大洞 龍明塾長

仏教はどのように世界へ伝わったか(第29期スクーリング特別講義録)

2017年3月10日 仏教文化185号

一、鳩摩羅什師の足跡を辿る巡礼の旅


① 銅像建立とCCTV

 仏教を私どもが学ぶに当たって忘れてはならない人に鳩摩羅什三蔵法師という方がおられます。私は、いろんな人のお力を借りながら、十数年来鳩摩羅什師を顕彰する事業を行ってきました。二〇一四年九月には鳩摩羅什師が生まれたキジ国の王城址・クチャに師の銅像を建てました。クチャはウイグル自治区にありますから、当然イスラム教徒の国です。偶像を嫌うイスラム教徒の国の中心地に鳩摩羅什師の銅像を建てることについては現地の人たちの間でも異議がありました。ところが私は鳩摩羅什師が晩年「故郷へ帰りたい」という話を洩らしていた記録をもとに、「民族や宗教、国の相違を超えて『晩年にふるさとへ帰りたい。生まれ故郷へ帰りたい。』と思うのは人情というものでしょう。師が生まれ育った王城の跡地に師の銅像を建てることは一切の対立を超えて人々の理解を得られるのではありませんか」と話をしました。その言葉に現地の人々は納得をしてくださって、台座から頭上まで七mに及ぶ大きな銅像を、師の生まれ故郷の王城址に建てることができました。

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砂嵐のスバシ故城にて(左手前はCCTV撮影班)

 二〇一四年に銅像を建てたとき、その王城址は砂漠のなかにありますから、干からびて寂しそうに思われたので、銅像の完成後、直ちに花園をその周囲に造ることにしました。水を引く工事を終え、翌二〇一五年五月には美しい花園が完成して、その完成式のために三人で現地を訪れかたがた、師の足跡を辿る巡礼の旅をすることにしました。するとどこから情報を得たのか、中国国営テレビのCCTVから取材の申し込みがありました。「鳩摩羅什三蔵法師という人は、中国にとって大変な功績のある人だ。記録番組をつくりたい。全部で二百五十時間ぐらいのテレビ番組をつくって、それを三十分ずつ、一週間ごとに放映する。その中の一つを、あなたを題材にして、クチャ・トルファン・敦煌・河西回廊・西安まで、鳩摩羅什師の辿った跡を行脚する姿を撮らせてほしい」という申し出がありました。鳩摩羅什師を顕彰することについてはなんの異議もなかったので、十日間CCTVが同行して巡礼いたしました。なんといってもタクラマカン砂漠を出発点とする巡礼ですから砂嵐にあって辛い思いをしたりして、八日目くらいから熱中症の症状が出て、何も食べられなくなり、体力を消耗し尽くしましたが、なんとか十日間の撮影が終了しました。日本へ帰ってからもその後遺症が続いたような次第です。

 CCVTは現在もインドにおいて撮影を進めております。二〇一七年三月には杏の花が満開の頃に再びクチャで撮影し、字幕や音楽をつける編集作業を行って、二〇一八年五月ごろ中国全土で放映される予定です。

② 鳩摩羅什師の生涯

 鳩摩羅什三蔵法師(三四四-四一三)という方は、申すまでもなく中国に大乗仏教を本当の意味で伝えた人です。

 鳩摩羅什師の少し前、中国では竺法護(二三〇-三〇八)という方が大乗仏教経典を翻訳していました。例えば今日の『妙法蓮華経』、これを『正法華経』として訳していました。しかし、竺法護は言語学的に優れていた訳でなかった上、本当の意味での大乗仏教の精神、思想というものを把握していなかったと考えられる面があるため、意味が通らない翻訳が多くありました。鳩摩羅什師が長安に入って初めて本当の意味での大乗仏教が中国の人々に伝わったのです。

 鳩摩羅什師が生きていたころ、中国は五胡十六国時代と申しまして、五つの異民族が、十六の国を建てて中国を支配した戦乱のときでした。いろいろな民族が入り乱れて、覇権を争っていたのです。

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花園完成法要を営む一行とCCTV撮影班

 その当時、前秦の苻堅(在位三五七-三八五)という王様が華北をほぼ統一して皇帝を名のっていました。その前秦国には道安という立派なお坊さんがいまして、「大乗仏教を本当に中国へもたらすためには、キジ国に住んでいる鳩摩羅什師という人を中国に招聘しなければならない」と符堅王に薦めました。そこで、仏教に関心を持っていた苻堅王はキジ国の王の白氏に、鳩摩羅什師をぜひこちらに派遣してほしいと依頼をしました。すると、王白氏は、「それは駄目だ、こんな立派な人をこの国から手離すわけにはいかない」、と断りました。その答えに苻堅は怒り、呂光という将軍に七万人の兵を与えて、キジ国に遠征させ鳩摩羅什師を連れて来るようにという命令を下し、合わせて西域支配も試みた訳です。

 古代キジ国は天山山脈の氷河の溶水から流れ出るターリム河を中心に発展した都市国家で、肥沃な土地と豊富な鉱物で富み栄え、タクラマカン砂漠周辺のオアシス都市国家の一番頂点に位置する国でした。そのため、王白氏は呂光将軍の侵攻に際し、周辺国家から七十万人の援兵を得て対抗しようとしました。ところが、この呂光という将軍は、五胡十六国を苻堅王が征服する、その一番中心になって働いた将軍です。実に戦略が巧みで、七万の兵で見事に大軍を撃退、王城を落として、王白氏を殺し、鳩摩羅什師を捕虜とすることができたのです。

 捕虜となった鳩摩羅什師は、長安の符堅王のもとへ赴くため、呂光将軍によってトルファンから河西回廊まで連れてこられました。ところがそこで呂光将軍は、自分の主君である苻堅王帝がクーデターによって殺されたということを聞き及びます。そうなると、符堅王に派遣されていた呂光将軍は国へ戻ることができなくなってしまいます。そこで、キジ国で奪ったたくさんの宝物を携えていた呂光将軍は、新たに国をつくることを考えました。ちょうどその辺りを支配していた前涼国・張氏を滅ぼし、王城であった姑蔵城を奪って入城し、後涼国という国を建て、王位に着いたのです。鳩摩羅什師はそのまま長安へ辿り着くことなく十七年間、姑蔵城に幽閉されました。しかし、幽閉されたのも無駄ではなくて、長安から僧肇を始め、いろいろなお坊さんたちが大乗仏教の教えを請いに鳩摩羅什師に会いにやってきました。鳩摩羅什師もそういう人たちと出会うことにより、中国の古典や教養等さまざまなことを吸収し、さらには、中国語を完全にマスターをすることができたのです。この十七年間という姑蔵城での幽閉時代は、無駄なようで、無駄ではなかったと言うことができます。

 その後、長安に後秦国が建国され、姚興が皇帝に就きます。姚興は苻堅の時代からキジ国の鳩摩羅什師を中国の人々が迎えたいと思っていたのをよく知っていました。また、姚興自身も仏教に非常に関心があったので、後涼国に対して鳩摩羅什師をこちらに派遣してほしいと申し出ました。ところが、鳩摩羅什師は仏教だけでなくて、医学・天文・数学・文学などすべての学問に通じているばかりか、兵法にも通じる戦略家でもありました。呂光将軍も、キジ国からの帰途、どれだけ鳩摩羅什師に助けられたか分かりません。後涼国の王は、そのような鳩摩羅什師を後秦国へ渡したら、その兵法でもってこの国が攻められるのではないかと心配し、申し出を断りました。そこで、姚興は六万人の兵を派遣し、後涼国を滅ぼし鳩摩羅什師を奪いました。このとき鳩摩羅什師は捕虜としてではなく、長安に国師として迎えられました。

 四〇一年十二月、鳩摩羅什師は長安へ入りました。師は長安に着いてすぐに『大品般若経』と『仏説阿弥陀経』の二つを、その年のうちに翻訳をしております。その後、ほぼ十年にわたって三十五部二百九十四巻の経典を翻訳されました。現在日本の主たる宗派である天台宗では『妙法蓮華経』を、浄土宗・浄土真宗では『仏説阿弥陀経』を、禅宗では『般若経』『維摩詰経』『法華経』を依用しています。また日蓮宗系は鳩摩羅什師が翻訳した『妙法蓮華経』を正依とし、その経名をお題目としています。
 前置きが長くなりましたが、今日は、仏教伝播のお話をしようと思っておりますので、鳩摩羅什三蔵法師の話はこれくらいにしておきます。

二、仏教の伝播

① アーリヤ人のインド侵入

 さて、今から四千年ほど前、黒海・カスピ海辺りに定住していたアーリヤ人が世界各地に拡散し始めました。インド・アーリヤ語族と言って、ヨーロッパ方面へ移行した集団と、インド方面へ向った集団と、それからタクラマカン砂漠周辺でオアシス国家をつくった集団とがありました。

185-4.jpg インド方面へ進んだ集団は、今から四千年ぐらい前にインドの西北部に侵入しました。そこはそれ以前に、世界四大文明の一つであるインダス文明(前三千年ごろ-前二千年ごろ)が栄えていましたが、このアーリヤ人が侵入したときには既に滅びています。そこへアーリヤ人が侵入してヴェーダ文明を興したのです。ヴェーダとは、自然現象を神とし、自然神として、その神々に犠牲をささげ、讃歌をあげて、恩恵を受けようというもので、のちに輪廻転生の思想を持つバラモン教となります。

 その後アーリヤ人は紀元前千年以降、さらに東へ移動し、ガンジス河中流域で文化が栄えました。一方、同じころ、バラモン教の影響を受けない東のほうで新しい思想がいくつか起こりました。その流れの中で、釈尊(北伝説で紀元前五六六年-前四八六年)がお生まれになって、輪廻転生からの解脱という方向を示されたのです。


② 釈尊の仏教

 釈尊が説かれた仏教はどのようなものだったでしょうか。それは一つには輪廻転生の思想からの解脱、二つ目は苦悩からの解脱です。

 この時代、いろいろな思想が生まれる中で、その精神的深化は、苦悩の世界に生きる己身の解脱を目的とするという方向に、インド全体の思想が向かっているわけです。仏教はこの精神的環境の中に咲いた精華です。すなわち、仏教は徹底的に、苦悩からの解脱を目指す宗教であります。釈尊における苦悩からの解脱の道は、苦悩の原因を、十二因縁の中の無明において発見し、この無明を滅するところに達成されたものです。苦悩からの解脱ということが課題なのです。苦悩から解脱するためには、無明を滅するというところに辿り着く。これが苦集滅道という、釈尊の初転法輪、一番最初にお説教された教えであります。その無明とは何であるかというと、不如実知見、ちょっと難しい言葉を使いますが、これは、縁起の道理を如実に知らないということです。釈尊における苦悩からの解脱は、不如実知見を否定して、縁起の道理を如実に知見するということにほかなりません。

 そして、縁起の道理とは何を意味するかというと、より本質的には、具体的な存在に関する相依相対の関係を意味しているのです。縁起の道理は、存在が相依相対であるがゆえに、自存的に独立性をもって存在しないという、いわゆる存在の無常であり、空であるという、存在性そのものの否定の原理であるからです。この原理から輪廻転生の思想も自ら否定されていくことになります。

 この原理に背いて、物の事象に執着し、物の上に変わらない常住性を欲求するとすれば、それは必然として、苦悩に陥らざるを得ないのです。ここに苦悩のもとがあるのです。苦悩というのはここから発生する。ここに苦悩がどうして起こってくるかという原因を、釈尊は明らかにされたのであります。

③ 仏滅後・仏典の結集と根本分裂

 釈尊が亡くなられてすぐ、釈尊がどんなことを教えられたかということを、弟子たちが集まって、それを記録にするという、第一回の経典の結集けつじゅうがなされます。それが『阿含経』を中心とした経典として残っているものです。

 それから百年ぐらい後になりますと、今度は第二回の結集がなされます。このときに仏教が根本分裂をしました。根本分裂とは、上座部と大衆部の二つに分かれたことです。

 上座部というのは、釈尊が残された言葉を曲げないで、そのまま実行しようという形をとろうとする人々です。

 対して、大衆部というのは、「いや、そうじゃない、釈尊はそんな型にはまったことをおっしゃったのではない。釈尊のおっしゃった言葉の意味、それを明らかにすべきである」と考えた人たちの部派です。

 上座部で、二百五十戒ほどの釈尊の教えを本当に実行できる人というのは、ごく少数の人であって、そういう人は聖者としてあがめられます。今、東南アジアへ行きましても、お坊さんを拝んで、体に触ったり、献上品をしたりすると、そのお坊さんの徳を自分ももらって幸せが得られ、来世でも良い所へ行けるという考え方が主流になっています。ところが、大乗仏教はそうじゃない。すべての人々が救われる。すべての人々が悟りに達することができるという考え方です。

 このように仏滅百年のときに根本的に二つに分かれたわけです。

三、上座部仏教の流れ

① アショーカ王

 上座部と大衆部の根本分裂が起こった後、インドで最初の統一王朝マウリヤ朝が建国されました。

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カンダハルに残るアショーカ王碑文(ギリシャ語・アラム語)

 その第三代アショーカ王(在位前二七一-二三二)は、他国を征服するたびに何千、何万もの殺戮を繰り返していましたが、上座部仏教の長老ウバグプタの教えによって、国を力で治めることの愚かさに気づき、ダルマ(法)によって統治することに転換しました。それゆえ、アショーカ王は、仏教を信奉し仏教によって国を統治しようとしました。王自身は当時有力であった上座部を支持していました。アショーカ王は自国だけでなく諸外国にも仏教をひろめるため、上座部仏教の長老を各地に派遣しています。パミール高原周辺の中央アジアへもこのときにはじめて仏教が伝えられたとされます。

 他に、西はギリシャ、東南にはセイロン・ミャンマー・マレー半島にまで派遣されたことがわかる碑文が各地に残っています。

② 上座部・南伝仏教

 上座部の仏教は、さらに大きくは二つに分かれます。

 一つは南伝仏教で、スリランカからビルマ、タイ、ラオス、カンボジアへ伝わったものです。ただし、この伝播は上座部のみならず、のちに大乗仏教も伝わって大小乗の二つが混在することもありました。

a スリランカ[上座部]

 スリランカへ上座部仏教が伝わったのは前二五〇年ごろで、アショーカ王の子息マヒンダが長老らとともに派遣されました。ときの国王の帰依を受け、大寺を建立し、大寺派と言う教団の基礎をつくります。その後、インドにおいて大乗が興隆した三世紀ごろには大乗仏教も伝わり、八世紀には密教が伝わって盛んになりました。ところが十一世紀に入ると、インド大陸から異民族のチョーラ人が侵入し、スリランカを七十年間征服、その間に仏教は滅びてしまいます。チョーラ人が去った後、スリランカの人たちの仏教を元に戻したいという思いから、上座部仏教が復興しましたが、僧団の腐敗が深刻となり、ときの王パラッカマバーフ王が厳格な大寺派に統合し、以後上座部一色になりました。

b ミャンマー・タイ[上座部]

 ミャンマーへは、前三世紀にアショーカ王の派遣した長老が到着し、上座部仏教を伝えました。その後、大乗仏教や密教も伝来し、上座部とともに盛んになった時期がありました。一〇四四年になるとビルマ族からアノーラタ王が出て、ミャンマーを統一し、一〇五八年に堕落した僧団を厳粛化するために上座部仏教を採用、大乗を排除する改革に着手します。十五世紀以降は各派を統一して大寺派のみとなりました。
 タイは十三世紀に建国されて以来上座部を信奉しています。スコータイ王朝の時代にはセイロンから上座部大寺派の法灯を迎え入れ、全土でさらに篤く上座部仏教が信奉されるようになりました。

c ベトナム[多くが大乗仏教]

 ベトナムは、南北に長いため、南部はスリランカから東南アジアを経て伝わった上座部仏教が、北部は中国から伝わった大乗仏教が盛んでした。北部は中国の影響が大きいため、十世紀から十四世紀にかけて禅宗も盛んになりました。十九世紀に入り南北が統合されると、大乗仏教を多くの国民が信奉するようになります。ただしここでは儒教と道教が混合した特殊な仏教の形が存在しています。

③ 上座部・北伝仏教〈説一切有部〉

 上座部仏教の中のもう一つの派は、西北インドを中心として栄えた部派です。十八派あるいは二十派あったと言われますが、最大の部派が説一切有部といわれるものです。

 この説一切有部はインドを越えてカシミールから、西域地方へ伝わりタクラマカン砂漠周辺の都市国家を制して広がりました。七世紀に玄奘三蔵が西域を訪れた際の記録『大唐西域記』で、古代キジ国について「この国は小乗教の説一切有部を信じ、寺院は百余ヶ所、僧徒は五千人」と書かれています。この記述でもわかる通り、タクラマカン砂漠の周辺は説一切有部の仏教、いわゆる上座部の仏教が栄えていたことになります。

 ところが、十一世紀になると、イスラム教を武力で強制するカラハン朝が侵入し、仏教寺院は破壊され、すべてのタクラマカン砂漠周辺の都市国家の人々はイスラム教に改宗させられました。

四、大乗仏教の流れ

① 大乗仏教(龍樹・世親)

 さて、一方大衆部は最初八派に分かれていましたが、紀元前百年ぐらいから大乗仏教が中心になりました。

 大衆部というのは、仏滅後の初期仏教が異なる見解が現れないようにと、ひたすら堅く、堅く、記憶された言葉にこだわっていたため、本当の真理から遠ざかっていることに異議を唱える進歩的な比丘たちから興った新しい信仰運動です。特に説一切有部の説に対しては、龍樹が論理を尽して、説一切有部の「有無の二つの邪見」に対して存在性の「空」を主張して、大乗空観の教えを確立しました。

 大乗仏教は初期・中期・後期と分かれます。

 初期の大乗仏教経典が成立したのは紀元前百年ごろから紀元後一五〇年ごろです。そのころに『般若経』や、浄土教系の経典が成立しております。またこのころ『仏説阿弥陀経』が存在し、その少し後に、『法華経』『華厳経』『維摩経』が成立しました。

 中期になりますと、龍樹・世親の時代で、『大般涅槃経』『勝鬘経』『解深密経』『楞伽経』が成立しました。龍樹は一五〇年から二五〇年ごろの人で『中論』を著して大乗空観を展開しました。その後に無著が『摂大乗論』を著し、世親が『唯識二十論』を書いて、瑜伽唯識論を確立しました。これが中期の大乗仏教です。

② カニシカ王

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ガンダーラ仏

 龍樹の少し前、西北インドから中央アジアを統一したのは月氏人が興したクシャーナ朝でした。アショーカ王の時代よりも広大な領土を持ち、交易が活発でした。カニシカ王(一四四-一五二)は仏教を広めた中心人物です。王が仏教を信奉したことにより、仏教はその支配と交易によって各地へ伝わることになりました。

 ときにこのころは大乗仏教の大成者である龍樹の時代であり、大乗が隆盛を極めていました。さらに、バクトリア王朝というギリシャ人が支配する国のあとをついで誕生したクシャーナ朝は、その王朝成立とほぼ同時期に仏像を誕生させました。所謂ガンダーラ仏の誕生です。思想を形に現す仏像の誕生によって仏教がより伝播しやすくなったといえます。

 これらのことから次々と諸国へ仏教が伝播されました。パミール高原を越えてタクラマカン砂漠周辺のオアシス都市の一部に大乗仏教が入ったのもクシャーナ朝の時代です。

③ 密教の興り

 大乗仏教の後期は、ずっと年代が下がって、七世紀ごろ、『大日経』『金剛頂経』が成立します。この頃インドにグプタ王朝が建国されました。この王朝は特にヒンドゥー教を保護したため、仏教もヒンドゥー教と融合して、密教化していったのです。ですから、『大日経』も、『金剛頂経』も、大乗密教で、それ以前の初期・中期の経典とは大きく異なった色彩を持つにいたりました。八世紀末には、密教寺院としてヴィクラマシーラ寺院が建てられ、これがインド密教の中心となります。

 ところが一二〇一年にイスラム教徒によってヴィクラマシーラ寺院が破壊され、以後、形としての仏教はインドからはなくなってしまいました。

④ チベット密教

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ラサ ポタラ宮殿(撮影/大洞龍明2004年)

 七世紀初めにソンツェンガンポ王によって開かれた吐蕃とばん王朝に仏教が伝えられたのは、六三五年ネパールから、六四一年唐から、それぞれの国の皇女が仏教をもたらし、それを王が篤く信仰しました。

 その後、七六〇年~八〇〇年ごろにかけてインドから密教僧寂護、蓮華生、蓮華戒が入蔵し、密教が盛んになります。このインドからの密教とチベット在来のボン教とが合流してラマ教が成立しました。

 中国の元の時代において、ラマ教をフビライハンが篤く信仰したため中国からさらにモンゴル方面に広まって行きました。

⑤ 中国への大乗仏教の伝播

a 中国への伝播

 中国への仏教の伝播は、北西インドから中央アジアへ入り、シルクロードを経て前二年・前漢の時代とされています。海路で伝わったものもあります。

 大乗仏教経典は、一八〇年ごろに中国へ入ります。月氏人の支婁迦讖が『道行般若経』『般舟三昧経』『首楞厳三昧経』等を翻訳し、竺法護によって二六五年から『正法華経』『光讃般若経』『維摩経』等の一部大乗仏教が伝えられていましたが、その真意が伝わったとは言い難いものです。本当の意味での大乗仏教の中国への伝播は鳩摩羅什師の入唐を待たなければなりません。
鳩摩羅什師は古代キジ国の王子として生まれました。はじめは説一切有部を学び、七歳で沙弥として仏門に入り、九歳のときに、出家した母親とともにインドのカシミールに留学して上座部仏教を極めました。

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鳩摩羅什師拓本(西安草堂寺石碑より)

 師は留学を終え、キジ国へ帰るためにカシミールからパミール高原を通ってカシュガルへやってきました。そこでヤルカンドの王子スリヤソマという人に出会って、大乗の空の思想を教えられます。ヤルカンドは、隣国であるホータンがほぼ大乗仏教の国になっていたため、その影響を受けてスリヤソマ王子も大乗仏教を学んでいたのです。スリヤソマに出会った鳩摩羅什師は、そこで大乗仏教に回心えしんをしたわけです。回心のときに鳩摩羅什師が述べた言葉が『高僧伝』の中に残っております。それは「私が小乗仏教を学んでいたのは、金の輝きを知らないで銅の輝きが一番美しいと思っていたのと同じである。」という言葉です。

 その後、キジ国へ戻って諸国に名声を広めた鳩摩羅什師は、先にお話ししましたように呂光将軍によって捕虜となり、武威で十七年間幽閉されました。その後、四〇一年、後秦国の皇帝姚興によって国師として長安へ迎えられ、四一三年に亡くなるまで大乗の正しい教えを中国へ広めるため翻訳に邁進されました。

 鳩摩羅什師の偉大なのは、単に経典を翻訳しただけでなく、大乗仏教の根本思想を中国に伝えたことでした。これによって大乗の思想が論理を尽くして人々に伝わりました。

 鳩摩羅什師の翻訳は以後の中国仏教に大きな影響を与えています。特に大小『般若経』と『大智度論』は各学派・各宗派の重要な思想的資料とされています。他にも、『中論』『十二門論』『百論』で三論宗が起り、『妙法蓮華経』は唐の時代に成立した天台宗が主要経典としました。また『阿弥陀経』は浄土宗の拠り所とされた三経の一つとなり、『金剛般若経』は禅宗に大きな影響を及ぼしています。

b 鳩摩羅什師以降の中国仏教

 鳩摩羅什師と何度も大乗の教義についてのやりとりをしていた慧遠(三三四-四二七)は、南北朝時代に活躍し、白蓮社を結成して阿弥陀如来を本尊とする浄土教を広めます。その後曇鸞大師(四七六-五四二)が浄土宗を開きます。また、達磨大師(?-五二七)が中国へ本格的な禅をもたらしました。

 南北朝時代には多くの経典が翻訳されましたが、唐にはいってその文化が花ひらき仏教はたいへん興隆、唐代は中国仏教にとっての黄金時代でした。

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ラマ教を信仰したフビライハン(元初代皇帝)

 唐中期には、インドから密教が伝播します。しかし密教が伝わって百年ほどのちに「会昌の法難」が起り、中国密教の発展は遮られました。一方当時中国と交流のあった日本では密教は今日まで続いています。七一六年、インドから中国へ善無畏が伝えた密教の教えを遣唐使として八〇四年に入唐した最澄が日本へ台密としてもたらし、七二〇年に不空が中国へ伝えた教えを空海が日本へ持ち帰り真言宗となりました。

 会昌の法難が起ったのは八四二年のことです。このとき四千六百の寺が破壊され、二十六万五千人の僧尼が還俗させられて、中国において仏教は形の上で消滅しました。この影響により朝廷に依存した儀式的な密教や、経典を研究する仏教は衰退せざるを得ませんでした。一方、民衆に広まった念仏仏教と、経典に拘束されない禅宗の二つの実践的仏教は、存続することになります。(「会昌の法難」については、次回詳しくお伝えします。)

 宋(九六〇-一一二六)の時代に入ると、「会昌の法難」によって散逸した経典を復興しようと、国家事業として大蔵経が出版されました。宋代に日本から栄西禅師・道元禅師が宋へ赴き、禅宗を学んで日本へ戻りそれぞれ臨済宗・曹洞宗を開きました。

 宋代初期には再興した仏教でしたが、中央集権体制が強化されるとともに儒学が重視され、仏教は衰微していきました。

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中国文化大革命時の天安門広場

 元の時代(一二七二-一三六八)になると、フビライハンによってラマ教が信仰され、国家からの保護を受けるようになります。次の明朝・清朝でもラマ教はモンゴル やチベットの統治に役立つこともあって保護されていました。しかし、仏教が民衆に浸透するとともに、その信仰を扇動する動きも見られます。盛大な法会や壮麗な寺院建築に見られるように、ラマ教があまりに厚遇されるために反感を持つ民衆も多く、元時代の末には、朱元璋が反乱を起こし、明(一三六八-一六六二)を建国しました。同じように清朝でも洪秀全がキリスト教に基づいて反乱を起こし清朝を滅亡させる一端となりました。この洪秀全の反乱では軍の通過するところの寺院・仏像・経典は破壊されました。

 一九四九年に中華人民共和国が成立し、共産主義思想のもと宗教は軽んぜられますが、やがて文化大革命で排斥され、仏寺も破壊し尽くされました。しかし、最近の改革開放の機運で仏教も次第に復活の兆しが見えています。民衆の中には強く仏教を支持する人々がいるのです。

⑥ 朝鮮への伝播 

a 前秦符堅王と朝鮮半島

 鳩摩羅什師が中国へもたらした大乗の思想は、朝鮮半島へも伝わります。

 朝鮮半島へ仏教が渡ったのは、古代キジ国に鳩摩羅什師を請うた前秦の苻堅王が、三七二年朝鮮半島へ経典と仏像を送ったことに始まります。その当時、朝鮮半島は三国鼎立の乱世でした。朝鮮半島の民衆に仏教を広めた一人の僧侶のエピソードを紹介しておきましょう。

b 元暁「一切有心造」

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朝鮮三国時代

 三国の一つ、新羅の国に元暁(六一七-六八六)というお坊さんが居ました。元暁がんぎょうは唐へ行って仏教を学びたいと、友人の僧義湘とともに、陸路で高句麗国を通りぬけようとしました。ところがスパイと間違えられ
て、元暁と義湘は捕えられ、数十日間牢屋に入れられてしまいます。

 元暁と義湘は新羅へ戻ってからも入唐を諦め切れず、十年ほどたってから、今度は陸路ではなく海路で行こうと、百済国から唐へ渡る旅に出ます。ある日、海岸へ到達する少し前、夕方ころに大嵐が襲ってきて、前に進めなくなってしまいました。暗闇が迫る荒野のなか、人家も見当たらない、寝る場所もないと、困り果てていると、近くにほこらのようなものがあるのを見つけ、これは幸いと中に入って、二人はひと晩過ごすことにしました。安心して眠りにつきますが、元暁は夜中にのどが渇いてしょうがなく目が覚めました。薄明かりの中で白い器を見つけ、そこに水がたたえてある。これはありがたいと、その水を飲んで眠りにつきました。ゆっくり休んで、あくる朝、起きて外へ出ると、また前日と同じような大嵐でした。「これでは、今日もとても外へ出られない。もうひと晩ここに泊まろう」と、話し合って、またほこらの中に入りました。入って見てみると、辺りいっぱい白骨が散乱しています。そこは墓場だったのです。昨夜おいしいと思って飲んだ器は、頭蓋骨に水がたまったものでした。それを、おいしい、おいしいと味わって飲んでいたのです。しかし、今日も一日ここで泊まらなければならない。義湘はその晩ゆっくり何事もなく寝ましたが、元暁だけはどうしても眠れないのです。どうしたものかと思っているときに、幽鬼が現れて、怪しげなことを元暁に向かってし始めます。元暁は襲ってくる幽鬼を払いのけようと朝まで一睡もできませんでした。

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幽鬼に襲われる元暁上人『華厳宗祖師絵伝』

 そして、あくる日の朝、起きてみると、すっかり晴れ渡った青空です。「早く唐へ向かって旅立とう」と、友だちの義湘が元暁を誘います。すると、そのとき元暁は、「私はもう唐へ行かない、私はここで仏教の一番深い悟りを開いた」と、こう言ったのです。

 どういうことかというと、「一切有心造」、一切のものは心がつくり上げるのだということを悟ったということです。要するに、鬼や幽霊が現れるというのは、全て心がつくったものだ。前の日は髑髏にたまった水を、おいしいおいしいと言って飲んだわけです。ところが、あくる日になったら、それどころじゃない。怖くて、怖くて、どうしようもない。朝起きてみて、元暁はすべてのものは心がつくるのだということに気が付いたのです。「一切有心造」、それを悟ったということです。

 ここで友人と別れて、元暁は新羅の国へ帰りました。そして、勉学に励み何百巻という著作を残しました。のちに王様の妹と結婚して子どもをもうけ、還俗しますが、それからも、街を回って琴をひいたり、しゃもじでヒョウタンを叩いたりして、民衆に易しい言葉で念仏の教えを伝えたということです。

c 統一新羅以後

 長年にわたり三国が鼎立していた朝鮮半島は六七六年文武王のときに三国を統合して統一新羅が建国され、王は鎮護国家の宗教として仏教を国教としました。この時代に法相、華厳、律、倶舎、三論、密教、浄土教、禅の教えが中国から入りました。

 九一八年に統一新羅は滅亡、王建王による高麗国が誕生しました。新羅時代の護国思想を承け継ぎ、王族・貴族からの信仰も篤く、仏教儀礼が盛んに行われました。

 高麗時代に入って、先の新羅時代に伝来していた仏教各派が朝鮮独自の発展を見せ始めます。天台宗が義天によって宗派として確立され、禅宗をもとに曹渓宗が知訥によって開山されました。

 一三九二年、李氏朝鮮時代を迎えると李王朝は儒教を統治の柱にすえ、仏教を弾圧しました。十一宗を数えた仏教宗派を禅宗(曹渓・天台・捴南)と教宗(華厳・慈恩・中神・始興)の二宗に統廃合し統制を強めました。

 明治四十三年、日本によって併合された後は、日本仏教の影響を受けて戒律も緩和されましたが、戦後はその影響を排除して改革がなされます。現在は曹渓宗が最大の信徒数を誇っています。

 朝鮮戦争(一九五〇-一九五三)後、アメリカからの物心両面の援助の影響下でキリスト教が盛んになりました。

⑦ 日本への伝播

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奈良東大寺 毘慮遮那仏

 日本に公式に仏教がもたらされたのは五三八年百済からとされています。聖徳太子(五七四-六二二)は高句麗の恵慈師の教えを受けながら、三経義疏を著わし、憲法十七条を定めて、仏教を国教とすることに力を注がれました。奈良時代には聖武天皇が大仏を建立し、各地に国分寺・国分尼寺を建てて、仏教による国づくりを目指しました。

 平安時代、余りにも仏教が力をつけすぎたこともあって、桓武天皇が現在の京都の地に都を移す(七九四年)ことになりますが、そのころ、遣唐使と共に唐へ渡 って帰朝した最澄(七六七-八二二)が、比叡山に延暦寺を建て、天台宗を開き、鎮護国家の役目を果たします。少し遅れて帰国した空海(七七四-八三五)は高野山に金剛峰寺を建て、真言宗を開き、京都に東寺を建てて護国のための加持祈祷の法要を営みます。

 鎮護国家の仏教とは別に、平安時代には個人の恐怖の除去や病気の平癒、招福を願う加持祈祷を仏教に求める傾向が高まり、又それとは別の流れで貴族たちの間には宇治の平等院に見られる阿弥陀仏国への浄土往生を願う浄土思想が普及していきます。この流れは、貴族社会にとどまらず一般庶民にも広まり、空也(九〇三-九七二)によって民衆の中に入って念仏を唱える布教スタイルが確立していきます。空也は、朝鮮半島の元暁のように、ひさごをたたきながら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を唱えなさい」と阿弥陀仏の前では一切の人々が平等に救われることを説いて奥羽地方までも赴き、念仏の教えを広めました。

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空也上人

 鎌倉時代は、まさに、日本の精神文化の大変革期にあたります。貴族社会から武家の時代に変化したように、仏教も国家鎮護や加持祈祷の宗教から、個人の心の救済を求める精神的深化をとげていきます。

 法然による浄土宗、親鸞による浄土真宗、道元の曹洞宗、栄西の臨済宗、そして日蓮の日蓮宗(法華宗)が興り、また、一遍が踊り念仏で全国を遊行し、民衆の中へ仏教の教えが浸透していきました。

 室町末期、応仁の乱で民衆が戦禍に苦しんでいるとき、本願寺第八代の蓮如が、念仏の教えを説いたことによって、燎原の火の如く浄土真宗が各地に広がりました。民衆が蓮如による念仏の教えを乾土が水を吸うが如く受け入れたのは、空也・一遍などの念仏聖による各地への布教の素地があったからと考えられます。

 江戸時代に入ると、徳川幕藩体制の中、寺請制度で人々はいずれかの仏教寺院に戸籍を置くことを強いられました。これによって寺院や僧の生活の基盤は安定しましたが、外に向かって教化活動を行うようなエネルギーは失っていきます。

 明治期に入ると「神仏分離令」が発せられ、また「上知令」で境内地以外の領地を取り上げられた上に廃仏毀釈で多くの寺院が破壊されるに至りました。その中で、唯一領地をもたず、神仏混淆を否定し、加持祈祷を行わなかった浄土真宗の寺院だけはその影響が僅少でした。

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踊り念仏『一遍上人絵伝』

 天皇を現人神とする国家神道によって国を統治しようとした明治政府は、明治五年大教院を芝の増上寺におき、本尊を取り払って、天照大御神などの神道の神々を安置し、仏教各宗の管長を増上寺に集めて御幣を持たせ、神道式による礼拝を強制しましたが、それはわずかの間で、明治八年には大教院は撤廃され、廃仏毀釈も緩やかになっていきます。

 明治・大正・昭和にかけて、軍国主義の勃興とともに国家神道による国民統治の圧力が強まり、国家は昭和二十年の終戦まで小中学校などに現人神である天皇を拝礼する全校集会を強制しました。

 終戦後、新憲法によって国家による宗教への関わりは禁止され、信教の自由を保障された中で、旧来の仏教以外の新興仏教宗団が数多く生まれ、信者を獲得していきました。

 また、日本の仏教は、海を越えて北米や南米に多くの日本人移民とともに伝わり、数多くの仏教寺院がアメリカ大陸各地に建てられています。

五、最後に

 以上、仏教伝播の流を世界史の中から足早に辿ってみましたが、釈尊による「苦悩からの解脱の原理」を無視した仏教の伝播はあり得ません。

 「人生は苦である。苦の生ずる因は、無明であり、無明を滅するところに、苦悩からの解脱の道がある」ことを教えられたのが、釈尊でありました。無明とは、縁起の道理を知らざることです。縁起の道理とは、すべての存在が相依相対なるがゆえに、無常であり、空であるという実体的存在性そのものの否定の原理であります。にもかかわらず、物事に執着して常住性を欲求するところに苦悩が生起せざるを得ない必然があります。苦の生ずる因を無明に求め、無明からの覚醒には、縁起の道理を如実に知見することであることを明らかにせられたのが、まさに釈尊でありました。

 釈尊によって明らかにされた苦悩からの解脱の原理は脈々と仏教伝播の歴史と共に受け継がれています。

 釈尊による救済の原理を一般大衆に理解させる為、道元は「只管打坐」、法然・親鸞は「ただ念仏せよ」と純粋単純化して「悟り・信心」の形で一般大衆に布教していかれたのです。

 時の支配者による国家鎮護や神仏混淆・加持祈祷などの寄り道をしながらも、釈尊による救済の原理が現在から未来の人類に受け継がれていく大きな流れの中に、今日の我々の立ち位置があることを知っていただきたいと思います。

(終)

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