竹村牧男先生

大乗仏教の心(第31期開講記念講演)

2018年10月10日 仏教文化193号

はじめに

 皆さん、こんにちは。このたび仏道への志を深く覚悟された皆さまに、心から敬意を表します。私自身は在家でありまして、特定の教団に関わっている者ではありません。仏教学を専攻し、唯識という思想を研究したり、また『大乗起信論』とか華厳思想などを自分なりに勉強したりしてきました。東洋大学には二〇〇二年に参りまして、日本仏教を中心に講義をしてきました。皆さんと同じように、宗派にとらわれることなく仏教の心、仏教の目指すもの、そういうものを追求して参りたいと思っている者でございます。


 
一、仏教の歴史の概要

 今日は「大乗仏教の心」という題名でお話をさせていただきます。まず、一口に仏教と言っても多彩な仏教がございます。日本だけをとっても天台、真言、あるいは浄土、禅、日蓮、さらには奈良時代の南都六宗等と様々な宗派があるわけです。釈尊以来二千年以上の歴史を経て各地域に伝播して発展しておりますので、色々な仏教があるわけです。

 その全体を概観したときに、まず釈尊自身の仏教というものを考えなければなりません。釈尊が語った教えをそのまま記録した文献は、なかなか無いと思います。一番それに近いだろうと推定されるのは、『スッタニパータ』というパーリ語の文献です。そういう釈尊自身、あるいは釈尊の直弟子あたりの仏教というものが一つ考えられます。

 釈尊が亡くなられて百年ぐらい経つと、社会情勢も変わってきます。したがって、釈尊が制定した戒律が時代に合わなくなる面も出てきます。例えば、釈尊は金銀で布施を受け取ってはならないと言われていた。しかし貨幣経済が発達してくると、当然そういうものが布施されることにもなってくるわけです。ですから、戒律を時代に合わせて運用していくか、いや釈尊が制定した戒律なのだから厳格に守るべきか、論争が起きるのですね。

 結局、仏滅百年ごろに教団が大きく二つに分かれていきます。それまでは各地のサンガが一つの教団という意識の下に運営されていたのですが、ここで大きく二つに分裂した。これを根本分裂と言いまして、上座部と大衆部に分かれるわけです。上座部というのは長老たちの仏教という意味で保守的ですね。大衆部のほうがどちらかというと革新派です。

 いったん分裂が起きますと、教義の解釈とか色々な要素からさらに細かく分裂していきます。今日伝わっている文献の中では根本分裂と、その後の分裂(枝末分裂)を合わせて、大体二十ぐらいの部派ができたと言われております。それら各部派で行われた仏教を、部派仏教と言います。

 釈尊の死後、お弟子さんたちが釈尊の言葉を詳しく分析して、論理的に整理していく作業が続いていきました。そこでは、アビダルマの営みがなされていきます。アビダルマというのは諸法の分析という意味です。人間の心も含めまして、世界のさまざまな要素が詳しく分析されているわけです。そういう学問的な仏教が各部派において展開されていきます。

 釈尊は三八三年に亡くなられましたから、その時から四百年ぐらい経った西暦紀元前後、それぞれの部派で行われていた仏教はあまりにも学問的すぎる、もっとみずみずしい宗教性をたたえた仏教というものがあってよいのではないかと主張する動きが出てきます。民衆のその要求のもとに、大乗仏教が興きてくるのです。

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興福寺五重塔

 当初は、『般若経』とか『華厳経』とか、そうした経典を作って宣布していく。そういう形で大乗仏教運動というものが起きてくるわけです。その運動を展開した人々は、それまでの伝統的な仏教は劣った教義の仏教だ、小乗だ、私たちのは偉大な教義の仏教だ、大乗だと主張し、大乗と小乗という言葉を用いていくことになりました。

 その後、特に初期の大乗経典は文学的な作品のような形ですので、そこに盛られている思想、哲学を整理していく動きが出てきます。その一番初めが龍樹です。龍樹は、『中論頌』を作られたと言われています。一方で、四~五世紀になるわけですが、弥勒・無著・世親により唯識思想が大成されます。世界はただ識のみ、私たちが見たり聞いたりしているものは外界に実在するものに基づくのではなくて、映像を見ているのに過ぎない、常住不変の実体としての存在は世界のどこにも無い。そういう哲学を展開していったわけです。と同時に、また新たな経典も作られていくことになります。

 仏教経典というものは、すべて釈尊が説いたものとなっているのですが、釈尊が亡くなって四百年ぐらいたって始まった大乗仏教の経典が、歴史上に現れた釈尊が説いたものとはなかなか言いがたいですね。したがって、大乗非仏説論争みたいなものも起きてくるわけです。ただ、釈尊が説こうとしたことの根本にあるものを汲み出していくと、大乗仏教につながっていくということは、十分、言えるであろうと思います。

 七世紀ごろになりますと、大乗仏教の理想、特に他者の救済という目標を汲みつつも、大乗仏教の修行の仕方ではなかなか仏にはなれないが、そんなに時間をかけずとも仏になることができるということを掲げた密教がでてきます。

 このようなインドの仏教が中国に伝わりますと、中国の中でまた新たな仏教が創られてきます。『法華経』を基に智顗が独創的な教義を作り、天台宗ができます。あるいは『華厳経』を基に華厳宗ができます。そして、それらが日本に入ってくるわけですね。さらに日本では、同じ浄土教でも、中国の曇鸞・道綽・善導の流れを汲んで、法然、親鸞、あるいは一遍が日本独特の浄土教を展開していく。あるいは日蓮は天台教学を基に独自の教義を展開していく。そういう形で、日本では非常にバラエティーに富んだ、多彩な仏教が存在し、それぞれ活動しているということになるわけです。

 ですから、ある問題、課題について、仏教全体として答えるということはなかなか難しいです。ある程度、大乗仏教共通の考え方というのもあるかもしれません。しかし大体、この宗派のこういう考え方に基づけばこうなると、そういうような仕方でしか回答できないのが実情でしょう。


 
二、大乗仏教興起の事情

 いったい大乗仏教はどのように興きてきたのでしょうか。大乗仏教が起きてきた事情の解明に関して、元東大教授の平川彰先生が仏塔を護持する在家の団体があり、そこから大乗仏教が産まれてきたのだと主張されました。今日では、やはり部派の中から出てきたのではないかという意見も出てきております。未だにどういう形で大乗仏教が起きてきたのか、学界で決着はついていないと思います。

 大乗仏教には確かに高度な思想が盛り込まれていますから、教理的な研究を深く行った人たちも関与していたに違いないと思いますが、と同時に在家的要素も否定できません。その一つは戒律という問題です。初期の大乗仏教では十善戒が盛んに説かれていました。十善戒とは「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不悪口、不両舌、不綺語、不貪欲、不瞋恚、不邪見」というものです。不邪淫というのは、よこしまな男女関係を持たないということですね。しかし本来、出家であれば、そもそも男女関係は持ってはいけない、不淫戒なのです。このことからすれば、大乗仏教においては在家的なあり方の仏道というものが決して否定されていなかった、と言えるのではないでしょうか。

 それから『般若経』には、般若経を供養すること、花や香を供えたり、傘や幡を立てたり、あるいは伎楽を上演したりと、そういう形で経典を供養することが盛んに推奨されています。本来の戒律からすると、そういうことは出家者には認められていなかったので、これも出家の者から出てきたとは言い難いということになります。

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真剣に聴講する塾生
 さらに、仏教文学運動が盛んに大乗仏教の教えの中に流れ込んでいます。文学というものに携わるお坊さんもいたとして、彼らは教団の中では周辺にいたことでしょう。あるいは、教団の外で旅をしながら仏の教えを語るというような語り部たち、旅芸人ですね。そういう人々の中で作られていく物語が大乗教典の中に入り込んでいますので、どうも単なる出家教団の中だけから出てきたものではないのではないかと想定されるわけです。

 文学運動と大乗仏教の関係ですが、例えば皆さんご存知のいろは歌、これは弘法大師空海が作ったと言われていますね。この元は『涅槃経』の「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」という偈です。この諸行無常云々ということは、釈尊の過去世物語に由来するものなのです。釈尊が昔、修行しているときに、ある詩の前半だけ聞いて、「すばらしい詩だなあ。ぜひ後半も聞きたい」と思った。このとき、おなかのすいた鬼が「後半を聞きたかったら何か食べ物をくれ」と言ってきます。そこで釈尊は、後半を聞いたら私の身をささげるからといって、その後半の詩を聞いてのち、崖から飛び降りて自分の身体を鬼にあげた、という話があるのです。釈尊が昔々そういう修行を何回も積み重ねてきたので、二千年も前、インドに現れたときに、その一生で仏になれたのだというわけです。

 そういう、釈尊に関する文学的な作品の一つに「燃燈仏授記物語」というものがあります。これは本当に、大乗仏教のブッダ観の核になるものを明かしているのではないかと思われます。

 その内容ですが、昔、スメーダというバラモンの青年がいた。この青年が両親を亡くして、人間はいったい何のために生きるのかと、大きな疑問にぶち当たりました。それで、ヒマラヤの山中に入って修行をしていきます。自らの生老病死という問題を深く究明するために修行しました。修行をしている最中に、麓の方で何かにぎやかに騒いでいるのが伝わってくるのですね。ある仏様がそこにやってくるので、お迎えするために準備をしていたのです。それが伝わってきまして、スメーダ青年はその準備の中に加わることにします。準備していた人々は、スメーダ青年に「今ぬかるんでいる道を直してください」と頼みます。一所懸命、道を直すのですが、仏様がやってくるのに間に合わなかった。そこでスメーダ青年は、ぬかるんでいる道に体を投げ出して、仏様が汚れないように自分の上を渡っていただこうとしました。

 仏様がスメーダ青年の背中の上を渡られていく、そのときにスメーダ青年ははっと気づきました。それは、自分一人が修行して何か力を得ても、それに一体どういう意味があるだろうか。みんなが幸せにならなければ、自分が一人幸せになっても意味がない。そのことに、仏様と出会って気がついたというわけです。そこで、スメーダ青年は、自分が仏になったときには、苦しんでいる一切の衆生を救済できるようにと誓願を立てて、仏道修行をあらためて始めることになったというのです。

 ちなみに、修行する最初に立てる願を本願と言います。修行の根本に立てる願を本願というのです。誰でも、大乗仏教の道を行こうと覚悟を決めた人は、みんな菩薩です。菩薩というのは、観音様とか弥勒菩薩とか、文殊とか普賢とか、そんな方ばかりではなくて、大乗仏教の道を歩もうと決意した者がすでに菩薩なのです。修行に入る根本に、修行を完成したらどういうことを実現するか、その誓願を立てるわけです。それがその人その人の本願ということになります。それと同時に共通の願もあります。四弘誓願ですね。「衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成」。これはみんなに共通の願です。  

 その誓願を立てたスメーダ青年を見て、やってこられた仏様が「この青年ははるか未来に必ずやゴータマブッダというブッダになるであろう」と予言し、そのことを保証した。これを「授記」と言います。この仏様は、スメーダ青年の心に灯火をともした仏であるということで、燃燈仏と呼ばれます。こういう仏教文学がありまして、この骨子は阿弥陀仏のお話とほとんど共通ではないかと思うのです。

 阿弥陀仏は、もと国王であった時に、たまたま世に現れた世自在王仏という仏に出会って、自分も世自在王仏のように、苦しんでいる人々を自由自在に救済できるような者になりたいと思って、世自在王仏の下で修行していこうとします。仏になったらどういうことを実現しようかと五劫の間、計り知れない時間、考え抜いて四十八願を立てて、兆載永劫の修行をしてそれを完成した。この阿弥陀仏のお話そのものが一種の文学というか、神話といったものですよね。このように、文学的な色彩が非常に強いという意味でも、大乗仏教には在家的な要素が多分にあると言えるのではないかと思われるわけです。


 
三、大乗経典の概要

 以上が大乗仏教の基本的な特徴なのですが、すでにその初期に、今日までも伝わっている有名な経典がいくつか作られていきます。代表的な初期の経典としては、『般若経』、『華厳経』、『法華経』、それから『無量寿経』などがあります。

 『般若経』は、一切は空だということを説く経典です。皆さんご存知のように、『般若心経』というお経がありまして、「色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是」、とあります。さらに、すべてが空だから実体的存在としての十二処・十八界等々は一切存在しない。だから、執着すべきものは何一つない。対象に執着することを離れたときに、対象に振り回されないで生き生きと活動できる。そういうことを説いています。

 それから『華厳経』という経典があります。釈尊が菩提樹の下で悟りを開かれた光景を描いています。実は釈尊がそのまま教主である毘盧遮那仏(六十巻本には盧舎那仏とあり、東大寺では盧舎那仏と呼ぶ)でもあるというのです。

 と同時に、悟りの世界は説けないとして、「因分可説、果分不可説」の立場に立ちます。果というのは仏果、修行をした結果としての仏の世界、これは説けない。しかし、そこに至る道筋、因分の修行の道筋は説けるといいます。『華厳経』の大半は、そういう菩薩としての修行の道筋を描いています。信を成就するということ、それから十住・十行・十回向というような段階の修行、さらに十地、そして仏になる、そういう菩薩行の道筋が読めるような形になっております。

 それから後半は「入法界品」と言って、善財童子という少年が五十三人の善知識を訪ねて聞法して、その一生の間に修行を完成するという物語が説かれています。

 この他、空の思想というものが随所に説かれていますし、心は上手な絵描きのように世界を描くというような唯心思想、後でお話ししますが如来蔵思想も説かれています。そして、この机の中には宇宙の一切が入り込んでいる、この机は宇宙の一切に浸透しているというような、一入一切・一切入一、一即一切・一切即一といった重々無尽の縁起思想が説かれたりしています。

 それから『法華経』があります。聖徳太子が「三経義疏」を書いたと言われていて、最近の学者ではそれを否定する方もいますが、その三経というのは、『勝鬘経』と『維摩経』と『法華経』ですね。その後、最澄が比叡山を開かれ、天台宗を創始したということもあり、日本では『法華経』が非常に浸透しています。

 今日流布している『法華経』は二十八品(二十八章)あり、前半を迹門、後半を本門と呼びます。前半は歴史上の釈尊が説法しているような形になっています。後半は久遠実成の釈迦牟尼仏が登場します。遙か昔に実に成仏を果たして、それ以来、ひとときも休まずに衆生救済のために活動している仏がいるというのです。その久遠実成の仏が姿・形を取って現れたのが歴史上の釈尊であるという。これが本門と迹門の意味ですね。

 『法華経』の主題のもう一つは一乗思想です。今、小乗仏教で修行をしている人も、やがては大乗仏教に入ってきて、みんな仏になっていくのだというのです。『涅槃経』には「一切衆生悉有仏性」という言葉がありますが、それと同じことですね。これが一乗思想です。唯識では三乗思想をとります。人間はみんな生まれつき声聞にしかなれない人、縁覚にしかなれない人、菩薩になれる人と分かれている。だから教えも分かれているのだ。これが三乗思想です。それを超えるのが一乗思想。最澄は法相宗の徳一と激烈な論争をしましたが、それは一乗か三乗かの論争でした。

 また、『法華経』を広めていくことが菩薩の使命ですよということが盛んに『法華経』に説かれています。『法華経』に説かれているメッセージ、その意味を伝えていく。そのことを菩薩として励んで行ってくださいというのが、『法華経』のもう一つのテーマということになります。

 それから、一般に浄土教は「浄土三部経」に基づくと言われます。『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』です。中でも中心は『無量寿経』です。

 『無量寿経』には、阿弥陀仏はもと国王であり、世自在王仏に出会って、四十八願を立てて、そして修行したという物語が説かれております。もう既に仏になって、西方極楽浄土にいらっしゃるということは、本願に誓われたことはすべて成就しますよというメッセージにもなるわけです。四十八願があるわけですが、第十八願に、「至心に信楽して、わが国に生れんと欲して、乃至十念せん」、十回でも念仏したら極楽浄土に引き取りますよと、そういうことになっております。法然が偏依善導、ひとえに善導に依って浄土教の極意をつかんで、そして易行としての専修念仏を始められた。それがさらに展開して日本の浄土教というものが形成されているということになります。


 
四、大乗経典の真意

 このほか、大乗仏教の経典としては『維摩経』、『勝鬘経』、『涅槃経』、『楞伽経』など様々な経典がありますが、特に初期の経典に共通しているのは、「仏様は大悲の存在であり、一心に私たちを救済しようと思って活動されている」ということ、そのことを伝えるというのが、大乗仏教の根本的なメッセージではないかと私は思っております。以下、その辺をいくつか見てみたいと思います。

●『無量寿経』
 『無量寿経』の阿弥陀様がそういう方であるということは、すぐ想像がつくだろうと思います。最初に「その時、世尊、諸根悦予し」とありますが、諸根というのは眼耳鼻舌身、身体ですね。身体が生き生きとしていて、「姿色清浄にして、光顔巍巍とましませり。」光り輝いていた。「如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したもう」。三界というのは、私たち迷っている衆生が輪廻している世界のすべて、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上です。天上は神々ですが、神々の世界もまだ本当の意味で問題を解決したとは言えない状況にある。仏様が無限の大悲をもって迷っている人々を哀れんでいる。だから世に現れて、「道教」つまり道の教え、真理に関する教えを明らかにして、「群萌を拯い恵むに」、多くの衆生を救い恵むに、「真実の利をもってせんと欲す」。ただ経済的に豊かになればよいとか、長寿になればよいというのではなくて、真実の利益を与えることによって多くの人々を救っていく。その人その人の根本的な問題を解決していくということです。

 世自在王仏の下で国王であった者が出家して法蔵菩薩と名告って、そして五劫という計り知れない時間、自分が仏になったときにはどういうことを実現しようかと考えぬいた。そうして立てた四十八願の中の第十八願には「たとい我、仏となるを得んとき、十方の衆生、至心に信楽してわが国に生れんと欲して、乃至十念せん。もし生れずんば正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗するものをば除かん」とあります。その十念の念が、中国、日本の浄土教の中では口称の念仏と理解されてきたわけです。十回でも念仏して極楽浄土に生まれることができなければ、自分の修行がまだまだ足りないから仏になるのはやめておこう。もっともっと修行して善根を積もう。それが「正覚を取らじ」です。

 ただし「五逆と正法を誹謗する者を除かん」とあるのですが、五逆というのは重大な罪を犯した者です。正法を誹謗する者は、ここでは『無量寿経』の教えを謗る者です。除くとあるのは、そういうことをしないようにと抑止するためなのであって、決して除くわけではないという理解になっていますね。

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早朝のガンジス川 ヴァーラーナシーにて
 そのほか色々願があるのですが、とにかく第十八願が一番根本になります。一方、『無量寿経』の下巻の冒頭に次のようなことが書かれています。「十方恒沙のもろもろの仏如来」。恒沙というのは、ガンジス川の砂の数ほどたくさんのという意味ですね。「皆ともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃歎したもう」。諸仏が阿弥陀仏はすばらしい仏様ですよ、頼りになりますよと讃えてくれるというのです。これは実は第十七願に法蔵菩薩自身が、そのことが成就するように誓ったことなのです。あらゆる衆生は、諸仏が阿弥陀仏をたたえているそのみ名を聞いて、「信心歓喜しないし一念せん。至心に廻向してかの国に生まれんと願わば、即ち往生することをえて不退転(の位)に住すればなり」云々とありまして、こちらでは十念ではなくて一念になっているのです。それで、一回でも念仏したらという理解が出てきまして、法然さんのお弟子さんの中では多念義と一念義の争いとかが現われていくわけなのです。

 基本的に、念仏によって救われるというのが浄土教ですが、逆に言えば、阿弥陀仏はそういう、誰もがたやすくできるようなことを用意して人々を救済します。もし学問を深く積んだら極楽に引き取ろうとか、お寺や寺院を建てたら極楽に引き取ろうとか、そういう誓願だったらみんな救われませんね。称名念仏だったら誰もができる。それを阿弥陀様の側から用意してくださった。これが選択本願念仏です。われわれが十回でも念仏したら、一回でも念仏したら救い取るという本願を阿弥陀様自らが選択してくださった。法然さんの言われる「選択本願」の意味はそこにあります。

 このように、簡略な念仏行もしくは信心という易行等によって、必ず私たち衆生を救い取る存在がいることが、『無量寿経』には神話的な形で表現されているわけです。

●『華厳経』
 でも、このことは浄土教だけではありません。さまざまな経典でそれと同じようなことが説かれております。例えば『華厳経』「性起品」には、次のように書かれています。

 「仏子よ、如来の智慧、無相の智慧、無礙の智慧は具足して衆生の身中にあり。」仏さまの智慧がそっくり迷っている人々の存在の中にある。「ただ愚癡の衆生は顛倒想の覆いによって、知らず、見ず、信心を生ぜず。」自分の中に仏さまの智慧そのものがあるということが分かっていない。「そのとき如来、無障礙清淨の天眼をもって、一切衆生を観察す。観じ終わって、かくの如きの言を成せり。『奇なるかな、奇なるかな、いかんが如来具足の智慧の身中に在りて、しかも知見せざる。』」仏さまの智慧がそっくりその人の中にあるのに、どうして気がつかないのだろう。

 「我れまさに彼の衆生して聖道を覚悟せしめ」。この道という語は、ボーディ(悟り)の漢訳語として用いられます。聖道というのは悟りの智慧です。それを覚悟せしめ、「ことごとく永に(完全に)妄想顛倒の垢縛を離れしめ、つぶさに如来の智慧のその身内に在るを見せしめ、仏と異なることなからしめん」。みんな仏そのものなのだから、私から働きかけて仏にならせよう。「如来は即時にかの衆生をして、八聖道を修せしめ、虚妄顛倒を捨離せしめ、顛倒を離れおわるに如来智をそなえしめ、如来と等しくならしめて、衆生を饒益せん」。私たちは、自分で自分を開くことができない。けれども如来の側から私たちに働きかけて、私たちに何とかして本来の命を実現させようと、一心に働きかけてくださっているのだ、というメッセージです。

 ここの箇所は、いわゆる如来蔵思想の淵源といわれております。衆生の身中にこの如来の智慧があるということで如来蔵なのですが、しかし如来蔵思想というのは迷っている衆生の中に仏性があるよというだけではなく、それに自分で気づけないでいる衆生、その衆生に対して仏さまが働きかけるという仏の大悲、この二つのことを含んでいるのです。

●『如来蔵経』
 この如来蔵思想を中心に説く経典として、『如来蔵経』というのが出来てきます。それには九つの比喩でそのあり方が描かれているのですが、いずれも趣旨は同じことです。ここでは一例だけ掲げておきましょう。「固い皮殻に包まれた穀物」、私たちの大切な食物である穀物は、固い外皮に覆われており、そのままでは食べられませんね。その外殻を取り除いてこそ、食用に供せます。そのように如来はわれわれの煩悩の皮殻を取り除いて、なかにある如来の本質を取り出し用に立つようにしてくれます。こちら側に因があるのだけれども、その因を自ら開発することはできない。まさに如来の側から開発してくださるという。そのことをこの『如来蔵経』は、九つの比喩でもって語っているわけです。

●『法華経』
 日本では日蓮宗と浄土真宗とは、水と油のようにずいぶん違うものだと思われがちです。しかし『法華経』そのものに遡ってみますと、先ほどの『無量寿経』の内容と変わらないようなことが説かれているのです。

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『法華経』や『阿弥陀経』を翻訳した鳩摩羅什三蔵の眠る草堂寺
 『法華経』の「譬喩品」には、「三車一車の譬え」があります。長者の家が火事になってしまい、その中に長者の子どもたちが遊びほうけています。外にいた父親の長者が、火事で危ないから外に逃げるようにと呼びかけるのですが、遊びに夢中になっている子どもたちは一向に逃げ出しません。そこで、父親は一計を案じて、羊の引く車・鹿の引く車・牛のひく車が門の外にあるから、それで遊んだらどうかと呼びかけますと、子どもたちは即座に一斉に外へ出てきます。ところが出てきたところ、その三つの車がありません。そこで父親に「さっき門の外にあると言っていた車をください」というと、父親は堂々たる白い牛が引く豪華な牛車をみんなに等しくあげた、という物語です。これは三乗で導いて、最終的にすべての人を法華一乗の教えに至らしめることを表しているわけです。

 その「譬喩品」の中に、次のようなことが説かれています。「舎利仏よ、如来もまたまたかくの如し。則ち一切世間の父となり、諸々の怖畏・衰悩・憂患・無明・暗蔽を永く尽して余すことなく」。これは仏の側ですね。「悉く無量の知見・力・無所畏を成就し、大神力および智慧力を有し、方便智慧波羅蜜を具足し、大慈大悲ありて、常に懈倦なく(怠ることなく、飽きることなく)恒に善事を求めて一切を利益するなり。」善事というのは衆生救済の働きです。仏さまはそういう方なのだというのです。

 「しかして、三界の朽ち故りたる火宅に生ずるは、衆生の生・老・病・死・憂・悲・苦・悩・愚痴・暗蔽・三毒の火を度し、教化して阿耨多羅三藐三菩提を得せしめんがためなり」。仏様がわざわざこの世に現れていらっしゃるのは、多くの苦悩に苦しんでいる衆生を救って、阿耨多羅三藐三菩提(この上なく、正しい、完全な覚り)を得させるためなのです。

 「諸々の衆生を見るに、生・老・病・死・憂・悲・苦・悩のために、焼煮せられ、また、五欲財利をもっての故に、種々の苦を受く。また、貪着し追求するをもっての故に、現には衆の苦を受け、後には地獄・畜生・餓鬼の苦を受く。若し天上に生れ、及び人間に在れば、貧窮困苦、哀別離苦、怨憎会苦、かくの如き等の種々の諸の苦あり。衆生はその中に没在して、歓喜し遊戯して覚えず、知らず、驚かず、怖れず、また厭うことを生さず、解脱を求めず、この三界の火宅において、東西に馳走して大苦に遭うと雖も、もって患となさざるなり。」これはまさしく私たちの姿そのものです。本当は苦しみの中にあるのに、その苦しみのことが自覚できないで遊びほうけている。「その中に没在して」と、どっぷり浸かって遊びほうけている。本当はどこから来て、どこへ行くかも分からない。自己という命の根本も何も知らないままさまよい、酔生夢死するのみに過ぎない。そういう意味では本当の苦しみを味わっているはずですが、それを煩いとしない。人々は自分で自分の苦しみや悩みを解き放つことができないでいるわけです。

 「仏はこれを見已りて、便ちこの念を作せり、われは衆生の父なれば、応にその苦難を抜き、無量無辺の仏の智慧の楽を与え、それに遊戯せしむべし」。自分で自分を解き放つことができない衆生であるからこそ、仏の側から働きかけて、その人の本来の命を実現させていこうと。これが『法華経』の説く仏です。

 先ほど、久遠実成の釈迦牟尼仏は、久遠のはるか昔に成道して、ひとときも休まずに衆生済度のために働いているということを申しましたが、それは「如来寿量品」の次の句に基づいてのことです。

 「諸々の衆生には種々の性、種々の欲、種々の行、種々の憶想・分別あるをもっての故に、諸々の善根生ぜしめんと欲して、若干の因縁・譬喩・言辞をもって、種々に法を説きて、作すべき所の仏事を未だ曾て暫くも廃せざるなり」。仏事すなわち衆生救済の働きを、実に久遠の昔以来「暫くも廃せざる」のです。

 「われは成仏してより已来、甚大久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常に住して滅せざるなり」。常に私たちに働きかけている根源的な仏というような存在が、実はいらっしゃるのだと。そういうメッセージが『法華経』に説かれているのです。


 
まとめ

 その他、『勝鬘経』の中にも無限の大悲、常住の大悲の仏というものが説かれておりますし、密教でも今までお話ししてきたこととあまり変わらないようなことが出てきます。空海の『秘蔵宝鑰』という書物では、最後の「第十住心」に秘密荘厳心として密教の世界を描いています。そこには、「『菩提心論』にいわく、一切衆生は本有の薩埵なれども(仏の智慧なり仏性なりを本来持っている衆生であるけれども)」、貪瞋癡の煩悩のために縛られているので、それに気づかないでいる。だから、「諸仏の大悲、善巧智をもって(巧みな智慧でもって)この甚深秘密瑜伽を説いて、修行者をして内心の中において日月輪を観ぜしむ」。衆生に働きかけて、密教独自の行法を教えて、救済の道へ導くのだということです。

 こうしたところを見ますと、大乗仏教の一番根本には、「私たちは自分で自分を開くことはなかなかできないが、仏様はひとときも休まずに働きかけてくださっている。その仏の常住の大悲に出会う道が大乗仏教の道である」と、こう言えるのではないかと思うのです。

 源信の『往生要集』には、次の言葉が出てきます。「かの一々の光明 遍く十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てず。我もまたかの摂取の中に有り。煩悩、眼を障えて見ることあたわずといえども、大悲、倦きことなくして、常にわが身を照らしたもう。」仏さまの大悲は常にこの私を照らしてくださっていますよと。そういう言葉が『往生要集』に出てきまして、これは親鸞さんも非常にお好きな言葉でした。

 以上、ご紹介してきましたように、自分では気づかないけど、自分を超える仏の世界から常に働きかけを受けている自分である、ということを訴えているのが、大乗仏教の心ではないかと思うのです。(終)

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