大洞 龍明塾長

蓮の葉をすべる露ほどの生涯や (第24期スクーリング講義録) 

2012年3月 2日

第一部

ベルリン博物館でのこと

 今年の一月に東京国立博物館で催された「仏教伝来の道、平山郁夫と文化財保護」展に行ってきました。目的はひとつの舎利しゃり容器でした。舎利容器というのはお釈迦様のお骨を入れる容器です。それはシルクロードの天山南路の中ほどに栄えた古代キジ王国の大寺院跡(スバシ故城の仏塔の中)から発掘して日本に持ち帰った、貴重な舎利容器です。容器の周りにはキジ楽舞がくぶが描かれていますが、シルクロードで古代キジ王国が一番音楽が盛んで、舞踊も盛んでした。様々な楽器を持った楽人や、踊り子たちがモザイク風に描いてあり、非常に美しく大きなものです。

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 当時、スバシ故城があるクチャ県は、清朝が支配する西の果ての地域でした。一八九四年に日本と清国が戦った日清戦争を前後して急速に清国の国威は衰え、西洋列強と日本の攻略によって風前の灯火でした。中国西域の果てクチャ(古代キジ国)にロシア・スウェーデン・ドイツ・フランス・イギリスに混じって、列強の一国として、日本も大谷探検隊による古代キジ国の遺跡調査がなされました。遺跡調査と申しましても調査するだけでなく、土の中に埋まっている貴重な文化遺産を掘り起こして収集し、壁画をナイフで切りはぎ取って梱包し、ラクダに載せて本国へ送るという、強奪に近い探検隊を各国が派遣したのです。一九〇三年には大谷探検隊がクチャに来て、この舎利容器を発掘し、同じく一九〇三年から一九一三年までは、ドイツのグリュンベーデル、ル・コック、エガンバルディが何百頭というラクダに発掘物を載せてドイツへ送りました。列強の探検隊が奪っていった古代の文化遺産について厳しく非難する見方もありますが、一面からいえば、文化度の高い国へ持ち帰った文化遺産が、高い技術で今日まで保存されていることを評価する見方もあります。ル・コックは、探検隊の中に非常に器用な学芸員が居たため、ナイフ一本で大きな洞窟の中にある一番いい壁画をナイフで切って、上手に剥ぎ、めくり、持って帰ったのです。

155-2-3.jpg図A帯花琲的鴿子窟拱頂和平頂上的壁画 紀元7世紀末

 皆さんは四月二十二日に仏教塾の入塾式を行って、その後、仏道修行をされておられますが、私はその三日後の四月二十五日から五月三日まで、北京・ウルムチ・クチャへと出掛けました。その時にキジル石窟の重要な壁画がドイツのル・コックによって持ち去られ、第一次、第二次世界大戦の戦禍を避けて、ベルリンの民俗学博物館に大切に保存されていることを知り、どうしてもドイツへ飛んで本物を見たいと思いました。

155-2-2.jpg図Bガンダルヴァとその眷属 7世紀以前

 五月二十日、ドイツ・ベルリン民俗学博物館で、ドレイヤー博士やスミス博士に面談し、いろいろなお話を聞いたり、写真を撮ってきました。私が『鳩摩羅什クマラジュウは彼の生きた時代の人々同様に扁平頭であった』という説を挙げていることを博士方に話し、推測が本当かどうかという証明を依頼したのです。私の推測に大変興味を持たれ、ヨーロッパの他の博物館にも協力を要請してくださるという約束を取り付けました。それから、鳩摩羅什記念館をクチャにつくるとすれば、そこに資料を提供したりすることについても、協力することはやぶさかでないということを云われたので、時空を超えた国際協力の申し出に嬉しく思いました。

 ベルリン民俗学博物館にあるキジル石窟の壁画、塑像を撮影してきましたが、図Aは七世紀末ごろのキジル石窟の作品で、頂上部に丸くドーム状に描いてあるものです。それをベルリン民俗学博物館では、実物大の洞窟を造りその天井部分に再現していました。

155-3-1.jpg図C十六帯剣者窟 騎士組像(6~7世紀)

 図Bは非常に芸術的で魅惑的な壁画です。これは『ガンダルヴァとその眷属けんぞく』と題されたものでキジル石窟にありました。ガンダルヴァは天界の伎楽を司る神で、いつもは食べも飲みもせずに、ただ香気=香りだけを食べ物に体を養い、楽をなすときに、舞いながら香気を発するという、いわゆる帝釈天の八部衆の中の伎楽で、いろんな物語があり大変面白いです。天界の神は、ブッダを招いて法を説いてもらうために、まず、必ずガンダルヴァを遣わして、歌舞を奏でさせました。この壁画は、一九〇三年から一九一三年の間に、ドイツのル・コックがキジル石窟の第一七一窟からナイフで切り出してドイツに持ち帰ったものです。

155-3-2.jpg図D頭部の彫像

 図Cは、『十六帯剣者窟 騎士組像』といい、クチャの騎士たちが描かれており、その当時の民族のいろんな服装や色彩感覚などがよく分かります。図Dは『頭部の塑像』で、これはどこで採取したものか分かりませんが、クチャであることは確かです。頭が平らになっており、これは扁平頭である証拠です。図Eはキジル石窟の第二二四窟に描かれた『天人の図』で七世紀のものです。

155-3-3.jpg図E天人図(7世紀半ば)

 図Fは『釈迦説法図』で七世紀の半ばぐらいのものです。お釈迦様が説法してらっしゃる様子を表しています。この壁画では左端に棒のようなものを持ってる人が居ますが、これは羊使いです。その右側に居る動物は羊ではなく、二頭とも牛です。そしてこの羊使いの棒の下にカエルが居ます。お釈迦様が説法をされると、いろんな人が聞きにきます。牛も、他の動物たちも、みんなお釈迦様の近くへ来て、お釈迦様の説法を聞くのです。人間だけではありません。ある一人の羊飼いが(本当はこの人は荒々しい、どうしようもない人でした)お釈迦様の説法を聞くようになって、非常におとなしくなり、さ

155-3-4.jpg図F釈迦説法図(7世紀半ば)

らに仏法を熱心に聞くようになりました。お釈迦様の側へ来て、じっと耳を傾けている姿が描かれています。羊飼いが杖をついていてたまたまそこにカエルが居た。カエルも一生懸命お釈迦さまの説法を聞いています。そのうちにお釈迦様の説法がどんどん進んでいく。そうすると、その羊飼いは一生懸命聞いていますから、ガマガエルはこの羊飼いがお釈迦様の説法を聞くのを邪魔してはいけないと思ってじっとしてる。羊飼いがお釈迦様の説法を聞いてるうちに、だんだんだんだん力が入ってきて、

杖にぐっと力が入ったときに、このカエルはつぶれてしまった。それでもカエルは羊飼いの聞法もんぽう(法を聞くこと)の邪魔をしなかったという物語が描かれているのです。

 さて皆さんが仏教塾を終えて、何年かの後に一般の人々に説法をする機会があろうかと思います。今日はその時の参考になるようにと一つの説話を準備しましたので第二部でお話させて頂きます。

 

第二部(一般の人々に対する法話例)

 蓮の葉をすべる露ほどの生涯や

 「はすの葉をすべるつゆほどの生涯や」

155-4-1.jpg蓮の葉は露が丸い水滴となる構造をもっている

 このうたは句仏上人くぶつしょうにんがおつくりになった五七五の俳句であります。句仏上人は本願寺二十三代目の法主・門跡もんぜきとして明治二十三年から大正十四年までその要職を勤められると同時に、文人として独自の俳句の境地を開き「句をもって仏を讃嘆する」という意味の「句仏」上人として親しまれ、生涯に二万句を超える俳句を残しておられます。

 「蓮の葉をすべる露ほどの生涯や」の俳句は早朝、蓮の葉に宿った朝露が何かの理由で一瞬にしてすべり落ちる様子を、私共人間のはかない姿そのものに譬えられた仏教の無常感を見事に表現された一句であります。

 「蓮の葉をすべる露ほどの生涯や」
 お釈迦さまの教えには三法印ぽういんと申しまして、三つの旗印はたじるしがあります。 一つ目は「諸行無常しょぎょうむじょう」第二は「諸法無我しょほうむが」第三番は「涅槃寂静ねはんじゃくじょう」です。

 「諸行無常」とは「形あるものは必ず壊れるよ。生命あるものは何時かは死んでいく定めですよ。」ということです。「諸法無我」とは「我が身大事と執着しゅうじゃくする心を離れて、無我の境地を悟りなさい。」ということ。「涅槃寂静」は「究極の喜び、楽しみの境地は静けさの中にこそありますよ」という意味です。

 「蓮の葉をすべる露ほどの生涯や」
 句仏上人のこの俳句は三法印の第一にお釈迦さまがあげられた「諸行無常」を朝露が蓮の葉を一瞬に滑り落ちるさまにたとえられた仏教の奥義おうぎを私共にお示しになられたお説法であります。

 蓮の葉の上に露が宿りますと、まるで水銀が葉の上に乗っているようにまん丸の水滴の姿になっています。それは蓮の葉の構造に秘密があります。蓮の葉は泥の池に生えていますね。葉の上に泥がついていると呼吸をして炭酸同化作用で二酸化炭素を取り入れることができません。それで特別微細な「周期凹凸おうとつ構造」を葉の上に作って覆い、雨や露が一瞬に滑って泥や小さな虫やチリを洗い流してしまうことになっているのです。

 日本人は九十才まで生きる

 日本人の男性の平均寿命は八十才で世界で第五位、女性に至っては八十六才で世界第一位の長寿を誇っております。あなたは今、五十代ですか?六十代ですか?七十代ですか?それとも八十代ですか?

 あなたは、これから何才まで生きておられるつもりですか?

 日本人口問題研究所の調査によりますと、今、日本の人口構成で一番多数の人口を構成するのは戦後のベビーブームで生まれた六十才前後の人達です。その人たちが、大体何才まで生きていられるかといいますと、殆どの人が九十才まで生きる。九十才代にならないと死ぬことができないということだそうです。

 ここにいらっしゃる皆さんのほとんどは九十才代まで生きる、九十才代にならないと死んでいくことはできないのですよ。そういう時代なのです。

 七十代、八十代でもなかなか死ぬことは出来ない、九十才代になって急に殆どの人々がガクンと命を終えていくのです。丁度、蓮の葉の露が一瞬にすべり落ちるが如くです。

 仏法者は「いつ死んでも良いという覚悟と、いつまで生きていてもいいという心の準備」をしていなければなりません。さらに、仏法者は「あなたは死んでいく先のことがわかっていますか。」という問いに対する明確な答えをもっていなければなりません。

 どちらへ行ったらいいの・・・ その一

 「蓮の葉をすべる露ほどの生涯や」

155-4-2.jpg広島・爆撃直後の原爆ドーム

 昭和二十年八月六日は広島にウラニューム型原子爆弾がおとされて一瞬に十四万人の市民が亡くなっています。また八月九日にはプルトニウム型原子爆弾が長崎に落とされて七万人が亡くなっています。八月六日の広島で二人の娘さんを亡くした方のことを釈正遠先生というお坊さまが書かれていますのでご紹介をいたしましょう。

 『―――私の友人に吉田さんという人がおります。広島の原爆で十三歳と十五歳の娘を女学校の校庭で一緒に亡くした人で、二人の死体をリヤカーに乗せて二里の道を、ただただお念仏もうしながら家に帰ってきたと言われます。その後数年して吉田さんの夢の中に二人の娘さんが現れてきたとのことです。それは五つ六つの幼いときの姿であって、広い広い野原の中に二人の子が手を取り合ってボロボロの着物を着ていたそうです。そうして落ちくぼんだ眼で吉田さんを見つめて、
「お父さん、お父さん、私達はどちらに行ったらいいの。」
と訴えるのです。細いあわれなあの声と、あのボロボロの姿と、広い広い野っ原と、冷たい冷たい風とが吉田さんの脳裏に焼き付きます。それから改めて仏書を読み、遠近を問わず聴聞に出かけられるようになられたのでございます。―――』 

 そして「生きるものは生かし給う。死ぬるものは死なしめ給う。我に手のなし、ナムアミダブツ。」という心境にたどり着かれております。

 どちらへ行ったらいいの・・・ その二

 もう一つのお話をご紹介しましょう。

 釈正遠先生が、ご縁あってあるお寺でお説教を頼まれて行かれた時、一人のご婦人が休憩していらっしゃる先生の部屋へ訪ねてこられた時のお話です。

『「先生、私は最近五つの女の子を死なせたのです。あの子はいったいどこに行っているのでしょうか。」
「その子は地獄に行っていますよ。」
「先生はひどいことをおっしゃいますね。」
この婦人は青ざめた顔をして、私に詰め寄ってまいられました。
「どうしてそんなことがおわかりですか。」
「あなたはその子に、生前に行き先を教えましたか。親であるあなたが自分の子はどこに行っていますかとお尋ねになるので、その子は迷っているから地獄に行っていると申し上げたのです。」
「町の中で親が幼な子の手を離してごらんなさい。親をさがしながら泣き叫ぶでしょう。あなたはその子に行き先も教えずに手を離してしまっているではありませんか。あの世で行き先も分からず、あなたをさがして現に泣き叫んでいますよ。あなたも無意識のうちにそれを知っているので、私の部屋を今たずねておいでになったのです。一体あなた自身、あなたの命が終わったらどこに行くのですか。」
「わかりませぬ。」
「自分の行き先も分からなければ、自分の子に行き先を教えてやることも出来ませんね。」
 それからその婦人は一心に、まず自分の行き先を求めて聴聞するようになられました。―――』

 九死に一生を得る・・・その一

155-5-1.jpg西安草堂寺 鳩摩羅什像拓本

 次に私自身が「九死に一生」を得た時のお話を致しましょう。一つ目は去年の一月二十三日のことです。 自宅の隣の町内の友人を訪ねた帰り、夕方の六時半のことでした。六メートル道路の交差点を三分の二くらい横断したとき、前方からものすごいスピードで走ってきた乗用車が急に右折して、私の右足に衝突しました。私は衝突と同時に足の骨がギギギと骨折する音を聞いて、左方向に跳ね飛ばされました。真っ暗な空間にほうりだされた中で、一瞬「これで死ぬかも知れない」という想いがよぎりました。たぶん脳震盪のうしんとうをおこしたのでしょう。

 すると前方から光のようなものが近づいてきて突然鳩摩羅什三蔵法師クマラジュウさんぞうほうしの絵像が私の目の前に現れた時、ほっぺたを誰かがパチパチと叩いて「大丈夫ですか?大丈夫ですか?」という声で暗闇から目が覚めました。

 その後は救急車がきて病院へ運ばれ、いろいろな検査が行われて右足の脛骨高原骨折けいこつこうげんこっせつという診断が下され、足をギブスで固められてそのまま一旦自宅へ帰りました。

 十日間ほど経過を観察していましたが、このままでは足がひらがなの「く」の字に曲がっていく恐れがあるということで、入院・手術をして骨に穴をあけ、人口骨をいれ、ステンレスの棒を二本打ち込んで二ヶ月間の入院治療を行いました。右の肩も負傷しており、腱も数本切断されていました。と同時に左目が急性白内障はくないしょうで手術を要することになりました。

155-5-2.jpgウィグル自治区政府文物局長盛氏(左)と会談

 本来の予定では四月の中旬に中国の奥地にあるウィグル自治区を訪問して、自治区政府の文物局を訪ね、クマラジュウ三蔵法師の記念館と生誕の地記念碑を建設する打ち合わせになっていました。が、この事故のため一ヶ月訪問を延期することとし、目の手術はウィグル訪問の後にすることとしました。

 五月十七日に日本を発って北京経由でウィグルに着きました。自分一人では旅ができないので、知人に車椅子を押してもらいました。日本の文化庁長官にあたるウィグル自治政府文物局長と会談し、その後クマラジュウ生誕の地であるクチャを訪れ、今から二年のちにあたる二〇一三年に、記念碑と記念館をクチャに建設する話をまとめてきました。二〇一三年というのはクマラジュウが亡くなって一六〇〇年の記念すべき年にあたるからであります。

 帰国後六月三日に急性白内障の手術のため眼科へ入院し、手術をうけました。

 本日こうして杖をついて現れたのはそのような事情があったからです。まさに九死に一生を得た経験でありましたが、私の思いの中ではクマラジュウ師が命を救ってくださったんだと思っております。物事には決して悪いことばかりあるのではありません。目の手術をし終わると同時に、手術をした方の左目は〇・一の視力から〇・九にまで視力が良くなりました。眼帯をとった瞬間、目の前が明るく透明に見えてきて、左目だけはメガネが必要なくなってしまったのです。この事故に遇わなかったら、こんなにはっきり視力が回復することはなかったでしょう。右の目は相変らず〇・一の視力であり、なんとなく目の前が曇った感じで遠視のメガネが必要です。そこで、その後右の目も手術をしてもらい今は大変良くみえるようになったのです。

 九死に一生を得る・・・その二

155-6.jpg大阪城

 私が九死に一生を得た体験の二つ目は十六才の頃、高等学校二年生の時でした。その当時私はクラブ活動として弁論部に所属して、近くの新聞社や、学校で催される弁論大会に出場していました。その年の秋、全関西高等学校弁論大会に出場するため、兵庫県の三田市に向かいました。その途中、大阪城を見たいと思い、大阪駅で途中下車して大阪城へ行きました。お城の石垣の角にベンチがあったので、家で母親が作ってくれた握り飯を広げて食べていました。

 すると突然「危ない!逃げろ!」という声が聞こえました。誰の声なのかどこからその声が聞こえたのかわかりません。危険を知らせるその声のことは今でも不思議に思えます。私はびっくりしてパタパタと弁当を包み、荷物を持って立ち上がりました。そして後ろを振り返ると、三人の浮浪者がビール瓶のようなものや、木の棒のようなもの、握りこぶし大の石を手にもって、身をかがめながらそっと近づいてくるところでした。私は身の危険を感じて脱兎の如く走り出し、三人の浮浪者の間を駆け抜けて、人のいる所へ避難しました。

 その後のことはよく覚えていませんが、その夜は三田市の宿屋に泊まり、翌日、全関西高等学校弁論大会に無事出場することができました。物事には悪いことばかりあるわけではありません。全関西から選抜されてきた五十人近い弁士の中で、私は「滅ぶる国 興る国」と題する八分ほどの弁論を演じました。

 それは次のような出だしで始まります。「天下麻のごとく乱れ、各所に英雄、雲の如く現れて、我こそは天下に号令せん者と、虎視眈々として互いにその隙を狙い、戦禍の絶え間なかった戦国の世に、私達の郷土 美濃地方の領主は斉藤龍興でありました。彼は世に言う愚かな人物で、民の政治に心を使わず、酒と管弦の音にうつつをぬかしていたのでありました。

 時に尾張の軍勢一万余騎、織田信長を先頭に斉藤龍興の居城、稲葉山城を目指して押し寄せて来たのであります。龍興は早速、西美濃の栗原山に居を構える竹中半兵衛に応援を依頼する使者を送りました。竹中半兵衛は遙か東方の稲葉山城が、漠々たる戦禍に曇りゆくのを眺めつつ、『滅ぶる国には滅ぶる理由があるのです。悪い領主が滅んで新しい領主に代われば、大地を耕して住む百姓達にとってはその方が幸せでしょう。』涙ながらにこのように喝破した彼の言葉は今私の胸裏にひしひしと迫りくるのを覚えるのであります。
・・・後略」 

 三田学園高等学校の講堂いっぱいに詰め掛けた聴衆は万来の拍手をしてくれました。物事は悪いことばかりあるわけではありません。五十人の弁士が演じ終わった後、審査委員による講評がおこなわれ、審査結果が発表されました。私の弁論が一等となり優勝旗が与えられることになったのです。

 三田学園高等学校のブラスバンドが高らかに勝利の曲を演奏する中、表彰台に優勝旗をもらいにいったときの感動は今も忘れられません。ただそれは、大阪城で「危ない!逃げろ!」という声を聞いて九死に一生を得た想いと、表裏となっています。

 九死に一生を得る・・・その三

 私が九死に一生を得た体験の三つ目は、昭和四十八年のことです。私は岐阜市にある光明寺本坊から京都の本願寺へ宗務庁の企画室長という役職を与えられ毎日朝晩自動車で通っておりました。朝七時半に寺を出て、長良川堤防から揖斐川いびがわ堤防を経て、名神高速道路に入り、京都東ICで降りて山科を通り抜け、東山五条のトンネルをくぐって都大路を通り、京都駅前にある本願寺まで一時間半で到着するというスピード運転でした。それを朝は岐阜から京都、夕方には京都から岐阜という月曜日から土曜日にかけて、週六回の自動車通勤を八年間行っていました。

 昭和四十八年の秋のことです。名神高速道路を百キロほどのスピードで走っておりましたが、前方にゆっくりと走っているトラックがあり、追い越し車線から追い越そうとしました。突然そのトラックが、私の車の前に覆いかぶさろうとしてきました。私は急ブレーキを踏み、中央分離帯の方にハンドルを切り、分離帯に衝突しそうになりました。左へ右へ、また右へ左へと六回ほどハンドルを切り、ようやく車はとまりました。キキキーというタイヤの軋む音と共に「ああ、死ぬかもしれない」という想いが交錯する恐怖が忘れられません。今でもその時の恐怖感を思い出すとゾッとします。

 そのトラックは居眠り運転をしていました。車から降りてみるとタイヤがツルツルになって溝が消えていました。それは滋賀県の八日市あたりのことでした。パンクはしていなかったので、そのまま京都へゆっくり運転してたどり着きました。半年くらい後まで高速道路には私がブレーキを踏み蛇行したタイヤ跡の黒い痕跡が残っていました。

 「蓮の葉をすべる露ほどの生涯や」

 みなさん、人間の命というものは生と死の境で危なくはかなく生きているのですよ。みなさんもきっと生涯のうちに「あの時は危なかったな」という体験をされた方も多いのではないでしょうか。

 この三月の東日本大震災・・・今もなお、犠牲者は増え続け、原発問題も解決の糸口が見つからないまま、日本中が不安な日々をおくっています。震災後、ある結婚相談所では申込者が十倍になるほどの盛況ぶりだという話を聞きました。

 この話を聞いて私はこの大震災を機に、日本人全体が「無常観」を感じ、このままでいいのかと若い娘さん達も「三高」という結婚観の考え方を替えたのかも知れないと思いました。平和な日々に長く身を置いていた人々が、震災という非常時に、「無常」ということに目覚め、死というものを身近に感じたのではないかと思うのです。

 ですから私共は「いつ死んでもいいという覚悟と、また逆にいつまで生きていてもいいという心の準備」をもっていないといけないのです。その境地を与えてくださるのが仏法の教えです。

 先ほど原爆で亡くなっていった二人の少女が「私達はどちらへいったらいいの」とお父さんへ問いかけた時、私たちの行き着く先はこういう世界ですよと答えることができることは、仏法を聴聞する、仏教の教えを聞いて心を開いていく・・・ということのほかにはありません。

 聖徳太子の二百年前

 さて、話を変えてさきほどお話ししたクマラジュウ三蔵法師について述べさせていただきましょう。
 仏教が日本に伝わったのは西暦五三八年のころです。聖徳太子が「あつ三宝さんぽうを敬え。三宝とは仏・法・僧なり。すなわ四生ししょう終帰しゅうき、万国の極宗ごくしゅうなり。」という十七条憲法を定めて、仏法を中心理念とする国の形を示されたのが六〇三年です。

 クマラジュウ師がシルクロードを通り長安へ大乗仏教を伝えたのは、聖徳太子の約二百年前です。皆さんがご存知の三蔵法師は、孫悟空がでてくる西遊記で有名な玄奘げんじょう三蔵法師です。この方は聖徳太子が活躍された約五十年後にインドから長安へ帰国してお経を翻訳された方です。

 日本の仏教は天台宗・日蓮宗・禅宗・浄土宗・浄土真宗が根本的な拠り所とするお経は「妙法蓮華経」「阿弥陀経」「般若経」「維摩経」など全てクマラジュウ師が中国に伝え、翻訳したもので、それが日本に伝わり日本における精神文化の骨格を形成したものであります。

 現在の私共仏教徒には、玄奘三蔵法師よりもクマラジュウ三蔵法師の影響が大きいのです。そういう意味では日本文化と日本仏教にとっての最大の恩人であるということがいえます。

 今年から二年後の二〇一三年は、クマラジュウ師が亡くなられて一六〇〇年の記念すべき年にあたります。私は日本民族にとっての大恩人であるクマラジュウ師の功績を日本人があまり評価していないことを残念に思っていますので、二〇一三年に向けて何らかの行動を起こしたいと思っています。

 まず初めににクマラジュウ三蔵法師顕彰会を作りました。次にクマラジュウ師が生まれた故郷である中国ウイグル自治区のクチャという所を何回も訪れました。

 鳩摩羅什三蔵法師の生涯

155-7.jpg西安・草堂寺舎利塔

 クマラジュウ師は西暦三四四年に古代キジ王国の一王子として生まれ、インドへ留学し、カシュガルで大乗仏教を会得えとくして故郷のキジ王国へ戻り、修行と伝道を行っていたところへ、中国五胡十六国時代の前秦の皇帝符堅ふけんが、呂光という将軍に七万の兵を与えて当時中国にまで名を知られたクマラジュウを獲得すると同時に、シルクロードの覇権はけんを拡張することを意図しました。呂光将軍が古代キジ国に到着したのは三八三年で呂光に降参しなかったキジ国王白純は殺され、クマラジュウは捕虜となり長安へ連れていかれることになりました。呂光将軍は帰路、河西回廊あたりで、符堅ふけん皇帝がクーデターで殺されたことを知り、呂光は武威ぶい姑蔵こぞう城を攻めて自らの居城とし、後涼国を建ててクマラジュウを十六年間に渡って幽閉しました。

 西暦四〇二年に後秦の皇帝姚興ようこうが後涼国をせめてこれを滅ぼし、念願であったクマラジュウを長安の都に連れ帰りました。クマラジュウが長安の都に入ったのは四〇二年の十二月二十日のことで、すぐに仏教経典の翻訳を始め、約三百巻の経典を中国に伝えました。もしこれらの経典をクマラジュウが伝えなかったら中国や日本や朝鮮半島は小乗仏教の国になっていたかも知れません。

155-8-1.jpgクチャの羅什生誕の地に建つ亀茲故城址

 晩年亡くなる直前、クマラジュウは「私はよそ者であったが、どういう因縁であったか、経典の漢訳に従事し三百余巻を訳出した。どうかその本旨を極めて間違わないように。また訳した経典を広くひろめ後世に伝えて欲しい。私が翻訳し、大乗仏教の真理を伝えたところが正しいことを証明する為に、死後身体は火葬に付されて灰になる訳だが、法を説いた舌だけは、焼失することなく、そのままの形を留めるはずです。」という言葉を残します。その言葉の通り、舌だけが焼け残りました。

 現在クマラジュウの生まれ故郷クチャはウィグル族が支配するイスラム教徒の国になっています。

 私共仏教徒がその地を訪れても、クマラジュウ師を偲ぶよすが・・・がありません。

 私はクマラジュウ師を讃えるためクチャの地に三つの記念事業を実現したいと思っています。

 一つ目はその地に「クマラジュウ三蔵法師生誕の地」という記念碑を漢字・ウィグル文字・英語で刻んだ縦三メートル、横五メートルの記念碑を古代亀茲国の王城城壁跡に建てること。これに使用する石はクチャでとれる漢白玉という白っぽい名石を使います。

155-8-2.jpgキジル石窟

 二つ目はキジル石窟という世界文化遺産に近く登録される石窟前(ここはクマラジュウが修行した場所でもあります。)に「クマラジュウ三蔵法師記念館」を建ててクマラジュウの業績を展示したいと思っております。

 三つ目にクマラジュウは亡くなる直前に本国(古代キジ王国)に帰りたいともらしていました。(これは中国江西こうせい省・廬山ろざん慧遠えおんという有名なお坊さんの手紙に残っています。) 私は本国・古代キジ国へ帰りたかったクマラジュウの想いを何とかして遂げさせてあげたいと考え、西安の草堂寺にあるクマラジュウ舎利塔の土と、武威クマラジュウ寺にある「舌舎尊師ぜっしゃそんし」とある十三重の塔(これはクマラジュウが荼毘にふされた後、預言通り焼け残ったという彼の舌を武威の人たちが持ち帰って塔の中にいれて供養したと伝えられている)の下の土をクチャに運び、キジル石窟前につくる記念館に漢白玉の舎利塔を作りそこに納めて、本国へ帰りたいという一六〇〇年前のクマラジュウの想いを実現して差し上げたいと思っています。
 
 

何かを成す

 私が現在、住職をしている光明寺は、約四百年前の室町時代に蓮如上人に帰依した当時の大洞家の祖先が近江祖坊をおこし、岐阜県・京都・東京・埼玉・千葉に教化活動を展開しておりますが、仏教文化活動として、既に中国敦煌莫高窟とんこうばっこうくつを八窟修復し終わり、今クマラジュウ三蔵法師の顕彰と記念碑及び記念館を作るという、シルクロード仏教文化史上に残る事業を展開しつつあります。

155-8-3.jpgキジル研究院作成の鳩摩羅什記念館完成予想図

 先に申しました通り、私は去年、一月二十三日の交通事故で、九死に一生を得たことは、クマラジュウ三蔵法師一六〇〇年を記念する事業を完成することの使命を担って九死に一生を得たのだと考えております。人間はいつ、どんなことが起こって死ぬかも知れないはかない命を生きています。

 「蓮の葉をすべる露ほどの生涯や」

 私達が今生きているということは何かを成し遂げて行かなければならない使命を担っているのです。人によっては天下国家を動かすこともできます。社会に影響を及ぼすこともできる人もあります。家庭の中に居場所を見いだして何かをする人もあります。或いは一人っきりになって、孤独の中に何かを成そうとする人もいるでしょう。その「何か」を探して一日一日を過ごすことが大切であります。

 最終的には蓮如上人が「後生の一大事」といわれる世界をつかまねばなりません。

  死後の世界

 クマラジュウ三蔵法師が伝えた経典の中に「仏説阿弥陀ぶっせつあみだ経」という経典があります。アミダ仏のお浄土の様子がありありと描かれております。その教えの中に、
少善根しょうぜんごん福徳ふくとく因縁いんねんては、くにまるることをべからず」とあります。

 私共のゆくべき次の世はアミダ仏のお浄土です。そのアミダ仏のお浄土へ往生するには「私共が行う『善き行い』たとえば、貧しい人々に食物や着る物を施すといったことや、自分の欲望を犠牲にして他人の為に尽くすといった程度の善行では難しいよ」と教えて下さっています。

 私共人間が行う善行には、必ず煩悩がつきまとって汚れてしまうのです。煩悩というのは「いかり」「腹立ち」「そねみ」「ねたみ」といった心です。

 貧しい人に物を施すということにしても、貧しい人を憐れむという優しさの裏に他人を下にみて自分を得意がるという心の動きを伴っているのが、人間の煩悩なのです。親鸞聖人はそのことを「煩悩具足ぼんのうぐそく凡夫ぼんふ」と仰言っておられます。俗に「隣の家に倉が建つとその隣には腹が立つ」といわれる所以です。

 広島の原爆投下で、二人のお嬢さんを女学校で一瞬に亡くした吉田さん。夢の中にその二人のお嬢さんが五・六才の幼い頃の姿で現れて、広い野原をボロボロの着物を身にまとい、落ちくぼんだ眼でじっと見つめて、「お父さん、お父さん、私達はどちらへいったらいいの」と、細い哀れな声で訴えた声に導かれて、吉田さんは仏法に逢う事が出来ました。吉田さんも原爆で亡くなった二人のお嬢さんも、行き着く先はアミダ仏のお浄土と聞き開いてお念仏の教えに導かれていったのであります。

 「少善根しょうぜんごん福徳ふくとく因縁いんねんては、くにまるることをべからず」とアミダ経に説かれてあります。

 どうしたら、蓮の葉をすべる露ほど、はかない人生の行きつく先のお浄土へ、いくことができるのでしょうか。

 この大宇宙の永遠の命の覚体である久遠実成くおんじつじょうのアミダ如来は、救われようのない私共生きとし生けるものを救わんがために、あえて法蔵菩薩という修業の菩薩の位になりさがり、長い長い修行の功徳をナムアミダ仏の名号に入れ込んで、私共に与えてくださいました。

 大無量寿経だいむりょうじゅきょうのアミダ仏の四十八願の中の第十八願に「ナムアミダ仏を称えよ。ナムアミダ仏を称える者はどんな悪人でもどんな罪人でもそのまま救う。」と誓われています。「どんな悪人でもどんな罪人でもそのまま救う」という御仏の大慈悲の中にだけ、救われようもない私共が救われていく道、お浄土への往生の道が開かれてあるのです。

  

救われてゆく道

 「蓮の葉をすべる露ほどの生涯や」
 人生はアッという間の出来事です。

155-9.jpg羅什の舌を納める搭 中国河西回廊武威市

 たとえ九十才、百才まで生きたとしても蓮の葉の露が一瞬にすべり落ちるほどのはかなさです。今日私共が今生きていることは、今にも壊れて無くなってしまいそうな自分の生命を常に危険にさらしながら、「九死に一生を得て」今ここに存在するのです。

 そのような存在の無常性の中で、私共は御仏の大慈悲の世界に出あい、ゆきつく先の世界をアミダ仏のお浄土と定めて「ナムアミダ仏を称えよ。ナムアミダ仏を称えるものは、どんな悪人でもどんな罪人でもそのまま救う。」という呼び声に従っていく他の道がないことを知らしめて頂けるのです。

 かくしてこそ、原爆で死に、荒野をボロボロの着物でさまよって「お父さん、私達はどちらへ行ったらいいの」と、落ちくぼんだ眼で、そして細いあわれな声で訴えた二人の幼い姉妹も、その時、その二人の問いかけに答えてやることができなかったお父さんの吉田さんも、この世の彼方の世界をはっきりと見出し、迷うことなく、救われていくことができるのです。

 「蓮の葉をすべる露ほどの生涯や」

 この講義を記念して、皆さまと共にこの句を深く味わっていきたいものであります。  

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