大洞 龍明塾長

日本と中国の仏教弾圧 (第30期スクーリング特別講義録)

2018年6月10日 仏教文化191号

-敦煌莫高窟の七奇蹟-


はじめに

権力によって翻弄される宗教

 例えば、キリスト教ではローマのディオクレティアヌス皇帝によって弾圧され排除されましたが、コンスタンティヌス帝によって帝国統一のためキリスト教を公認することになりました。仏教においては、釈尊以来ずっと、民衆の間に信仰されてきたところ、マウリヤ朝第三代アショーカ王の回心によって仏教が保護され、人々の信仰を篤くし、海外への伝道僧派遣によって世界宗教となりました。一方、中国の例で言えば、北魏の武帝、北周の太武帝、唐の武宗、吐蕃のラン・ダルマ王、後周の世宗、イスラム軍の侵攻、文化大革命に仏教は翻弄されました。イスラム教にしても、「右手に剣、左手にコーラン」の言葉で象徴されるように、権力・武力によってイスラム教を強引に伝播し民衆支配をひろめてゆきました。

 日本では、飛鳥時代、蘇我・物部の権力争いを通して蘇我氏が信仰した仏教が広まり、飛鳥から天平時代に至って奈良の大仏殿が建立され、国家的権威を背景に仏教が普及しました。あまりにも強い仏教勢力に危機を感じた桓武天皇による平安遷都がなされましたが、それは仏教弾圧という形とは少し意味が異なっています。

 平安時代に入ると、比叡山延暦寺の天台宗と、高野山金剛峰寺の真言宗が権力者の庇護を受け、鎮護国家の仏教として隆盛を極めました。鎌倉時代に至ると、仏教は権力者の庇護を離れて、法然・親鸞・道元・栄西・日蓮による民衆への精神的救済に至る脱皮(宗教革命)を成し遂げています。ところが織田信長による法難で、一向宗は弾圧され、延暦寺は焼失しています。

 江戸時代に入ると、徳川幕藩体制の中に仏教は組み入れられ、自由な布教活動がなされない傾向がありました(民衆はなんらかの宗派に組み入れられたので、その宗派内での精神的教化は深められています)。明治時代に徳川幕府が崩壊すると、明治政府の国家神道化の政策によって廃仏毀釈が起り、仏教は存亡の危機に直面しました。

 本日は、日本と中国における仏教弾圧の歴史を振りかえる為に、日本における仏教の法難として菊間藩の例を挙げ、中国においては敦煌莫高窟が今日まで世界遺産として美しい姿を留めつつ残ったのはなぜであったかを眺めてゆきます。



一、明治維新と廃仏毀釈

(1)菊間藩の護法一揆

 日本で起きた法難と聞いて、まず思い浮かぶのが、明治維新の廃仏毀釈です。これは相当にひどいものでした。そのうちの一つ、愛知県三河地方にあった菊間藩で起こった、仏教弾圧とそれに対する護法一揆についてお話したいと思います。

 その発端は、明治三年、新政府から菊間藩に新たに派遣された参事・服部純氏が、新しい政策をつぎつぎと施行していったことに始まります。その施策は、明治新政府の方針に沿ったもので、主に次の三つです。

 一つに、各村への新民序塾という学校の設立です。そこで勤王主義を児童に教え、天皇中心主義を育てます。

 二つ目に、教諭師と呼ばれる人達に各村を回らせ、村民を集めて、敬神・愛国を説かせるということをしました。その中で、真宗門徒である民衆に対し神前で祝詞をあげることを奨励し、天拝・日拝と言われる文を読ませたのです。

 最後が、寺院の統廃合です。檀家制度で成り立っている真宗寺院は財産としての土地を持っていないこともあり、門徒組織の基盤を失うことになります。


三河地方

 ちなみに、この三河地方というのは、浄土真宗の東本願寺の門徒が圧倒的に多い土地柄です。

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  討議する青年僧侶たち
 それに比べて、関東は現在でも浄土真宗のお寺は少ない。これは、徳川家康が三河地方を治めていたころに遡ります。三河で一向一揆が起り、それを成敗するために家康自ら赴くと、なんと自分の家臣が大将となって攻めてくるではありませんか。驚いた家康は、そういう苦い経験から、浄土真宗に対して強い警戒心を持ち、関東へ浄土真宗が入ることをとにかく嫌がりました。その結果、今でも東京、千葉、埼玉、神奈川には浄土真宗のお寺が極端に少ないのです。

 ところが、この三河地方は、昔から浄土真宗への深い信仰を持った信者が多い土地です。ですから、この菊間藩で、服部参事により新方針が下されたとき、百人以上もの東本願寺系の青年僧侶が集まり、討議をして、藩への要求を次のような三ヶ条にまとめ、書面にして抗議をすることにしました。

要求の三ヶ条
一、宗風に有間敷神前の呪文天拝日拝等、浄土真宗門徒の者へは御禁止の事
二、寺院廃合の儀は御見合に合成候様、御嘆願可被下候事
三、宗門人別改制の儀は従来通りの事

 一つ目は、神前での祝詞・天拝日拝は、浄土真宗の宗風に合わないため、門徒へは強制しないで欲しいということ。
 二つ目は、寺院の統廃合は止めて欲しいということ。
 三つ目は宗門人別帳という、誰それがどこの寺の門徒であると記したものはなくさないで欲しいということです。


農民三千人の一揆

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竹槍をもつ民衆 
 真宗僧侶らはこの三つの要求を携えて、藩役人との談合の場へと向かいました。道中、どんどん農民が加わり、三千人にもなったということです。談合の会場となった民家に到着すると、待っていた役人五人は青年僧侶約三十名と向かい合って座り、長時間に及ぶ話し合いが始められました。会場の家の周りには三千人もの竹槍を持った農民が取り囲んでいるという物々しい雰囲気です。

 結局、政府役人が要求をのむことがなかったため、しびれを切らした農民らによって一揆に発展しました。その中で、藩役人藤岡薫という人物が竹槍を受け命を落とすということもあり、最終的には、他藩からも力を借りた藩側が、鉄砲や大砲を持ち込んだため一揆は鎮圧されました。

 その後、明治政府が権力を用いて事件の処理を行いました。本願寺本山や住民からの嘆願もむなしく、中心となった僧侶石川台嶺が斬罪、農民榊原喜与七が絞罪、その他僧侶三十七名、農民八名が流刑や懲役刑に課されました。過酷な取り調べと劣悪な環境の獄舎生活で、懲役中に命果てる者が相次いだと記録されています。

 この事件は、時を経て明治十六年には東本願寺から護法一揆として扱われることになり、刑罰を受けた方たちも護法者として賞賜されています。


(2)明治政府の神道化政策

 三河の護法一揆が起った背景には、明治新政府の神道化政策があります。

〈明治政府の神道化政策〉
明治元年 神仏判然令
     ※同時にキリスト教禁止
明治三年 大教宣布の詔
明治四年 上知令
     ※同年菊間藩護法一揆
明治五年 教導職の設置
明治六年 大教院の設置

 はじめに、明治元年に神仏判然令が出されました。その中で、礼拝対象についての神仏分離令が出され、日本へ仏教が入ってきて以来続いていた神仏混淆が禁じられました。神社での仏像の御神体としての使用を禁じられたため、仏像・仏具・経典の破壊が行われました。

 さらに、廃合寺策も実施されました。寺院はどんどん毀され、統合されていきました。特に厳しかったのは富山藩で、八宗三七〇ヵ寺あったのが八ヵ寺に統合されたといわれます。


キリスト教徒の処刑と流刑

 神仏判然令と時を同じくして、キリスト教も禁止しています。維新後まもなく、新政府は公家に対して「五箇条の御誓文」で基本方針を打ち出すとともに、民衆に対しては「五榜の掲示」で禁止事項を周知しました。その第三番目に邪宗門の禁止、つまりキリスト教の禁止令が出ています。

 発布の翌月には実際に浦上キリシタンが十三名処刑され、百名以上が捕えられ流刑させられました。

 神道以外の宗教は徹底的に排除しようとしたわけです。


国家神道の宣布・上知令

 明治三年には、「ただ神の大道を宣布すべし」という大教宣布の詔が発布されました。これにより全国的に神道が教化される基盤ができます。

 続いて明治四年には上知令が出され、寺院が持っていた土地を、境内地以外全て取り上げられました。これにより、今までは徳川幕府が一番お上であったものが、明治政府がお上であるということを徹底させたわけです。とりわけ広い土地を持つ大寺院への打撃は大きなものでした。


教導職・大教院設置

 明治五年に入ると、教導職が設置されました。これは国家神道を布教するための職で、それまでは神道の神官のみが当たっていました。しかし、効果が上がらなかったため、説法の修行を積んだ僧侶も教化活動に組み入れられ、国家神道の宣布を強制されたのです。

 明治六年には、その教導職を養成するための施設として大教院が設置されます。これはもともと、仏教側が要請したもので、国民の精神的拠り所となるのは唯一神道ではなく、神仏が合同となったものを据えるべきであるという考えで願い出ました。

 ところが実態は大いに異なり、神道一本に縛られるものでした。僧侶は神道中心の教えを説くのみで、仏法を説く余地はありませんでした。

 二月には浄土宗の大本山である芝の増上寺に大教院が設置され、ご本尊であった阿弥陀仏は撤去され、神道の神々が本堂へ祭られました。さらに、神社のようにしめ縄を本堂へ張り、山門の前には白木の鳥居を設置します。そして、開院の日には、神仏各宗の管長を集め、御幣を持たせて神式の礼拝を行わせました。今にしてみると実に驚くべきことをやっていたのです。


(3)廃仏の終焉

 この廃仏に終止符を打ったのは、岩倉具視使節団と、真宗僧侶の活動、長州藩士の存在です。


岩倉具視使節団

 岩倉具視使節団は、明治四年の十一月から明治五年九月までアメリカ・ヨーロッパを視察していました。その道中、各国でキリスト教を弾圧していることに対する批判を受け、徳川幕府が結んだ不平等条約を廃止したいのなら宗教の自由が前提条件であると言われます。岩倉具視はこのことをすかさず本国へ打電し、キリスト教の弾圧をやめ、宗教の自由を認めるよう提言しました。政府も岩倉からの発言は無視できませんでした。


島地黙雷による建白書

 同じ頃、浄土真宗の本願寺僧侶・島地黙雷という方も、明治五年一月からおよそ一年間にわたって、宗教視察のためヨーロッパへ留学していました。そこで欧米の宗教の在り方を学び、視察中に日本政府に対して建白書を送りました。その内容は、政治と宗教を分離しなさい、それから信教の自由を認めなさいということでした。

 帰国後も、三年にわたって活動を続けた結果、明治八年五月に大教院は解散し、そして信教の自由がほぼ認められるようになりました。


長州藩士による護法

 もう一つ、廃仏を止めた大きな力として、長州藩が注目されます。長州藩の下級武士は、昔から安芸門徒と呼ばれる、非常に熱心な真宗門徒でした。西本願寺の門徒さんです。小さい頃から、「帰命無量寿如来・南無不可思議光」という経典を家で唱和して読んだり、それから仏教の話を聞いたりして、心情的に仏教を信仰していました。その安芸門徒が明治維新の主体者ですので、この廃仏毀釈というものは、だんだん収まってきたという経緯があります。

 明治新政府は、徳川という時代を一新するため、天皇を中心に据えた国家神道を推し進め、ほかの宗教を抑えようとしました。国内外における反発の強さから仏教が壊滅にいたることはありませんでしたが、その打撃は大きなものでした。


二、中国の法難と敦煌莫高窟


 中国では歴史上、大きな廃仏事件が四回あり、まとめて「三武一宗の法難」と呼ばれています。三武とは、北魏の太武帝・北周の武帝・唐の武宗、一宗とは後周の世宗を指します。その後もイスラム軍の侵攻があり、文化大革命での大弾圧がありました。


Ⅰ 五胡十六国と鳩摩羅什三蔵法師

 弾圧が行われる以前、中国仏教は多くの人に篤く信仰されていました。五胡十六国が覇権を争う激動の時代、戦乱がもたらす不安の中、安心を求めて仏教が興隆し、鳩摩羅什三蔵法師は古代亀茲国から長安に渡り、約三百巻もの経典を漢訳しました。

 敦煌莫高窟もこの五胡十六国時代に開鑿が始まります。敦煌という場所は、西方諸国との貿易の要所でありましたから、常に先進の仏教が入っていました。また諸国から人が集まってくるため、様々な言語が飛び交い翻訳僧も多く滞在していました。仏教だけでなく、あらゆる文物がヨーロッパ、印度、中東から全てシルクロードを通って、敦煌へ来ています。ですから、敦煌というのは西域から中国への大事な入口でしたから、海のシルクロードが機能する以前は敦煌を通らないと中国へは何も入らなかったわけです。


Ⅱ 敦煌莫高窟の奇蹟

〈敦煌法難の年〉
四四六年 北魏の法難
五七四年 北周の法難
八四三年 ラン・ダルマ王の破仏
八四五年 会昌の法難
九五五年 後周の法難
一三九九年 イスラム軍の侵攻
一九六六年 文化大革命


(1)北魏の法難


太武帝の弾圧と文成帝の復仏

 五胡十六国の混乱を治め、見事華北の統一を果たしたのは北魏でした。四三九年に建国され五三五年までおよそ百年間続きます。北魏は仏教がとても盛んで、寺院が三万、僧侶は二百万もいたということです。

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  北魏時代の塑像 第254窟
 仏教が大いに広まる中、四二三年に太武帝が即位しました。太武帝は、道教を信仰しており、繁栄する仏教がどうも気に入りません。

 いかにして仏教を抑えようかと思案していたところ、四四五年、蓋呉という人物により、大規模な反乱が起こりました。そこで、太武帝自ら鎮圧のために軍を指揮し、その途中長安にある大きなお寺に滞留したときのことです。なんとそのお寺には、蔵とか隠し部屋にたくさんの財物があったのです。太武帝は、仏教寺院がこのようにして財物を隠している、けしからん、ということですぐにそのお寺の僧侶たちを皆殺しにしてしまいました。

 これをきっかけに、翌年勅令が出され、全国的に廃仏が実行されました。結果として長安と大同の仏教僧侶は惨殺、他の地域でも、僧侶は強制還俗、堂宇・伽藍はことごとく破却、仏像・経典も全て焼却されました。

 太武帝は、四五二年に誅殺され、文成帝が後を継ぎました。文成帝は、太武帝の孫にあたる人物で、その父・太子晃は幼少期より仏教に親しみ、再三太武帝に廃仏の緩和を申し入れていた人物でした。

 文成帝は即位後まもなく「仏教復興の詔」を発し、雲崗石窟の開鑿も手掛けています。


北魏の法難と敦煌

 北魏法難の時代、敦煌はどうだったかというと、辺境であったために、廃仏の手は届きませんでした。それどころか、北魏から法難を逃れて来た僧と、北魏へ向かうためにやってきた西域やインドの僧が敦煌へ集まり、仏教がかえって隆盛を極めたということです。


(2)北周の法難


武帝の弾圧と宣帝の復仏

 二つ目の大きな法難である「北周の法難」は五七四年に起りました。

 北周は、五五七年から五八一年まで続いた国で、北斉を相手に華北統一、さらには中国統一を狙っていた国でした。そのために、武帝は富国強兵・軍事力強化を推し進めます。そこで目を付けたのが、仏教教団が持っている財物です。さらに、僧侶たちの人材に注目しました。彼らを還俗させて、軍人にすることを目論みました。

 武帝は五七四年、「仏・道二教団を全廃す。経像をことごとく毀し、沙門・道士は還俗せよ」という命を発し、寺院の財物を取り上げ、僧侶を全員還俗させて軍事力として使いはじめました。軍事力をつけた北周は、ついに五七六年北斉を滅ぼし、そこでも同様に廃仏を実施しました。

 この北斉と言う国は非常に仏教が盛んでその財力も莫大なものでした。廃仏により無数の財物が没収され、仏像も経典も焼かれ、四万の寺院が王侯の邸宅となり、三百万人の僧侶が軍籍に入れられました。

 武帝は五七八年に病に倒れて亡くなります。宣帝が帝位を継ぎ、「仏教復興の詔」が出されました。

 武帝の軍事力強化政策のため国力は強大となり、のちに、北周の中から隋の初代皇帝楊堅が出現し、中国統一を果たすことになります。隋では北周とは打って変わって仏教が尊ばれましたので、大いに仏教が盛んになりました。


北周の法難と敦煌

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  北周時代の塑像 第290窟
 この頃の敦煌は、統治の為に北周から役人が派遣されていましたが、武帝による廃仏の指示には従わず、敦煌の土地の豪族と団結して経済の安定をはかりました。役人も民衆も仏教を篤く信仰しており、莫高窟の造営にも尽力しています。

 そのため、敦煌は、「北周の法難」の中でも保護され、破壊を免れました。
 


(3)会昌の法難


武宗の道教信仰と望仙台

 三番目に起った弾圧が、「会昌の法難」です。中国史上最も規模が大きく、後々まで甚大な影響を及ぼしました。

 「会昌の法難」が起こったのは、唐の治世中、八四五年です。主な原因は、当時の皇帝であった武宗の道教信仰と、仏教教団の強大化だといわれています。もともと、唐という国は仏教を王朝が保護し、諸州に寺が置かれ、中国における仏教の黄金時代を作り出した国です。その黄金時代に突然起こったのが、「会昌の法難」です。

 武宗は八四〇年に即位すると同時に道教を優遇しはじめました。初めの頃は道士のみに褒美を与えるなど、些細なものでしたが、大弾圧のきっかけとなった出来事が八四五年に起りました。武宗は、道士らの教えに従って、神仙(不老長寿)の道に近づくために高さ約五十メートルの望仙台を長安城内に築き上げました。

 この巨大な建造物は民衆総出でわずか一年で作り上げられたもので、円形の上部には五つの楼閣が建っていました。そこへ登ると、健康で長寿が必ず約束されるというので、武宗は二度登りました。ところが道士は一人も登らなかったので、「なぜおまえたちは登らないのか」と尋ねると、「仏教の僧の気が勝って仙道を妨げているのです」と道士は答えました。そういって、道士らは仏教をつぶすことを武宗にたきつけたのです。

 それを聞いた武宗は、怒りに駆られ、すぐに徹底的な「廃仏の詔勅」を下しました。それは、五十歳以下の僧尼は悉く還俗、五十歳以上でも国の証明がない者は還俗、寺院の財産・領地は没収の上、廃寺とするというものです。

 国内で大小四万五千の寺院が破壊され長安城内には四寺を残すのみ、多数の僧尼が還俗させられ、経典は焼かれ、仏具も溶かされ鋤や鍬に作り替えられました。

 八四五年から八四六年という短い期間にかけて行われた非常に過酷な廃仏です。これまでの法難は、中国の一部を支配地域とする王朝によるものでしたが、ここに至って中国全土のお寺というお寺は、とにかく全部壊されてしまいました。

 このときの有様を、日本から留学していた、天台宗の僧・円仁という人が詳細な記録を残しています(『入唐求法巡礼行記』)。円仁は弾圧を避けるために僧形を俗形に変えて、難を逃れ、新羅から日本へ帰る船上でようやく僧形に戻ることができました。彼の記録により、「会昌の法難」の詳細が今日に伝えられました。


武宗の死と宣帝による復仏

 武宗の死によってこの法難が終わりを迎えたのは、八四六年です。武宗は、道士の勧める不老長寿の薬を飲んだせいで、中毒死したとされます。

 武宗のあと、宣帝が帝位を継ぎ、仏教復興に着手しますが、あまりにも甚大な破壊が行われていましたので回復することが困難でありました。現在、中国で唐代の寺院が残っていないのは会昌の法難のためであります。


会昌の法難と吐蕃支配の敦煌

 「会昌の法難」は中国全土に及びましたが、そのとき敦煌はどんな状態であったかというと、実は吐蕃という国の支配下にありました。

 唐は六一八年に中国統一を果し九〇七年まで続きましたが、敦煌を含む西域は七八〇年から吐蕃の支配に入り、八四五年の「会昌の法難」のときには唐の権力が及んでいませんでした。

 歴史を辿ると、唐による西域支配は、六五八年、亀茲国に攻め入り、安西都護府という官庁を築いたことから始まります。このときからシルクロードは唐による一国支配で安定がもたらされ、繁栄の時代を迎えています。

 ところが、七五五年、「安史の乱」という唐王朝に対する大規模な反乱が起ります。この反乱を抑えるため、唐は西域を含む北西地方の精鋭部隊を中央へ呼び寄せました。この混乱の隙をついて、吐蕃は、急速に唐へ侵攻し、七八〇年敦煌を支配、さらには首都・長安をも一時占領するまで勢力を拡大しました。

 このような理由で、「会昌の法難」のときには、敦煌は吐蕃の支配を受けています。そのため敦煌莫高窟は奇蹟的に破壊されないで済んだのです。「会昌の法難」というのは、実に大規模なもので、これがもし敦煌にはいっていたら、間違いなく洞窟はすべて破壊されていたでしょう。

 一体、吐蕃という国はなにかというと、チベット族が興した国で、チベット仏教が盛んでした。チベット族ですから、仏教国です。特に敦煌支配当初の国王チソン王は、吐蕃の仏教興隆を目指していたため、敦煌から先進の仏教文化を取り入れようという意欲を持っており、敦煌を非常に大事にしました。さらにこの時期は「安史の乱」によって唐国内が大変混乱していましたから、唐の知識人は河西地方に避難していました。加えて、唐へ侵入した吐蕃の勢力が、武威から甘州、粛州、瓜州へとどんどん迫ってくるため、河西地方に避難していた知識人たちが皆敦煌へ辿りつき、とうとう河西回廊の文化的精華が全て敦煌へ集まって来たということです。 吐蕃支配は、敦煌莫高窟の壁画にも影響を与えています。当時は唐の手法を踏襲した仏教壁画が描かれていましたが、のちに述べるように、モンゴル民族にチベット密教が信仰されたため、元代に入るとチベット密教画が描かれました。


(4)吐蕃トバン ラン・ダルマ王の破仏


敦煌莫高窟は生き残った

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吐藩時代の涅槃仏 第158窟  
 会昌の法難(八四五年)が起る少し前、吐蕃国で八一五年から八四一年まで即位した第五代チック王は、仏教を篤く信仰し、大寺院を建立したり国家をあげての翻訳事業などで仏教を保護していました。敦煌の僧侶の数が、吐蕃支配に入ってから、それ以前の三倍以上にもなったという記録が残っています。

 ところがそれにより、吐蕃の国家財政が圧迫されていきます。とうとう、八四一年、チック王は反仏派の臣下によって暗殺されてしまいました。

 その後王位についたのがラン・ダルマ王です。ラン・ダルマ王は、臣下の言うことを聞かざるを得ず、仏教を破壊する政策をとりました。それも急激な大弾圧です。

 寺院は壊され、僧侶は還俗させられます。しかし、過酷な破仏に仏教徒の怒りを招き、ラン・ダルマ王も八四六年に刺殺されてしまいました。

 つまり、「会昌の法難」と同時期に、吐蕃でも「ラン・ダルマ王の破仏」が行われていたということが、
今回調べてみて新たにわかりました。

 唐「会昌の法難」と、吐蕃「ラン・ダルマ王の破仏」の、どちらの影響も受けなかったのが、敦煌でした。敦煌の奇蹟はそこにあると思います。吐蕃支配下で四十四の窟が新しく開鑿されました。


(5)後周の法難と禅と念仏


世宗の弾圧と宋時代の仏教

 九〇七年に唐が滅び、中国は再び五代十国が覇権を争う戦乱の時代を迎えました。その末期、後周において、九五五年に「三武一宗の法難」の最後の弾圧が起こっています。儒教による国家統一と富国強兵を図った後周の世宗は仏教を弾圧し三万五千ほどあった寺院が二千六百ヵ寺を除いて悉く破壊され、仏像・仏具は貨幣に鋳造され、僧侶は還俗、経典もなくなりました。

 世宗は四年後の九五九年に病気で亡くなり、後周も間もなく滅び仏教弾圧も終わりを告げました。九六〇年には宋が建国されます。

 宋の時代には仏教は保護されますが、宋が中国統一をするまでの戦乱の中で経典は散逸、法難によって僧侶は還俗させられていたため、この時代、教学を基盤としていた従来の仏教の形にとらわれない仏教が興隆してきました。

 一つは、還俗した僧侶達の活動によって民衆に広まった、「念仏仏教」です。

 私はこれまで敦煌へ何回も行きましたが、四月八日、お釈迦様の誕生日に近隣の農民の人たちが第九六窟にお参りするために沢山集まってくるのに出会いました。そのときに、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」というような、それは南無阿弥陀仏とはっきり聞こえないのですが、ああ、これは南無阿弥陀仏なのだなと思うようなことを皆さん口に唱えて、そしてお参りしているのです。中国の民衆の間には、念仏が今日に至るまで浸透しているわけです。

 それからもう一つが禅宗です。禅宗は、経典がなくても布教ができる。以心伝心で、まず坐れというようなことから始まりますから、法難後、禅宗も盛んになりました。


吐蕃支配を脱した敦煌

 五代十国の時代、敦煌はどうだったでしょうか。この頃、中国混乱の中、敦煌はほぼ独立国として存在していました。

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  第156窟 『張議潮出行図』
 七八一年に唐に代わって吐蕃に占領され、破仏を行ったラン・ダルマ王が八四六年に殺された後、吐蕃王朝は崩壊を始めます。吐蕃が混乱する中、敦煌の支配権は、敦煌の豪族・張氏によって奪還され、直ちに唐によって節度使の官名を与えられました。仏教も盛んになり、張氏自身も仏教を信奉していたために、仏教は大切に保護されていました。

 その後も、宋代に入るまで敦煌は地元の豪族によって統治されています。敦煌の壁画には、張氏時代の吐蕃から支配を脱した喜びが現れた壁画が残っています(第一五六窟)。仏教は保護されていても、他民族による支配はやはり敦煌の民衆にとって厳しい時代だったのです。


宋時代の敦煌

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  宋時代の壁画 第76窟
 宋代(九六〇年~一一二六年)に入りますと、武をおさえて文を興すという宋建国の方針によって、仏教は厚く保護されました。それまでの法難によって、仏教の経典はもうほとんどどこにもない状態でしたので、それを集めるため、国家規模で大蔵経を復刻しています。

 一方敦煌は、前時代に続いて地元の豪族曹氏が敦煌を支配していました。宋代には三十二の洞窟が新たに開鑿されております。


西夏による敦煌支配

 宋に続いて、西夏が中国北西部に興り、敦煌も一〇三六年から一二二七年まで西夏によって支配されました。昔、『敦煌』という映画があり、井上靖さんの小説を映画化したもので、西田敏行さんが主役を演じました。その映画で西夏の軍が敦煌を攻め入って征服する場面がありましたが、その西夏のことです。

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西夏時代の壁画 第328窟
 仏教を非常に重んじた国で、六十九もの新しい窟を莫高窟に開鑿しております。


元による敦煌支配

 一二七一年、元が国を興します。元は、フビライハンが建国した広大な領土を持つ国です。その広大な領土を統治するため、宗教には寛容な態度をとっていました。敦煌も、元の支配下に置かれ、仏教は保護されました。しかし、莫高窟に行くとわかるように、元時代に修復された塑像が散見されますが、それはかえってもとの姿を損なっています。ペンキを上に塗り固めたような修復の方法でなされているために、今日の私どもからは受け入れがたいものになっています。

 なお、フビライ自身はラマ教を信仰しており、ラマ教を国教としました。モンゴル人はラマ教、いわゆるチベット密教を信仰していたわけです。莫高窟にはその影響でチベット密教画が描かれています。第四六五窟がそれです。敦煌莫高窟で唯一のチベット密教画で、歓喜天という男女混交の姿が描かれています。

 この窟は厳重に管理されていて一般には見学することはできません。私が撮影した第四六五窟の写真は非常に貴重な記録といってよいでしょう。


明・清代の仏教

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  敦煌第465窟 歓喜金剛
 明(一三六八年~一六六二年)・清(一六一六年~一九一二年)の時代、各王朝は、チベットやモンゴルと和平を結ぶために、両国が信仰しているラマ教が中国においても保護されました。
 敦煌莫高窟も、元代以降に新たな開鑿はないものの、大切に保護されたようです。


(6)イスラム教徒による法難


イスラム教徒の破壊を免れた敦煌

 明朝の時代、十四世紀に入ると、イスラム教徒の西域への侵攻がはじまり、敦煌は再び破壊の危機に見舞われます。

 イスラム勢力は十二世紀までにタリム盆地のカシュガルやホータンを征服していました。そのまま東へ東へと進み、クチャへの侵攻を試みましたが、仏教徒の力が強く、およそ二百年間達成することができませんでした。十四世紀になって、意を決した東チャガタイハン国のトゥグルク・ティムール・ハーン(在位一三四七年~一三六三年)が、伝道隊をクチャへ派遣しました。彼らはイスラム教を宣伝するとともに、仏教寺院・仏像・経典を破壊し、反抗すれば殺戮するなどして、クチャのイスラム化を達成したのです。

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初唐に描かれた第57窟 観音菩薩  
 一三九九年、勢いにのったイスラム勢力は、敦煌のすぐ目の前、トルファンまで侵攻してきました。そして敦煌に攻め入ろうとしましたが、ハミ周辺に明朝の軍隊が滞在しており、激しい戦闘の末、イスラム軍の将軍らは明の軍によって殺され、トルファンに逃げ戻ったということです。つまり、イスラム勢力は、トルファンまで及んだけれども、明軍の武力に屈して敦煌まで到達せずに莫高窟の破壊は免れたということになります。敦煌は六度目の奇蹟が起こり、莫高窟は今の世界遺産としての最高水準の芸術文化遺産として残っていると言えるのです。

 私は、クチャ、昔の亀茲国の方へ何度も足を運びましたが、そこにもキジル石窟をはじめ、洞窟がいろいろあります。ありますが、クチャはイスラム教徒が支配している場所です。だから、洞窟に入ると、破壊され、ひどい状態になっています。目といい、鼻といい、口といい、顔の部分はほとんど全部はぎ取られて、破壊されています。イスラム教徒は偶像をとにかく否定しますから、そこにあったはずの仏像もことごとく破壊されて何もない状態です。

 そのようなイスラムの破壊をまぬがれ、現在にまで美しさを留めている敦煌莫高窟の存在と言うのは、本当に奇蹟としか言いようがありません。

 特に初唐の時代の壁画に大変優れたものが残っています。例えば、第五十七窟、これは美人窟と呼ばれ、優しい観音様が描かれています。ただ、これも最初に見たときにはひびが入り割れて壊れかけていたので、三年~四年ほどかけて修復してもらいました。


(7)文化大革命による破仏

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 破壊された跡が残るキジル石窟の壁画第38窟
 そして、最後の法難として文化大革命(一九六六年~一九七六年)があります。

 私が敦煌へ行ったとき、「どうして莫高窟は文化大革命を経てなお残ったのですか」と関係者に聞きましたところ、「周恩来首相から紅衛兵のリーダーたちのところへ電報が入って、敦煌には入るな、敦煌は破壊してはだめだと言われた、だから破壊から免れたのです」、ということを教えられました。

 周恩来首相による制止がなかったら、莫高窟はあの文化大革命による見るも無残な破壊を免れることはできなかったでしょう。


おわりに―敦煌莫高窟の奇蹟―

 以上のように、敦煌莫高窟は七つの法難を逃れてきました。

 一つ目は北魏の法難。仏教が非常に栄えていた北魏において、道教を信奉した太武帝が仏教をおさえこむために行った廃仏でした。このとき敦煌は、辺境であったことから廃仏は免れ、逆に北魏や西域から大勢の僧侶らが集まることになりました。

 二つ目は、北周の法難。中国統一を目指した武帝が富国強兵のため、仏教寺院の財物を奪い、数多の僧侶を軍人にしました。一方敦煌は辺境であったこと、そして役人・民衆が篤く仏教を崇拝していたことから廃仏が実施されることはありませんでした。

 そして三つ目が一番大きな被害をもたらした「会昌の法難」です。武宗の道教信仰から起こったもので、唐王朝全土の仏教寺院が破壊、多数の僧侶が還俗させられました。このとき敦煌莫高窟は偶然にも仏教国吐蕃が支配していたために唐の廃仏の手は及びませんでした。ところがその吐蕃でも、同時期にラン・ダルマ王による破仏があったわけですが、吐蕃本国から敦煌が離れていたために、破壊されませんでした。

 五つ目の法難は後周時代に世宗によって行われた弾圧です。ここにおいて、中国仏教は堂宇伽藍や経典といった形あるものが全てなくなってしまいました。

 さらに、時代が下がって十四世紀に入りますと、イスラム教徒の侵攻が中国に及び、敦煌も一歩手前までイスラム勢力が迫ってきましたが、ハミに駐屯していた明朝の軍隊によってイスラム勢力が撃退されたため破壊を免れました。

 そして最後に、あの文化大革命のときにも、周恩来首相からの一本の電報で破壊されずに済んだのです。

 敦煌莫高窟は、七つの奇蹟が重なりに重なって守られてきたのです。世界文化遺産史上においても、稀に見る前述の七回の破壊から免れて、今日私たちの目の前に現前する敦煌莫高窟は、私たち日本人としても大切に護っていかなければならない人類文化の究極の宝物であります。

 私が十数年前に敦煌へ行ったときには中国人観光客は極端に少なく、数千人にすぎなかったものですが、今日では、中国における空前の旅行ブームと相まって、年間百万人を超す中国人が訪れています。それはただ単なる世界遺産を見物するということにとどまらずにそれを通じて中国仏教が復活し人々に尊重される兆しであるととらえたいものです。

- 敦煌法難の歴史 -

446年 北魏の法難
 太武帝の道教信仰により廃仏。仏教僧斬殺、堂宇伽藍・仏像経典破却。
574年 北周の法難
 武帝の富国強兵により、佛・道二教は財没収。4万の寺院が王侯の邸宅とされ、300万人の僧侶が軍籍に入る。
843年 ラン・ダルマ王の破仏
 チベットでの行きすぎた崇仏による財政破綻のため廃仏。寺院破却・僧侶還俗。
845年 会昌の法難
 武宗の道教信仰により唐全土において寺院4600及び小堂4万破壊・多数の僧侶が還俗される。
955年 後周の法難
 世宗の旧制改革により、3万3千の寺院廃寺・仏像仏具は貨幣に鋳造される。
1399年 イスラム軍侵攻
 1392年イスラム軍がトルファンまで侵攻し、敦煌を狙うが、ハミで明軍により駆逐される。
1966年 文化大革命
 仏教は厳しく弾圧され、仏像は悉く破壊、堂宇は毀され僅かに残ったものは牛舎や物置として使用された。僧侶たちへの弾圧も過酷を極めた。

《参考文献》
中村元ほか編(一九七二年)
「アジア仏教史 中国編・日本編・インド編」佼成出版社
平川彰ほか編(一九八一年)
「講座大乗仏教 一~十巻」春秋社
平川彰著(一九七七年)「仏教通史」春秋社
樺山紘一ほか編(一九九九年)
「岩波講座世界歴史六」岩波書店
教化研究所編(一九五三年)「仏教概要」法蔵館

*日本の法難
柏原祐泉著(一九九〇年)
「日本仏教史 近代」吉川弘文館
明治維新史学会編(二〇一六年)
「講座明治維新一一 明治維新と宗教・文化」有志舎
田中長嶺著(一九一一年)「明治辛末殉教絵史」精華堂
前田勉著(二〇〇二年)「近代神道と国学」ぺりかん社
安丸良夫著(一九七九年)「神々の明治維新」岩波書店
吉田久一著(一九五九年)
「日本近代仏教史研究」吉川弘文館
北沢俊嶺「明治維新における廃仏毀釈の一断面―富山藩の場合―」『印度學佛教學研究』一九巻二号、p六四七~p六四八

*中国の法難
鎌田茂雄著(一九八二年)
「中国仏教史 一~六巻」東京大学出版会
鎌田茂雄著(一九八二年)
「中国仏教の寺と歴史」大法輪閣
任継愈主編(一九九四年)「定本中国仏教史 Ⅰ・Ⅱ」柏書房
円仁著(一九九〇年)「入唐求法巡礼行記」中央公論社
エドウィンライシャワー著(一九九九年)
「円仁 唐代中国への旅」講談社
気賀沢保規著(二〇〇五年)
「中国の歴史 六 絢爛たる世界帝国」講談社
樺山紘一ほか編(一九九四年)
「岩波講座 世界歴史二六」岩波書店
敦煌文物研究所著(一九八一年)
「中国石窟敦煌莫高窟一~五」平凡社
李最雄・山折哲夫ほか著(二〇〇〇年)
「敦煌の美と心ーシルクロード夢幻」雄山閣出版
栄新江著(二〇一二年)「敦煌の民族と東西交流」東方書店

*その他
宮脇淳子著(二〇〇二年)「モンゴルの歴史」刀水書房
杉山正明著(二〇〇八年)
「興亡の世界史九 モンゴル帝国と長いその後」講談社
護雅夫・岡田英弘編著(一九九〇年)
「民族の世界史四中央ユーラシアの世界」山川出版社
島田政雄著(一九七八年)
「チベットーその歴史と現代」三省堂出版
塚本啓祥著(一九七六年)「アショーカ王碑文」第三文明社
定方晟著(一九八二年)「アショーカ王伝」法蔵館
丸山鋼二(二〇一二年)「新疆トルファン地方のイスラム化と仏教衰退―中国新疆イスラム教小史⑤―」
『文教大学国際学部紀要』第二三巻一号、p八五~p一〇〇
アリウンサイハン・マンダフ「モンゴルにおける大粛清の真相とその背景」『一橋論叢』一二六巻二号、p一九〇~p二〇四



 私は次の二つのシルクロード仏教文化の修復と顕彰事業を行ってきました。

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  第220窟 阿弥陀浄土図

 一つは平成十四年より続けています、敦煌莫高窟修復事業です。私が最初に敦煌莫高窟を訪れたときの洞窟内はカビや剥離によって非常に荒れた状態でした。見事な塑像が安置されている天井が剥がれて落ちかかりそうになっていたり、美しい壁画がカビや風化で変色したりと、四九二窟のうちの三分の二ぐらいが今にも崩れそうになっていたのです。それを見て、この世界的な仏教文化をこのまま朽ちさせるわけにはいかないと、私は修復を手掛けることを決意しました。敦煌莫高窟研究院の方に、一つの修復にかかる費用と時間と技術者の数を見積ってもらい、それをもとに、はじめに、必要な費用の半分を支援し、完了した時点で残りの費用を差し上げるというように修復を進めてまいりました。これまでに第二三窟、第四四窟、これは四年もの歳月を要しました。そして第四五窟、「美人窟」と呼ばれる第五七窟、第一〇三窟、第二一七窟、第三二〇