大洞 龍明塾長

シルクロードをゆく パルテノン神殿と東本願寺建築(第27期スクーリング講義録)

2015年3月10日


 二〇一三年は鳩摩羅什三蔵法師が亡くなられて一六〇〇年の記念すべき年でしたので、大乗仏教を東アジアにもたらしてくださった最大の功労者である師の偉業を偲んでシルクロードに何度も足を運びました。

 特に天山南路の中心的なオアシス都市であったクチャは師の生誕の地であり、師が生まれた古代キジ王国の王城址に銅像を建てることと、さらに記念館を建立することを企画して各方面に働きかけ、二〇一三年までに実現を目指していました。

 記念館は尖閣列島の問題発生によりその筋の意向で建築準備の足場まで立ち上がっていたものの、ついに頓挫して未だに実現していません。誕生の地・王城の跡地には、昨年九月十六日に台座とも七mに及ぶ大きな銅像を完成させました。

 現在、中国西安から中央アジアに至るまでのシルクロードが世界遺産に登録されようとしています(二〇一四年六月二十二日登録が決定されました)。シルクロードは前一三九年に漢の武帝の意を受けた張騫が天山北路を通り大月氏国に至ったことによって、往路天山北路・帰路天山南路を経由するシルクロードが開かれました。その後ローマ・ギリシャから中央アジアを通り、東アジアの最東端に当たる日本にまでいたる交易路として開かれ、たくさんの文物が往来しました。また四世紀には鳩摩羅什が、七世紀には玄奘三蔵が、十三世紀にはマルコポーロが後世に影響を及ぼす足跡を残しています。
 このたびの講演は、「シルクロードをゆく」シリーズの第十回目に当たり、シルクロードの中で特に建築に注目して歴史を紐解いてみました。すると、古代ギリシャのパルテノン神殿と現在京都駅前にそびえる東本願寺の建築との間に意外な共通点があることに気がついたのです。

 私が感動を受けた二つの大建築、すなわちアクロポリスのパルテノン神殿と京都駅前にいらかをそびえる東本願寺の大伽藍との結びつきと、なぜこの二大建築に感動を覚えたかについてお話をしたいと思います。
 
 東本願寺の壮大な伽藍を初めて見たのは一九四五年、数え年九歳の七月の下旬でした。京都駅前の東本願寺の大師堂門をくぐって堂宇を見上げた瞬間たとえようもない感動に襲われ身動きのできなかった記憶を宿しています。数年後図書館で建築書をひもとき「東本願寺の伽藍は、江戸時代の様式踏襲で、何ら新しい魅力もなく価値が低い」旨の記事を読み、「少年期のあの感動が本当であったのなら、このような不名誉な評価はぬぐい去りたいもの」と心に秘めていたものです。

 それから二十二年の後、一九六七年二月二十一日に吹雪のニューヨーク・ケネディ空港を発って、チェリーの花が爛漫と咲き乱れるポルトガルのリスボン空港へ到着し、その後スペイン、フランス、スイス、イタリアを経て、三月十日にギリシャのアテネに着きました。地中海ブルーを思わせる澄み切った青空のもと、アテネの市中からアクロポリスの丘を見上げたとき、白い大理石造りのパルテノン神殿がそびえ立っていて、そのあまりの美しさに得も知れぬ感動を受けました。

 以下、ギリシャ・パルテノン神殿が、人類史の上でどのように形成され、さらにシルクロードを通って日本に辿りつき、それが日本史の上で、古代・中世・現代においていかに強い影響を与えて、明治造営の東本願寺建築の美しさを形成したかを建築史とシルクロード文化史の上で辿ってみることとしましょう。



一、ギリシャ文明の形成とその背景



①パルテノン神殿の建設

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 ギリシャ・アクロポリスの丘の上に建つパルテノン神殿。このパルテノン神殿はペルシア戦争の勝利を祝って女神アテナの神像を祀るために、前五世紀に建てられたギリシャを象徴する建物です。

 ペルシア戦争
 前四九〇年九月、急速に勢力を拡大していたアケメネス朝ペルシアは、ギリシャへと支配領域を広げるため、三段櫂船に二万五千の大勢力を乗せて海を渡りアテナイへ侵攻しました。一方のアテナイ軍はペルシアの半分にも満たない兵力で迎え撃ちます。それにも関わらず、アテナイ軍の訓練された重装歩兵部隊は、激しい白兵戦を制しました。アケメネス朝ペルシア王のダレイオス一世はこの敗戦への大規模な報復を企てるも、前四八六年に死を迎えてしまいました。

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 アテナイ軍が当時無敵と思われていたペルシア軍への勝利に歓喜したのは想像にかたくなく、アテナイを守護する勝利の女神アテナ神像を祀るため、当時の美術・技術を結集し、パルテノン神殿の建設を開始しました。

 ところが、その完成を待たず前四八〇年、再びペルシア軍による侵攻が起きます。このときペルシアはインドから中東、小アジアまでを版図におさめ、あらゆる属州から兵力を集め攻撃の準備をしていました。一回目の侵攻時よりはるかに強力なペルシア軍を相手に、ギリシャ諸国は最終的に勝利を得ることができました。しかし戦いの途中、アクロポリスは包囲攻撃を受けます。デルフォイの神託により、アテナイ市民は町を捨てて避難していましたが、アクロポリスに留まった少数の部隊は残らず殺され、アクロポリスには火が放たれて殲滅しました。あまりに悲惨なアクロポリスの破壊に、アテネ市民は以後「三十年間その聖域をそのままにしておく」という『プラタイアイの誓い』を立てたのです。

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 およそ三十年が経過した前四四九年、アテナイ軍はサラミスの海戦でペルシア軍に勝利し、前四四八年ペルシアとギリシャは「カリアスの和約」をしました。そしてその年よりようやくパルテノン神殿の再建が始まったのです。都市アテナイは、ペルシア戦争での活躍によって興隆し、絶大な人気を誇る政治家ペリクレスを指導者として思想・文学・芸術の才能を開花させました。彼は「神殿の建築はすべての職業の市民に仕事を与えるものである」として市民を鼓舞し、当時最高の彫刻家フェイディアスによる新しく造られた黄金のアテナ神像を納めるため、パルテノン神殿に莫大な労力と資材をつぎ込みました。ちなみに大理石の使用は二十万トンにも及んでいます。

ギリシャの神殿建築
 古代ギリシャの神殿は、建物そのものが神への供え物として建てられたため、できるかぎりみごとで美しい外観が求められました。その結果、神殿建築には、より適切に見えるように本来直線・直角・平面とするような部分に極めて微妙な補正操作を加える技術が用いられ、古代ローマ時代の建築家ウィトルウィウスの「建築書」にも古代建築についての記述が残っています。(注1)

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パルテノン神殿の美的構成
 当時最高の技術が注ぎこまれたパルテノン神殿は、ギリシャ神殿建築において錯視の修正を試みた最良の作品と言われています。主な特長は次の四つです。

1. 基壇の修正
 長い水平の部材は本当に水平だと中央が下がって見えます。正面幅およそ三十mに及ぶパルテノン神殿は、神殿を遠望したときにたくさんの円柱を乗せた基壇中央がくぼんで見えます。その修正のため、中央部にかけて微妙なふくらみを持たせています。
 平面が長方形である神殿の、正面三十・八六mの基壇中央部は両端部から六・五㎝隆起し、側面六十九・五一mの中央部は十二㎝隆起しています。全体から見ると大変僅かな隆起でありますが、その微妙な修正が基壇の錯覚を直線に見せています。

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2. 柱身の修正
 柱の側身がまっすぐだと、直線部がそげて見え力強さがでなくなってしまいます。そのためパルテノン神殿の柱身には「エンタシス」と呼ばれるふくらみが造られ、さらに上部に向かうにつれ少しずつ細くなっています。
 加えて、一番外側の柱は、背後から光を受けたときに細く見えてしまうため、室内神殿を背景とした柱より、少し太めに造られています。

3. 柱の傾きの修正
 長い直線上に立つ柱は、垂直に立てると外側に倒れているように見えてしまうので、それを防ぐため、全ての柱は内側への傾きを持っており、特に隅柱は傾きが大きく設計されています。

4. 柱間の修正
 柱と柱の間の間隔は、一番端のものを狭くとることによって、全ての柱が一定に立っているように見せています。

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世界への影響
 全体の壮大さに比して加えられた修正の細かさが、パルテノン神殿のあの美しさを生みだしているのです。そのシンプルな構成でありながらも人を魅了してやまないギリシャ神殿は、後世の建築に大きく貢献し、現代にいたるまで影響を与え続けています。

 特に、十八~十九世紀には古典主義という芸術復興が見られ、盛んにギリシャ・ローマ建築が研究されました。これは前代のバロック・ロココといった豪奢な芸術の反動でもあり、ギリシャ・ローマ芸術のその純粋性への回帰となっています。

 イギリスでは、一八〇〇年代初めに活躍したウィリアム・ウィルキンスが、建築の仕事に就く前にイタリア・ギリシャ・トルコを旅行し、ギリシャへの嗜好を高め、イギリスにおいてのギリシャ古典主義の旗手となりました。ユニヴァーシティ・カレッジ(一八二七年)を設計し、その建築が、後に多くの公共建築物で模倣され、さらにサー・ロバート・スマークもギリシャ古典建築の手法で大英博物館(一八四六年)を設計しています。

 また、ローマ建築への模倣も見られます。イギリスは十八~十九世紀にかけて起きた産業革命の影響から、経済力が大いに飛躍し、その富と威厳を示すためには、古代ローマ建築が最も適していると考えられました。さらには古代の偉大な建造物を採用することにより栄光あるローマ帝国をイギリス帝国に結びつける意味を含め、ローマ建築の手法がとられています。

 ドイツでは、フリードリヒ大王のもと、ギリシャ古典建築の厳格なスタイルが建築に導入されました。国内外に大きな影響を与えたフリードリヒ・ジリーは古代研究に基づき単純な構成で設計しています。ラングハンスによるブランデンブルク門はアテネのプロピュライアが手本とされ、ベルリンの王立劇場は幾何学を用い統制の取れた建築に仕上がっています。

 フランスでは一七〇〇年代にギリシャ古典主義建築が多く建てられました。アンジュ・ジャック・ガブリエルやジャック・ドニ・アントワープを代表に、装飾を抑え簡素化された水平垂直の構成を高めた作品が建てられました。ナポレオン第一帝政期には、マドレーヌ教会堂が古典主義の様式で建設されています。

 ロシアでは、ナポレオン時代のフランス・パリの影響を受け、当時パリで流行していたギリシャ古典主義の手法が公共建築に用いられました。パリで学んだイワン・エゴロヴィッチ・スタローフはタヴリーダ宮殿を設計し、パリとローマに長期滞在したヴォロニキンもギリシャ風の鉱石研究所等を設計しました。それ以降は、ロシア的表現技法が加えられてパリよりも壮大なものへ発展しました。

 アメリカでは、第三代大統領トマス・ジェファソンが、ヨーロッパを見聞した際に、民主主義の思想を取り入れました。さらにそれを具現化するためのギリシャ古典建築を取り入れ、公共の建物を建て、ヴァージニア州議事堂がその代表となっています。

 このように時代をくだってもすべてパルテノン神殿を模倣しようとする格好で、欧米ではパルテノン風の建築が採用されています。時代を超えて欧米諸国の諸民族がパルテノン宮殿の美しさに魅了され尽くした結果です。

②メソポタミアからエジプト、ペルシアへのつながり

 ここで疑問となるのが、ギリシャがどのようにしてこの美しく整った建築に辿り着いたのかということです。古代においてはギリシャ文明の発達は他の文明より遅れており、エジプトおよび近東からの影響を受けて発達しています。

aメソポタミア文明

 世界で最も早くに文明が興ったのは中東・メソポタミア地方です。前一万三千年にはチグリス河とユーフラテス河の間で世界で最初の農耕文化が始まっており、前八千年には日乾レンガを使用した建造物を造っています。農業生産量の増加と定住、氷河期の終了により、前八千~六千年には人口密度が増加し、それに伴う灌漑の必要性から社会は複雑になり、前五千年期までには複雑な文明に特有の、公共建築と都市が成立したと考えられています。

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レンガ建築
 メソポタミア地方は、木材と石材が乏しく、一方チグリス・ユーフラテス両河からの泥に恵まれていたため、レンガ造りの建築が発達しました。

 日乾レンガは前九千~七千年ごろには考案され、泥に植物の繊維を混ぜ、乾燥させて強度を増して造られました。大きく時代を経て、前三四〇〇年ごろには、エジプトへその技法が伝わったとされています。

 前四千年期には神殿建築が始まり、シュメール人の故国ウルクには大きな神殿が建設されています。そこには日乾レンガを放射状に並べた直径二・六mの世界最古の円柱も残っています。前二二二〇年ごろのウル期には、周囲を焼成レンガで構築した巨大な聖塔(ジッグラト)が建設されました。この建造物の壁の各辺は直線ではなく、力強い印象を与えるために少し外側にはみ出すように綿密に設計されています。

 他の地域では柱梁構造を用いた建築が発展しますが、資材による制約を受けて、メソポタミア地方ではレンガ建築を継続させていきます。ローマ建築で好まれたアーチ構造も、メソポタミア地方のレンガ建築の技術を用いたものであります。

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新バビロニア建築
 前六世紀の新バビロニアの時代には、古代世界七不思議のひとつである「つり橋庭園」を含む壮大な宮殿が造られました。レンガ建築は、長い年月をかけて、青い釉彩レンガの鮮やかな壁体へと発展し、その美しさは、この地を訪れた古代ローマの歴史家ヘロドトスに「それは知られている世界中のどの都市よりも壮麗さにおいて抜きんでている」と称讃されたほどです。

 なお、この宮殿は十九世紀末にドイツの探検隊により発掘され、ドイツへと持ち帰られました。そのため、この宮殿の一部であるイシュタル門は、現在ドイツ・ベルリン博物館に復元されています。

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アケメネス朝ペルシア
 前五五〇年、新バビロニア王国は、キュロス二世が建国したアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされます。ペルシア人というのは、中央アジアからイラン高原へと居を移し生活をしていたアーリア人の一派です。

 アケメネス朝ペルシアはどんどん勢力を強め、次第に領土を拡大し、アケメネス朝第二代の王カンビュセス二世はエジプトを侵略し、前四八〇年クセルクセス王はギリシャへ侵攻してパルテノン神殿もろともアテネを焼き払っています。

ペルシアの建築
 アケメネス朝ペルシアはメソポタミア地方侵入当時は文化的に未熟な集団でした。そのためアケメネス朝の建築には、先進した征服民族の技術が取り入れられることになります。カンビュセス二世がエジプトへ侵入した際には、エジプトの巨大な建造物がペルシア人に強い感銘を与え、ペルシア建築に「円柱」が普及することになります。カンビュセス王はこのとき多数の職人を強制移住させたといわれており、また、ギリシャ地方からも傭兵を雇ったため、ギリシャの石工技術がいたるところに残っています。

 彼等が多くの民族の力を借りたことは碑文にも残っています。ダレイオス一世の建築したスサの宮殿の定礎碑文にそのことが刻まれています。


イトスギはレバノンより、ヤカの木はガンダーラやケルマンから、黄金はサルディスやバクトリアから、ラピスラズリや紅玉髄はソグディアナから、トルコ石はホラズミアから、銀と黒檀はエジプトから、壁画装飾の材料はイオニアから、象牙はエチオピア、インド、アラコシアからもたらされ、石柱はエラムのアビラドゥスなどのものを使った。また石工はイオニア人とサルディス人、黄金細工はメディア人とエジプト人、木工はサルディス人とエジプト人、レンガ工はバビロニア人、壁面装飾はメディア人とエジプト人が担当した。
(「大系世界の美術 古代西アジア」)


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 いくつもの民族からの技術を採用して完成した建築物は、それまでのメソポタミア地方伝統のレンガ建築とは異なり、柱梁構造を基本とした建築となりました。ダレイオス一世が建設を開始したもう一つの宮殿であるペルセポリスのダレイオス宮殿には「百柱の間」という六十八・八m四方の大多柱室があり、その構造は独特で、広大な広間に立ち並ぶ円柱は細く長く、その上に平らな天井を載せています。十一・三mの長さを持つ柱は、ギリシャ神殿の柱のように溝彫りが施された上、柱頭には雄牛が乗りギリシャ風の渦巻が付されていますが、一方で柱礎はエジプトの柱のような形状をしています。

bエジプト文明

 エジプト文明の成立は、統一王朝の発生した前三二〇〇年ごろとされています。
 
 エジプトの初期建造物は、葦やパピルスなどの植物材料を地面に立て、その上へ泥を塗って壁とする大変弱いものでした。そこへゲルザ文化期(前三千六百年ごろ~)末期にメソポタミア地方から日乾レンガの使用法が伝わります。エジプトは、メソポタミア地方と比べて他地域からの影響が少なく独自の発展を遂げていたとされますが、この頃の遺跡にはアジア特産のラピスラズリが出土しており、交易が行われていたことがわかります。

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エジプトの王墓
 古代エジプトでは、冥界の王オシリス神が信仰されていました。死後の世界は確実に存在し、現生の住居は仮のもので、墓が永遠の住居とみなされており、そのため、権力者は死後の世界での幸福な生活のため、調度を整え壮大で永続的な住居(墓)を建設することに砕身しました。

 エジプト王朝発展前の最初期の王墓は地下部分を日乾レンガで仕上げ、地上部分は丸太の天井を木の柱で支える簡素なものでありましたが、その後地上部分も日乾レンガで造られるようになり、マスタバと呼ばれる長方形の墓が建設されるようになります。王権が増すにつれてマスタバは大きくなり、供養室等を備えるようになり、第五王朝(前二四九四年~前二三四五年)のときには供養室内に二本の独立柱をもつ部屋や柱廊をめぐらした中庭が造られるまで発展しています。

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ジェセル王のピラミッド(場所サッカラ)
 前二八六八年~前二六一三年のエジプト古王国時代のジェセル王の宰相・イムホテプは、亡くなったジェセル王が太陽神ラーのもとへ達することができるようにという願いを込めて王墓を高く高く設計し、ピラミッドを造りあげます。ジェセル王のピラミッドはまだ発展段階であり、形が整っていないため「階段状」のピラミッドと呼ばれています。しかし、これがエジプトがレンガから石材への変換点を示すものであり、世界最古の石造建造物といわれています。

 このピラミッドから石材への変換が起こったと考えられる理由は、木材を模したような石材が多く残っているためです。天井には丸太のような形状の石材が架かっており、壁に立てられた柱には、杉の木をエジプトのノコギリで切ったときのような溝が彫られているからです。 

 さらに技術が発展して完成された有名なキーザの三大ピラミッドは前二五五〇年ごろに造られています。

独立柱・多柱室のはじまり
 ジェセル王のピラミッドは、石材加工技術が発達段階であったため、石柱といっても、壁に沿って彫られたような半円柱でした。

 その後エジプト建築の特徴である石材加工技術が発達し、独立柱が造られるようになります。

 エジプトの柱は表面に蓮やパピルスなどの植物模様が描かれる特徴を持っています。これらの柱は、最初期建造物で使用された植物を用いて壁を作っていたときの様子を模したものであるという説と、神話的な意味を持つとされる説があります。神話的な説では、蓮の花の円柱は、太陽神(古代エジプトで信仰されていた神)が原初の洪水から蓮の花に乗って現れたことから採用されていると考えられ、パピルスの束を模した円柱は、ナイルの谷の原初の光景である神々の歩いたパピルスの茂みを表していると伝えられています。

 室内に円柱が並ぶようになったのは、中王国時代・前二一三四年、メントヘテプ王の宮殿からとされています。さらにこの時代には神殿を柱で囲む周柱式も用いられるようになっており、その形に、ギリシャ神殿との類似が感じられます。

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アモン神殿(場所カルナック)
 メントヘテプ王から始まった多柱室は、王の権力が強大化するとともに巨大化し、その大成がアモン神殿です。

 前一五三〇年ごろより建造の始まったアモン神殿には、百三十四本の円柱が室内を支える大多柱室が造られています。柱は二種類の高さを持ち、その高低差を利用して、室内に光が差し込み、さらに円柱が林立することで奥へ奥へと空間が続くように見えるよう設計がされています。見るものに畏敬の念を呼び起こす空間の中で執り行われる儀式は、より崇高に感じられたことでしょう。パルテノン神殿の立ち並ぶ円柱の起源もここにあると思われます。

 アモン神殿が造られた新王国時代、エジプトは積極的な海外拡張政策を採っていました。勢力を伸ばすとともに伝わっていく新王国時代のエジプト美術は、周辺諸民族に人気を博し、東地中海やアジアへ多大な影響を及ぼしていきます。

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cギリシャ建築の萌芽・クノッソス宮殿

 ギリシャでの文明の誕生は遅く、前二五〇〇年ごろでした。

 地中海クレタ島で、古代ギリシャ神話に登場するクレタ島の王ミノスから名前を取ったミノス文明が興ります。ミノス文明を代表するのはクノッソス宮殿で、洗練された建築が残っています。特徴的なのは、他民族の襲撃を防ぐような設計がされていないことで、そのことから、平和な環境であったことがうかがえます。また、前八~七世紀ごろから起こる古典ギリシャ文明の建築に見られる上細りの柱とは逆の、下細りの柱が残っていることも特徴的です。宮殿内に残る柱廊は杉材で造られ、柱身は短く、下が細くなっていることがはっきりと見て取れます。

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 クレタ島の位置するエーゲ海は、東地中海に位置するため、ミノス文明はエジプト・近東からの影響を多分に受け、それはクノッソス宮殿に描かれた壁画によく現れています。クノッソス宮殿内には、エジプトのテル・デル・アバダに描かれている「牛跳び」の壁画と同じテーマのものがあったり、ギリシャには見られない熱帯の光景であるとか植物や動物が描かれた壁画も残っています。

 しかし、ミノス文明は前十二世紀に海の民による侵入が原因で滅びてしまい、その芸術がギリシャ世界へ継承されることなく、およそ四世紀にもわたるギリシャ文明の暗黒時代に入ります。

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古典ギリシャ時代
 前八世紀になってようやくギリシャ世界が復活し芸術も再興し始めました。さらに前七世紀に入ると、エジプトへ自由に入る権利を得て、彼らの切石加工技術を輸入しました。

 この頃からギリシャ独自の文化が発達するようになり、特に神殿建築に力が注がれ、パルテノン神殿を代表する、美しい神殿建築が建てられるようになります。

 ギリシャの気候は、空気が乾燥して透明で陽射しが強く、さらに良質の建築用石材である大理石が豊富に産出していました。建設された大理石の神殿はギリシャ特有の強い光を浴びて美しく輝いたことでしょう。

ギリシャ神殿
 ギリシャ神殿は、メガロンと呼ばれる四角の住居を起源として造られ始めたとされています。当初は、木材を用いて、立てられた柱に屋根を架けただけの単純な構造の東屋のような建物でした。壁体に日乾レンガが用いられるようになっても、屋根に使用する木材の関係から、神殿の幅は制限され、細長くなることが多かったのですが、外に列柱を設けることによってその外観を大きく見せることができました。その結果、前七世紀ごろからは神殿の周りを円柱が囲むようになります。最古のギリシャ神殿であるテルモスの神殿を見ると、建設当初は壁が日乾レンガで造られており、その後木柱で周りを囲み規模を拡大した様子が見られます。また、シチリア島に残るヘラ神殿も木柱で周囲を囲む変化がはっきりと出ており、第一神殿は周壁がレンガ造りで柱に囲まれていませんが、第二神殿からは木を用いた列柱で囲み、神殿を大きく見せるように演出しています。

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 さらに、前六世紀ごろには、柱に使用された木材が石材に転換されます。前に述べたヘラ神殿においては、前五六〇年ごろに建てられた第三神殿で、石柱に変更された形跡があります。これが最古の石柱と見られることから、ギリシャでの石柱の使用開始は前五六〇年ごろとされています。

 前四七〇年からのペリクレスの時代にはたくさんの神殿が建てられ、ますますギリシャ神殿建築は洗練されるようになります。人気のある建築家は諸都市の求めに応じて神殿を建設しては移動し、建設しては移動をしてを繰り返して、能力を高めてゆきました。

 そして、前四三六年、アテネにパルテノン神殿が完成します。それには単に建築だけでなく、ギリシャの哲学や美術、数学、幾何学、天文学等がすべて集積された文化の結晶でした。

 その傑出した建築・芸術・思想を世界に広めたのが、アレキサンダー大王です。




二、アレキサンダーとヘレニズム文化



①アレキサンダー大王の東征

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 アレキサンダー大王は、前三五六年にマケドニア王国に王子として生まれました。幼少期は哲学者アリストテレスを家庭教師として成長しています。

 そして父王フィリッポス二世のペルシア帝国征服の意思を継ぎ、前三三四年二十三歳のときにヘレスポントス海峡(現ダーダネルス海峡)をわたって東方遠征を開始します。長槍を持った重装歩兵部隊を武器に驚異の速度で東進し、前三三〇年にペルシア帝国を滅ぼし、アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス三世の「アレクサンドロスには、自分は、今や死に行く者として可能な、次のような形での感謝の念だけを捧げる。即ち、全世界の支配権が、勝者としての彼に帰するように、と天上・冥界の神霊と王のごとき神々とに自分が祈るということである。」(『地中海世界史』p一八八)という遺言により、王位を継承しています。さらに東へ軍を進めたアレキサンダー軍は、前三二六年には西北インドに到達します。しかし、長期の遠征で疲弊した部下らに反対され、ギリシャへ戻ることとなりました。ギリシャへの帰途、病によってか、部下に殺されたのかは分かっていませんが、アレキサンダー大王は前三二三年に三十四歳で亡くなってしまいます。遠征を開始してからわずか十年後のことです。

 アレキサンダーが手にした広大な地域は五人の後継者によって分割支配されました。前三〇六年にはそれぞれが王を自称する五つの王国が誕生します。実は、アレキサンダーが亡くなったとき、真の後継者となるべき王子を、一人の王妃が身篭っていました。彼が生まれ、成人するまでという約束で将軍カッサンドロスが保護していましたが、支配権の争いの中で約束は反故にされ、王子が十二歳のとき(前三一〇年ごろ)に母親である王妃ロクサネとも暗殺されてしまいました。

アレクサンドリア
 アレキサンダー大王は広大な世界地図を頭に描きながらもその短い生涯を終えましたが、彼は支配した重要な地域に「アレクサンドリア」という都市を建設しました。部下や職人を留め、ギリシャ人による支配を維持するとともに、その文化と思想を世界に広めました。ローマ時代の伝記作家プルタルコスは、アレキサンダー大王が残した都市は七十以上と伝え、その支配権はエジプトからインドまで広範囲に及んだと記しています。

 さらに、アレキサンダー大王は建築にも力を注いでいたことがわかっています。前三三六年、父王フィリッポス二世の墓をマケドニアに建立したのがアレキサンダー大王であったとほぼ確実視されています。また、前三三二年、エジプトを征服した際には、大王自ら地中海に面したアレクサンドリアの都市計画の図面を引いたとローマ時代の文献に残っています。


カノボスに着いてマリア湖を岸沿いに周航したアレクサンドロスは、現在彼にちなんで命名されたアレクサンドレイア市があるあたりで陸に上がった。上陸してみると、その場所は、町を建設するのにもってこいの適地であって、そこに建設された町は将来、きっと繁栄におもむくだろうと思われた。そして実際この事業を起こそうという願望が彼をとらえたのである。彼は自分でも、市場は町のどのあたりに設けるべきか、神殿はいくつ程、それもどんな神神のための神殿を建立すべきか―そのうちにはギリシアの神神にささげられるものもいくつかあったし、エジプトのイシス女神を祀る神殿もあった―、それにまた町をぐるりと囲むことになる周壁は、どのあたりに築いたらよいかなど、新しい町のためにみずから設計の図面を引くなどしたのである。
(アリアノス著「アレクサンドロス大王東征記 上」p一八八)


 エジプト最後の女王クレオパトラはここアレクサンドリアでローマのオクラウィアヌスに攻められ、自ら毒蛇を使って自殺をして、前三十年にはエジプト王国は滅びました。この世界史上有名な女王・クレオパトラは、アレキサンダー大王の後継者の一人であるプトレマイオスが築いたプトレマイオス朝エジプトの末裔です。そのため、彼女はいわゆるエジプト人ではなく、ギリシャ人であったと考えられています。

②ヘレニズム文明

 アレキサンダーのもたらしたギリシャ文明が、それまで広く世界を支配していたペルシアのオリエント文明に融合して更に発展したものがヘレニズム文明であります。

 ヘレニズム文明時代に造られた諸都市アレクサンドリアの建築物は、ギリシャの建築物よりも壮大なものへと変化しました。それらは王室とつながりを持っており、王威の高揚に役立つことから、莫大な資金がつぎ込まれたためで、五つの国に分かれたそれぞれの王が美しい都市建設を競いあっていました。

 ヘレニズム建築の特徴は、ギリシャ本土においては聖域内の諸神殿がそれぞれ独自に設計・配置されていたものが、空間全体に目が広げられ設計された点です。それにより、神殿単体だけでなく、聖域全体から都市全体に及ぶ大規模な空間設計が実現されます。都市は格子状に設計され、列柱廊が普及します。これらの都市計画の精神は、シルクロードを通じて中国・日本まで伝わってゆきました。

ペルガモン王国
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 ヘレニズム都市のひとつペルガモン王国は現在のトルコに位置する古代都市です。アレキサンダー大王の五人の後継者の一人リュシマコスの支配下にあった場所ですが、リュシマコスは戦利品をペルガモン要塞に隠し、財務管理を部下のフィレタイオスに委ねていたところ、フィレタイオスは別の後継者の一人、セレウコス・ニカートルに寝返り、さらにその後潤沢な資金を背景にセレウコス朝の軍を破って独立を果たしました。

 フィレタイオス王は、東アジアの王を自称して財を尽くして積極的な建築事業を進め、壮大なギリシャ風都市を建築しました。ギリシャ各地から規範となる書籍・美術品、さらには学者・詩人・美術家を集めて都市建設を進め、都市は格子状に計画され、中心部には、南北三十六・四四m、東西三十四・二mの巨大な基盤上に立つ柱廊とギリシャ浮彫に囲まれた大祭壇が造られました。この大祭壇の半分は、一八六四年にドイツによって発掘され、現在ベルリン博物館に所蔵され、復原されています。
 私は二〇〇〇年にベルリン博物館を訪れ、この祭壇を目にし、その美しさと壮大さに圧倒された記憶があります。

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バクトリア王国
 さらに西方・中央アジアに位置するバクトリア王国は、ヘレニズム文明を代表するギリシャ人都市でした。

 この地方はアレキサンダー大王が征服し、その後五人の後継者の一人セレウコス・ニカートルが支配していましたが、セレウコス朝から前二五〇年にテオドシウスを指導者として独立しました。その遺跡と考えられているアイ・ハヌム遺跡にはヘレニズム都市の特徴である碁盤の目状の市跡と、列柱跡に囲まれた聖域が残っています。

 バクトリア王国はその後、前一世紀ごろ東方から来た大月氏族に征服され、クシャン朝が建国されました。さらに紀元後三世紀ごろにはササン朝ペルシアに征服されました。
 バクトリア王国が位置するガンダーラ地方で育まれたヘレニズム文化は、交易の大変盛んなクシャン朝・ササン朝両国により、シルクロードを通じて日本まで到達しています。奈良・正倉院には、ササン朝ペルシアより伝わったとされる手法で唐で作られた螺鈿紫檀五絃琵琶や漆胡瓶等が所蔵されています。

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タキシラ王国
 前二〇〇年ごろにバクトリア王国の勢力がヒンドゥークシュ山脈を越えてインドへ侵入して造られた都市のひとつがタキシラ王国です。ここでも街は格子状に整備されてます。

 このタキシラという土地は、前三二三年ごろにはアレキサンダー大王が征服のため訪れた場所で、タキシラ王はアレキサンダー軍に加勢しました。それは、古代ローマ歴史家のアリアノスの「アレクサンドロス大王東征記」等にも記されています。さらに前二五〇年ごろにはインド最初の統一王朝であるマウリヤ朝三代目の王であり、インドに仏教を広めたアショーカ王が青年期に太守として派遣された場所でもあります。

③アポロン仏の誕生

 アレキサンダーが遺したヘレニズム都市は、ギリシャ建築を広めただけでなく、それまで仏の姿を偶像として表現することがなかったインド仏教世界へも変化をもたらしました。

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 アレキサンダー大王は、重要な征服地にギリシャ人都市を建設し支配力を維持しようと努めていました。特に、バクトリア王国とタキシラ王国のあったインド北方の地域は屈強な部族と険難な地形で、アレキサンダー大王も征服に長い年月のかかった地域で、そのため、反乱を恐れて他の地方よりも多くのギリシャ人を残したとされています。

 インドではバラモン教(ヒンドゥー教)が主流でしたが、彼らギリシャ人は、それには馴染むことができませんでした。それは、バラモン教がはっきりとした四姓制度(身分差別)を持ち、さらにはギリシャ人はどの階層にも所属することができなかったからです。一方仏教は四姓平等主義でどんな民族でもどんな階層でも平等に受け入れるものだったので、ギリシャ人は次第に仏教へ帰依していきました。仏教経典として残る「ミリンダ王の問い」では、インドに造られた都市・アレクサンドリアの王ミリンダが仏教僧ナーガセーナに出会い、仏教へ帰依し問答を行う様子が描かれています。

 アレキサンダー大王が残したギリシャ人の中には芸術家・職人といった人たちも含まれています。ギリシャ人らはギリシャ本国においてはアポロンの神々を信仰し、神々を理想の容姿を持った彫像に現して敬ってきました。そのことが、仏陀を偶像化することを否定し、菩提樹や仏足跡としてしか表現しなかった古代インド仏教世界に影響を与えたと考えられます。

 アレキサンダー大王が前三二六年にインドへ到達し、数世紀を経た前一世紀~後一世紀になってからインドに仏像が誕生しました。それらの仏像はギリシャ世界で彫像されてきたギリシャ神話のアポロンの神々に似ているため、アポロン仏とも呼ばれています。
 

三、インド・アショーカ王と仏教の伝播 



①インド・マウリヤ朝の国家統一

 さらにアレキサンダー大王の遠征は、それまで統一王朝の無かったインド亜大陸に、王国を誕生させることになります。

 紀元前二世紀のローマ時代の史家アリアノスによると、「古代インド人はいくつかの強力な部族はあるものの、他の民族を攻撃することも他の民族と協力して敵に向かうということもなかった」といいます。アレキサンダーただ一人がインドへ攻撃を仕掛けたのです。

 インド諸民族はアレキサンダー軍の攻撃に驚き、民族支配の考え方を変えることになり、そして、とうとうインド史上初の大王国・マウリヤ朝が前三一七年に建国されました。

②マウリヤ朝創始者チャンドラグプタ

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 マウリヤ朝初代の王はチャンドラグプタといいます。王族の血を受け継いではいたものの、身分は低く、しかし、宰相カウティリヤに見出されて挙兵し、ナンダ朝を倒して前三一七年ごろマウリヤ朝を建国しました。その後、アレキサンダー大王の死後の混乱の続く西北インドへ兵を進め、一気に支配圏を広げます。その後も、強大な武力によって支配領域をどんどん広げていきました。

 伝承によると、チャンドラグプタは青年のころ、ナンダ朝の王の怒りに触れて国を追放されたといいます。そのときに辿りついた先がアレキサンダー大王の陣営です。チャンドラグプタはアレキサンダー軍の戦術を学んだということになります。しかし、アレキサンダー大王に対し高慢な態度で接し、大王の怒りを買ってしまい、殺されそうになったチャンドラグプタは、陣営から脱出します。必死の逃走に疲れ、横になり眠り落ちたときに「大きなライオンが現れチャンドラグプタの流れる汗を舌で拭った」といいます。チャンドラグプタはこの前兆により、王権を獲る希望へと掻き立てられることになりました。古代ローマの歴史家アリアノスが残した文献でもサンドラコットスの名で登場しており、「この男は下賤の生まれであったが、偉大な運命を予告する前兆に促され、王位を望むようになった」と記しています。

 後に孫であるアショーカ王はライオンの乗った石柱を各地に建立していますが、これはマウリヤ朝がライオンの予言により建国されたことを示すものです。さらに現在のインドの国旗には、ライオンの乗った石柱に描かれている模様がモチーフとして使われています。

③アショーカ王

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 マウリヤ朝三代目の王アショーカは古代インドにおいて仏教に帰依し"ダルマの政治"を行ったことで有名です。彼によって仏教の思想はインド全域に広がりました。

 そのアショーカ王も前二六八年に即位した当初はチャンドラグプタ以来続く武力による支配を継承し「残忍アショーカ」と呼ばれるほどでした。即位八年目にはカリンガ国を征服し、マウリヤ朝はインド史上最大の領土を持つことになります。

 しかし、アショーカ王は、このカリンガ国征服の際の犠牲者の多さに深く悔恨し、武力による領土拡張および支配から"ダルマ(法)の政治"に転換することになりました。このことはアショーカ王が即位十二年目に王国の辺境地帯の要所九箇所に建立した法勅碑文に記されています。(注二)


天愛喜見王(アショーカ王)の灌頂八年に、カリンガが征服された。十五万の人々がそこから移送され、十万がそこで殺害され、また幾倍かが死亡した。それ以来、カリンガが征服された今、天愛の熱心な法の実修、法に対する愛慕、および法の教誡が、(行われた)。これはカリンガを征服したときの、天愛の悔恨である。なぜならば、征服されたことのない(国が)征服されれば、そこに人民の殺害、または死亡、または移送があり、これは天愛にとって、ひどく苦悩と感じ、悲痛と思われるからである。
(アショーカ王第十四章磨崖法勅・第十三章より抜粋)


ダルマの政治
 ダルマとはインド思想の根本概念の一つで、世界中で普遍的な理法を指す言葉です。その中でも、アショーカ王が広めたダルマは、カリンガ征服後に王が信仰を深めた、仏教をもとにしたものであるとされています。アショーカ王は、武力による統治を放棄し、ダルマを民衆に教誡することで広大な王国を統一することを目指しました。王の最上の望みは、一切の生類の現世・来世における安楽の増進であり、それこそが王の負う債務の返還であると考えました。

法勅碑文の建立
 彼はダルマの思想を、民衆に広めるため、分かり易い言葉で述べたダルマを、碑文として大岩石や石柱に刻んで各地へ設置しました。民衆に対しては、特に父母への従順・年長者への尊敬・不殺生を示しています。また、アショーカ王自身にもダルマの実践を課す碑文を残しています。(注三)


民衆へのダルマ
更に天愛はかように告げる。父母に対しては従順でなければならない。教師に対しても同様でなければならない。動物に対しては(憐れみの)堅固(な意思)がなければならない。真諦を語らなければならない。この法の功徳は実践されなければならない。軌範師は弟子によって、かように尊敬されなければならない。また、親族に対してこれを適当に普及させなければならない。これは古よりの法則であって、これはまた、長寿に導くものである。(小摩崖法勅第二章より抜粋)


ダルマの実践
 アショーカ王は碑文を建立してダルマを知らしめるほかにも、民衆の利益安楽を成さしめるために、自ら進んでダルマの実践を行いました。

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 例えば、それまでの諸王が「娯楽の巡行」と称して敢行していた狩を廃止し、「法の巡行」というダルマを説く旅に変更をしました。

 また、マウリヤ王国内だけでなく、隣国やギリシャ諸国に使節を派遣しダルマの教えを広めました。シリア、エジプト、マケドニア等に使節を派遣したという記録が残っています。そのため、隣国との境界付近に建てられた碑文には、アラム語(アケメネス朝ペルシアが使用していた言語)やギリシャ語で書かれたものも残っています。

 さらに、「阿育王伝」という仏典によると、アショーカ王は釈尊の遺骨が納められた八つの舎利塔のうち七つから遺骨を取り出し、それを世界に広めるために八万四千の塔を建立したといいます。八つのうち七つだけを取り出したのは、最後の一つを所有していた竜王が自ら供養すると言ったためです。

 また、この仏典には、アショーカ王は聖者ウパグプタの案内で釈尊が過ごした全ての場所を巡ったことも記されています。このウパグプタという聖者は、鳩摩羅什三蔵法師が子供の頃母親とともにインドへ留学したその帰途に出会った羅漢から「この沙弥は三十五歳までに破戒しなければアショーカ王を教化した優婆掘多のような高僧になるであろう。」と予言されたときに言及されていた高僧です。釈尊涅槃後百年経ったときにマトゥラーの地の香料商人の息子として生まれ、成人して出家しアショーカ王をはじめ無数の人々を教化させた方です。

アショーカ王の宮殿
 アショーカ王の宮殿は、隣国セレウコス朝からの使者メガステネスの記録によるとペルシアの宮殿よりも立派だったとされています。

 また、マウリヤ朝の首都であったインド東北部パータリプトラで発掘されたアショーカ王の宮殿跡からは、宮殿の外面構造がペルセポリスのダレイオス宮殿の広間や百柱の間に類似していたことが分かり、メガステネスの記録が実証されています。

 当時インドでは木造建築が主流でしたが、アショーカ王宮殿はレンガ造りでした。さらに若干の石柱も発見され、ギリシャ風柱頭も発見されています。また、宮廷の構造および遺品にアッシリア・ギリシャ・ペルシアの影響が認められることから、アショーカ王はギリシャ人若しくはシリア人の工匠を使ったのではないかとも考えられ、ここ宮殿建築にもギリシャ文化のインドへの伝播が確認できます。

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④アジャンター石窟

 アショーカ王により、インド全域に仏教の思想が行き渡ることになりました。石窟に適した岩山の多いインドにおいて、石窟の建立が始まるのもアショーカ王の時からです。アショーカ王も一つ石窟を開削していますが、これは、ジャイナ教のものです。アショーカ王が仏教以外の宗教を排斥することはなく平等に保護するという姿勢のあらわれでもあります。

 前二世紀ごろからは仏教の石窟も少しずつ開削され始め、前一世紀ごろからは盛んに開削されるようになりました。

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 アジャンター石窟は前一世紀頃から開削が始まり、その壁画の多さで世界中に知られています。しかし、インドにおいて仏教は八世紀ごろから衰退し始めたため、アジャンター石窟も忘れ去られていましたが、現代になって再発見されたのです。一八一九年イギリス軍将校ジョン・スミスが虎狩をしているときに虎に追われ逃げ込んだ場所が第十窟であり、そのときからアジャンター石窟は世界に知られるようになりました。彼はそのとき窟内に自身のサインを残しています。

 アジャンター石窟は第一期窟と第二期窟に分類されます。第一期窟は前一世紀~後二世紀ごろまでの仏像が出現していない無仏期のものです。後五世紀~七世紀ごろの、ギリシャ人との接触により仏像が誕生して以降のものは第二期窟と呼ばれています。

 アジャンター石窟には、石窟正面に柱を並べたものや、石窟内に列柱が周囲を囲むもの、広間に円柱が立ち並ぶものがあり、ギリシャやローマの神殿を思わせます。さらには周壁に沿って並ぶ列柱がすべて内転びになっているものがあるのは興味深いものです。

 一方、第二期窟に分類される第一窟に描かれた「美しい菩薩」と呼ばれる菩薩は、東方への影響も指摘されます。中国・敦煌莫高窟第二二〇窟に描かれた菩薩および日本・法隆寺の金堂壁画に描かれた菩薩と類似しています。全体に体をトリバンガ(三屈法)に捻って立ち、穏やかな表情を湛えた姿の印象は実に美しいものです。

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⑤シルクロード石窟群

 インドから、中央アジアへ仏教が伝わり、シルクロードオアシス諸都市には、石窟に適した岩山が多く存在したため、インドのように石窟が穿たれました。敦煌莫高窟、キジル石窟はアジャンター石窟同様たくさんの壁画が描かれました。その彩法にインド仏教美術の影響が強く残っています。




四、中国の寺院建築



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①中国の石窟

 インドの仏教が、中央アジアを通って中国へ伝わったのが、一~二世紀ごろです。シルクロードに造られた仏教石窟寺院はさらに東進し、麦積山石窟、雲岡石窟、龍門石窟が完成されています。その内部の彫刻にはギリシャ式の柱を模したものを見ることができます。
 
②会昌の法難

 中国において、唐代には仏教が大いに興隆し、則天武后の時代には沢山の寺院が建立されました。ところが、道教に傾倒した武宗(在位八四〇年~八四六年)がその他の宗教を弾圧するため、会昌五年(八四五年)に「滅法の詔」を下しました。このときに武宗は次々と僧尼を還俗させ、官立仏寺約四六〇〇、仏寺約二万を破壊したとされます。中国仏教は壊滅同然の姿となりました。

 そのため中国の木造建築を遡るには、壁画や石窟に描かれたものから研究するほか、飛鳥・奈良時代の日本建築を研究するしかないのです。当時、日本は遣隋使・遣唐使を派遣して中国文化の吸収に積極的であり、多くの工匠とともに建築技術も移入されていました。

 会昌の法難を免れた唯一の仏教遺跡が敦煌莫高窟です。その理由は、当時敦煌は吐蕃(チベット族)の支配下にあり、唐の領域ではなかった為、貴重な仏教遺産が残されました。
 
③仏光寺の柱間

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 唐代のもので現存する中国木造仏教寺院に、会昌の法難後の晩唐期に建設された数寺があります。その中でも、五台山の仏光寺は、奈良・唐招提寺の原型であるとも言われており、その外観・建築方法は日本の寺院建築につながる建築です。

 仏光寺大殿の柱は、エンタシス状にふくらみ、内側への傾きを持っています。その技法は、ギリシャ神殿建築に類似しています。また、天井の作り方が法隆寺および唐招提寺と同じであり、唐代の建築技術が日本へ伝わったことが分かります。

 さらに、宋代に著された建築技術書『造営方式』には、側脚と呼ばれる側まわりの柱をわずかに内側に傾斜させる技法やエンタシスを持った柱の技術が記されています。そして見本となる設計図が唐招提寺に酷似しています。中国建築が唐代より発達し宋代へつながることを考えると、宋代の建築技術書に唐招提寺に類似する建築意匠が残されていることは注目すべきものです。



五、日本の寺院建築



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 中国から朝鮮半島・百済を通って日本へ仏教が伝来したのは欽明天皇五五二年のときです。この時、仏像も同時に伝わりました。その仏像は蘇我稲目に渡され、彼は住家を改装して仏像を安置します。これが日本で最初の寺といわれています。以下、主たる日本寺院の柱間とエンタシス形状に注目して見ることにします。

①法隆寺の柱間

 法隆寺は五八六年に用明天皇がご自身の病気平癒のために、妹の推古天皇と御子の聖徳太子に命じて造立されたもので、六〇七年に完成しました。仏教への信仰が篤く、海外の文化を取り入れることに積極的であった聖徳太子が建てた法隆寺金堂は、明治時代の建築家の伊東忠太氏によって指摘されたように、ギリシャ神殿とのつながりを思わせる建築物です。パルテノン神殿と同様、柱にエンタシス状のふくらみを持ち、正面の柱の間隔も一番外側だけ狭いという設計がされています。法隆寺のエンタシスのふくらみは、パルテノン神殿のものよりも強く"徳利型"とも呼ばれています。

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 ただし、パルテノン神殿と法隆寺の類似には異論も多いのです。柱の間隔については、古代日本の寺院建築において、大きな屋根を支える上で、最も外側に置かれた桁に偏った負担が起きないようにするために中の間を大きく取り、端の間を小さくとるという傾向がある(溝口明則氏)とされています。また、その他の意匠も、「ギリシャの特許ではなく、芸術的に鋭い感覚のゆきつくところは一つであると知らされる(大岡実氏)」とも言われています。

 溝口氏と大岡氏のような意見を言う人もいましたが、ギリシャ神殿と共通する法隆寺や唐招提寺のエンタシス形の柱や柱間、晩唐の仏光寺につながる柱の間隔などは、単に建築自身の日本的な構造であると断言することができないように考えられます。

 もし日本独自に発達した芸術感覚によるものであるとすれば、それはそれで古代日本の芸術感覚が古代ギリシャの美的感覚に一致していると考えることができます。

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②西大寺の柱間

 七六五年に建立が発願された西大寺は、東大寺に相対して平城京に建てられたものです。この建物の柱間は、両端のみ狭いという法隆寺の構造を発展させ、見たときの均整がより取れるようにと、中央三間を最も大きく、次の柱間を少し狭め、さら両端二つの柱間を小さくするという構造をとりました。

 現在は柱の跡を残すのみですが、その建築は非常に華美で奇抜なものであったとされており、中国建築を大いに模していたと考えられます。中国からの技法が取り込まれた結果です。

③唐招提寺の柱間

 法隆寺では柱間が一番端のみ狭いという構造をとっていましたが、唐招提寺金堂はその柱間の意匠をさらに磨きあげ、端に向かうにつれて次第に狭くなっていくという構造をとっています。

 複雑な装飾を持たず明確な構成で、正面に並ぶ柱と大屋根とのバランスはパルテノン神殿に似て大変美しいものです。

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 唐招提寺は、七一四年に六度にわたる挑戦を経て唐から日本への渡航を果たした、鑑真和上建立の寺院です。鑑真和上は渡航の際に多くの技術者を連れていたという記録があります。そのため、鑑真和上来日の際に技術者も来日し、唐代の建築技術が唐招提寺に用いられたと考えられています。唐招提寺金堂の天井の模様全般が唐風の強いことにも注目され、このことから中国の建築技術が用いられたことが認められるのです。現在の寸法は元禄六年(一六九三年)に屋根の高さを変えられたもので、建築当初は今より屋根が低く造られていました。

 また、鑑真和上の弟子・思托の著書「延暦僧録」に描かれている和上は、寺院の造営・造形美術に心を砕いていたことがわかる記録が多く有ります。日本へ発つまでに和上は行く先々で努めて寺を建てたり、廃寺を再興したり、塔の修繕をしており、従ってその配下にはこれらの技術に長けた者のあったことが推察されます。
 
 唐招提寺金堂は、弟子の安如宝が中心となり鑑真和上の死後に完成されたものです。安如宝は、西域出身の僧であると考えられています。古代日本に伝えられる中国人の苗字はその出身地をあらわすことが多く、 "安"という文字は安息国、つまりパルティア出身の人物ではないかと考えている学者もいます。このパルティアという国は、バクトリア王国と同時期にセレウコス朝から独立したイラン系民族の国ですが、ギリシャ文化を色濃く残していました。ギリシャ語が公用語とされ、貨幣もギリシャのものを使用していました。パルティアの都市ニサの遺跡からはギリシャ系の美術品がいくつも出土しています。また、安史の乱を起こした安禄山は、"安"の姓を持つ、西域サマルカンド出身者です。西域地方は、中国中央部よりギリシャ文化に近く、交易の中枢であったためその文化に触れていたことでしょう。




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六、東本願寺の建築



 唐招提寺のあと、日本では、ギリシャのパルテノン神殿の伝統を持つ端の方ほど柱間が狭くなるという構造を持つ建築物はないと考えられていました。ところが、奈良・平安以降にも唐招提寺同様、柱間の間隔を狭めていく美しさを持つものが存在していました。それが東本願寺です。
 
①本願寺造営の歴史

 本願寺の歴史は、親鸞聖人の入滅後、大谷の地に墓標が置かれたのが始まりです。その後、親鸞聖人の娘・覚信尼のときに六角の廟堂が建てられ、曾孫・覚如上人の時に寺院化されました。

 蓮如上人の時代になると、山科へと寺院を移します。ところが戦国の乱世に入ると時代の潮流に巻き込まれ、山科本願寺は蓮如上人没三十三年後に細川晴元の軍勢により火が放たれました。伽藍全てが灰燼に帰すこととなります。このときに山科から石山(現在の大阪城跡)へと移り、石山本願寺が建立されました。

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 しかし寺地を移して後も織田信長との間に十年にもわたる石山合戦が繰り広げられ、顕如上人は祖師の影像を奉じて紀州・鷺森へと退去しました。織田信長が本能寺の変で没すると、続く豊臣秀吉は本願寺と親和政策を取り、本願寺を保護します。

 ところが、徳川家康に至ると、本願寺の勢いを恐れ、一六〇三年に東西本願寺を分立させました。これ以降東本願寺としての寺院の歴史が始まります。
 
②東本願寺大師堂の柱間

 東本願寺は、慶長度一六〇三年に創建されて以来、五度の再建が行われています。創建時東本願寺の図面は残っていませんが、明暦度の図面では明らかに柱間が両端に行くほど順次狭くなっており、パルテノン神殿・法隆寺・唐招提寺の柱間技法が採用されています。創建時の伽藍は一六五二年・明暦度の改築が行われました。

 しかし一七八八年に天明の大火によりそれら諸堂が焼失してしまい、蓮如上人三百回忌に合せるため一七八九年寛政度の再建が行われます。

 その堂宇も一八二三年には文政の大火により全焼し、一八四八年の蓮如上人三五〇回忌に合せ一八三五年に堂宇を再建しました。

 その堂宇は、一八五八年には安政の大火によりまたも消失。このときは、一八六一年の親鸞聖人六〇〇回忌を目前に一年半という短い期間で再建を果たしました。仮御堂としての建立のため、柱間が、端に向かうにつれて狭くなるという手法が取られていない、例外の建築です。しかしこの堂宇も兵火による元治の大火に見舞われ焼失してしまいます。

 一八八〇年に厳如上人による御沙汰が発布され、明治度造営が開始されました。現在見ることのできる東本願寺はこの明治度再建によるものです。

 東本願寺は鷺森以来の御家人棟梁衆が、明治造営ま
でずっと建築に携わり伝統が維持されています。その建築技法の中には唐招提寺の柱間構造が伝統的に受け継がれていたことが分かりました。

 明治度再建の大師堂棟梁であった九世伊藤平左衛門は明治の文明開化の折に東京で欧州風建築を視察研究し、その後中国の建築を研究するため私費を投じて単身清国へ渡り建築法を研究した経歴を持つ人物です。

シルクロード建築
 以上述べてきたように、ギリシャで生まれた美しいパルテノン神殿の構造は、シルクロードを通じて遠く日本まで、さらに紀元前五世紀に生み出された美しさが、現在の東本願寺に生きています。東本願寺の御堂を見上げるたびに感動が起こるのは、私一人だけでしょうか。
 
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「毛綱の造営」
 今からおよそ三十七年ほど前に、東本願寺の本願寺維持財団というところに勤務し、「明治造営百年東本願寺」という大部な本を造りました。その本を制作する中で、東本願寺の建築を研究し始めたことが今回「パルテノン神殿と東本願寺建築」というテーマを研究することになる発端です。以下は、その本に記した私の感想を紹介してみます。


 五年の星霜を費やして完成した本書の制作を通して、慶長度の創建から、明暦度の改築を含め、天明・文政・安政・元治と四度を数える灰燼の中から、常に不死鳥の如く蘇った東本願寺本廟建立の歴史をつぶさに眺めると、造営史をひもとく一つの重要な鍵が潜んでいることに気付かされる。 

 それは、造営史とは、西暦でも和暦でもなく、親鸞聖人暦であり、準ずるに蓮如上人暦であるという視点に他ならない。

 聖人三五〇回御遠忌を境に、西本願寺から現在地への移転が行われて第一回の慶長度造営がいとなまれ、次に聖人四〇〇回忌を前に第二回の明暦度大改築が成された。天明大火後の第三回寛政度の造営は蓮如上人三〇〇回忌直前に両堂の復興がおこなわれている。また文政大火後の第四回文政度造営は、蓮如上人三五〇回忌の前までに両堂と諸門の完成を見ている。

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 最も注目されるのは、第五回安政度の造営である。安政大火(一八五八年六月)の翌年二月から始まったこの時の造営は、僅か一年半の突貫工事で、現在とほぼ同じ規模の両堂と大門を竣工させて親鸞聖人六〇〇回忌(一八六一年六月)をむかえている。この造営は一応仮建てと称されているが、大きさといいその結構といい明治度の造営に決して劣らない見事な出来であったと言い伝えられていることを思うと、東本願寺造営組織の偉大さに、ただただ舌を巻くのみである。安政度の両堂は、柱が杉の角柱であったことが今回の調査で判明したので、欅を用いての丸柱の使用が工期的に間に合わなかったといえよう。仮建といわれる理由もここにあるのであろうか。

 明治十二年五月十二日、厳如上人の御発示に始まる第六回の明治度造営は、第一期工事の両堂と鐘堂が蓮如上人四〇〇回忌(一八九八年・明治三十一年)に照準を合せて落慶し、続いて親鸞聖人六五〇回忌(一九一一年・明治四十四年)直前に第二期工事の諸門・諸殿が完成している。

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 右のことは、五十年毎に営まれる御遠忌法要と復興造営が相乗して、全国門徒・老若男女の信心の総力を結集し「身を粉にし骨をくだきても謝すべし」の"御恩報謝の華"と咲いたことを意味する。まこと、如来の悲願に目覚め出世の本懐を聞きひらいた信仰の集団においてのみ可能な造営の歴史であった。

 近く明治の造営に限ってみれば、これは人間的資質においても超一流の人物であられた厳如上人という偉大な指導者のもとに、鷺森以来のゆかりをもち過去数回の造営にたずさわって技術の円熟した木子棟斉・伊藤平左ェ門に代表される大谷家の御家人棟梁配下の工匠集団と、報謝の念に燃え上った幾百万人とも知れぬ大信仰集団との三位一体があって実現した偉業であると考えられるが、その造営の精神を象徴的にあらわすのが"毛綱"であり、したがってこれは"毛綱の造営"と名づけられることが許されるであろう。

 毛綱については、これを知る外国人の驚異であったらしく、ニューヨークやロンドン博物館への寄贈の依頼を断った記事が見える。恐らく明治の日本で、鹿鳴館に代表される欧化主義の嵐に、伝統文化が軽んぜられていく中で、東本願寺造営という一事は、弘く海外から日本文化の真価を改めて問う契機を与えたのであろう。ともあれ、この両堂の荘厳は、純日本建築における空前絶後の傑作であり、人類史の上においてはエジプトのピラミッドにも比すべき大構築であると信ずるものである。

 もし建築に推敲という言葉が許されるとすれば、まさしく明治の両堂は慶長以来六回にわたって推敲に推敲を重ねた珠玉の作品である。長らく建築史家の定説として「法隆寺にはじまる飛鳥時代から平安、鎌倉、江戸、明治に下るほど日本建築はデザインその他の点で質が劣る」という既成概念が主流を占めていたが、むしろ大陸移入の寺院建築を、千年の歳月をかけて日本の風土と民族性に適するように消化し、国土の素材を最大限に生かした最後の完成品が、明治造営の東本願寺であると断言してもいい。むしろ日本民族が最後に完成したこの純日本建築を通して、日本人の美と心の蒸留水を汲みとるべきではないかと考える。大師堂の壮大さもさることながら、その大きさの傍に目立たない本堂のたたずまいは見事で、とくに大棟から向拝両端にもり上って流れ落ちる稜線のかもし出す美しさは、この地上でここだけに具現した"浄土的宇宙空間の妙美"といいたい。


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 この書の著作を通して、私は、人々に感動を与える古代ギリシャのパルテノン神殿の美しさと東本願寺建築の重厚でかつ繊細な美しさに共通する要素が何であるかを考え抜いていたとき、ふと思い至ったのが両者に共通する円柱の柱間の構造でした。緻密に計算され尽くした両者の関係は唐招提寺金堂を接点に持つ柱間構造にあったのであります。

 このことについてはいま少し検証を要するので、また次の機会に発表をさせていただきたいと思っています。なお、これらの参考資料や文献を収集するに当たって、労苦を厭わなかった尾関未知子氏の功績を多とするものであります。(本編は講義録に加筆修正したものです)



《参考資料》

注 一
一、建築は、ギリシア語でタクシスといわれるオールディーティオー(量的秩序)、ギリシア人がディアテシスと呼ぶディスポシティオー(質的秩序)、エウリュトミア(美的構成)、シュムメトリア(構成)、デコル、ギリシア語でオイコノミアと呼ばれるディストリブーティーオーから成り立っている。
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二、オールディナーティオー(量的秩序一般に対する原理)とは、作品の肢体が個別的に度に適っていることであり、全体的比例をシュムメトリアに即して整えることである。これはギリシア語でポソテースといわれる量によって統一される。量とは、作品そのものの肢体からモドゥルスを採用し、肢体の個々の部分から作品の全体を都合よく作り上げることである。
ディスポシティオー(質的秩序一般に対する原理)とは、物をぴったりと配置することであり、その組み合わせによって作品を質を以って立派につくり上げることである。ディスポシティオーの姿―ギリシア語でイデアといわれるもの―はこれである、すなわち平面図・立面図・背面図。平面図とは、コンパスと定規を度に適って併用し、それによって敷地面に図形が設計されるものをいう。立面図とは、建て上げ面の像であって、度に適った割付で描かれた建物の在るべき姿である。また、背面図は、正面と遠ざかっていく側面の模図であって、コンパスの中心に向かって全ての線が集中しているものである。この三つは熟慮と発明から生まれる。熟慮とはよろこんで課せられた仕事を達成するためにあくまでも熱心に、勤勉に、注意深く、心を砕くことである。一方発明とはわからない問題を解明することであり、新しい事柄の理法を柔軟な頭で見出すことである。
三、エウリュトミア(質的秩序に基づく美的構成)とは、美しい外貌であって、肢体の組み立てにおいて度に適って見えることである。これは、建物の肢体が幅に釣合った高さ、長さに釣合った幅、になっているとき、つまり全体がそれのシュムメトリアに照応している場合、に成就される。
四、シュムメトリア(量的秩序に基づく格に適った構成)とは、建物の肢体そのものより生ずる工合よき一致であり、個々の部分から全体の姿にいたるまでが一定の部分に照応することである。ちょうど人体においてそのエウリュトミアの質が肱・足・掌・指その他細かい部分でシュムメトリア的であるように、建物の造成においてもその通りであることを示す。(『建築書』第一書第二章よりウィトルウィウス著)

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注 二
天愛喜見王(アショーカ王)の灌頂八年に、カリンガが征服された。十五万の人々がそこから移送され、十万がそこで殺害され、また幾倍かが死亡した。それ以来、カリンガが征服された今、天愛の熱心な法の実修、法に対する愛慕、および法の教誡が、(行われた)。これはカリンガを征服したときの、天愛の悔恨である。なぜならば、征服されたことのない(国が)征服されれば、そこに人民の殺害、または死亡、または移送があり、これは天愛にとって、ひどく苦悩と感じ、悲痛と思われるからである。また、天愛にとって、これよりも一層悲痛と思われるのは、次のことである。(すなわち)そこに住する婆羅門、または沙門、または他の宗派のもの、または在家であり、かれらの中で、これらの尊者に対する従順、父母に対する従順、教師に対する従順、朋友・知人・同僚・親族ならびに奴隷・従僕に対する正しい扱い、および堅固な信仰を実践するものに、災害または殺害、あるいは愛する者との別離が生じる。もしくは、十分に供給されていても、愛情が減ずることのない朋友・知人・同僚・親族が不幸を蒙り、それによって、それ(不幸)がかれらの災害となる。―以下略(アショーカ王第十四章磨崖法勅・第十三章より抜粋)

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注 三
王のダルマ
天愛喜見王はかように告げる私が食事をしているときでも、後宮においても、寝所においても、畜舎においても、乗物の中においても、御苑においても、どのような時にも、どこにおいても、上奏官は人民に関することを私に上奏しなければならない。そうすれば私はどこにおいても、人民に関することを裁可するであろう。(中略)なぜならば、努力と政務の裁断において、私に満足はないからである。なぜならば、私には、一切世間の利益がなされねばならないと、考えられるからである。そしてまた、その根本はこれ、(すなわち)努力と政務の裁断とである。実に、一切世間の利益よりも重要な事業は存在しない。従って、私がどのような努力をなそうとも、(それは)有情に(負うている義務の)債務を履行するためであり、更に、かれらを現世において安楽ならしめ、また来世において天に到達せしめるためである。この法勅は、次の目的のために、(すなわち、この法勅を)永久に存続せしめ、しかも私の諸王子・諸王孫・諸曾孫が、一切世間の利益のために努力するように、銘刻せしめられた。しかし。これは最上の努力なしになしがたい。(第十四章摩崖法勅・第六章より抜粋)

《参考文献》

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および歴史研究室中国建築史編集委員会編 一九八一年 平凡社
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「日本の建築」大岡実 昭和四十二年 中央公論美術出版
「人物叢書 鑑真」安藤更正 昭和四十二年 株式会社吉川弘文館 
「鑑真」岩波新書 東野治之 二〇〇九年 株式会社岩波書店 
「日本の建築」大岡実 昭和四十二年 中央公論美術出版発行
「日本建築の意匠と技法」大岡実 昭和四十六年 中央公論出版発行
「南都七大寺の研究」大岡実 一九六六年 中央公論美術出版
「数と建築」溝口明則 二〇〇七年 鹿島出版会
「仏教通史」平川彰 一九七七年 株式会社春秋社
「明治造営百年 東本願寺」昭和五十三年 真宗大谷派本廟維持財団発行 
「東洋建築の研究 上」伊東忠太 一九三六年 竜吟社
「東洋建築の研究 下」伊東忠太 一九三七年 竜吟社
「九世伊藤平左衛門略歴」伊藤平左衛門 一九一三年 
「真宗本廟(東本願寺)造営史」 二〇一一年 東本願寺出版部
「法隆寺金堂壁画」 「法隆寺金堂壁画」刊行会編 二〇一一年 岩波書店発行
「法隆寺」伊東忠太 一九四二年 創元社
※なお、本文で使用した写真の一部は、前述の参考文献から引用したものも含まれています。


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