大洞 龍明塾長

シルクロードと鎌倉大仏(第26期スクーリング特別講義) 

2013年9月10日

[序]


 さる初夏の一日を、古都鎌倉に遊んだ。由緒ある寺々が色とりどりの紫陽花に包まれているのを愛でながら高徳院に入ると、新緑の小高い山に囲まれ緑青りょくしょうの淡い青に化粧した大仏さまが坐っていらっしゃいました。そのとき、ふとある短歌が思い浮かびます。

  鎌倉や 
  御仏みほとけなれど 釈迦牟尼しゃかむに
  美男におわす 夏木立なつこだちかな

 情熱の歌人と言われた与謝野晶子の歌です。
 短歌として声に出して読むに美しい"釈迦牟尼"の四文字ですが、この大仏さまは実際には"阿弥陀如来"であります。鎌倉幕府の歴史書として知られる「吾妻鏡あづまかがみ」に、この大仏は釈迦牟尼仏であると書かれており、古典や歴史にも詳しかったはずの与謝野晶子は、それを知っていたのかも知れません。
 また、この大仏さまは、以前は奈良の大仏さまのように大仏殿の中に鎮座していらっしゃいました。およそ五百年前の一四九八年の明応地震で破壊された上、大津波で流されてしまったのです。大仏殿はそのまま再建されることなく、大仏さまは周りの夏木立の風景にとけこんで優しく人々を包んで下さっています。

 ふと私は、一つの疑問を抱きました。この鎌倉の大仏さまは、何故、どういう因縁でこのような阿弥陀仏坐像としてここに坐っていらっしゃるのだろうか。そしてその推理を進めていくうちにシルクロードとアレキサンダー大王と鳩摩羅什くまらじゅう三蔵法師という三つのキーワードが浮かんできました。

本来仏像は存在しなかった

164-2-1.jpg仏足跡
 仏教が生まれた地インドにはもともと仏像は存在していませんでした。古代インドの仏教徒たちは、お釈迦さまが亡くなられてから、「如来はこの世界で最も尊く、諸天の中にもこれと等しいものはなく、また像貌することもできない」(『増一阿含経』)との一節のとおり、お釈迦様の姿を像に表すことをしませんでした。また、空無くうむの世界である涅槃に入られたお釈迦様を形に表して拝むのは不遜な行為であると考えました。
 代わりに菩提樹の木を彫って形にしたものや仏さまの足の形を刻んだ仏足跡ぶっそくせきを拝んでいたのです。
 仏像のない仏教に仏像が誕生し、阿弥陀如来の大仏さまが日本で造られ、そのお姿を見て与謝野晶子が美男におわすと感嘆するまでには、シルクロード史上の偉大な人物が二人登場します。一人はかの有名なアレキサンダー大王。もう一人は鳩摩羅什三蔵法師です。

[一]アレキサンダー 大王の生涯


164-2-2.jpg長槍部隊
 アレキサンダー大王が仏像の誕生にいったいどのような影響を及ぼしているのでしょうか。
 アレキサンダーは、前三五六年、古代マケドニア王国に王子として生まれました。彼が生まれたマケドニアは、遡ることおよそ百年ほど前、アテネやスパルタなどの同盟国とともに、ギリシア諸国を侵略するアケメネス朝ペルシア帝国と戦争をしました。そのときに町々は大いに荒らされます。そこで、大王の父フィリッポスは、ペルシアへの復讐を果たそうとギリシア諸都市に呼びかけ、コリントス同盟を結成しました。
 このころ日本は縄文時代にあたります。ギリシアにはすでに数学者ピタゴラス・哲学者ソクラテスらがおり、アテネにはパルテノン神殿が建って、西洋文明の基礎が成立していましたから、日本の文明との差は比べものになりません。フィリッポスからアレキサンダーにかけては軍隊が整備され、サリッサと呼ばれる六mもの長槍を持つ部隊を率い、馬に二輪の戦車を引かせて戦いました。
 大王が二十歳のときに父フィリッポスが暗殺され、王位に就きます。そしてペルシアを討つ意思を真っ先に継ぎ東方へと遠征を開始しました。(余話①②)

二十倍のペルシア軍に勝つ ーイッソスの戦いー

 アレキサンダーがアジアへ渡り、初めてペルシア帝国の王ダレイオス三世に合間見えたのは二十三歳のとき、イッソスの戦いにおいてです(前三三三年)。マケドニア軍約三万人に比べ、ペルシア軍は約六十万人の大軍勢でした。しかし、勇猛果敢かつ巧妙な戦略家であるアレキサンダーは、この戦いに勝利します。戦闘の最中、ダレイオス王はアレキサンダーが目前に迫ると、敗走してしまいました。アレキサンダーは、後を追いましたが、夕闇が迫り、諦めます。
 しかし、驚くことにダレイオス王が放棄していった陣営の中でダレイオス王の母シシュガンビスの他、アジア一の美貌を誇る妻スタテイラ、二人の娘スタテイラとドリュペティス、幼い息子一人を見つけます。アレキサンダーは捕虜である彼らを粗悪に扱うことなく、王族としてこれまでと同様以上の生活が出来るよう丁寧に扱いました。アレキサンダーはダレイオス王の母を「第二の母」として敬い、ペルシア帝国の継承権を自分の手元に近づけようともしています。
 イッソスの会戦のあと、マケドニア軍はエジプト征服のために南下します。ここに"アレクサンドリア"という、今でも名の残る都市を建設しました。(余話③④⑤)

百万の大軍を五万の兵で破る ーガウガメラの戦いー

 アレキサンダーはエジプトを制覇した後、アジアへ戻ります。そこでダレイオス王と再び対決することになるのです。決戦の地はガウガメラ。ここでもマケドニア軍五万人に対し、ペルシア軍百万人という大軍が迫り、アレキサンダーは大変不利な状況となります。しかし大王は怯む兵士らを鼓舞しながら戦い、勝利を得ました。ダレイオス王は、終盤、敵軍と戦い続ける味方の軍勢に背を向けて、再び敗走の道を選びます。
164-3.jpgアレキサンダーの戦闘姿
 ペルシア帝国は、帝国中心部に程近いこの場所で敗北したことによって、本質的に解体することとなりました。勝利を得たアレキサンダーはペルシアの都であったバビロンに向かい、その地を征服し全財宝を支配下におきます。そこには王国中の財宝がほとんど集められ、厳重に保管されていました。それは誰も見たことのないほどの絢爛たるもので、アレキサンダーはその財宝を戦費とし、その後の糧にしていきます。大王が東征を進めても兵士が絶えなかったのは、このような所々で得た戦略品を惜しげなく兵士たちに配当したためなのです。(余話⑥)

ペルセポリス宮殿の炎上とダレイオス王の死

 その後ペルセポリスへ向かいます。そこには、ペルシア帝国初代キュロス王が建てたとされるペルセポリス大宮殿がありました。アレキサンダーとともに軍勢を進めてきた仲間たちは、大王がその宮殿の王座につき、指揮を取っていくのだと思っていたことでしょう。ところがアレキサンダーは宮殿に火をかけ、燃やしてしまいます。ペルシアが誇る大宮殿を炎上させることによりアレキサンダーが新しい征服者であることを帝国中に知らしめたのです。
164-4.jpgアレキサンダー遠征および仏像東播の経路
 宮殿を燃やし、ペルシア帝国を失墜させたあと、アレキサンダーは依然敗走を続けているダレイオス王を追いました。しかしその途中、ダレイオス王が部下のベッソス一味によって暗殺されたという情報が入ってきます。アレキサンダーはそこへ疾風のごとく駆けつけ、ダレイオス王の死を確認しました。これ以降公然とペルシア帝国の後継者を名のる権利を得ます。さらに、ダレイオス王の復讐として、暗殺者の追撃を開始することとなりました。
 暗殺の首謀者ベッソスは自分の支配下であるバクトリア地方へ逃げ込んでいました。ところが、アレキサンダーの名声は其処此処に轟いていたため、ベッソスは領内で味方の裏切りによって捕獲されてしまいます。大王は引き連れられてきたベッソスを、ダレイオス王が死した地点まで運び、そこで処刑しました。一方ダレイオス王の遺体は、歴代の王の墓所に丁寧に葬ります。

初めての妻ロクサネを娶る

 大王はこのベッソス進撃中、バクトリアと北方に接するインド北西部ソグディアナ地方(現在のパキスタン・アフガニスタン周辺)において、ロクサネという女性に出会います。ソグディアナ地方の領主オクシュアルテスの娘である彼女はそのとき捕虜となっていました。ロクサネは、美しく異民族には珍しい上品な振る舞いで、大王を魅了します。大王はロクサネのことを大変気に入ったのですが、捕虜である彼女に対し、節度を保って触れることはしませんでした。そのためロクサネの父をはじめ領民らの賛同を得て、大王は彼女と二十八歳で初めて結婚することとなります。
 ただここには政治的意図も含まれており、難航していたバクトリア・ソグディアナ地方を沈静化する構造が浮かび上がります。大王はさらにこの地方にギリシア人植民都市をつくり統治します。のちに、この地方はバクトリア王国として独立するほど力を持ち、ギリシア・ヘレニズム文化を最も長く伝えていく中心部となるのです。(余話⑦⑧)

インド征服・東進の断念

 大王軍はソグディアナ地方征服後、インド地方への進出を目指し、インダス川へ進みます。そこでポロス王との会戦が行われました。マケドニア軍を悩ませたのは、ギリシア地方では見慣れぬ象の存在と、気候の厳しさ、兵士らの疲労でした。悪戦苦闘の結果、この戦いでもマケドニア軍は勝利を収めます。
 しかしその後さらに東へ進むためガンジス川渡河準備をしているところへ、アレキサンダーは兵士らよりこれ以上先へ進めないという訴えを受けます。本国を発ってから八年もの年月が経過しており帰国にも相当の時間がかかるということ、ガンジス川の先には屈強で好戦的な民族が待ち受けているという噂のためでした。アレキサンダーは兵士らに怒り三日もの間部屋に閉じこもってしまいます。しかし悩んだ末、彼らの気持ちを汲んでマケドニアに帰国することを決めました。(余話⑨)

帰路・大王突然の死

 帰路は、まずインダス川を船で下って河口まで南下し、続いて陸路海岸沿いに西方マケドニアへ戻ります。
 困難な行軍をしながら、途中、スサに滞在します。そこで、マケドニア兵とペルシアの貴族女性合わせて一万人規模の合同結婚式を行いました。大王自身も、すでにイッソスの戦いで捕虜となっていたダレイオス王の娘と、その前王アルタクセルクセスの娘と結婚します。これにより大王はペルシア王家の正当な後継権を得ることになりました。

 軍勢はバビロンに帰還します。このバビロンでアレキサンダーは突然の熱病に犯され死去してしまいます。あまりに急なことであったため、側近の部下たちが、娶ったばかりの王女らの一人に殺されたのではないかと噂しました。
 このとき、大王はわずか三十三歳でした。王位を継いだのが二十歳、アジアに向けて遠征を開始したのが二十二歳のときです。十年あまりの間にこれだけのことをなしたのです。(余話⑩⑪⑫⑬)

[二]ヘレニズム文化と仏像の誕生


 アレキサンダーは征服した所々にアレキサンドリアというギリシア風都市を建設しました。そこへギリシアの文化が根付き、アジアの文化と融合したヘレニズム文化が生まれ繁栄します。
 大王の死後、アレキサンダー帝国は五つにわかれ興亡を繰り返し消滅していきますが、バクトリア地方には、セレウコス朝シリア、バクトリア王国、大月氏国、クシャナ朝と変遷する中でもこのヘレニズム文化が伝統され、イスラム勢力が台頭するまでの約千年間継承されていくのです。

ミリンダ王の問い

 大王の死後、ヘレニズム文化を継承する五つにわかれたアレキサンダー帝国の中の一つセレウコス朝から、太守ディオドトスによって前二五〇年バクトリアが独立します。
 そのバクトリア王国から、ミリンダ王という優れた王が誕生します。彼は大変賢く、仏教僧ナーガセーナと問答をしました。ギリシア思想と仏教思想の交流です。その問答が『那先比丘経』として残っています。その中の一つをここに紹介したいと思います。
 ミリンダ王が僧ナーガセーナに「悪を悪と知って犯す罪と、悪を悪と知らないで犯す罪とどちらの方が罪は重いですか?」と尋ねます。一般的には、悪を悪と知って犯す罪のほうが重いと考えます。しかし、ナーガセーナは悪を悪と知らないで犯すほうが重いというのです。今度はナーガセーナがミリンダ王に、焼けた火箸が目の前にあるときに、それが熱いと知って使うのと知らないで使うのではどちらが火傷が重くなるか問いかけました。そこでミリンダ王はどちらの罪が重いのか気づきました。

インドの仏教

164-6-1.jpgマトゥラー仏
 仏教が誕生したのは前五百年ごろとされていますが、インドでの仏教の広がりは、前三一七年建国のマウリヤ朝に始まります。三代アショーカ王が仏教に帰依したことにより、インド全土に仏教が広まりました。
 前二五〇年ごろには先述のバクトリア王国が生まれ、ギリシア人らの仏教帰依も行われます。さらに、ギリシアではアポロンやヘラクレスに代表されるようなギリシア神話に基づく信仰があり、古来より神々の彫像が造られていたことから、仏像を造ることをしなかったインド人仏教徒らを刺激していくことになります。

アポロン仏誕生

164-6-2.jpgガンダーラ仏
 後六十年にはクシャーナ朝が建国され、三代カニシカ王が仏教を保護します。このカニシカ王の時代に仏像が誕生したのではないか、と考えられています。北インドのガンダーラ地方で作られた仏像は、ギリシア人の石工技術を大いに取り入れており、ギリシア風の相好を持つものとして目立っています。これらは"アポロン仏"と呼ばれています。また同じ時期にはガンダーラから南に八百kmほど南下したマトゥラーでもこのアポロン仏の影響を受けて、釈迦像が造られ始めました。これは非常にインド的な相好表現がされています。
 なおアポロン仏の生まれたガンダーラ地方はヨーロッパとアジアとを結ぶ場所として商業貿易が盛んでした。ここから仏像もシルクロードを通り中国、さらに朝鮮半島、日本へと伝播していきます。三世紀ごろにはキジル石窟が開削されはじめ、ベゼクリク、敦煌、雲崗、奈良、鎌倉へ東進していきました。鎌倉の大仏さまも、アポロン仏の特徴の一つである髭を蓄えたお顔で造られています。

[三]鳩摩羅什三蔵法師


 ところで、アポロン仏が日本に伝わっただけでは鎌倉の大仏さまは今のお姿ではありませんでした。鎌倉の大仏さまは阿弥陀仏であり、阿弥陀仏信仰は大乗仏教の中で生まれたからです。
 釈尊の死後、長い年月の間に、弟子達はいくつもの部派仏教にわかれました。その中の大衆部から発展したのが、大乗仏教で百五十年頃に竜樹によってほぼ完成されました。日本に大きな影響を与えた仏説阿弥陀経や妙法蓮華経、般若経等は、大乗仏教の成立の過程の中で経典化されていきました。この大乗仏教を東方へと伝えることをしたのが、鳩摩羅什三蔵法師です。若し鳩摩羅什の存在がなければ、中国も日本も上座仏教の国になっていたかも知れません。
 鳩摩羅什三蔵法師は三四四年、現在の中国新疆ウイグル自治区内、古代キジ国に生まれました。古代キジ国というのは今から四千年ほど前、黒海のほとりにいたアーリア人が大移動したことによって誕生した国です。古来この地方は、天山山脈から氷河の川が流入して肥沃な土地を持ち、さらには鉄・銅・金も産出し大繁栄をしました。
164-6-3.jpgキジ国王宮城壁跡
 この国を征服しようと、七三年ごろ後漢・明帝の命により、班超がキジに侵攻してきます。このとき、バクトリア王国を征服し支配していたクシャナ朝から七万の軍がキジ国救援に駆けつけました。班超の軍はほんのわずかな兵力であったけれど、キジ国の圧制に耐えかねた近隣諸国が集まり力を増します。救援の軍隊は班超の策に恐れをなして、和睦を結び去っていってしまいます。そうして班超はキジ国を征服してしまうのです。後漢の機関としてキジ国(現在のクチャ)に西域都護府が置かれ、班超は新任の西域都護となりました。その後、後漢の国政が衰えるにしたがって、キジ国は独立国の体裁をとるようになります。
 鳩摩羅什の父・鳩摩羅炎くまらえんはインドの人です。インドの小国の宰相の長男でした。世の無常を感じ、地位を棄てて出家し国を離れます。キジに来たときに、国王・白純が国師として国に残ることを望みました。

母ジーダ

 白純王には美しい二十歳の妹ジーダがおり、周辺各国の王族から求婚の申し出が集まっていました。しかし才知あふれ気ままな彼女はその申し出をすべて断っていたのです。そんな彼女が鳩摩羅炎を一目見て恋に落ちてしまいます。彼は出家した身であるため結婚することは出来ないのですが、彼女は兄白純王に頼んで鳩摩羅炎を還俗(僧侶を辞める)させ結婚し、やがて鳩摩羅什が生まれます。鳩摩羅什を宿している間、母ジーダは平生よりさらに賢くなり、これは賢い子を産むだろうと言われていました。
 ジーダは、鳩摩羅什が七歳のとき、出家したいと言い出しました。これは鳩摩羅炎が許しません。そこでジーダは許可が出るまで飲食をすべて断った断食行だんじきぎょうに入ります。七日ののち、鳩摩羅炎は、息も絶えそうなほどに衰弱したジーダを見て、ジーダを死なすくらいなら尼僧にそうになってもよいと、とうとう許可をだしました。願い叶ってジーダは仏門に入り、鳩摩羅什は沙弥(出家受戒前の修行者)となります。
 鳩摩羅什九歳の時、二人は当時小乗(上座)仏教の中心地であったカシミールへ留学に向かいます。そこで、バンズダッタに師事し小乗仏教の一派・説一切有部を学びました。

大乗への回心えしん

164-7-1.JPG鎌倉・高徳院の大仏
 三年後、キジに帰国途中カシュガルにて、ヤルカンド王子スリヤソマに出会います。そこでスリヤソマの説得により鳩摩羅什は大乗仏教に回心することになります。我という実体が有るとする小乗仏教に対し、我という実体はない、ただ因縁所生いんねんしょしょうであるという大乗仏教への回心はとても大きなことでした。鳩摩羅什が「今まで小乗の教えが金だと思っていたが、大乗の教えを知ってそれは銅の輝きであったと気づいた。大乗こそが金の輝きであった」と言っているほどであります。
 一年間のカシュガル滞在ののち、十四歳になった鳩摩羅什はキジに帰国します。帰国すると、仏教に帰依していたキジ国王女アカツヤマテイが大法会を開きました。すでに諸国に名を知られていた鳩摩羅什のため、三十余りほどあったオアシス都市の国王らがこぞって聴きに来たといいます。そして、二十歳の時に受戒し正式な僧になりました。

中国へ いろり鍋に焼かれても

 鳩摩羅什が立派に成長したことを認め、母ジーダは一人インドへ修行に向かうことを決めます。そのとき息子鳩摩羅什に「大乗仏教を中国に伝えてほしい。中国に大乗仏教を伝えるのはあなたをおいて他に誰もいません。ただしこれはあなた自身にとっては何の利にもならないでしょう。あなたはどうしますか?」と聞きます。鳩摩羅什は「大乗の菩薩道は我が身を犠牲にしてでも人々を利するということをはかる、そういう道であります。もし中国へ渡って人々を教化して、心に悟りを得しめることになれば、私の身はぼうぼうと燃えるいろりの火にかけられたなべの上で焼かれるような苦しみがあったとしても、決して後悔することはありません。」と答えています。鳩摩羅什は、中国への大乗仏教を広めることをその使命としたのです。
 およそ二十年が経過した三八三年、前秦王・苻堅が、建国の精神的な柱を仏教に定めることを目指し、鳩摩羅什を得るため七万の大軍を将軍呂光に持たせてキジへ派遣します。白純王は西域諸国から兵を集めこれに立ち向かいますが、呂光将軍の戦略により、敗北を喫します。三重の城壁は破られ、一万人のキジ国民が殺戮され、白純王は殺されてしまいました。そして鳩摩羅什は捕虜となり、長安へ連れて行かれるのです。

武威・幽閉十七年

 ところがその帰途、河西回廊に入るところで、呂光は主君苻堅王がクーデターで殺されたことを知ります。呂光は長安へ帰ることもならず、当時その地を支配していた前涼国を滅ぼして姑蔵城を占拠、武威にて後涼国を建てて自ら王を名乗ります。鳩摩羅什はここで十七年間幽閉されることになります。中国で大乗仏教を広めることを母と約束した鳩摩羅什にとって、河西回廊に留まっているこの時間は苦しいものだったでしょう。しかしこの間に、必要となる漢語や中国の古典を会得することができ、のちの翻訳活動の力となるのです。

長安 訳経と大乗思想の伝導

 四〇一年になると五胡十六国時代の覇者である後秦国の王・姚興が、鳩摩羅什を国師として迎え教えを仰ぎたいと考え、後涼国へ六万の兵を派遣しました。彼らは後涼国を滅ぼし、鳩摩羅什を長安へ迎え入ることになります。鳩摩羅什が念願の長安へ到達したのは四〇一年十二月二十日のことです。鳩摩羅什は到着後すぐに翻訳活動に取り掛かり、十二月二六日には最初の訳業を開始したといいます。訳された経論は仏説阿弥陀経、大品般若経、妙法蓮華経など三十五部二九四巻にのぼり、今日本で使われている経典もほとんどがこの鳩摩羅什訳のものです。
 鳩摩羅什は、最後まで訳業と大乗の教えを広めることを続け、四一三年八月二十日長安の草堂寺にて亡くなりました。類まれな訳業のため鳩摩羅什は訳経僧であると思われがちですが、それだけでなく、大乗仏教の深遠なる思想を中国に伝えたことに大きな意義があります。(余話⑬)

[結]シルクロード 終焉の地・鎌倉大仏


 鳩摩羅什により、深遠な大乗仏教の空の教えは中国、朝鮮半島、日本へと伝えられ、人々の心を救済しました。
 鳩摩羅什がいなければ、聖徳太子の、仏教を中心とした国造りはなされなかったでしょう。現在ある日本の天台宗・浄土宗・浄土真宗・日蓮宗・禅宗等の諸宗派も成立していなかったことになります。
 鳩摩羅什が長安に着くや直ちに翻訳した仏説阿弥陀経に説かれる教えが、鎌倉の阿弥陀如来坐像として形に現われていらっしゃるのです。
 緑の小山と青空を背景に静かに坐し、参拝する人々を温かく迎えていらっしゃる鎌倉の大仏さま。二千数百年前にギリシアを出て東方へ向かったアレキサンダーの気概はヘレニズム文化として大乗仏教との遭遇をはたします。やがてアポロン仏として現われ、ついに鳩摩羅什三蔵法師と共にシルクロードを辿り、その終焉の地鎌倉で、いま大仏さまとして優しく私達を見守ってくださっているのです。

余話

①ペルシア戦争について

 ペルシア戦争は、前四九〇年から前四四九年にかけて三度にわたり行われた、ギリシア諸国とアケメネス朝ペルシアとの戦争。第二回の戦争では、アテネ市街が焼き払われ、パルテノン神殿も破壊された。最後にはギリシア諸国はペルシアを撃退したが、この戦争で被害を受けたことの報復のため大王の父フィリッポスが前三三七年にコリントス同盟を設立。フィリッポスの死後、大王はその地位を継承し、コリントス同盟盟主となってペルシアへ向かうことになる。

②大王とアリストテレス

 大王は、父フィリッポスの期待を受け、少年期には当時最高の知識人であるアリストテレスに師事した。自然科学から歴史、天文学、医学に至るまであらゆるものを彼から学んだ。それがアレキサンダーという人物を作り出したと言ってもよいだろう。遠征中には、アリストテレスに手紙や珍しい植物を送っており、アレキサンダーは、「父からは生を受け、アリストテレスからは良き生を受けたから、彼を父に劣らず愛している」(プルタルコス『英雄伝』)と言っている。

③イッソスの戦いについて

 アレキサンダー大王とペルシア王ダレイオス三世が初めて合間見えた会戦である。イッソスは海と山に挟まれた狭い土地で、ペルシア軍は当初、手前の広大な土地で敵軍を待ち受けていた。しかしアレキサンダーが急な病気でしばらく床に伏せっていたり、体操競技をした祀りごとを行っていたためマケドニア軍は行軍が滞る。するとダレイオスは、敵が怖じ気づいて進軍を止めたのではないかと考え、狭い土地へと進軍を開始してしまった。大王は、大軍勢に対し少数の統率のとれた兵で戦いを挑んだ。さらに、率先して敵中に入り込み、味方を鼓舞しながら勝利を得たのである。

④大王とダレイオス王

 大王は、イッソスの戦い後、捕虜となったダレイオス王の美貌の妻スタテイラに触れることさえしなかった。そのような大王の姿勢に感銘し、ダレイオス王は「王なるゼウスよ、ペルシア人の支配権を、この私のためにお守りください。しかしもしこの私があなたの思し召しによってもはやアジアの王でないのなら、どうか私の権力はアレキサンダーにお渡しください」と祈ったという。

⑤エジプト制覇

 アレキサンダーは、エジプトを争うことなく手に入れた。エジプトはそれまでペルシア人による過酷な支配を受けていたので、彼らはマケドニア軍を喜んで迎え入れ、さらにアレキサンダーをファラオ(エジプトの王)の地位に就けた。

⑥ガウガメラの戦い

 イッソスの戦いでアレキサンダーの前から敗走したダレイオスは、ペルシア国内で新たな軍勢を集めた。そのためこの戦いでのペルシア軍兵士は異民族が多い。前三三一年ガウガメラにて二度目のアレキサンダーとの対戦となる。このときダレイオスは鎌つき戦車を多数用意し、それが活躍できるよう広い土地を選んだ。しかし結果はむなしく、ダレイオスは再び破れ、アレキサンダーを前にして逃げ出した。この戦いの後、アレキサンダーはペルシアの都スサ・バビロン・ペルセポリスを占拠、ペルシア帝国は本質的に解体することになり、コリントス同盟の目的は果たされる。

⑦なぜソグディアナにこだわったのか

 アレキサンダーはソグディアナ・バクトリア地方の制圧に三年の期間を要している。さらにそれだけではその土地を抑えきれず、インドへ進む際、一万人を越える兵を残しておいた。この地は、ダレイオス王を殺したベッソスが逃げこんだ彼の領地であり、彼を殺して王位継承権を正当なものにしたかった。さらにアレキサンダーは難攻不落の地を攻め落とすことにこだわり、また進軍の際に反抗勢力を残しておくことを嫌った。

⑧マケドニア王家の婚姻制度

 マケドニア王国は、後継者を残すために、代々一夫多妻制をとっていた。アレキサンダーの父フィリッポスも生涯で七人の妻を娶っている。ただしそのほとんどは政略結婚である。妻たちに正室と側室の区別はなく、息子を産んだ順番も王位継承権には関係しなかった。そのときの政治や権力に左右されるので、妻たちは自身と子どもたちの身を守るために、王位継承の邪魔となる王族らを殺してしまうことがあった。

⑨ポロス王(インド北西部)との戦い

 インダス川流域を支配するポロス王は身の丈2・2mもあり一際大きな象に乗って、アレキサンダーを討つべく兵士らを従えて待ち構えていた。ポロス王は戦象を多く持ち、マケドニア軍は、ギリシア地方にはいないたくさんの象を相手に難しい戦いを強いられた。象たちは大きく、兵士らは踏みつぶされてしまうのだ。そこで、マケドニア軍は四方八方から槍を投げ、さらには象の足を切り落として戦った。次第に衰弱していく象たちは、仲間を襲ったり象使いを振り落したりした。とうとうポロス王も討たれ、槍を落としてしまう。ポロス王が乗っていた象はポロス王が衰弱していることに気づき背中から降ろし、ポロス王の体に刺さった槍を抜き取ったという。その後ポロス王はアレキサンダーに勇敢さを讃えられ、その土地一帯を支配することを認められた。

⑩スサの合同結婚式

 アレキサンダーはソグディアナ地方制圧後、東方文化を急速に取り入れ始めた。ギリシア兵たちはそれに反発し、さらにはアレキサンダーがペルシア人に傾倒し自分たちを軽視しているとの印象を持ち始めていた。そこでギリシア人兵とペルシア人貴族女性を結婚させることにより、二つの民族の融合を図った。

⑪大王の母オリュンピアス

164-7-2.jpg大王の母オリュンピアス
 大王の母オリュンピアスは大王の父フィリッポスと四番目に結婚し、アレキサンダーと妹クレオパトラを生んだ。大王とは生涯親密な関係を保ち、遠征中も頻繁に手紙をやり取りしたり、たくさんの戦利品を受け取ったりした。大王の死後、アレキサンダーという強力な後ろ盾を失くしたオリュンピアスは、彼の実子アレキサンダー四世を擁護し、王位継承の邪魔となる人物やアレキサンダーを暗殺したと噂される人物の親族を次々殺戮していったため、最後はカッサンドロスによって殺されるに至った。

⑫大王死後の王国

 大王は急逝したため、後継者が決まっていなかった。候補となる人物として、父フィリッポスの庶子で精神薄弱のアリダイオス、ソグディアナで結婚したロクサネの胎内の子(のちのアレキサンダー四世)、精鋭の側近護衛官らがいた。
 彼らが後継者の席を争いはじめた。
 まず、アリダイオスは、アレキサンダー四世を孫として擁護し権力を得ようとする大王の実母オリュンピアスによって殺されてしまう。しかしそのオリュンピアスは、マケドニア本国を統治していたカッサンドロスによって、大王の死から七年後に殺される。カッサンドロスはさらに、後継者の座を狙い、マケドニアで保護し十二歳になっていたアレキサンダー四世をも、自身の王位継承の邪魔になるとして四世の母ロクサネとともに暗殺する。
 大王の血を継ぐものは途絶え、その後も側近らが争いを続け、大王死後十七年となる前三〇六年にはセレウコス、アンティゴノス、リュシマコス、プトレマイオス、カッサンドロスの五人が次々と王を宣言することになる。アレキサンダーの大帝国は五つに分かれることになった。

⑬大王と鳩摩羅什の臨終

 大王は臨終に際して死に屈せず、面会を希望する兵士ら全員に会い、最後側近護衛官らに王国を最も優れたものに譲ると言って亡くなりました。
 また、死を予感した鳩摩羅什は弟子たちに「私の説いた教えが真実であるならば、それを説いた舌だけは、焼けずに残るはずである。」と伝え、実際、舌は焼けずに残った。遺灰は西安の草堂寺の舎利塔に収められており、焼け残った舌は武威に運ばれて十三重の塔に埋葬してある。

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