中野東禅先生

曹洞禅にみる大乗仏教(第27期スクーリング講義録)

2014年9月10日 仏教文化170号

 大乗仏教としての視点からみた曹洞宗についてお話しますが、基本的なことは、昨年の全宗派合同講座講義録(『仏教文化』第一六八号二十六・四・十)を参照していただきたいと思います。


一、お釈迦様の教え


 お釈迦様の教えは、(一)縁起観を主体に、人間論、存在論、悟り論、生き方論の体系化。縁起という言葉は、仏教の基本ですので、大乗仏教も南方仏教も皆同じです。あらゆる存在は条件の集合である。宇宙も、地球も、皆さんの肉体も、人間関係も、好きになるのも、嫌いになるのも、みんな条件の集合。病気になるのも、死ぬのも同じことです。ですから、あらゆる問題はそういう意味では真理なのです。すべては縁起という真理です。これが仏教の基本の存在論です。(二)迷いと悟りの実践論に、インド文化の禅を深化させた瞑想実践による解脱を据えた。これが、インド文化と違うところです。インドの宗教と違うのは禅。いわゆる瞑想です。インダス文明が五千年ぐらい前に今のパキスタンのインダス川の流域にあったのですが、そこにヨーガというのが始まっていたわけです。インドの宗教で、行者が川の中でじっとしていたり、逆立ちしたりする苦行というのをよく聞きますが、それはインドを支配していたアーリア人の文化です。その人たちがカスピ海の方から持ってきた宗教が苦行だそうです。ですから、原インドのインダス文明はヨーガなんですが、ヨーガや禅と、苦行は異質なものです。

 それを踏まえて、お釈迦様の悟りの基本は、坐禅の静寂。命も心も静寂になる。仏性とか仏心と言われるものの原点は、その静寂です。静寂というのは、頭に血が上る以前という意味です。命の原点は静寂ですから、原点に戻ればいいのです。新たに獲得するのではなくて、戻るのです。戻ればすべては救われているという論理が成立するわけです。新たに獲得しようと思っても、獲得できない人がいっぱいいるわけですから、すべて救われるということは成り立たない。ところが、命や心はもともと静寂なんだということだったら、そこに戻ればすべては皆さん仏性でしょうね。こういうことが論証できるわけです。これが、インドのお釈迦様の宗教の特徴であり、大乗仏教に発展するわけです。


二、大乗仏教成立の簡単な理解


 大乗仏教成立の簡単な理解ですが、断絶、苦悩状態にある私たちすなわち衆生というか、迷ってる人間とブッダは断絶している。そこで私たちは階段を上るように、その断絶を越えて発心し、帰依して、功徳を積んで、出家して、修行する。そして羅漢になって、解脱を得る。さらに断絶があって、その上にブッダがいるという、二つの断絶がある。ここのところは努力主義的な要素があり、努力した人だけが救われるから、小乗と言ったんです。すべての人が乗れるのではなくて、努力したら乗れるという意味で、大乗仏教の人たちが南方仏教を小乗仏教と言ったのです。

 それに対し、ブッダの悟りの根源は静寂ですから、それは大乗の視点として、私たちのすべての根底に流れ込んでいるわけです。それを仏性という。仏性というのはすべての根底ですから、その仏性が気付いて苦悩を自覚する、愚かさを自覚するわけです。人を裏切ったり、夫婦喧嘩したり、自分はおかしいと気付く。気付く力は仏性から来る。だから、そこで発心をして、修行をしますから、浄土真宗的に言えば本願、禅宗では本証と言ったりします。本来あるものが働き出して、発心し、自覚し、そして修行をする。その修行は一生涯、何かを獲得する修行ではなくて、命の根源を確かめ続ける修行です。それを本証に対して妙修と言います。これが大乗の円環です。


三、大乗仏教としての曹洞禅


 禅宗というのは、菩提達磨によって西暦四~五世紀に成立いたしました。お釈迦様がお隠れになった後、二百年位してお経の再編集運動が起こって、般若経や、法華経などが出来てきます。そういう中で、四~五世紀頃には心の学問も発達いたします。スリランカへ行こうと、タイへ行こうと、今でもほとんどの仏教徒は瞑想いたしますが、禅瞑想というのは仏教の基本を成しております。これは宗派じゃないです。あなたがそれになるためですから、スリランカやチベットでも、すべての仏教は禅瞑想をやっています。その禅瞑想の人たちが、さらに自分たちは禅を中心にすると言い出したのを禅宗と言います。禅を中心にするという考え方が、ブッダに帰れ運動としての禅なのです。しかも、禅は生き方ですから、もちろん信ずることと同時に、いつでも禅の静寂、瞑想を座標軸にして、現実の病気やら、社会生活やら、さまざまなところを人間らしく生きて、そこで仏心を確かめていこうということです。


四、「私がそれになる」曹洞宗


 「私がそれになる道元禅」と名づけましたが、その静寂に私が「なる」ということです。(一)世界を成立させているものは、「縁起・空・寂静・不染汚」の真理・本証である。本願も同じような意味ですが、向こう(根源)から呼び掛けられてる。だから、外側にある絶対者ではない。(二)迷い・苦悩・染汚から解放される道は、「空・寂静・不染汚」に「戻る・なる」ことである。染汚というのは、染まって汚れる。つまり、概念、観念。われわれの概念・観念は、自分の心や損得、そういうものに染まって、汚れて機能しています。不染汚の「不」は「以前」と解釈します。すなわち不染汚というのは、染まって汚れる以前ですから、私の概念・観念以前の静寂。そこに戻って、「それになる」こと。それが禅瞑想です。(三)従って、それと、それを説いた仏祖に憧れる。「なる」というのは憧れ・喜びです。別の言葉で言うと帰依といいます。だから、イエス様を信じます、神を信じますというのは、それをよりどころにするわけだけど、人からよりどころにしなさいとか言われることではない。私がそれに「なる」というのは、憧れなかったらならないのです。帰依というのは憧れることです。念仏も南無妙法蓮華経もそうです。それに「なる」ことを妙修とも言うわけです。労働しているときは労働しているところで、お茶のときはお茶のところで、いろいろなかたちで、私がその空・無心になろうとすること、これがその生き方になるわけです。そういう生き方の流れに入ることを「道」と言います。これが、室町時代から日本で道の文化というのが出てきます。「道」の文化は禅宗だけではなく、真言、天台の教えもみんな入っており、中でも禅宗が特にそれを主張して、茶道、武道、柔道、華道、みんな「道」と付くのは、その流れに入ってという意味です。

 特に禅宗の重要な点は、「角のとれた」人間性。角がなくて、丸くて、協調性のある人間性を目指した。特に曹洞宗はそうです。

 次に、人生の現実たる「地獄」から逃げないということ。それが禅の生き方であり、苦しみから逃げる宗教じゃない。苦しみを解消する宗教です。だから、苦しみを背負いながら、苦しみを苦しみでなくする宗教と言ったらいいでしょうか。

 それを表しているのが、道元禅師の (一)一切に流入する寂静の「本証」に戻る禅(『普勧坐禅儀』)。「寂静」とは「静寂」のことです。
 ①「道本円通、いかでか修証を仮らん。宗乗自在何ぞ工夫を費やさん。いはんや、全体はるかに塵埃を出ず、だれか払拭の手段を信ぜん」。道はすべてに行き渡っている。すべてを見ているという意味です。観音様のことを円通と言ったりします。無心という道はすべての根源で行き渡っているから、わざわざ何かを獲得するような修行というものを用いるのではありませんと言っている。われわれは、塵埃、実は根源的には煩悩以前ですから、払拭の手段を信ぜん。わざわざ努力して煩悩を払う必要などなくて、煩悩以前に戻ればいいのです。煩悩以前が信じられたらいいのです。ここで道元禅師は、大乗仏教の根源は坐禅であると言われています。
 ②「須からく回光返照の退歩を学すべし。心身自然に脱落して、本来の面目現前せん」。回光返照とは、振り返りなさい。元へ戻りなさい。しかも、退歩。進歩ではなくて、バックすべしと。「身心自然に脱落して、本来の面目現前せん」。本来の静寂が実現してくる。
 そこで、③「善悪を思わず、是非を管ずることなかれ」。すなわち「心・意・識の運転を停め、念・想・観の測量を止め」というのが、これが坐禅のときの瞑想の重要な点です。「心」は、心の働く主体。「意」は、外界と内界をつなぐ意識の活動。「識」は、記憶など。「念」は、心の方向。「想」とは、記憶と照合する働き。「観」は、価値を考える力です。「念・想・観の測量を止めて、作仏を図ること莫かれ」とは、仏になろう、特別な仏という別物になろうなどと思うのは間違いだと、こういうわけです。
 ④「箇の不思量底を思量せよ」。思量というのは考える。考えていないところを考えなさい。「不思量底いかんが思量せん」。それでは、考えていないということか。それは非思量という。考えであって考えでない。つまり、坐禅をしたりお念仏唱えたりしてるときに、本当にゆったりとした気持ちになって、ああ、いいものだなと思えたら、そのいいものだなという思いは考えでしょ。考えだけど、日常の損だ得だという考えとは違う。だから、不思量底を思量せよというのは、日常的な考えでないところに向かって心が向かう。だから、やっぱり心が働いているのです。働いているけれども、損得の考えとは違うから、それを非思量と言う。考えであって、考えでないもの。そうすると、坐禅の瞑想というのがだんだん分かってきます。

 そこで「仏性を見んと欲わば、先ず須らく我慢を除くべし」(「正法眼蔵仏性」)。仏の心に出会いたいと思ったら、人間の思い上がり、概念、観念をストップしてみなさい。「修証はなきにあらず、染汚することは即ち得じ」。実践とその証明。行動と無心になるという結果とは、染汚することや概念では捉えられない。私たちは概念で説明をつけようと思うけれども、概念では説明がつかない。すなわち知らない間にそれになっているから。あなたが知らない間に喜びになっていたり、静寂な気持ちになっている。だから、概念で捉えようと思っても捉まえられない。気が付いたらなっていたのです。それを「染汚することは即ち得じ」と言っている。

 「為説は、かならずしも自他にかかはれず。他のための説著、すなわちみづからのための説著なり」。人に語る、教えるのは、自分が学ぶことだ。人から学ぶことは、私が人に教えることだ。教えることと学ぶことは一体なんだということを道元禅師は語ります。「一舌は説き、一舌は聞く」(「自証三昧」)。一枚の舌が一生懸命人に教えているとき、もう一枚の舌が一生懸命学んでるのです。(二)「無住処涅槃」とは、どこでも涅槃。それになるとは、あらゆる場面で「なる」ことである。トイレ使ってるときも、ご飯食べてるときもということです。どこでも心が落ち着いて、静寂でいる。心が柔らかくているということ。(三)「生死即涅槃」。この生き死に。年取ったり、はげたり、白髪になったり、そこが仏の命を確かめる場所。あるいは、そのこと自体が仏の命であるということ。

 禅宗は特に生き死にを問題にするというのは、生き死にのところで私たちは人生修行するのです。人間が仏心を修行するのです。(四)「あこがれ・帰依」は先に述べたとおりです。(五)出会い、共鳴、仏の力に催される。出会いというのは帰依ということと同じですが、出会いの感動です。感動がなければ駄目。だから、信じなさいじゃ駄目です。あなたが感動して、南無阿弥陀仏でも、南無妙法蓮華経でも、キリスト教でも、それに私が憧れて、しかも、そこに感動がなければ絶対駄目です。感動がなければいけないというのが重要な仏教修行の点です。(六)菩薩行。菩薩行とは、人と共に生きるということです。高野山の管長さんだった那須政隆先生は、菩薩というのは、これは仏の一歩手前という意味であると説明された。それを分類すると、一番目は、青年ブッダ。青年ブッダは悟りの一歩手前ですから、古いお経にも菩薩という名前で出てきます。二番目が前生のブッダ。前生のブッダというのは、『ジャータカ』や、あるいは、兜率天という天にいましたとかというかたちで物語に出てくるブッダです。この人間世界に生まれる前のお釈迦様ですから、悟りの一歩手前なのです。それから、三番目が、仏刹の菩薩。「刹」は国という意味です。仏刹の菩薩というのは、仏の国の菩薩です。

 どういうことかというと、私たち衆生は汚れているから、自分の物差しでしか物が見えない。だから、仏が見えない、悟りが見えない。そこで仏様は、悟りの世界からわれわれのためにこの現世に戻ってきて、われわれに見えるような姿をしている。それが、地蔵様や、観音様や、文殊様です。つまり、お釈迦様なり阿弥陀様なりが人間に見えるように、現世に戻ってきた。それを仏刹の菩薩と言います。仏像のお釈迦様の着ているものはぼろですが、観音様は、腕輪はしてるし、きんきらきんの飾りを着けている。なぜかというと、娑婆の人間に近付くために、仏の世界から娑婆に戻ってきた。一歩手前に戻ってきたからきんきらきんなのです。四番目の菩薩は、仏の一歩手前。それはあなた自身です。みんな、仏の命の中にいるけれど、仏をまだ実感していないから一歩手前なのです。

 大乗仏教というのは、特に悟りの一歩手前としての菩薩を重視いたします。南伝仏教にも菩薩という考え方はありますが、大乗仏教は特に菩薩を重視して、今度は私がその菩薩一歩手前を、あなた自身がその境目にいるのだから、利他=人のために働きなさいというのが菩薩行です。人のために働くことが、悟りと煩悩の、この世と悟りの間で、私がそれを確かめ続けるのが菩薩行です。ただ坐禅だけしていればいいというものではない。功徳を積むのも、私は悟れないから功徳を積むのではなくて、その間にいるから、人さまのためにも、また自分が喜びを受ける、そういう菩薩行をしましょうというのがこの菩薩という考え方の基本です。だから、大乗仏教とは、人のために働きなさいという菩薩行が一つの大きな考え方です。(七)発心に男女の差はない。発心に男女の差はないというのが、道元禅師の特に重要なところです。『正法眼蔵』の中に、礼拝得髄、女性でも悟った人を男性の坊さんはちゃんと礼拝しなさいと、鎌倉時代の初期に既に言っています。しかも、道元という人は、母方は藤原一族、父方は天皇家の村上源氏なんです。その道元禅師が、女性は汚れているからという、そういう古い宗教を批判しています。悟った女性を悟っていない男性は礼拝しなさい。これは革命的なことなのです。


五、道元禅師の現成公案


 『正法眼蔵現成公案』について、「現成」とは、現れる、近付いてくるという意味。「公案」とは、中国の言い方ですけど、真実という意味です。正法眼蔵というのは、正しい教えの目の蔵といいますから、ものの見方という意味になります。

 『現成公案』を読みますと、「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり」。諸法というのはいろいろな物事。物事が仏法として聞こえる。つまり、自分は間違っていたとか、こんな生き方してていいのだろうかということに気付いたときということです。自分が迷いに気付いたとき、迷悟あり。迷いと悟りという対立観念。修行と悟り、生と死、仏と人間というように、対立的に見えてくるというのです。

 「万法ともにわれにあらざる時節」。物事はすべて、私のご都合ではないじゃないですか。生まれてきたのも私の都合じゃない。すべては自分の都合を越えているわけだから、「まどひなくさとりなく」。迷いとか悟りという対立概念をさしはさむ以前ではないですか。仏とか衆生とか、生とか滅、生きてるとか、死ぬとか、そんなことは比較して価値を決める以前であり、それが物事の基本だということです。

 「仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり」。仏の道を求めると、豊倹とは、「豊」は豊か、「倹」は倹約、多い・少ないということ。つまり比較です。比較を越えている。存在すること自体がかけがえがないのだから、自分の命を、今さら比較してもどうにもならない。比較できないからこそ、現実は生きることがあり、死ぬことがあり、迷いもあれば悟りもある。つまり、生きているということは、比較を越えているということです。

 「しかもかくのごとくなりといへども」というのは、だからこそという意味です。「花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」。花が散れば、ああって言って悲しみの声を上げるし、草が生えると鬱陶しいとなる。私たちは、生きて、好きだ、嫌いだ、損だ、得だ、病気だ、なんだという、そこのところで清らかな心で生きる、こだわらない心で生きるというのは同時・一体なんです。これが禅の考え方です。現実の生き死にから逃げたら、仏心を実現する場所がなくなるわけですから、現実の病気やなんかのところに腹を据えて、そこで仏心を実現しなさい。だから、夫婦の関係や子育ても、もっと大事にしなきゃいけない。どの宗教もそういうことを言いますが、特に強調するのが禅宗なのです。

 「自己をはこびて万法を修証するを迷とす」。自分の物差しを当てはめて物事を行うから、そこに迷いが出るという意味です。「万法すゝみて自己を修証するはさとりなり」。人が困っているときに思わず手が出る。物事に突き動かされたときに、私はそこで私流に悟りは生きて働きます。西田幾多郎博士の言葉で、「われは汝によって確かめられる」。汝とは何か。相手という意味です。相手というのは、病気であったり、家族であったり、仕事であったり。私は、病気との関係で私を確かめさせられる。家族との関係で、私はどういう人間なんだ、私は何ができるんだろうか、私はこういう間違いをしたんじゃないか、後悔したり。そういうかたちで、私は物事とかかわることによって、私というものが確かめられると西田幾多郎博士が言っています。物事に素直に応じて、困っている人がいたら手を出す。それが悟りだ。つまり、現実の中で生きて働くしかないじゃないですか。現実と離れたところで黙って座ってて、悟りなどというのはあり得ないというわけです。

 「迷を大悟するは諸仏なり」。それに腹が据わって、そこから自由になっていく。それを仏様という。汚れを清らかさで包むのが仏様と言います。「悟に大迷なるは衆生なり」。清らかさを汚れで受け止める人が迷ってる人だという。「さらに悟上に得悟する漢あり」。ところが、不染汚の中で不染汚を確かめる本物の人もある。つまり、無心の中にいながら、無心をさらに確かめ続けていこうとする、そういう本物の人をいう。「迷中又迷の漢あり」。迷いの世界でさらに人を救うために迷いを背負っていく本物の人もいる。「漢」とは、本物の人という意味です。「迷中又迷」。迷いの中で人さまのために苦しむ人がいる。それは本物の人だというわけです。つまり、この世で苦しんで、そこで修行していくのが人間です。ここから逃げたら駄目です。

 「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず」。仏様は、自分は仏なんて自覚しない。ただ一生懸命生きているというわけです。「しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく」。自分は仏だとか悟りだとかと意識しないけれども、悟りを実証している。親切とはそういうことです。われわれが親切や愛や友情を働くというのは、自分は友情と思っていないけれども、友情を証明しています、実行しています。これが仏教的生き方だというわけです。「身心を拳して色を見取し、身心を拳して声を聴取するに」。つまり、身心というのは全身、命と心。「色を見取し」とは、全身全霊で物事の声を聞きとり、自己と一体な事として会得するからこそ、鏡と映るものの関係のように、異なる二つが関係するように考えるのは間違いである。水に月が映るように、何かを映すのが悟りではないのです。悟りになること。あなたが働くことだ。愛や友情や親切、無心、無我をあなたが働くことであって、お月さまが私に映るなどというのは、まだ悟りの説明の段階だ。お月さまが映るというのは説明としてはいいけれども、生き方というのは、そんな説明も忘れて、それに「なる」ことです。ならなきゃ駄目なのです。知るということは「なる」ことだ。これがインド哲学の基本です。だから、禅はその「なる」を主張するのです。

 「一方を証するときは一方はくらし」。つまり、泣くときには一生懸命泣いていいのです。悟りの目は、そのときは隠れていて見えない。だから、親切をするときは親切だけで精一杯でしょ。ご飯食べるときはご飯食べることで精一杯。それが「一方を証するとき」です。一方を実現してるときは、もう一方の方は隠れてしまっている。つまり「なる」ということはそういうことです。今やっていることを、丁寧に全力でやりなさいということです。

 「仏道のならふといふは、自己をならふ也」。日本の仏教界で最も有名な言葉の一つです。ですから、真言宗、天台宗、浄土宗、日蓮宗など、どの宗派でも、お坊さんがお説教でよく引用するのはこの言葉だそうです。仏教というのは、私とは何かを学ぶことだと言います。「自己をならふといふは、自己を忘るるなり」。私とは何かを確かめるというのは、エゴを忘れること。私はこうだ、私はこうありたいというのは、己を忘れてかかることだ。「自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり」。万法というのは物事。私を忘れるというのは、物事に突き動かされることです。今、人が困っていたら、思わず手が出る、そのことです。バスの中で年寄りが転びそうだったら、すぐ手が出るじゃないですか。すうっと相手に応じていかれる力。共鳴する力という意味なのです。

 「万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」。これは要するに私と相手、あなたと私、物事と私という関係を忘れることです。「脱落」というのは忘れること。関係性でもって、その場その場で、己を忘れて相手のために働くことを無心と言います。「悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ」。悟迹の「迹」は「跡」という意味ですから、悟り臭さの跡がないという生き方がある。つまり、臭みのない生き方がある。「休歇なる悟迹を長々出ならしむ」。臭みのない悟りを、いつでもどこでも誰にでも働かせていく。それが禅だと、こういうわけです。要するに、菩薩行というのはそういうことです。無心になるということはそういうことだと言ってるのです。これが大乗仏教としての曹洞禅の特徴だと思います。

 青原行思という人のところに、蘆陵から禅の精神を教えてもらうために、修行僧が訪ねて参りました。すると師は「あんた蘆陵から来たのか。ところで、今、蘆陵では米はいくらか」とこう聞いた。中国で一番いいお米が取れたのは、その当時、蘆陵というところで、ここの米の値段が中国の米の値段を決めたのです。米の値段は民衆にとって生活にかかわる。それを心配しているわけです。人のことを心配する。これが禅だという。これが素晴らしい禅問答として記録されています。

 それから、潙山という人に修行僧が「仏様ってなんですか」と聞くと、「山の下の田んぼで水牯牛が働いてるだろう。あれだよ」と答えた。水牯牛というのは、あめ色をした水牛で、農耕に合ってる牛です。要するに「人のために働きなさい」ということです。仏様の悟りとは何んですか。人のために働きなさい。それが無心になる方法ということです。禅問答というのは、結局生き方を説いているわけです。

 最後にこういうお話を紹介します。新潟県の長岡と福島県の会津との県境辺りの寺の住職で、八十歳ぐらいで亡くなった人の話です。亡くなったのは、今から三十年位前ですが、この人の手紙に、「こないだは地獄の門で断られ、いやはや今度は新潟のがんセンターも医者ドンに門前払いを食わされて、好きで嫌いな娑婆へまた、のこのこ、にこにこ、逆戻り。今度はいつまで娑婆ふさぎ」。昔の人は、生きてることを娑婆ふさぎと言っていました。「娑婆ふさぎするんだろうと。それまでは句集を出して、碑を建てて、あなた任せは楽じゃけど、寝てて小便するような、はたで見るほど楽じゃない」。このような内容です。この手紙を読んだときに、思わず拍手喝采しちゃいました。

 「寝てて小便するような、はたで見るほど楽じゃない」は愚痴ですけれども、問題はここなんです。「あなた任せは楽じゃけど、句集を出して、碑を建てて」に掛かっているということですが、実は、あなた任せと言ったときに、日本人の常識として、もういつお迎えが来てもいいですよという意味が隠れている。こう考えると、あなた任せでいつお迎えが来てもいいけども、寝てて小便するのは本当につらいんだよねという愚痴です。つまり、悟りとはそういうものです。愚痴言いながら愚痴にならない。だから私たちは、寝たきりになっても人生修行できる、無心という人生修行ができる。家族のため、介護者のため、自分のために愚かにならないように病気と闘ったらいいじゃないですか。これが禅の「地獄から逃げない」という考え方で、無心はあらゆる場面で実現するという禅の精神です。(終)

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