大洞 龍明塾長

シルクロードに鳩摩羅什の足跡を訪ねて(第25期スクーリング議事録)

2013年4月19日 仏教文化162号

第一部 鳩摩羅什三蔵法師について

一、日本仏教とクマラジュウ

 日本仏教における鳩摩羅什の影響は、多大なものがあります。中国から朝鮮半島へ仏教を伝えられたのが三七二年ごろで、百済より日本に仏教が伝来したのは五三八年といわれております。

 鳩摩羅什は、中国仏教界の定説では、三四四年に古代キジ国で生まれ、四一三年、七十歳のとき、長安、今の西安で命終しました。

 五七四年に誕生された聖徳太子は、五九三年に摂政になられた後、高句麗の高僧慧慈から仏教の講義を受けておられます。六〇〇年に第一回の遣隋使を遣わされ、太子は冠位十二階を制定された後、十七条憲法を定めて、仏法を中心理念とする国の形を示されたのが六〇四年で、六二二年に亡くなられました。

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 鳩摩羅什が長安へ入ったのは四〇一年ですが、彼が正式な大乗仏教の経典約三百巻を中国にもたらし、それが朝鮮半島に渡り、さらに日本に伝わって、三経義疏を聖徳太子が著わされたのは、六一一年から六一五年のころでした。

 日本の仏教界の経典は、鳩摩羅什が伝え、漢訳したもので、特に浄土系で大切にされている仏説阿弥陀経は鳩摩羅什が長安へ到着するや、早々に漢訳した経典で、玄奘が生まれる二百数十年前に鳩摩羅什が伝えたものです。

 鳩摩羅什が聖徳太子の国づくりの哲学や中心的な思想に非常に大きな影響を与えていることは明らかです。玄奘ではなく、鳩摩羅什の影響なのです。ところが、一般には、玄奘三蔵のほうが有名です。鳩摩羅什三蔵法師なんて、聞いたこともないとおっしゃる方もあるかもしれません。

 

二、 父はインド、母はアーリア系

 鳩摩羅什三蔵法師の父は鳩摩羅炎。インドの宰相の長男で、父の位を継ぐ前に出家して、修行の旅に出てしまいました。その噂を聞きつけたキジ国王の白純が国境まで出迎え、国師として王宮にとどまることを要請しました。母はジーダ。キジ国王白純の妹で、そのとき二十歳でした。彼女は賢く明敏で、美しさはたぐいまれで、鳩摩羅炎にひとめぼれしてしまいます。兄の王様に頼み、王命によって結婚して、鳩摩羅什が誕生したわけです。

 古代キジ国は、シルクロード天山南路の中央クチャに位置するオアシス国家の一つで、トハラ語、ギリシャ語系を話す白人種でした。

 鳩摩羅什の母ジーダは、七歳のわが子を沙弥となし、自らも出家得度して比丘尼となります。二十歳にならないと、正式な出家、僧侶とは認められなかったのです。ですから、沙弥といいます。やがて九歳になった鳩摩羅什を連れて、険難なパミール高原を越え、インドのカシミールに留学し、バンズダッタを師として説一切有部、いわゆる小乗仏教を極めさせます。

 留学して三年、キジ国への帰途に、カシミール山中の北山で一人の羅漢に会い、その羅漢が、「もし三十五歳までにこの子が破戒していなければ、アショカ王を教化した優婆掘多ウバクッタと同じように、仏教を興隆させるだろう」と予言をしました。

 その後、北山をあとにして、カシュガルまでたどり着きます。鳩摩羅什は、このカシュガルで、仏教以外の知識や、インドの四つのヴェーダに精通し、音楽、論理学、天文学、その他の学問を学びました。さらに、占いの術に精通して、吉凶を占います。

 

 三、大乗仏教との出遇い

 時にヤルカンド出身の王子スリヤソマが出家して、カシュガルで大乗仏教を伝えていました。彼が説く大乗の教えは、鳩摩羅什にとって過去の自分の全否定につながるため、大変な苦悩がありました。いわゆるという、ものには実体があるんだ、があるんだというような形の説を説く説一切有部に対して、大乗の立場からすべては、である、心に有物的な実体があるわけじゃないというふうに説くわけですから、彼が説く大乗の教えは、鳩摩羅什にとって過去の自分の全否定につながるため、大変な苦悩がありました。

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 スリヤソマは、一切皆空の大乗仏教の教えを説き、大乗仏教に理があるということを、鳩摩羅什はそのとき悟ったわけです。そのときの、鳩摩羅什の言葉が、慧皎の梁の『高僧伝』にあります。「吾昔小乗を學べるは、人の金を識らずして鍮石を以って妙と為すが如し。」金の輝きを知らないで、銅の輝きが一番美しいと思っていたのと一緒だというわけです。銅の輝きというのは小乗仏教のこと、金の輝きは大乗仏教の輝きのことを指しています。

 約一年間のカシュガル滞在の後、アクスに至り、外道から対論を挑まれますが、難なく論破して、鳩摩羅什の名はまたたく間に東トルキスタン諸国や中国にまで広がることになります。

 キジ国では、鳩摩羅什を歓迎して、各地で法会、対論が催されました。なかでも白純王の王女アカツヤマティが仏法を尊び尼僧となっていましたが、鳩摩羅什を招いて大法要を設け、諸法皆空なる大乗の教えを説いてもらいます。そして、いろんな人が鳩摩羅什の説く大乗仏教になびき、オアシス国家の諸王族たちも、こぞって法会に参列をしました。

 鳩摩羅什は、二十歳になってヒマラシャから十誦律を受けて、正式な僧侶になります。戒律を受けて僧侶になる、そういう儀式があったのです。

 そのころ、母ジーダは、鳩摩羅什が立派な僧に育ったことを見極めて、みずからの修行を深めるためにインドに渡ることを決心しました。「大乗仏教を中国に伝えてほしい、中国に大乗仏教を伝えるのは、鳩摩羅什、あなたをおいてほかには誰もいません。ただし、これはあなた自身にとっては、何の利にもならないでしょう。あなたはどうしますか」と聞きます。そうすると、鳩摩羅什が次のように答えます。「大乗の菩薩道は、わが身を犠牲にしてでも人々に利するということをはかる、そういう道であります。もし中国へ渡って、人々を教化して、心に悟りを得しめることがあるということになれば、私の身はぼうぼうと燃える囲炉裏の火の上にかけられた鍋の上で焼かれるような、そういうような苦しみを得ることがあったとしても、決して後悔することはありません」と。

 

四、前秦王・苻堅 キジ国を攻める

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 当時、中国は五胡十六国の時代。五つの異民族が、十六の国を建てていました。そして、争っていたのですが、苻堅という王が、前秦という統一国家をつくります。苻堅は、名僧道安のすすめによって、遥か西域のキジ国に住する鳩摩羅什を長安に招こうとしました。それで、使者を送ります。ところが、キジ国の白純王がその求めを拒否したため、苻堅王は呂光将軍に七万の兵を与えて、キジ国を征服するよう命じました。呂光はついに白純王を殺し、キジ国を征服して、鳩摩羅什を捕虜とします。鳩摩羅什があまりにみんなから尊敬されて、りりしく威厳があるものですから、なんとか自分の下におとしめてやろうと、いろいろ画策しました。そして、破戒させようと、白純王の王女を妻にさせようとしますが、鳩摩羅什はこれを拒んで、かたくなに受けません。そこで、呂光は鳩摩羅什にお酒をいっぱい飲ませ、王女と一つの部屋に入れて出られないようにし、何日も、鳩摩羅什と王女を密閉し、鳩摩羅什をとうとう破戒させました。

162-4-1.JPG武威 クマラジュウ寺 舌舎尊師十三重の塔

 鳩摩羅什を捕虜にしたばかりか、古代キジ国の財宝のほとんどを取り上げた呂光は、鳩摩羅什を連れて得意満面に長安へ凱旋しようとしました。呂光が、河西回廊のちょうど真ん中辺にある武威というところに来たときに、呂光の主君である苻堅王がクーデターで殺されたということを知ります。そのままだと自分も殺されてしまう。七万の兵隊を持ち、キジ国からうばった財宝を持っておりました。そこの姑蔵城という城を攻めて、それを奪い取って、後涼国という国を建てて、国王になったわけです。鳩摩羅什は姑蔵城で呂光とその子孫の王に仕えて、十七年間幽閉されることになります。苻堅が亡くなったら、苻堅の命令によって鳩摩羅什を捕虜にして連れてこいといわれたわけですから、もう殺してもいいのです。ところが、鳩摩羅什は占術や、兵法にもたけていたので、重宝してその知識を利用したということです。

 河西回廊の姑蔵は、現在の武威市にあたります。姑蔵城に十七年間幽閉されていたわけです。幽閉はされていたけれども、比較的自由だったので、仏教をいろんな人に伝えていました。

 五、後秦王・姚興 国師として迎える

162-4-2.jpg草堂寺 クマラジュウ舎利塔

 四〇一年、後秦国の姚興王は姚碩徳ヨウセキトク将軍に六万の兵を与えて、呂光の後継である呂隆王の後涼国を討たしめ、これによってようやく鳩摩羅什は長安の都に国師として迎えられることになりました。

 長安に着いて、そこで大乗仏教の経典、論文等の翻訳をし、二千人とも三千人ともいわれる弟子たちに講義をして、仏教の真髄を伝えたわけです。

 生まれ故郷の古代キジ国というのは、その後も仏教が繁栄していました。ところが、九世紀ごろに、モンゴル高原に起こったウイグル族が、次第にタクラマカン砂漠の周辺国を征服してゆき、古代キジ国もウイグル民によって滅ぼされてしまいました。滅びたために、仏教遺跡も破壊されてしまいます。そのために仏教を伝えた鳩摩羅什のことも、ほとんど忘れられてしまいました。完全にイスラム化されてしまって、生まれ故郷に鳩摩羅什をしのぶものがありません。それで、私はこれではいけない。日本を始め東アジアに大きな影響を与えた鳩摩羅什誕生の地クチャになんとか鳩摩羅什記念館をつくりたいと思いました。

 鳩摩羅什が、長安へ入ってから、廬山の慧遠という高僧と、経典や大乗仏教の真意に関しての質疑応答を往復書簡で交わしていますが、その書簡の中の慧遠の書簡によりますと、鳩摩羅什は晩年、「古代キジ国(現クチャ)へ帰りたい」ということを洩らしていたと書いてあることを発見しました。 

六、キジ国への帰国を願う

 私は、鳩摩羅什没後千六百年にあたる二〇一三年に、鳩摩羅什記念館を鳩摩羅什の生まれ故郷であるクチャのキジル千仏洞の前に建設することを進めてまいりました。何度もの交渉の結果、ようやく難航した中国北京政府からの認可がおりました。鳩摩羅什が生まれ、故郷のキジ国へ帰りたかったという思いをかなえてさしあげたいという願いが、ようやく叶うことになりました。

 草堂寺というのは、西安にある鳩摩羅什の遺骨をまつったところです。草堂寺にある舎利塔と同じ形の舎利塔をクチャにも作り、草堂寺の舎利塔の土と武威の鳩摩羅什の舌を埋めたという土とをもらってきてその舎利塔に納めることで、鳩摩羅什を帰国させてあげたい--鳩摩羅什が、晩年「故郷へ帰りたい」といっていた願いを、そういう形で実現させてあげたいと思ったわけです。

 皆さん、どうですか。羅什の想いを実現してさしあげたいと思いませんか? 

 また、去年の夏には、私はベルリンの民族学博物館へ行ってきました。そこには、古代キジ国のキジル千仏洞から持ち出した石窟の絵画などがいっぱいあるのですが、そのベルリン博物館から、資料の提供を惜しまないという約束もいただいておりますので、ドイツと中国を結ぶ架け橋にもなろうかと思うのです。

 次に第二部として皆さんが将来、僧侶資格を取り、一般の人々に説教をされる機があることと思いますので、一つの法話を例として紹介させて頂きます。

 


第二部 一般者向けの法話の実例
 
一、 琴線にふれる歌

 いつの時代でも日本人の心の琴線きんせんに触れてくる歌があります。たとえば森進一さんの「おふくろさん」は昭和四十六年に大ヒットをして人々に今でも歌いつがれています。

 おふくろさんよ
 おふくろさん
 空をみあげりゃ空にある

という歌ですね。

二、死に給いゆくわが母よ

  明治大正昭和と生きた歌人に斎藤茂吉さいとうもきちという人がいます。

 この人は山形県の出身で、農家の三男坊として生まれました。後に今の東大の前身帝国大学の医学部へ進み、お医者さんになられると同時に、歌人としてもアララギ派の有名なお方です。

 その人が生まれ故郷で母が危篤きとくだという知らせを東京で聞いて、上野から夜行列車に飛び乗り、生きている母に会いたいと、夜行列車に乗っているときの心情を次のようにあらわしています。

 みちのくの
 母のいのちをひと目見む
 ひと目見むとぞただに急げる
 
 その茂吉の強い願いがかない、短い時間でしたが母を看病かんびょうでき、添い寝して、次の歌をみました。

 死に近き
 母に添ひ寝のしんしんと
 遠田とほたかわず 天に聞こゆる

 我が母よ 
 死に給ひゆくわが母よ
 を生みし たらひし母よ
 
 時代はさかのぼって西行法師さいぎょうほうしの歌に、こういうのがあります。

 山鳥やまどり
 ほろほろと鳴く声きけば
 父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ

 西行法師さいぎょうほうしは平安末期から鎌倉初期に活躍した武人であり、ご僧侶であり、歌人でした。現代近代を問わず、父母への心情は同じものがあります。

三、わが母に勝る母 あらめやも

 大正から昭和にかけて、活躍された東本願寺系の高僧に明烏敏あけがらすはや師という人がいます。この方がどこかでお話をされるということになると、その近くの人たちだけではなく、遠い遠いところからもわざわざ足を運んで聞きに来る人が沢山ありました。私の高校時代の恩師の一人で、徳川家おかかえの狩野派の絵師の末裔で狩野真一先生という方がおられました。その方は以前、NHKのアナウンサーをされていた方ですが、『今まで色んな人にあって、別に驚くようなこともなかったが、明烏敏あけがらすはやというお坊さんだけは体は小さいんだけれど、傍によると体が震えてきて、恐れ多い感じがした、たった一人の人物でした。』とおっしゃっていました。その明烏敏あけがらすはや師の残された短歌の中に

 十億の人に
 十億の母あれど、
 わが母に勝る母あらめやも

という歌があります。私達みなにとって、地球上に、私がお母さんと呼べる人ははたった一人しかいないのですし、かけがえのない大切な人ですね。

 十億の人に
 十億の母あれど、
 わが母に勝る母あらめやも

四、自分を捨てた母でも ありがたい

 臨済宗妙心寺の名僧 山本玄峰げんぽう老師は、九十八歳で亡くなる直前まで『母』という揮毫きごうを人にあたえておられました。その老師は、赤ちゃんの時、お寺の山門の傍らに捨て子にされ、その後寺に引き取られたのです。「捨て子にされた母のことをどうして書にされるのですか?」との問いに「それでも母は有り難いのです」と涙を浮かべて書にされておられました。

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 親鸞しんらん聖人は幼くして母を亡くしますが、九歳の春に

 明日ありと思う心の仇桜あだざくら
 夜半よわに嵐の吹かぬものかわ

と歌って、京都青蓮しょうれい院で剃髪し出家得度しゅっけとくどされました。


五、おとっつあん、おっかさん

 私には想い出があります。

 私が中学の頃、ある時父のお遣いで親戚の家に参りました。岐阜市から竹鼻線という電車に乗って今の羽島市に着き、そこから暫く歩いて長良川東岸を超え、渡し船に乗って西側に着きました。西岸の堤防を超えて間もなくのところに大きな屋敷があり、犬が二~三頭吠えかかって恐い想いをした記憶があります。そこの主人というのは、村会議員をやっていて、元は土木建築で財をなした人でした。見るからにコワくて、イカメシくて、親しみをもてない人で六十才くらいじゃなかったかと思います。

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 私は用事を終えて着いたその晩はそこへ泊まることになり、その村会議員の隣の部屋で寝ていましたら、となりの部屋から
「おとっつあん、おっかさん、ナムアミダブツ。」「おとっつあん、おっかさん、ナムアミダブツ。」と夜中に何度も何度も唱える声が聞こえてきました。

 そんなコワイ人が、夜中にそんな風にとなえている声を聞いて、その人への想いがガラリと変わったのを覚えています。

 

六、母の里帰り

 私の母は函館出身で、大正時代の初め頃、父が本願寺の函館はこだて別院に声明僧として勤めておりました時に、見そめて結婚をし、岐阜のお寺まで一緒に連れてきました。母は実家が遠かったので、なかなか函館への里帰りはできませんでした。私が小学校へあがる前の年、昭和十七年の夏、数えで六才になる時に、「これだけ戦争が激しくなってくると、もう帰れないかもしれない」からと、数え年六才になる私を連れて岐阜から北陸線を経由し、青函せいかん連絡船に乗り、函館への里帰りを果たしました。

 それ以来十五年の月日が流れて、私が大学三年の時に函館の実家から「祖母の八十八才(米寿)のお祝いと祖父の法事をするから一度帰ってくるように」と連絡がありました。その頃、私の父は病気でせりがちでしたから、母が遠い実家へ行く許可をなかなか出しませんでした。大学の夏休みに私が自宅へ帰ると、母は「なんとかして一度函館へ帰りたいわ」と涙を浮かべて申しますので、私は一策を案じました。

 

七、都の春も惜しけれど

 ちょうどその頃、私は京都で能楽のうがくを習っておりました。能楽の中に「熊野(ユヤ)」という能楽があります。

 それはこういう物語です。

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-時は平家の全盛期。平宗盛たいらのむねもりには愛妾あいしょう熊野ゆやがいましたが、その母の病が重くなったとの手紙が届きました。弱気な母の手紙を読み、熊野ゆやはふるさとの遠江国とおとうみのくに(現在の静岡県 大井川西部)に帰らせて欲しいと宗盛に願いました。けれども、宗盛はせめてこの年の桜は熊野ゆやと共に見たい、またそれで熊野ゆやを元気づけようと考えます。(「この春ばかりの花見の友と思ひ留め置きて候」) 熊野ゆやの心は母を思い鬱々うつうつとしながらも、道行きに見る春の京の姿に目を楽しませます。やがて牛車は清水寺に着きました。花見の宴会が始まり、一方熊野ゆやは観音堂で祈りを捧げます。やがて熊野ゆやは呼び出され、自分の女主人としての役割を思い出しました。宗盛に勧められ花見の一座を楽しませようと、心ならずも熊野ゆやは桜の頃の清水をたたえながら舞(中ノ舞)を舞いますが、折悪しく一陣の風が吹き村雨むらさめが降って桜の花を散らしました。それを見た熊野ゆやは、

 いかにせん都の春も惜しけれど、
 馴れし東の花や散るらん

(京の都の春が桜の花と共に散っていくのも惜しいけれど、私を産み育ててくれた遠江国とおとうみのくにの母の命が終わろうとしている。どうしたらいいでしょうか。)

という意味の歌を詠みました。平宗盛もこれには感じ入り、その場で帰国することを許しました。熊野ゆやは観世音の功徳と感謝し、宗盛の心が変わらない内にとすぐさまふるさとを目指して出立しました。
-これが、謡曲ようきょく熊野ゆや」の内容でした。私は父の枕元にすわり、「熊野ゆや」という謡曲ようきょくを一曲うたい終えました。すると父は「熊野ゆや」の物語をよくわかっていて「わかった。おふくろさんを函館へ帰らせてもいい」と言ったのです。

 母は青森まで日本海沿いの列車に乗り、青函連絡船に乗りついで函館の実家へと里帰りしました。祖父の法事を勤め終えたその三日後に、祖母が庭先で転んで寝込んでしまいました。ちょうど母だけが看病していた時に「しんどい。しんどい。」と言うので抱き起こしてあげた時、母の腕の中で息を引き取ったのでした。

 母は祖母に亡くなられてガックリして弱っているという知らせが岐阜へ来ました。それで、私が母を迎えるために函館へ着いた時母はげっそりとやせておりました。 

 たわむれに 
 母を背負いてそのあまり
 軽ろきに泣きて 三歩歩めず

 その時私は、石川啄木たくぼくのこの歌を想い出しました。石川啄木は岩手県出身の詩人で、曹洞宗の住職を父に持ち、四人姉弟の唯一の男の子として、母から溺愛できあいされていたようです。有名な詩人ですので、この歌を覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

 

八、人生の幸せとは

 また私が小学五年の時に母についてひとつの想い出があります。

 体調が悪くて学校を休み臥せっていましたが、どういう理由からかまたどういう衝動からか、針仕事をしている母に、人間は何のために生きているのか、人間の幸せって何なのか、そんな意味のことを訊きました。縫い物の手をちょっと止めると母はこんな返事をしました。
「人間にはねえ、死ぬるということがあるのが幸せなのよ」

 思いもしない言葉でした。死という言葉に私はたじろいだのでしょうし、またそれにどういう言葉を返したらよいかも知らず、ただ、母の次の言葉を待ちました。母はわずかに顔をあげると眼鏡ごしに私を見やり、微笑をたたえた顔を一、二度うなずく様子で静かに振り、また黙々と針の手を動かしはじめました。

 この母は、八十六歳で亡くなる前に次の親鸞しんらん聖人がお作りになられたご和讃わさんを何度も口ずさみ
「このご和讃は本当に有難いおうたです」と申されました。

 十方微塵世界じっぽうみじんせかい
 念仏ねんぶつ衆生しゅじょうをみそなはし
 摂取せっしゅしてすてざれば
 阿弥陀あみだとなづけたてまつる
 恒沙塵数ごうじゃじんじゅ如来にょらい
 万行まんぎょう少善しょうぜんきらひつつ
 名号不思議みょうごうふしぎ信心しんじん
 ひとしくひとえにすすめしむ

 このご和讃を「本当にありがたいおうたです」といつも母は重ねて申しておりました。

 私共一切の生きとしいけるもの、罪深いものが、救われる道は、大無量寿経の阿弥陀如来さまの四十八願の中に明らかにされています。特にその中でも第十八番目の願は念仏往生の願と名づけられます。その内容は「ナムアミダブツを称えよ。ナムアミダブツを称える者はどんな悪人でもどんな罪人でもそのまま救う」という誓願です。普通救われるということは、いいことをするとか、苦しんでいる人を助けるとか、困っている人に施しをするとか、自分が楽しむべきことを抑えて他の人を楽しませていくとかいうような、良き行いをする者が救われるといわれます。ところが「ナムアミダブツを称えよ。ナムアミダブツを称える者はどんな悪人でもどんな罪人でもそのまま救う」との教えは悪人も善人もなんの隔てもなく、そのまま救ってくださるのです。悪人が良いことをしたら救ってくださるとか、罪人が罪滅ぼしをしたら救ってくださるとかそいういうような条件を一切おっしゃらないのが阿弥陀如来さまです。ただ 「ナムアミダブツを称えよ。ナムアミダブツを称える者はどんな悪人でもどんな罪人でもそのまま救う」と誓っていらっしゃるのです。

 私の母はこのご和讃を晩年口ずさんで、「このご和讃は本当に有難いおうたです。」と申しておりましたが、善人も悪人も罪人も何の分け隔て無くそのまま救ってくださるという摂取不捨の如来さまの大慈悲の心の中に護られて生きていたのだと思います。
 昭和五十九年に母が八十六歳で亡くなりました。亡くなる三日前、私は母の部屋に自分のふとんを運び入れ、母の寝床に並べて、一夜、添い寝をしました。下のものを取り換えるたびに母の苦労をしのび自らの不孝を詫びました。 

九、お父さん、お母さん ナムアミダブツ

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 人生には実に色々なことがありまます。九死に一生を得て私共は生きているのですが、最近ふと私は夜中に「お父さん、お母さん、ナムアミダブツ。」「お父さん、お母さん、ナムアミダブツ」と無意識に何度もとなえている自分に気づくことがあります。そして少年の頃、親戚の家のコワくてイカメシイ村会議員のおじさんが夜中に私の部屋の隣で、「おとっつあん、おっかさん、ナムアミダブツ。」「おとっつあん、おっかさん、ナムアミダブツ。」と夜中に何度も何度も唱えたおじさんの声と、私の声とが同じ響きを持っていることにハッとすることがあるのです。(終)

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