、あの世は恐怖ではなくなって、むしろ私が何を求めるかによって、良きあの世になるでしょう。ところが、あの世のイメージができない、あるいは逆に、あの世に居る嫌なやつを思い出したりすると、断絶感。ですから、あの世というのは、機能的にいえば、連続感と断絶感の問題でもあり、かつ、私が何に憧れてるか。道元禅師はいうんです。「次に生まれ変わるときには、どういうお母さんのところに生まれたいと思って、ひたすらに祈りなさい。」こういうのを儀礼化してるのを、チベットの死者の書っていうんです。その死者の書は、今、アメリカで、エイズ患者に読み聞かせをやってるわけですね。つまり、あの世に憧れを持ちましょうということをやってるんです。そうすると、あの世という問題は、非常に現代的な問題でもあるということが分かっていただければと思います。(終)

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