竹村牧男先生

大乗仏教の基本を学ぶ(第32期開講記念講演)

2019年10月10日 仏教文化199号

一、はじめに

 皆さん、こんにちは。

 東京国際仏教塾に入塾された皆さま、入塾おめでとうございます。仏道を歩んでいくのだという覚悟を定められたことに、深い尊敬の念を持つ次第でございます。ぜひ頑張っていただきたいと思います。

 本日は第三十二期開講記念講演ということで、初歩的な話ですけれども、「大乗仏教の基本を学ぶ」というテーマで、お話しさせていただきます。


 
二、仏教の歴史の概要

 聖徳太子以来の日本の仏教は、中国あるいは朝鮮半島を通じて入ってきた、いわゆる北伝仏教というもので、これは大乗仏教ですね。最近は上座部仏教というものも少し入ってきておりますが、日本の伝統的な仏教は、どの宗派も大乗仏教と言って間違いありません。今日は、その大乗仏教の基本的なところについて、お聞きいただけたらと思います。

 初めに、そもそも仏教というのは、おおよそ原始仏教、部派仏教、大乗仏教、密教の四つに分かれるというかたちになります。最初は、釈尊自身の仏教、あるいは釈尊の直弟子あたりの仏教ですね。この文献としてはなかなか難しいものがあります。一応、漢訳では『阿含経』、パーリ仏教では『ニカーヤ』と呼ばれるものに残されていると言われているわけですが、それらはかなり後世の人の手が加わって編集されたものであり、『阿含経』といえども、釈尊が説法されたものそのままかというと、相当問題もあるでしょう。

 釈尊の説法そのものに一番近いであろうと思われるのは、『スッタニパータ』です。これは、元東京大学の印度哲学科教授で、文化勲章を受章された中村元先生の日本語訳が、岩波文庫で『ブッダのことば』として出版されております。これは私も大変好きな本でありまして、例えば四諦八正道十二因縁とかと数的に整理される以前の、もっと生き生きとした、相手に応じた、素朴な教えが説かれているものです。その釈尊自身の仏教を原始仏教、あるいは根本仏教と呼びます。

 釈尊自身の仏教と言っても、その文献は後世の人の手が入っていますから、初期仏教と呼ぶべきだと主張される学者、例えば三枝充悳先生などもいらっしゃいますが、一般的には原始仏教と呼んでよろしいでしょう。

 釈尊が亡くなりますと、お弟子さんたちは一つの仏教教団という意識のもとに、それぞれの地域ごとに具体的なサンガ、修行者の共同体を結成して修行していきました。釈尊が亡くなったのは、日本の学界では紀元前三百八十三年と言われておりますが、それからおおよそ百年ぐらい経ちますと、社会の情勢が変わってきます。貨幣経済とまではいかないまでも、金何匁と物を交換するとか、銀何匁と交換するとか、そういうような経済が発達してくるわけです。ところが釈尊は、お布施に金銀は貰ってはいけないと戒しめられていました。そういう釈尊の戒律等が、仏滅後、百年も経った頃の、ある程度、変化した社会の情勢と合わなくなってくる。それでどうするかということが、仏教教団の中で問題になってくるわけです。そこで長老たちが議論を重ねまして、結局、裁定が下りまして、釈尊が決められたことは守るべきだということになります。

 そのときに分かれたのが大衆部と言います。そして残った方が、長老派である上座部です。ここで教団が大きく二つに分裂するわけです。上座部は保守派、大衆部は革新派といえると思います。こうして、釈尊が亡くなってから百年ぐらいして、根本分裂が起きました。いったん教団が分かれますと、その後は人脈とか教義の解釈の違いとか、さらに細分化されていきます。その後、西暦紀元ぐらいまででしょうか、二十ぐらいの部派ができたと、『異部宗輪論』という書物などで伝えられています。この、それぞれの部派の中では、釈尊が残された言葉を学問的にいろいろと細かく分析したり、体系的に教義を作ったりとか、そういう作業がなされたわけですが、その時代の仏教を部派仏教と呼びます。


 
三、大乗仏教興起の事情

 部派仏教というのは、出家者中心の比較的学問的かつ高踏的な仏教でした。それに対して、われわれ民衆の宗教的な救いを実現してくれるような仏教はないのだろうかと、当然そういう欲求が出てくるわけですね。それに応えたのが大乗仏教であると考えてよろしいかと思います。大乗仏教は、それまでの伝統的な仏教は「劣った教義の仏教」であるという意味で小乗仏教と呼び、それに対し自分たちは「偉大な教義の仏教」であるという意味で、大乗仏教と名乗ったわけです。

 いわゆる小乗仏教というか部派仏教の人たち自身が、自分たちを小乗仏教と呼んだわけではありません。ですから今日、例えば仏教徒の国際会議でいろいろな国の仏教者が集まるときに、小乗仏教などという言葉を使ったら大変なことになってしまいます。東南アジアの仏教に対してはテーラバーダ、上座部仏教という言い方をするわけです。

 大乗仏教としては、初め経典が作られます。初期の経典として、『般若経』、『法華経』、『華厳経』、『無量寿経』などの経典が作られ、それらが大乗仏教運動の担い手によって宣布されたのでした。これが大体、西暦の紀元前後に現れてきた。つまり釈尊が亡くなってから四百年ぐらい経って現れてきたということです。

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  法相教学の忠心、興福寺の南円堂
 大乗仏教の経典は「如是我聞」、このように私は釈尊から聞きましたという形式になっておりますが、当然、大乗仏教の経典を歴史上の釈尊が説いたとは考えらません。そこで大乗非仏説ということが、すでに大乗仏教が現れた時代から言われていたことです。しかし釈尊が実際に説いたものではないでしょうが、釈尊の真意、本当の意図したところを汲み取って表わしているということはできますし、あるいは修行者が禅定に入って、そこで釈尊から直接に聞いたのだと、こういうような解釈をする場合もあります。いろいろ解釈はあり得るでしょうが、大乗仏教はどこまでも釈尊を尊重して、そして釈尊の教えはこれだ、本当はこういうことなのだということを訴えていったわけです。

 いったん経典ができますと、そこに盛られている思想を理論的に整理していくという作業が出てくるわけでして、その最初が龍樹です。紀元百五十~二百五十年ぐらいの間の頃、『中論頌』を著わします。『中論』の詩の部分ですね。これは主語を立てて述語をすると、つまり言語活動においては、事実そのもの、リアリティそのものから遊離してしまう。言葉の世界でいろいろ考えていると、実際の真実そのものから離れてしまう。そういうことをいろいろな文章を分析し、その問題点、矛盾を指摘する中で解明していくのです。そして戯論寂滅の真理を示していくのです。

 一方で、弥勒、無著、世親が唯識思想を大成していきます。世界はただ認識のみだというのです。われわれは外界に物があると思っているわけですが、それも心に描かれた映像の組み合わせにすぎないという哲学ですね。ですからどこにも実体はない、永遠不滅の常住の本体ある存在というものはどこにもないのだと説く。それを、ただ識のみという言い方で明かしていくのです。

 何と言っても世親という人が有名ですが、その実のお兄さんが無著です。さらに、その無著は弥勒菩薩に唯識の教えを受けて、それを人々に語ったのだという伝承になっています。宇井伯寿先生は合理的な解釈をして、ここでの弥勒というのは無著の先輩方をまとめてそれに託したのだと理解しました。実際は、無著、世親が、その唯識思想を組織化していく、その教理を体系化していくということになります。

 唯識の宗旨を奉じているお寺として、奈良の薬師寺と興福寺があり、その宗派を法相宗と言います。玄奘三蔵がインドから中国に経論を持ち帰ってきて翻訳して、法相宗ができました。それが日本に伝わって、興福寺と薬師寺が唯識の道場の中心になります。興福寺には、国宝の無著・世親像があります。

 無著は『摂大乗論』という大乗の教えをまとめた書物を造っております。これは大乗仏教の特色を、阿頼耶識とか三性説とか六波羅蜜とか十地とか、無住処涅槃とか、十の特質でまとめたものです。大乗仏教の綱要書は、そんなにはありません。有名なものとして、『大乗起信論』があります。『大乗起信論』はまとまっていて深いものですが、しかしどこでできたかよく分からない。最近はやっぱり中国だろうという話になっているのではないかと思います。それに対して、『摂大乗論』は出自がはっきりしているものです。

 無著の弟の世親にもいくつか著作がありますが、何と言っても有名なのが『唯識三十頌』です。わずか三十の詩の中に、唯識のありとあらゆる教理を盛り込みまとめたもので、それに対する詳しい注釈が『成唯識論』です。玄奘の訳で、これが興福寺とか薬師寺の根本聖典となっています。

 こうして、大乗仏教の思想的な流れとしては、龍樹の中観派、それから無著・世親の唯識、これは瑜伽行派、その二つの流派が成立して、発達していきます。

 七世紀頃になりますと、密教というものが出現してきます。密教は、大乗仏教の理想を受け継ぎながら、大乗仏教のような修行方法ではなかなかこの修行を完成するのは難しい、われわれの修行方法には極めて優れたものがあると主張しました。例えば即身成仏、この世のうちに仏になるという独自の行法を中心にしながら、大乗仏教の思想的なものも含めて訴えていったのです。

 仏教はそういうわけで、大きく分けますと原始仏教、部派仏教、大乗仏教、密教に区分されます。その中、日本の仏教は大乗仏教で、あと密教ももちろん入っているわけです。


 
四、大乗仏教の在家主義的性格

 大乗仏教の特徴ですが、私は大乗仏教というものは、当初、出家在家の区別がなかったと思います。部派仏教は明らかに出家仏教であります。大変煩瑣な戒律を守って、サンガの中で修行をしていく。在家の者は五戒を受けるぐらいですが、時にお坊さんの説法を聞いたり悩みを打ち明けたりとかいうこともあったかもしれません。それに対して大乗仏教では、一人一人が修行をして仏になっていく。それは出家者に限らないのですね。どんな人でも大乗仏教の教えに則って、それなりの修行をしていけば仏になれる。そういう考え方が根本にあるのだろうと思われます。そういう意味では在家主義的な要素が多分にあります。

 その一つの証拠として『十地経』という経典があります。これは『華厳経』の十地品にも入っているものです。この『十地経』は、十の段階の修行を説くものですが、最初の六つの段階の修行は、主に六波羅蜜に相当しています。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧。あとの四つの段階は、方便波羅蜜、願波羅蜜、力波羅蜜、智波羅蜜が説かれ、これらの十波羅蜜をその十の段階に対応させています。

 したがって、十地の第二地は、持戒、戒律に対応します。では、そこで説かれている戒律はどういうものかといいますと、十善戒と言われるものです。「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不悪口、不両舌、不綺語、不貪欲、不瞋恚、不邪見」です。不殺生、不偸盗、不邪淫は身体の行為に関する戒め。不妄語、不悪口、不両舌、不綺語は言語活動、言葉に関する戒め。不貪欲、不瞋恚、不邪見は心に関する戒めです。仏教は行為というものを身語意すなわち身体と言葉と心、この三方面から分析していくわけです。身口意という場合もありますが、玄奘以降、新訳では身語意と言っていますが、そういう三方面で、それぞれがしてはならないものが書かれているわけです。

 この中、不殺生、不偸盗、不邪淫は解りやすいでしょう。不妄語とは嘘をつかないということ。不悪口というのは、悪口を言うことではなくて、粗暴な言葉遣いのことです。あるいは、今日でいうとハラスメントになるような言葉遣いです。両舌は、現代語では二枚舌と言うと嘘をつくことのようになりますが、嘘のことではなくて、仲良くしている人たちの間を引き離すような言葉を言います。AさんとBさんが仲良くしているときに、Aさんに対して、Bさんは実はこんなこと言っていますよとあらぬことを言う。そしてBさんとこへ行って、Aさんがこんなことを言っていましたよと、あらぬことを言う。そしてAさんとBさんの仲を裂くと、そういう言葉遣いはしてはいけませんよというのが、不両舌であります。この両舌のことは、間を離す言葉、離間語とも言います。

 不綺語の綺語というのは、飾り立てた言葉です。おべんちゃらを言うとかです。先輩にお前こういう悪いことをしたろ、と指摘されても、いえそんなことありませんと、ああでもないこうでもないと言って、その先輩を丸め込んでしまう。そういうのが綺語です。そういうことをしてはいけない。さらに、むさぼらない、怒らない、正しい認識をする。これが十善戒です。 さてここに、不邪淫というのが入っていますが、出家のお坊さんだったら不淫戒、男女の交わりをまったくしてはいけないということになるわけです。ところが、不邪淫ということですから、邪な男女関係は持ってはいけないということであって、正当な結婚をしていれば、それはそれで別に構いませんよということです。とすれば、この十善戒というのは、在家の人をも想定している、対象としていると言えるわけです。しかも、この十善戒は、初期の大乗経典に共通して説かれているものでして、そのことは平川彰先生が詳しく明らかにされております。このことから言っても、大乗仏教の一つの特色として、在家主義ということがあると思います。

 大乗仏教の在家主義的な側面に関して、もう一つ申し上げますと、大乗仏教には非常に仏教文学あるいは仏伝文学といったものが流れ込んでいるということがあります。『法華経』とか『無量寿経』とかは思想的な哲学書というより、ほとんど文学書であり物語で構成されていますね。経典そのものに、仏教文学の影響を多分に見ることができるわけです。

 仏伝文学というものの中に、例えば『燃灯仏授記物語』があります。昔、スメーダという名のバラモンの青年がいました。スメーダ青年は、あるとき両親を亡くしてしまいます。このとき亡くなった両親は、死後の世界に財産を持っていくこともできなかった。一体何のために人間は生きるのかと、このことが大きな問題になりました。そこで修行者になって、この問題を究明したいということになります。

 スメーダ青年が山の中で修行していると、何かふもとの町の方で賑わっている雰囲気が伝わってきたのですね。それは、ある仏さまがやってくるというので、そのお迎えの準備をしているという状況なのでした。大変賑わっていて気になるので、ふもとに下りて、自分も一緒になって仏さまを迎えたいと、その準備に参加します。町の人は、そのスメーダ青年に、それではお前さんは、このぬかるんでいる道を直してくれと言います。言われたとおり、スメーダ青年は道を直すのですが、結局、仏さまが来られるのに間に合わなかった。どうしようということで、スメーダ青年は身体を道に投げ出した。修行者ですから髪の毛もボーボーに生えていたわけですが、それもぬかるみの中に広げて、その上を仏さまに渡っていただいた。

 スメーダ青年は、仏さまが自分の背中の上を渡られているのを感じながら、そのとき、ハッと気付くことがあった。それは、自分一人が修行をして力を得ても、一体それに何の意味があるだろうと。みんなが幸せにならなければ、自分一人が幸せになったって意味がないと。このことに気が付いたというのです。宮沢賢治みたいですね。みんなのために修行するのだということに気が付いた。

 そこでスメーダ青年は誓願を立てます。修行に入る初めに立てる誓願を本願と言うわけですが、本願というのは本当の願という意味ではなくて、修行のもとに立てる願。本初、初めに立てる願という意味です。そして修行をしていくということになります。その誓願を立てたスメーダ青年の体の上を渡った仏さまは、この青年は遥か未来に必ずやゴータマ・ブッダというブッダになるであろうと予言し、かつそれを保証しました。この予言し保証する行為を、記別を授けるということで「授記」と言います。その仏さまは、スメーダ青年の心に灯を灯した仏であるということから、燃灯仏、ディーパンカラ・ブッダと言うわけです。

 こういう話は、一種、釈尊の過去世物語ということですが、釈尊はいかに仏と成ったかを解き明かす仏伝文学という一つのジャンルのものです。例えば『無量寿経』、一介の国王、マハラジャの一人であった者が、世自在王仏を見て、自分も世自在王仏のように、人々を自在に救済するような、そういう仏になりたいと思って、世自在王仏の指導を受けながら、自分が修行を完成したときにはどういうことを実現すべきかを深く考えて、そうして四十八願を立てるわけです。阿弥陀仏がいかにして仏になったかの教説は、実際は物語ですよね、それと前の燃燈仏授記物語と、その骨子は非常に似ていますね。『無量寿経』は物語だからといって、その価値がないとは言えません。宗教的な意味合いとか、救いのありかとか、そういうものは、論理的な表現よりもむしろ文学的な表現とか、神話とか、あるいはシンボリックな表現とか、その方がより深く表現できるということもあり得るわけです。ですから、文学だから意味がないとは全然言えません。むしろ、本質を明らかにしてくれて、より深い感動を与えてくれる、そういう面もあるわけです。

 そのように文学運動でいろいろと説かれていたことが、大乗仏教にはかなり流れ込んでいます。

 さらに波羅蜜のこともあります。仏教一般では必ずしも六波羅蜜ではなくて、九波羅蜜とか四波羅蜜とか、いろいろな波羅蜜がありました。しかし仏伝文学の中で、釈尊が菩薩の時代に修行したのは六波羅蜜で、大乗仏教はこれを採用しているわけです。十地についても同様のことがあります。そういう意味で、文学の影響というものが、大乗仏教には非常に大きいです。

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サーンチー仏教遺跡の大ストゥーパ  
 そういう文学運動を展開した仏教者は、少なくともそれまでの伝統的な部派の中心部にいた人ではないだろうと思われます。大乗仏教がどこから出てきたかということは、いまだに学界で論争があるところです。仏教学の碩学で元東京大学印度哲学科教授であられた平川彰先生は、在家の仏塔教団、仏塔とはストゥーパですね、日本に来ると五重の塔になったりしますが、その仏塔に集う在家の教団の中から生まれたのだという説を出されました。

 それに対して批判がありまして、そんなわけがない、やっぱり部派の教団からから出てきたのだ。思想的にも教団論的にも、大衆部から出てきたのだろうと、そういうことを言われる人もいます。仮に部派から出たとしても、文学運動の影響というようなことを考えれば、部派の中心部から出たとはとうてい思えません。そうしますと大乗仏教は、非常に正統的な、オーソドックスな出家者の中から生まれたのではなくて、もちろん出家者も関わっているでしょう、非常に深い禅定修行をされた方なども関わりながら、出家在家を問わない、そういう意味では、在家主義的な仏教として主張されたと見ることができるのではないかと思うのです。それが大乗仏教の一つの特徴ではないかと思われます。



五、小乗仏教と大乗仏教の違いの根本

 それまでの部派仏教つまり小乗仏教と大乗仏教と、その考え方は何が違うのでしょうか。部派の中にもいろいろあるわけですが、小乗仏教と一口に言う場合は、大体、説一切有部という部派が代表になります。一切は有ると説く、とありますが、その真意は、諸法は過去・現在・未来の一切時に有るということを説く部派だということです。  その小乗仏教と大乗仏教を対比してみますと、まず小乗仏教は、釈尊の言葉を表面的な意味どおりに受け止めている。これは大乗仏教の方からの批判的な観点によるのかもしれませんが、そういう面があります。だから声聞と言うのだというわけです。それに対して大乗仏教の場合は、言葉の奥にある、より深い意味をくみ出す、そういう作業をしたのだということです。

 また、小乗仏教の場合は、いくら修行しても阿羅漢止まりです。預流(見道)・一来・不還(修道)・阿羅漢(無学道)とありますが、阿羅漢になって終わり。阿羅漢になるとは、業の結果としての身体や心の働きをすべて滅して、涅槃に入る、それで終わってしまうのです。寂静の世界で楽かもしれませんが、何の働きもない世界に入って終わりということです。それに対して大乗仏教は、みんな仏になれますよというのです。仏になるとはどういうことかと言いますと、智慧を完成することです。智慧とは、唯識的に言いますと、人間はそれぞれ八識、八つの識から成り立っている。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識、これは五感、五つの感覚です。そして意識もあります。ところが唯識は、意識の奥に第七末那識がある。これは寝ても覚めても自我に執着している、そういう心が、意識の奥で働いているというのです。われわれは気付かないですが、エゴイズムの根源みたいなのが常に働いているのだと、こういう分析をしています。

 それだけではなくて、その奥にさらにもう一つ、第八阿頼耶識がある。「阿頼耶」というのは蔵という意味です。貯蔵庫。過去一切の経験を貯蔵している心の世界が阿頼耶識です。過去一切と言うときに、仏教では生死輪廻を考えていますから、この世に生まれた以降の記憶だけではないですね。初めのない過去から生死輪廻し来たった、その一切の経験を貯蔵している心の世界を阿頼耶識というのです。

 こうして、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識、それから末那識、阿頼耶識と、八識を説きます。それが、修行していくことによって、それぞれ智慧に変わります。阿頼耶識は大円鏡智、末那識は平等性智、意識は妙観察智で、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五つの識、前五識は成所作智という智慧に変わると言います。その八識が四つの智慧となって、四智円明になったところが仏なのですが、その智慧が完成することによって他者の救済を自在にすることができるようになります。

 ですから、仏になるということは、自覚覚他円満あるいは自利利他円満の存在になるということです。涅槃に入ってそれでおしまいではなくて、むしろ永遠に他者を救済してやまない、そういう自己を実現することが、仏になるという意味です。

 大乗仏教というのは、一人一人がそうなっていくのだと、そのことを訴えるのですね。なぜ仏になれるのか。それは仏性というものをみんなが持っているからです。一切衆生悉有仏性。ありとあらゆる生きとし生けるものは、すべて仏性を持っている。この仏性というのは、本当は仏になる因という意味の言葉です。一切衆生悉有仏性とは、一切の衆生がことごとく仏性を持っているということ。この言葉は『涅槃経』の言葉です。

 小乗仏教の場合は、生死輪廻の苦しみからいかに逃れるか、そしていかに涅槃を実現するかだけが課題である。自分の問題さえ解決すればそれでよいと、自利のみしか求めません。それに対して大乗仏教の場合は、一切の人々を隔てなく、宗教的救済に導こうと努力し、利他行を重視するわけです。大乗仏教の場合、生死からも自由ですが、むしろ生死の世界に自由に入っていって衆生救済に励む。どうしてこのことができるかというと、一切空である、すべては実体があるわけではないということをよく了解していますから、どんなところにも自由自在に入っていけるのです。そして、他者を救済していく。このように小乗仏教と大乗仏教は決定的に違いがあるわけです。



六、教理の違いについて

 また教義についても根本的に違いまして、小乗仏教は我執だけを断つ。「我」の定義は常一主宰です。常住で不変、変わらないというのが一です。主宰は主と宰で意味が違うというのですが、あわせて主体となるものですね。常住で変わらずに主体であるもの、それがアートマンです。「我」です。人は、これに執着している。そして苦しんでいる。しかしそういう我はないと否定するのが、無我の思想です。そのつど自己が主体として働く、そのことがないわけではありません。しかし、永遠不滅の常住の、変わらない、しかも主体的な存在と考えられているもの、そういうものはないというのが、無我という教えなのです。

 私たちは無意識のうちに、生まれてから今に至るまで変わらない自分というものがあると思っているのではないでしょうか。変わらない自分。それは、永遠に変わらない自分と同じですね。けれども、そういう常住の本体としての自我はない。これは仏教の根本的な考え方です。

 それを説明するために、五蘊無我の教えがあります。「五蘊」というのは、色・受・想・行・識。最初の色は、身体です。受・想・行・識、これは心の働きをそれぞれ分けて説いています。仏教では一つの心があって、それがさまざまに作用するとは見ない。別々の心があって、それが組み合わさってわれわれの精神現象が成り立っているというのが、仏教の見方です。ですから受・想・行・識とは、身体と心の別々の要素が、過去世の業の結果、仮に和合しているのみであって、常住の本体の我はないというのが五蘊無我です。言い換えれば、我空法有ということになるわけです。

 五蘊は五つですが、仏教ではさらにこの世を構成している要素として、ダルマというものを分析していきました。説一切有部では五つの範疇で、七十五のダルマを分析しています。五根五鏡とかですね。心については、心王という心の中心になるものは一つで、それと一緒になって働く個々別々の心、それら心所有法をもたくさん分析しています。また、心とも物とも言えないものも分析したりして、最終的に七十五の世界の構成要素を分析しています。その世界の構成要素をダルマと呼ぶわけです。ダルマにはいろいろな意味がありますが、ここではそういう意味であり、それらの法を三世常住の実体として見ていまして、ゆえに我空法有の立場となります。

 ところが大乗仏教は、我執を断つだけではまだ不足があると見ます。われわれには物に対する執着もあるでしょう、ということなのですね。それで、物に対する執着である法執というものをも断っていくことになります。そのために、一切法空ということを説くわけです。『般若経』では、さかんに一切法空と説いています。『般若心経』にもそのように出てきます。無色無受想行識等と、五蘊等もないのだと言っている。それらも現象としてはあるが、実体はないと言うのです。ですから五蘊も皆空であり、アートマンもダルマもともに空であると、我法倶空という立場になってきます。

 小乗仏教では、我執を断つと涅槃を実現するのですが、大乗仏教の場合は法執をも断ちますから、智慧も実現します。その智慧、すなわち菩提は、成所作智・妙観察智・平等成智・大円鏡智の四つの智慧として表されています。智慧が実現することによって、生死の世界に自由自在に入れるということで、生死に住さないけれども涅槃にも住さない。小乗仏教の涅槃ではずっと楽を楽しんでいるのかもしれませんが、そこにも住さない。むしろ、涅槃から起って、生死の世界に入っていって自由自在に働いているただ中に涅槃を見る、こういう考え方なのですね。これを無住処涅槃と言います。

 大乗仏教では、涅槃は現象の本質、本性としての空性、シューニャターに、この涅槃を見ていくのです。そのシューニャターというのが、諸法の本性としての法性、ダルマターでもあります。それはまた、真如、タタターでもあります。これらはすべて同じものなのです。シューニャターもダルマターもタタターも、同じものを呼んでいます。そこに涅槃を見ています。ですから、われわれがどんなに無明煩悩を発揮して、物にしがみついたり執着したりしていたとしても、そのただ中は空そのものであり、そこに涅槃が実はありますよとも言うのです。これを自性涅槃と言います。たとえ無明煩悩に覆われていても、その真如そのものの世界があり、そこが自性涅槃である。この真如が、我執の障りを離れて、しかしまだ業の結果としての身心が残っているところが有余依涅槃、身心もすっかりなくなったところが無余依涅槃、我執の障りのみでなく法執の障りをもともに滅しつくして、真如そのものが円かになると同時に、智慧も実現してその涅槃にも滞ることなく、生死のただ中に自由自在に入っていって活動してやまない、そこに涅槃を見るというのが無住処涅槃ということになります。


 
七、修行の違いについて 

 このように小乗仏教と大乗仏教と、目標が違いますから、修行の組み立てもある程度異なるわけです。代表的な、小乗仏教の修行の概要ですが、初歩的な修行の段階としては、身器清浄があり、身心厭離・喜足少欲・四聖種を学んでいきます。それから、三賢の位、四善根の位、そして預流、一来、不還、阿羅漢と進んでいきます。三賢の位のまず初めに、五停心というのがありますが、この中にはいわゆる数息観とか、いろいろ基本的な観法をしたりするのです。こうして修行が完成すると阿羅漢となります。阿羅漢というのは、要するに灰身滅智して涅槃と一体化したということです。

 ところが大乗仏教の修行の場合は、一般的な修行の階梯として、十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚の五十二位という階梯が言われます。十住の最初の段階を初発心住と言います。初めて菩提心を起こした段階で、ここから本格的な修行が始まります。この菩提心を起こすには、信を深めなければならない、信を決定しなければなりません。その信を決定していく修行が、十信の位ということになります。皆さんが仏教塾に入塾されたということは、多分、十住の最初の階位にすでに上ったということではないかと思います。そして十行・十回向と修行していって、十地の入る最初の段階に、無分別智の悟りを開きます。無分別智が開けると、ただちに後得智という分析的な智慧も生まれます。

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  聞き漏さじと熱心にメモをとる
 無分別智が開かれて、いったん悟りを開きますが、それまで長い間、輪廻を通じて無明煩悩を起こしてきた、その名残が阿頼耶識の中に残されています。それらをさらに浄化していく、そういう修行をしていきます。それが十地の修行ということになります。

 大乗仏教では、初発心住、すなわち初めて菩提心を起こしてから、仏になるまで三大阿僧祇劫かかると言われているのですね。一大阿僧祇劫というのが一つの時間の単位で、それを三つ重ねたぐらいかけて修行して、初めて仏になることができるということです。ちなみに一大阿僧祇劫はどのぐらいの時間かといいますと、八百里立方の岩を、天女が着ているような柔らかな衣で、天の時間で三年に一度、撫でる。人間の時間だったら三百年に一度ぐらいでしょうか。そうして、その八百里立方の岩が磨滅する、それが一大阿僧祇劫だというのです。そのぐらい計り知れない長い時間、しかも、それを三つ重ねて、初めて仏になれるというのです。

 実は、十住の初発心住から十地の最初に無分別智を開くまでが、一大阿僧祇劫で、十地のそれからの修行の中、第七地までに一大阿僧祇劫かかります。その後、八地、九地、十地、仏になるまでが一大阿僧祇劫と、計三大阿僧祇劫かかることになります。十地の修行の方で、二大阿僧祇劫かかるのです。こういうことが、大乗仏教の基本、特に唯識思想においては言われております。これだけ長い時間かけて修行する仏教だから、どれだけ偉大かしれないという、そういう主張があるようです。

 しかし、いくらインド人でも、やっぱりそれは耐えられないという向きもあったようでありまして、『華厳経』では、「初発心時、便成正覚」、初めて菩提心を起こしたときに、すなわち正覚を成ず、初めて菩提心を起こしたら、もう仏そのものだと、そういう見方も出てくるわけです。

 菩提心を起こすには、信が決定する、信が成満するということが必要です。ですから、信が成満すればもう仏なのだと、信満成仏という考え方にもなるわけでありまして、日本の仏教の中にはそういう考え方が多分に流れております。

 五十二位の修行の階梯では、仏の一歩手前の位を等覚といいます。そして、妙覚つまり仏になっていく。別の見方では、十住、十行、十回向の間が資糧位。そして加行位というのは十回向の最後の段階で、集中的に唯識観というような観法を行って無分別智を開く。それが開かれたところは通達位(見道)です。その後の十地の修行が修習位(修道)、そして仏になったところが究竟位です。こんなふうに、五位の仕方でも整理されています。長い道のりですけれども、一歩一歩歩んでいるまさにそのただ中にも、仏の世界があると、そういうふうにも見ることができると思います。

 大乗仏教の修行の一番根本といいますか、基本として、六波羅蜜があります。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つです。それまでの仏教では戒・定・慧の三学とよく言われたわけですが、これに対し、布施は、相手に対する関係の中での修行ですね。それから忍辱にもそういう面があります。精進は努力していくこと。ですから、六波羅蜜は、社会性が加味された修行であるとも言えるわけです。この布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧について詳しく説明しているのが、唯識思想を大成したあの無着の『摂大乗論』という書物です。この『摂大乗論』では、この六波羅蜜を三つずつに分けて説明しております。

 まず「布施の三品」とは、法施・財施・無畏施の三つです。「法施」は教えを施すこと。この場合の法は、教えのことです。よい教えを聞いたら、人と分かち合う。「財施」はお金とか、物をお渡しする、恵むということです。そして「無畏施」は、無畏の心を施す。これはなかなか容易ではないですね。不安に陥っているような人々に、何とかその恐れを取り除いてあげることですが、なかなかできないことだと思います。ただそばにいてあげるだけでも、十分無畏施になるのではないでしょうか。

 布施というと、何かお寺にお金を包むことのように思われるかもしれませんが、そうではなくて、これらの布施は菩薩の修行の徳目です。大乗仏教へ行こうと覚悟した人はみんな菩薩です。観音さまとか文殊とか普賢とか、そういう高位の人が菩薩ではなくて、もう初発心住に入った、初めて菩提心を起こした、それ以後の人はみんな菩薩なのですね。それを凡夫の菩薩というふうに言います。皆さん方も、もはや菩薩様だと思います。その菩薩の修行の徳目としての布施であるわけです。われわれの日々の実践の中の徳目のことなのです。

 「戒律の三品」は、律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒です。「律儀戒」は「摂律儀戒」と言う場合もあり、これは悪を為さないことです。「摂善法戒」は積極的に善を行うこと。「饒益有情戒」は他者を利益することです。単純に悪をしないというのが戒なのではなくて、この三つすべて合わせたものが大乗仏教の戒であり、六波羅蜜の「持戒」なのです。

 「忍の三品」。初めに耐怨害忍。恨みある者が害してくるのに耐えるということ。大乗仏教が出た当時は、伝統的な仏教から、何だあれは、わけの分からないものだ、みたいなことを言われた。『法華経』を見ますと、そのようにさかんに言われたということが書かれています。いわれない誹謗中傷にもじっと耐えて、自分の信じるところを黙々と歩んでいくというのが、耐怨害忍です。二に安受苦忍。苦しみを安んじて受けるということで、暑い日でも寒い日でも怠らず修行に励むとか、苦しみにも耐えて修行するということです。三に諦察法忍というのは、無分別智とか、悟りを開くときに、それなりにいろいろ困難なことがあるのでしょうね。それに耐えるということ。これは真理を諦察する、明らかに見る、その場合の苦しみに耐えるというようなことです。

 「精進の三品」は、努力精進することですが、一に被甲精進というのは、鎧兜を着て努力すること。何かことを始めるときには、覚悟を定め、決意を定めて、武士が鎧を着て戦場に入っていくような、そういう心持ちで始めて、突き進んで行かなければいけないということです。二に加行精進というのは、軌道に乗ったらさらに努力していく。そして三に無怯弱無退転無喜足精進。これは、もうずっと奥に入っていくと、なかなか難しい面も出てくる。そのときに怯まないという無怯弱。それから、ちょっと難しくなってきたときに、もうやめようって言って諦めてしまうということをしないということ。退かない、退転しない。それから無喜足は、足るを喜ぶことはないということ。ある程度、成果が出てくる、けれどもそれに満足しないで、さらに奥へ奥へと進んでいくこと。これが精進です。

 「静慮の三品」とは、禅定のことですが、一に安住静慮。道元禅師も、坐禅は安楽の法門であると言われています。最初は足痛くて大変ですけれども、坐禅していると、だんだん心が統一されてきて、痛みも感じなくなって心地よい状況になってくる。二に引発静慮、これは神通力が現れてくるというのですね。どこか見えないところのものが見えるとか、他人の心が分かるとか。しかし、そういうものに捉われると大変なことになります。それから、三に成所作事静慮。これは禅定を深めることによって、例えば疫病の流行を止めるとか、天災とか地震を止めるとか、そういうことが可能になると書かれているのです。

 「智慧の三品」とは、一に無分別加行慧、無分別智を開くためのいろいろな修行。二に無分別慧、無分別智そのもの。根本無分別智。これが開けますと、三に無分別後得慧があって、無分別智に基づいた無私公平な、分析的な智慧が生まれることになります。

 このように、一口に六波羅蜜と言いましても、豊かな内容がありまして、私はこの中でもっとも重要なのは、やはり無畏施であると思います。こういうことがいかに可能であるか。六波羅蜜は基本の初歩の修行と言っても、なかなか難しいものがあるのではないかなと思います。それから精進ですね。ぜひ皆さんも、ちょっとくらいの成果に満足せずに、さらに奥を尋ねていってほしいと思います。


 
八、現代の大乗戒について

 これまで小乗仏教と大乗仏教の違いの基本についてお話しさせていただきましたが、先ほど六波羅蜜の中の持戒のところで、摂律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の三つの戒が挙がっていました。これを三聚浄戒と言います。これは『瑜伽論』等に説かれていまして、大乗仏教の戒は、ただ悪をなさないだけではなく、積極的に善もする。そして、利他に励む、このすべてが大乗仏教の戒であるわけです。

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大乗仏教と小乗仏教の違いとは?  
 そこで、在家の者でも実践できるような、簡略で、しかも大乗仏教に則った戒というものを、この三聚浄戒に沿って考えるとどういうことになるかを考えてみたいと思います。

 まず摂律儀戒として、釈尊以来の五戒もよいのですが、私としてはやはり初期大乗仏教の共通の戒であった「十善戒」というものを、もう一度、自覚したらどうかと考えます。それらについては、日々、無意識のうちにも実践されていると思いますが、改めて身語意の三方面に関して、一つの日常生活の基準として、これをなるべく守っていこうというとき、むしろ心が楽になる、そういうこともあるのではないでしょうか。

 次に摂善法戒は、大乗仏教の修行の一番基本である六波羅蜜を挙げればよいだろうと思います。そして饒益有情戒は、四無量心というものがありまして、どんな修行にも慈・悲・喜・捨の四つの無量の心を起こす、ということが説かれております。「慈」とは、マイトリーと言います。マイトリーという言葉は、ミトラ、友達と関係しているものです。ですから友情と言ってよいでしょう。術語的には、与楽、楽しみを与えることです。

 「悲」とはカルナー。相手が苦しければ自分も苦しいという、本当の同情、一体化。これは、抜苦、苦を抜くことです。「喜」とは、他者が苦を離れて楽を得たところを喜ぶ心。「捨」とは、仏教の中でいろいろな「捨」がありますが、ここでいう「捨」は、相手を選ばず平等無差別に、この人はいいけどこの人は相手にしないとか、そういうことなしに、どんな人に対しても平等に対処することで、これが「捨」です。

 この十善戒、六波羅蜜、四無量心、これだけでも心にとどめておけば、もう立派な菩薩として仏道を歩んでいるということが言えるのではないかと思います。全部で二十項目ありますが、二十項目でも煩わしい、もっと簡単にならないのかと言われる人もいるかと思いますが、申し訳ありません、このぐらいは心にとどめておいていただいてもよろしいのではないかなと思います。

 本日は、大乗仏教についてのごく初歩的な話をさせていただきましたが、今後、皆さんがそれぞれの宗派の仏教を学んで行かれる際のどうも一助にしていただければ幸いです。 
 ご清聴ありがとうございました。(終)

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