大洞 龍明塾長

特別講義録 (第26期専門課程 全宗派合同講座)

2014年2月27日

 本日の講義は、仏教塾後期の専門課程を専攻される方々を対象とした時間で、各宗派の先生方が講義されます。私は浄土真宗の教義にかかわる内容が主となりますことをご理解ください。

一、白き華ひらく


167-2.jpg瑠璃光院白蓮華堂完成予想図
 今、私が僧籍を置く光明寺では、JR新宿駅南口から徒歩三分の場所に、新宿「瑠璃光院白蓮華堂るりこういんびゃくれんげどう」と名づける新しい寺院を建設しています。
 
 白蓮華という名は、阿弥陀仏の極楽浄土の池に咲く白蓮華に由来しています。浄土教の経典では、この世を終えた人は浄土の蓮の華に宿り、華ひらいて浄土の菩薩として生まれると説かれています。その白蓮華をイメージした形で、ホワイトコンクリートを使用して、震度八にも耐えられる構造計算がされております。
 
 一つの寺院を建立するという場合、広大な敷地に山門・本堂・庫裏・書院・客殿のほか、庭園や墓地を擁するわけですが、都会の真中ですから、三百坪の土地に、地下三階相当と、地上六階のビルディングの中へそれらの諸施設を収納し、沢山の人にお参りいただいて宗教活動や布教の拠点にしたいと考えております。
 
 私自身は、宗派にこだわって、浄土真宗でなければいけないという考えを持っていないので、その白蓮華堂の中には「空の間」を特設し、坐禅や瞑想の集いを開いたり、仏教日曜礼拝を催して、いろいろな宗派の先生方のお話を聞く機会を増やしていきたいと思っています。

二、シルクロード・クチャに羅什像

 
167-3-1.jpg大勢の人に囲まれての除幕式法要
 二〇一三年九月十六日、中国新疆ウイグル自治区・クチャ市あんず公園に鳩摩羅什三蔵くまらじゅう法師の高さ七メートルの銅像を建立し、大勢の人たちに囲まれる中で入魂式を行いました。この鳩摩羅什師の生まれ故郷であるクチャに、銅像を建立するまでには、国際的な困難な課題がいくつも生じることとなりました。
 
 クチャは中国の西方シルクロードの彼方。南側はタクラマカン砂漠、北側は天山山脈にはさまれ、天山山脈の氷河の雪解け水が流れ出た処にできたオアシス都市です。かつてはアーリア人系のキジ国として繁栄を誇った場所で、鳩摩羅什師はこのキジ国の王子として生まれました。今回銅像を立てた場所は、このキジ国の王城址地であります。
 
 鳩摩羅什師は王子として生まれながらも出家、遠くインドに留学した帰路で大乗仏教に回心し、更に故郷をはるばる離れた長安で仏教経典三百巻を漢語に訳した方です。その漢訳仏典が東アジアにも伝わり、中国・日本に大乗仏教を広める契機となりました。光明寺では大乗仏教の恩人である鳩摩羅什師の偉業を讃え、さらには多くの人にその偉業を知ってもらうために「鳩摩羅什三蔵法師顕彰会」をつくり、これまでに記念館の建設計画など諸事業を進めてきました。
 
 今回の銅像建立に当たって生じた問題のひとつは、民族・宗教問題です。
 
 クチャはウイグル自治区内にあり、ウイグル人が九十%ほどを占めています。ウイグル自治区というのはムスリムの国で、その中心地に仏教の聖者の像を建てるのはいかがなものかと、ウイグルの人々から異論がでました。そこで建立は中止になってしまうかと危惧しましたが、私は京都大学の資料の中に、「鳩摩羅什が晩年生まれ故郷のキジ国に帰りたい」と言っていた書簡を見つけたのです。そしてウイグルの人たちに「鳩摩羅什三蔵法師は、このクチャの地で生まれました。そして、捕虜として長安へ連れていかれながらも東アジアに仏教を伝えた、世界的にも偉大な人で、その方が本国へ帰りたいというのは人としての情ではないでしょうか。しかも、帰国の願いもむなしく長安で客死されました。『故郷に帰りたい』という心は、宗教とか、民俗とか、国とか、そういうものを越えて、同じ人間としての、お互いの心に響き合う情ではないでしょうか」と訴えました。すると、ウイグルの人たちも「わかった」と了解してくれて、建立に至ったのであります。
 
 二〇一三年は鳩摩羅什師の没後千六百年の記念すべき年に当り、師の銅像を建立できたということは私としても大変嬉しいことであります。

三、敦煌莫高窟修復事業

167-4.jpg敦煌莫高窟220窟南壁『阿弥陀浄土図』部分 蓮華童子
 世界遺産である敦煌莫高窟は、四九二の石窟があります。十数年前に私がここへ初めて訪ねたとき、その八割が崩れかかっている状況でありました。修復のための寄付金はあるのですが、なかなか修理も進まない。そこで私は、これらの一つ一つの洞窟を修復するのにいくら必要なのか、何年かかるのか、何人の技術者が必要なのかをたずねました。そして、はじめに寄付金を半分出して、修復が完成したら残り半分を出すという約束をして、修復を進めているのです。私が生きている間に十個の洞窟を修復すると申し出ました。現在までに七つを修復しました。あと三つ修復し終わるまではこの事業は終わることはありません。

 さらに、去る十月に中国を訪問した際に、前述の白蓮華堂がこの敦煌莫高窟の「阿弥陀浄土図」の中の白蓮華をモチーフにしているということを敦煌研究院の方へ話しました。そして、小さくても良いから阿弥陀浄土図の写真を飾りたいということを伝えると、帰国して一ヶ月たった時二二〇窟が良いのではないかと返事をいただきました。二二〇窟の阿弥陀浄土図は初唐に描かれたものですが、宋代にその上へ漆喰を重ねて塗られ千仏画が描かれていました。それを一九四八年に修復の際に少しはがしたところ、突然その下から初唐の浄土図が現れました。千年もの間眠っていたため非常に色鮮やかな壁画です。それを、こちらの希望する大きさでの写真を提供してくれることになりました。これを白蓮華堂の本堂東壁に縦三・五m横五・四mの原寸サイズで展示することにしました。

四、「日本仏教」と親鸞  

 
 司馬遼太郎氏が「文藝春秋」に寄稿していた「この国のかたち」という連載の中に、日本の仏教というのはどういうものか、浄土真宗がその中でどういう位置を占めているかを書いた文章があります。
 
 その中で、司馬氏は、自身の歴史観によって日本の仏教を一刀両断しています。
 
 「本来仏教は煩悩からの解脱の宗教であり、救済の宗教ではなかった、大乗仏教の興りとともに救済の宗教としても成立したのである」と述べています。それを浄土真宗の宗祖親鸞が、大乗経典の中から救済の要素を純粋化してゆき、阿弥陀仏四十八願の中の第十九願、二十願、十八願という三願に注目して「三願転入」の形でもって信の純粋化を追求し、それが透明化した時点で解脱と救済の同一化が成立したと述べているのです。
 
 司馬氏曰く「本来の仏教には神仏による救済の思想さえない。解脱こそ究極の理想なのである。解脱とは煩悩の束縛から解きはなたれて自主的自由を得ることである(そういうことが凡人に可能かとなると、話はべつになる。解脱など、百万人に一人の天才の道ではあるまいか)。ともかくも、本来の仏教はあくまでも解脱の〝方法〟を示したものであって〝方法〟である以上、戒律とか行とか法はあっても、教義は存在せず、もし存在すれば解脱の宗教とはいいがたい(教義を読んで解脱できれば、こんなラクなことはない)。
 
―中略―
 
 さきに解脱と救済は、原理においてたがいに別系統のものであるかのようにのべたが、親鸞においては救済をのべつつ、解脱の原理からすこしも踏みはずさないという微妙な、きわめて仏教の本来的態度をとっている。かれにあっては〝光明〟は絶対的に人間を救済してくださるとしながら、人間は〝光明〟の前で自己否定しつくして透明化する方向を示唆している。この透明化こそ、釈迦のいう解脱である。(司馬遼太郎「この国のかたち(一)」(日本の仏教)より抜粋)」
 
 さらに司馬氏は、親鸞の著した「教行信証きょうぎょうしんしょう」の中にキリスト教の教学体系に匹敵するような教学があるということを述べています。信心の純粋化というところで、解脱がそこに完成しているというのです。
 
 司馬氏曰く「本来の仏教というのは、じつにすっきりしている。人が死ねば空に帰する。教祖である釈迦には墓がない。むろんその十大弟子にも墓がなく、おしなべて墓という思想すらなく、墓そのものが非仏教的なのである。仏教においては世間でいう〝霊魂〟という思想もなく、その〝霊魂〟をまつる廟も持たず(釈迦廟などはない)、まして〝霊魂〟の祟りをおそれたり、〝霊魂〟の力を利用(?)したりするなどといった思想もない。幽霊というのも、本来の仏教には存在しない。ここで「霊魂も怨霊も幽霊も祟りも、仏教の教義として存在しない」といいたいところだが、ざんねんながら仏教には一大体系としての教義がないのである。キリスト教やイスラム教のように、預言者がコトバをもって説いた宗教(啓示宗教)なら教義が存在する。
 
―中略―
 
 救済の宗教には、教義が要る。親鸞はその思想の純粋性を他に示すために著述をした。その著作や述作が、教義になり、また日常規範にもなった。さきに、仏教には教義はないといったが、親鸞の場合のみ例外で、キリスト教やイスラム教ほどではないにせよ、教義がある(ついでながら、ここでいう教義とは論理的整合が遂げられた体系をいい、高僧の話や文章の断片ではない)。(司馬遼太郎「この国のかたち(一)」 (日本の仏教)より抜粋)」
 

五、真宗の要義

 
167-5-1.jpg
 それでは、親鸞は「教行信証」においてどういう形で仏教を理論化し教義化したのでしょうか。三三きさんざん法門きほうもんというものに実にすっきりとした教学体系が形成されています。
 三経(観経かんきょう・阿弥陀経・大経)・三願(第十九・二十・十八願)・三機・三往生・三門という形で表される三三の法門こそ、一大仏教を集約した親鸞独自の教学思想なのです。

(一) 仏説観無量寿経(観経・第十九願)
 仏説観無量寿経は、王舎城おうしゃじょう物語からはじまります。王舎城の阿闍世あじゃせ太子が、提婆達多だいばだったにそそのかされて父親の頻婆娑羅びんばしゃら王を幽閉して死に至らしめ、母の韋提希夫人いだいけぶにんをも軟禁したという物語です。この悲劇を機縁として、観無量寿経では、お釈迦様が現世の苦悩を除いて極楽往生する方法を説かれています。
 この経典が、お釈迦様の出世本懐しゅっせほんかいであるということを表すのは「即便微笑そくべんみしょう」です。お釈迦様が、韋提希夫人のもとへお出ましになり、清らかな世界を見せてほしいと頼む夫人に、眉間から光明を放って、その中に十方浄土を映しました。その中から韋提希夫人が阿弥陀如来の浄土へ参りたいということを選ばせしめられたのです。韋提希夫人がお釈迦様に「どうしたら光台現国に現わされた阿弥陀様の浄土へ往生することができますか」ということを問うと、お釈迦様は「微笑」された。にっこりされた、よくぞ問うてくれたと思わずほほえみをもらされたということが、お釈迦様の出世本懐をあらわす経典であることを示すということなのです。
167-5-2.jpg教行信証(坂東本)親鸞聖人師真筆
 その浄土へ行く方法としては、定善じょうぜん散善さんぜんがあると観無量寿経では説きます。「定善」というのは、精神を集中統一して修する息慮凝心そくりょぎょうしん、思慮分別をやめ心を散らさず一つの対象に専注することです。日想観、水想観、地想観等々・・・雑想観という、十三観の定善の方法を示しています。それに対し、心を静めて禅定に入れないような、心の乱れている人たちには「散善」という方法を説きます。浄土に往生するための九つの方法、九品往生くぼんおうじょうです。上品上生じょうぼんじょうしょうから、上品中生じょうぼんちゅうじょう・・・下品中生げぼんちゅうじょう下品下生げぼんげしょうと九品の種類に分けて、それぞれにどういう善をしたらいいかを示しています。しかし、一生の間悪を造った下品下生の人たちは、もう何もできないのです。そのような人の前には善知識が現れ、阿弥陀仏を念じなさいと言います。しかし心みだれて今はそれすらできない。それならば、南無阿弥陀仏という念仏を称えなさい、すると、浄土往生を遂げることができると説かれて称名念仏を勧めます。
 
(二) 仏説阿弥陀経(小経・第二十願)
 仏説阿弥陀経は、念仏しか称えられない人たちのために、お釈迦様が阿弥陀仏の西方浄土を讃えてその世界の美しいことを述べ、名号を称えて浄土に往生することを勧められた経典です。
 これが出世本懐の経典である理由は、「無問自説」であります。阿弥陀経は、お釈迦様が仏弟子の問いを待たずに、極楽はこうだ、極楽往生するにはこうするのである、というように、一方的に説かれています。そのためこれがお釈迦様が最も言いたかった出世本懐の経典と言うわけです。
 特に大事なところは、「舎利弗しゃりほつよ、小善根福しょうぜんこんふく徳の因縁を以てしては、彼の国に生まるることを得可からず。舎利弗よ、若し善男子、善女人有りて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、若しは一日、二日、三日、四日、五日、六日、七日、一心不乱ならん。」という部分です。一生懸命南無阿弥陀仏を称えれば、浄土へ往生することができるということです。しかし、親鸞聖人はこの経典も方便の経典だとしています。
 
(三) 仏説無量寿経(大経・第十八願)
 阿弥陀如来様は、生きとし生けるものの姿を見て、今のままでは救われようがない、この救われようのない人たちをどうしたら救うことができるかということを考えられました。考えた末に、阿弥陀如来様が、因位いんにの位という修行者に自分の身を落とされ、法蔵菩薩ほうぞうぼさつとなられました。大無量寿経に説かれるのは、法蔵菩薩となった阿弥陀様が、五劫思惟、兆載永劫の修行を終えて、四十八の大願を立て、それを成就して阿弥陀仏となり、一切衆生を救済して極楽浄土に導くものです。
 親鸞聖人はお釈迦様が大涅槃の境地である清らかな禅定、大涅槃の根元である大寂定弥陀三昧だいじょうじょうみだざんまいに入られたことから、これこそが、出世本懐の真実の経であるとしています。
 
 大無量寿経は、上巻と下巻があります。
 上巻では、阿弥陀仏の浄土がどういう因縁でつくられたかという「如来浄土の因果」が書かれています。法蔵菩薩が、五劫の間思惟し四十八願を立て、その誓願を実現するために兆載永劫にわたって修行され、阿弥陀仏となって建立されたのが浄土の世界です。この四十八願の中に、第十九願、第二十願、第十八願という三願が出てきます。
 下巻は、衆生がどうしたら浄土に往生することができるかという「衆生往生しゅじょうおうじょうの因果」が書かれています。衆生往生には「念仏往生」と「諸行往生」があり、さらに諸仏には、人々に浄土へ往生することを勧めるよう説いています。
 また「悲化段ひけだん」と「知恵段」とがあり、阿弥陀さまは、「悲化段」において浄土が「行き易くして、人無し」であることを嘆き、三毒を説いて浄土への願生を勧め、五悪をいさめて五善を励ましました。「知恵段」では極楽に往生したものがどういう姿かを説きます。その姿の一つである「胎生たいしょう」の者は、仏智ぶっちを疑惑して、自己の修する善根によって往生しようとする人々および自力念仏往生しようとする人々です。これらの人々が往生すれば、信心の知恵を得ていないために、極楽浄土の七宝の宮殿に生まれながらも、五百歳の間は、あたかも牢獄に入るに等しく、むなしく過ごさなければならないのです。仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができない。五百年の間、仏を供養することもできない。功徳善根を取得することができず、仏によって与えられるべき大利を失った人々です。第十九願・二十願の信心によって生まれたものはこの胎生の往生人となります。
 もう一つの姿である「化生けしょう」は、仏智明信ぶっちめいしんしているために、もろもろの功徳の総体である阿弥陀仏の御名を称え、他力の信を得て、往生を願う人々です。この人々が往生すれば、七宝の蓮華に生まれ、光明も知恵も功徳も極楽浄土の菩薩と同じになる。真実の経と真実の信を得た人は、浄土の白蓮華に包まれて生まれるのです。
(四) 三願転入さんがんてんにゅう
 真宗の要義で最も重要なのは三願転入です。
 この三願とは、四十八願の中の第十九願、第二十願、第十八願のことです。
 最初は第十九願の信心と行を行います。するとそのうちにそれが破綻することが分かり、第二十願の名号を称えるということに行きつきます。しかし、それも結局は我が欲のために名号を称えているという心にゆきつき、それも方便の法であることに気づきます。ところが十八願になりますと、阿弥陀如来様から信心と称南無阿弥陀仏の行を恵施されるほかはない、ということになります。だんだんと、十九願から二十願、十八願に至る。司馬遼太郎氏の言う、信心を純粋化して、結局「解脱」と同じ透明性を持つというのは、この第十八願のことを指すのであろうと思います。
 親鸞聖人が、このような第十九願・第二十願の方便の教えから第十八願の真実の教えへと信仰の移り進む過程を述べ、如来様の大悲方便を明らかにした信仰の告白が、三願転入です。
 「是を以て愚禿釈ぐとくしゃくらん論主ろんじゅ解義げぎを仰ぎ、宗師しゅうし勧化かんげによりて、久しく万行諸善まんぎょうしょぜん仮門けもんを出でて、永く雙樹林下そうじゅりんげの往生を離る。善本徳本ぜんほんとくほん真門しんもんに回入して、ひとえに難思往生の心をおごしき。然るに今、特に方便の真門を出でて、選択せんじゃく願海がんかい転入てんにゅうせり。速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんとおもふ。果遂かすいちかいまことゆえあるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩ぶっとんを知れり」というのが親鸞聖人の『教行信証』にある三願転入の表白の原文です。ここに、最も浄土真宗の教義のエキスが出ていると思います。これらのことから、司馬氏は、親鸞はまさしくキリスト教のドグマに対抗し得る教義を確立したということを言っているわけです。

 非常に難解なお話をしましたので、少し話題を変えて、真宗のお話を別の角度からすすめてまいります。

六、「和讃の光」


 昨年の夏、東京新聞社から「こころのページ」に記事を書いてほしいと依頼を受けました。とにかく分かり易いものが良いとの担当記者からの希望で、「和讃の光」という記事を二回にわたって連載しました。

167-7.jpg空襲を受けた岐阜市内
■和讃の光その一「慈悲に包まれる幸せ」
 
 夏が訪れると思い起す一つの光景があります。
 
 一九四五年(昭和二十年)七月九日夜半、百三十機の大編隊でB二九が岐阜市を襲い、街はたちまち紅蓮の炎に包まれました。小学三年生の私は、金華山麓に難を逃れ、市中を見おろすと、煙と炎が渦を巻いて市の中心に集まり、大きな火柱となって天空へ昇っていきました。上空には炎の色に映えた米機が旋回して、まるで赤トンボの飛翔のように見えました。そのときの戦火で、生まれ育った寺は焼け、北琵琶湖の父の在所の寺へ疎開しました。
 そこは、浅井長政の居城があった小谷山の北に連なる大洞山おおほらやまと、姉川の支流・高時川たかときがわにはさまれたのどかで美しい山里の集落でしたが、「都会っ子!」「よそもの!」とガキ大将にサンザンいじめられてケガをすることもありました。通学路には高時川にかかる橋を必ず渡るのですが、その橋で帰り途に待ち受けていじめを受けたのです。
 
 四年生の春だったと思います。「今日もまたいじめられるな」と予感すると頭が痛くなり、学校へも行けず床に就いていました。「これからどうすればいいのか」「こんな苦しい思いをするなら、死んだ方がまし」と考えあぐんだあげく、隣の部屋で村人から頼まれて黙々と和服を縫って暮らしのたしにしていた母のそばへ寄ってゆきました。
 
 「お母さん、人は何のために生きてるの?」「人間の幸せはなんですか。」とそんな意味のことを尋ねました。
 
 「人間にはね、死ぬるということがあるのが幸せなのよ」と思いもよらぬ言葉が返ってきました。
 死という言葉に私はたじろぎ、なんと言ったらよいのかも分からず、ただ、母の次の言葉を待ちました。
 
 母はわずかに顔を上げると眼鏡越しに私を見やり、微笑みをたたえた顔で一、二度静かにうなずくとまた黙々と針の手を動かし始めました。
 
 人間には死ぬるということがある―それがなぜ幸せなのか。そのような人生観はどこからくるのか。
 私が成人していろんなことを学ぶようになって分かってきたこと、それは人生観というより死生観であり、明らかに仏教思想に由来をもっている、ということでした。
 
 母は八十六歳で亡くなる前に、親鸞聖人がお作りになったご和讃を何度も口ずさみ「このご和讃は、本当にありがたいお歌です」と申していました。
 
 十方微塵じっぽうみじん世界の
 念仏の衆生をみそなはし摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる
(阿弥陀如来さまは、ご自身の光をこの大宇宙の無数の世界にいきわたらせ、最後の一人まで救い取って見捨てることをされないお方なので、アミダというお名前を名乗っていられるのです)

 私ども一切の生きとし生けるものが救われていく道は、大無量寿経の四十八願の中に明らかにされています。
 
 その中でも第十八番目の願は「念仏往生の願」と名づけ「南無阿弥陀仏を称えよ。南無阿弥陀仏を称える者は、どんな悪人でもどんな善人でもそのまま救う」と誓われているのです。
 
 一般的に「人が救われる」ためには「悪を慎んで善きことを行う」「自分の欲を抑えて困った人に施す」
「自己を犠牲にして社会に尽くす」といった徳行が要求されます。そういう行いを積むことで救われていくのだと考えられているのです。
 
 ところが「摂取して捨てざれば」という阿弥陀如来の大慈悲の中では、善人も悪人も何の隔てもなく救われていくのです。悪人が善いことをすれば救ってくださるとか、罪人が罪滅ぼしをすれば救ってくださるとか、そのような条件を一切おっしゃらないのが阿弥陀如来さまです。
 
 母が八十四年秋、世を去る三日前、私は母の部屋に自分の布団を運び入れ、一夜、添い寝をしました。下のものを取り換えるたびに母の苦労を偲び不幸をわびました。
 
 「人間にはねえ、死ぬるということがあるのが幸せなのよ」、の言葉どおり、摂取の光に包まれた安らかな往生でした。

167-8.jpg疎開先の近江祖坊
 新聞掲載後は多くの反響がありました。
 
 「いじめを受けたあと、どうなったのですか。」
 
 私は疎開中の九歳の夏休み、八月二十八日に京都の本願寺で得度いたしました。滋賀県というのは非常に仏教を尊ぶ土地で、頭を丸坊主にして戻ると、いじめをしていた連中がどうもおかしいのです。九月ごろであったかと思いますが、学校からの帰りに高時川の堤防のところへ行くと五~六人、悪ガキがいて、その阿弥陀橋という橋の下へ来いと言うのです。またものすごいいじめを受けるのだろうと、もう心に決めました。いじめっこらが私を取り巻き、「おまえ、お坊さんになったって言うんだけども本当か」「本当だ」「そんならおまえ、坊さんになったんならお経読めるだろう。読んでみよ」と言ってきたのです。そこで私は、物心ついたころには暗記していた仏説阿弥陀経を、「仏説阿弥陀経、如是我聞にょぜがもん一時仏いちじぶつ在舎衛国ざいしゃえこく祇樹給孤独園ぎじゅぎっこどくおん与大比丘衆よだいびくしゅ・・・」と読み出しました。ずうっと進んでいくと、六人ほどいた悪ガキの一人が、サーッと堤防の上へ上がって逃げて、去っていく。「舎利弗しゃりほ於汝意云何おにょいうんが」、それでまた一人去る。「舎利弗、南方世界なんぽうせかい有日月灯仏うにちがっとうぶつ名聞光仏みょうもんこうぶ」となると、また一人去り、とうとう最後にガキ大将が一人だけ残りました。そのうち彼もその顔が真っ青に震えるようなになって「もういいもういい」と言いながら、手で私の口をふさぐようなしぐさをしましてバーッと逃げて行くのです。それから私に対するいじめはなくなりました。そのとき私は、子供ごころに「お経というものはすごい功徳があるのだな」と、そう思ったのです・・・・・。

■和讃の光その二「いつくしみ深い心と愛」
 
 中学三年の夏休みのことです。父に託された手紙と品物を持って、親戚の家にお使いに行きました。
 名鉄岐阜駅から笠松を経由して竹鼻線の終点(現在の羽島市)で降り、汗だくになりながら長良川堤まで歩きました。当時は橋はなく、渡し舟で向こう岸に着きました。
 
 石垣を高く積んで洪水に備えた広大な屋敷に住むその家の主人は、戦後土木業によって一代で財を成した人で、村会議員などの公職にも就いていました。お腹が出て、カップクが良く、イカツく、浅黒い顔をしていて、面と向かうとコワくて親しみを持てない人でした。六十ほどの年齢だったと思います。
 
 父の用件を済ませると、もう外は暗くなっていたので夕食をいただき、泊めてもらうことになりました。寝たのは主人の部屋の隣です。夜中、私は何となく気配を感じて目を覚ましました。「おとっつぁん、おっかさん、ナンマンダブ。おとっつぁん、おかっさん、ナンマンダブ」と何度も称える大きな声が聞こえてきました。
 
 あんなコワいおじさんが夜中に亡くした父母を呼び、念仏を称える声に接し、その人への思いが、がらりと変わったのを覚えています。
 
「十億の人に、十億の母あらむも、わが母にまさる母ありなむや」
 
 この歌は、大正から昭和にかけて活躍された東本願寺系の高僧・暁烏敏あけがらすはや師という方が作られました。
 
 この方が説教をなさると、近くの人だけでなく、遠い遠いところからも汽車に乗って聴聞に大勢の人々が、おとずれるのです。
 
 私の高校時代の恩師に狩野真一という先生がおられました。狩野派絵師の末裔で歌舞音曲にも秀で、ピアノを弾きながら朗々たる美声で、『荒城の月』を歌ってくださったのに感動しました。
 
 狩野先生はNHKのアナウンサーを定年まで勤めあげた人で、人格・情操教育を重視する校長先生に請われ特別講師を引き受けられたのでした。「仕事を通じていろいろな人に会う機会に恵まれた中で、別に驚くような人もいなかった。しかし、暁烏敏というお坊さんだけは、小さな方なのだけど、そばに寄るとこちらの体が震えてきて、恐れ多い感じがした、たった一人の人物でした」と述懐されたのです。
 
 そのような厳しく近寄りがたい方が、「わが母にまさる母ありなむや」と詠まねばならなかった心境は、いかなるものであったのでしょうか。
 
 臨済宗妙心寺派の名僧・山本玄峰老師は、九十五歳で亡くなる直前まで『母』という揮毫を人々に与えられておられました。老師は捨て子にされ、拾われて流浪の後、土佐の雪蹊寺門前に行き倒れていたのを住職に助けられ、後に出家得度されたのです。
 
 「捨て子にしたお母さんのことを、どうして書にされるのですか?」との問いに「それでも母はありがたいのです」と涙ながらに黙々と『母』の字を書き続けておられたといいます。
 
 親鸞聖人の『高僧和讃』に次のような一節があります。

 釈迦弥陀しゃかみだは慈悲の父母ぶも
 種々しゅじゅ善巧方便ぜんぎょうほうべん
 我らが無上の信心を
 発起ほっきせしめたまひけり
(お釈迦様と阿弥陀様は、慈しみ深い父母と同じです。私ども一切の苦しみ悩む人々が救われていく道は「南無阿弥陀仏を称える者は必ず救う」との阿弥陀如来の誓いを信ずる他にはありません。その誓いを信ずることは私どもの力ではできないので、如来様はいろいろな方法を尽くし信ずる心を与えようとしてくださるのです。)

 「ようこそ私を捨ててくださった」「ようこそ私を拾ってくださった」と人生に何の恨みを抱くことなく、深い母の愛を信じて疑わなかった玄峰老師の姿は、何とひかり輝いていらっしゃることでしょう。
 
 悟りの世界、信心の世界とは、このような心境を開いていくことです。
 
 最近、私はふと夜中に「お父さん、お母さん、南無阿弥陀仏」「お父さん、お母さん、南無阿弥陀仏」と称えている自分に気づくことがあります。
 
 少年のころ、親戚のおじさんが「おとっつぁん、おっかさん、ナンマンダブ」と何度も何度も称えるあの時の声と、私の声とが同じ響きを持っていることにハッと気づかされるのです。(終)

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