田村完爾先生

日本仏教史(第29期スクーリング講義録)

2017年1月10日

はじめに

 皆さん、こんにちは。皆さん方一人一人は、それぞれ積み重ねてきた人生経験を持ち、希望や悩み、願いや思い、日々考えること等があって、そして何かを求めて、貴重な時間やエネルギーを費やし、本日この場にお集まりになっているものと拝察いたします。では、皆さん方を突き動かし、この場に至らせているものは何か?それはやはり、何らかの形で「仏教を求める心」が皆さん方それぞれの中にモチベーションとしてあり、皆さんを今日この場に来させている。私はここに現実に生きている仏教の姿を見るわけです。言いかえますと、釈尊に始まる長い仏教の歴史、ないし今なお続く日本仏教の歴史の、現時点での終着駅は私たち一人一人の中にあるとも考えられます。

 そう考えますと現代の仏教(日本仏教)は、マイナス面では、形だけの葬式仏教、宗派間の壁、寺院の世襲等に伴う形骸化など、様々に批判すべき要素もありますが、確かに言えることは、いま皆さん方の心の中に生きている、灯っている、ということです。今の自分を、自分たらしめている重要なファクターの一つに仏教があり、そういう意味で、仏教の歴史、なかんずく日本仏教の歴史を学ぶことは、今ある自分を形成する精神的歴史をダイレクトにさかのぼることであり、そこに相応の深い意義があり、また新たな自己発見の可能性さえもあります。今日は限られた時間ですが、一緒に日本仏教の歴史を少したどっていきたいと思います。

一、大和時代・飛鳥時代
  仏教の伝来と定着 

 六世紀中頃、欽明天皇の時代に、百済の聖明王が朝廷に釈迦像と経典等を伝えたのが仏教公伝(仏教の公式な伝来)とされます。それ以前に私伝があります。司馬達等という鞍作くらつくり、つまり馬の鞍を作る技術に長けた渡来人が来朝し(五二二年)、本尊を祀ったと『日本書記』に載っています。その後、仏教公伝に至ります。司馬達等は公伝にも関わっていると思います。この鞍作氏が後に蘇我氏や聖徳太子に協力する流れを作っていきます。当時、中国は南北朝に分かれ、朝鮮は高句麗・百済・新羅等が勢力を争っていました。仏教の定着にあたり、朝鮮半島・百済からの渡来人・帰化人が陰日向に果たした役割は大きいと思います。蘇我馬子(五五一?ー六二六)と聖徳太子(五七四ー六二二)は仏教を支持し(崇仏派)、物部氏等の廃仏派を降しました。推古天皇は『三宝興隆の詔』を発布し、太子は『憲法十七条』を制定して、仏教を基本精神とする国の形を示したといいます。豪族は各自の祖先を祀る「氏寺」を建立し、従来の祖先崇拝の延長で仏教が信仰されていきます。太子は『勝鬘経』『法華経』『維摩経』の注釈書(『三経義疏』)を製したとされますが、中国の注釈書を踏襲しながら独自の意見を示し、教学的な深い解釈も見えます。『三経義疏』を太子の著作とするかについては疑問も提示されていますが、少なくとも、朝鮮系渡来僧等を含む、太子に連なる日本人研究者によって作られたことは確実と思われます。特に『法華義疏』や、聖徳太子を南岳慧思(五一五ー五七七。中国天台法華宗二祖。天台智 の師)の後身とする信仰などにより、日本仏教の中心的経典として『法華経』が後世、徐々に根付いていきます。

 ところで近年、聖徳太子の実在について論争が行われました。『上宮聖徳法王帝説』(一番古い太子の伝記)や『日本書紀』(正式な国の歴史書)の推古朝周辺の記述等の真偽を、どう考えるかによって意見が分かれてきます。

二、奈良時代
  鎮護国家を目的とした学問仏教

 こうして聖徳太子・蘇我氏以来、奈良時代の各天皇まで、鎮護国家のために、仏教が権力者に支持・保護・奨励され徐々に広まっていきます。朝廷は鎮護国家のため、仏教を国家機能(律令制度)の一部として取り込みます。すなわち公費で寺を造営・管理し(官寺)、僧侶は官僚としての身分を与えられ(官僧)、僧侶や寺を管理する法律(僧尼令)を作りました。そうして僧侶の役割は、国家の安泰を祈ることが第一の目的となっていきました。鎮護国家の経典として、『法華経』『金光明最勝王経』『仁王経』などが重んじられるようになります。その中で『法華経』は、懺悔滅罪の経としても用いられました。

 『金光明経』『仁王経』は、国王の仏教信仰によって国が神々に護られ安泰になるという、国家にとって願ったり叶ったりの現世利益的な内容を持ちます。一方『法華経』は現世利益的な要素はありますが、護国的な内容は濃くはありません。ですので、法華経が一種、特別扱いされてきている気がします。懺悔の面では、『法華経』第二十章の不軽品に懺悔を読み取る独自の見方が日蓮にありますが、懺悔は『法華経』の中心テーマではありません。ただし「法華三部経」(『法華経』と、内容の連結する前後二経を合わせて三経一組とする)の中の、『法華経』の後に説かれたとされる『観普賢菩薩行法経』に、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)にわたる懺悔のプロセスが詳細に説かれています。それに『法華経』第十九章にある、修行の成就として説かれる「六根清浄」の説示を合わせれば、六根にわたる懺悔というテーマを形成することは一応可能です。聖徳太子の前世とされる南岳慧思に「法華三部経」『観普賢菩薩行法経』の重用と六根懺悔の重視があり、こういう点からも日本仏教の中で『法華経』がだんだん重視されてくる流れが感じられます。

 さて、奈良時代は遣唐使が盛んになり、様々な教えが輸入され、南都六宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗)が形成されます。奈良の都に大寺院が次々に建立され、留学僧・外国人の僧なども活躍します。この時代の宗派は、いわば大学の学部内の各学科・研究グループのような存在で、大寺院は研究室の役割も果たしていました。このうち、法相宗は興福寺・薬師寺が、三論宗は元興寺・大安寺が、華厳宗は東大寺が、律宗は唐招提寺が中心となって活動しました(倶舎宗・成実宗は、これら四宗に付随的に研究されました)。倶舎宗は、私たちの心の動き・作用を様々な要素に細分し分析する研究を中心に、この世の全存在を説明しようとする小乗の存在論哲学の学派です。成実宗も小乗的存在論哲学ですが、大乗思想も加え、存在の空を強調し、心を一まとめで捉える等の特色があります。律宗は具足戒(比丘〈男性出家者〉は二百五十戒、比丘尼〈女性出家者〉は三百四十八戒)などの戒律を重んじるグループです。法相宗の教えは唯識といい、この世のすべては我々の深層意識の展開であるとします。すなわち心の奥底に阿頼耶識という心の一番根本を想定し、その阿頼耶識の中に数多くの種があると考えます。その心の奥底の種が一瞬でパッと現実を展開し、一瞬でパッと阿頼耶識に戻って次の種を作ると。こうしてこの世界は、阿頼耶識から展開されていると説きます(阿頼耶識縁起)。根本的な書は『唯識三十頌』(唯識思想の根本を説いた詩文)であり、これに関する様々な学説をまとめ取捨した『成唯識論』が中心的な論書です。三論宗は、仏教の伝統である空・縁起の思想を基に、大乗般若経典に依拠し、『中論』『百論』『十二門論』を中心の典籍とします。私たちの身心や万物を構成する要素の個々の不変的実体を徹底的に否定し、万物が相互に依存しあう関係性によって現実世界が成り立ち遷り変わり展開しているさま(無自性・空・縁起・中道)をそのまま体感することを目指します。華厳宗は、縁起思想を独自に徹底して一即一切、一切即一の重々無尽縁起(すべての個々の事物・事象の中に一切が含まれ、すべての存在が尽きることなく無限に重なり合って生成していること)を説きますが、結局は唯心論的で、心の中の仏性から全存在が展開すると説きます。その根本聖典は、釈尊が三十歳で成道した直後に説かれたとされる『華厳経』です。その成道直後の光に満ち溢れた偉大で清らかな釈尊を、特に盧舎那仏るしゃなぶつと言います。盧舎那の意味は光明遍照、つまり光があまねく照らす太陽のような存在の意です(※毘盧遮那びるしゃなも同じ。密教の大日如来の原型です)。東大寺の大仏は、華厳の盧舎那仏に当たります。

 聖武天皇(七〇一ー七五六)は『華厳経』『金光明最勝王経』『法華経』等の思想に基づき、各地に国分寺を建立し、奈良東大寺には大仏を建立します。各地の国分僧寺と東大寺(総国分寺)は、『華厳経』の盧舎那仏と分身仏の関係、各地の国分尼寺と法華寺(総国分尼寺)は、『法華経』の久遠の釈迦牟尼仏と分身仏の関係に比することができると考えます。

 そして鑑真(六八八ー七六三)が四分律(インド仏教・小乗法蔵部の戒律)による具足戒をもたらし、東大寺・下野薬師寺・太宰府観世音寺に戒壇(戒律を授ける壇)が建立され、戒壇を用いた国家公認の正式な授戒が、この段階で可能になります。その一方で、官僚機構と関係なく得度する私度僧の中には、行基(六六八ー七四九)のように民衆に大いに布教した者もいましたが、戒律を守らない者も多数いました。行基は始め国家と対立し弾圧を受けましたが、後に聖武天皇の帰依を得て東大寺大仏建立を助けました。聖武天皇は崩御する少し前には行基の弟子にまでなります。私度僧が天皇を導くという一種の逆転現象ですね。私度僧の問題から考えても、日本仏教において戒律軽視の底流は、常にあると思います。

三、平安時代 顕密の山岳仏教

 この時代、ご存じの最澄と空海が、新たな本格的な仏教宗派を形成しました。二人は共に山岳修行を基礎とし、奈良の官僚仏教・学問仏教とは一線を異にしました。共に唐の留学を経て大陸の仏教を伝えましたが、それぞれに独自の意図をもって教理的・布教的展開を示しました。しかし、天皇・朝廷と結び付いて、基本的に鎮護国家を目指す点では、奈良仏教と軌を一にしていました。ただし、主な拠点を山岳に置いていたため、信仰的純粋性と求心力を保持していた面が見受けられます。また、この両者の時から、教理・信仰上の区別・対立を伴う宗派性が明確化してくると思われます。

(一)天台法華宗 ―顕密融合の多様性を有する総合仏教機構―

 渡来人の子孫であり、実直真摯な仏道修行者である近江出身の伝教大師最澄(七六七ー八二二)は、桓武天皇(七三七ー八〇六)の絶大な信任を得て、新都である平安京に相応しい清新な宗旨として天台法華宗の開宗を依頼されます。それまで『法華経』を中心とした宗派は公認されていませんでしたが(※律宗の鑑真は元来中国天台法華宗の僧であり、その影響は各地に及んではいました)、最澄によって『法華経』が日本仏教の精神的母胎を形成するに至ります。最澄は八〇四年に入唐し、わずか半年ほどで天台法華教学(円教)と共に密教・禅・戒(大乗戒)を受けて(四宗相承)帰国し、八〇六年、比叡山延暦寺に天台法華宗を開きます。つまり最澄は『法華経』のみの宗派ではなく、南都六宗に対抗し凌駕すべき総合仏教センターの樹立を目指したと見られます。特に日本天台宗は、円教と密教の両輪によって出発しました。すなわち開宗の際、国家より、止観業(天台止観の修行者)と遮那業(『大日経』に拠る密教の修行者)の二名を毎年得度させる許可を得てスタートしたのです。

 もともとは天台法華宗は、『法華経』中心の仏教総論と、止観行(自己の心を静め観察する行)を軸とします。すなわち中国の天台大師智 (五三八ー五九七)は、全ての経典を釈尊の一生の説法に当てはめて「四教五時判」を説きます。天台によれば、非常に多岐にわたるように見える仏教は、四段階の教えだけであるとされます。つまり、①蔵教(小乗の分析的な空の教え)、②通教(般若経的な実感的空の教え)、③別教(華厳的な、心から全存在が様々に展開する重々無尽縁起の教え)、および、④円教(『法華経』的な、この世の全存在が互いに互いを具え合い融合した一多相即円融の真理を説く教え)です。そして、釈尊はこの四つの教えを臨機応変に混ぜ合わせ、三十歳から八十歳までの間におおよそ五段階にわたって説法を行ったと想定します。すなわち、A『華厳経』中心の時↓B小乗『阿含経』中心の時↓C『維摩経』など小乗を批判して様々な大乗経典を中心に説く時↓D主に般若経典を説く時↓E『法華経』『涅槃経』を説いて一生の本懐を述べる時、という順番で展開されるとします。そして全ての衆生を最終的に導く釈尊の本意は円教にあり、『法華経』には円教だけが完全に説かれ、その他の大乗経典には円教が部分的に説かれたとします。ですので、天台法華宗は『法華経』を中心に掲げながらも大乗諸経典全体をも生かす仏教観を持ちます。

 そして、この円教の円融自在な真理の世界に入るには、自分の心からアクセスするのが近道であるとし、自己の心を集中して静め(止)、その心を観察する(観)という、止観の行が設定されます。そして止観によって、見る自分()と見られる自分()が融合し、止と観が一体になった所に、悟りが開けてくると説きます。そして、坐禅、歩行、半行半坐、日常生活を通じて止観の成就を目指します(四種三昧)。その円教の真理は、一念三千とも空仮中円融三諦などとも表現されます(※天台の教学では、仏の真理は言葉によって全ては表現しきれないが、真理の持つ幾つもの側面を様々に部分的には表現できると考えます)。一念三千とは、私たちの一瞬一瞬の心に全存在世界が具わる境地を言います。すなわち私たちの移り変わる瞬間瞬間の心には、地獄から仏に至る十の生存世界が備わり(十界)、それらは互いに互いの世界を具え(十界互具)、それぞれに姿・性質・本体・意思・行動・因・縁・果・報が一体となった実態を持ち(十如是)、それぞれが名前で呼ばれる仮の個体であり、肉と心のパーツの一時的な集合体であって、周りを取り巻く環境世界の中にあるとします(三世間)。これらの要素を掛け合わせると三千になりますが、要するに全存在世界の実態が、私たちの刹那刹那の心に具わり、全存在世界・全宇宙と一体であるという真理を述べています。つぎに空仮中円融三諦とは、まず修行者が有に執着するこの世界を超えて空の境地に入り、その後に有に迷う他者を導くために再び他者と同じ目線の有の世界に戻りますが、もはや有に執着することがないので、実際には空を踏まえた有の世界、つまり仮の世界(仮に万物が存在している世界)にあって教化を重ねます。こうやって自行・化他行に励んでいくと、空・仮を含みながら空・仮を超える中道の世界が顕れるというのです。別教では、この空仮中を順番に観察して(次第三観)、途中段階の空仮中別々の世界(隔歴三諦)を体得し、円教では空仮中を一気に観察して(一心三観)、空仮中が融合して同時に体得できるとします(円融三諦)。

 このように天台法華宗は『法華経』に中心的に説かれるとする円教の真理の体得を、基本的に目指します(※もっとも最澄は、他宗との論争等に当たって、華厳・別教的な思想を前面に出す部分も大いにあります)。ただし、円教の止観行そのものは、自己の修行には適していますが、他者を教化し導く面では、弱い部分もありました。そこで密教が相応の価値を持ってきます(※密教の基本的な内容は、空海の所で中心的に触れます)。中国では、本格的な密教(純密)は天台大師以後にインドから伝来したので、天台以来の四教五時判では説明しきれませんでした。中国に本格的な密教を導入したのは善無畏(六三七ー七三五)です。善無畏は天台僧の一行(六八三ー七二三)の助けを得て『大日経』を漢訳し、一行と共に注釈書『大日経疏』を作ります。そこでは、『大日経』と『法華経』は根本的に同じであるとし、胎蔵界曼荼羅(大日如来の慈悲による真理の世界)の中心である八葉の蓮華は「妙法蓮華」であるとし、宇宙全体を表す大日如来は久遠の釈迦牟尼仏と同じと示されています。これにより最澄は、円密一致(円教と密教は一致する)の立場を取ります(※また、『大日経』では「菩提心は如実知自心である」と説かれています。つまり私たちが自分の心を完全に知ることによって、悟り(菩提心)を成就できると示します。私たちは、自分のことは自分が一番知っていると思いがちですが、実は自分のことは自分が一番知らない部分がありますね。例えば、自分の目鼻口は自分では見えません。自分の性格や行動は周囲の方が判っていることは往々にしてあります。自分の心というのは、自分に一番近い故に、一番自分が分かってない。自分の心を完全に把握することができたら、すべて悟りの世界が開けてくるというのが『大日経』の如実知自心、菩提心なのです。ところで天台の止観行は、自分の心を見極めれば全存在世界と融合し一体になるとするので、本質的に『大日経』と共通します)。

 ところで最澄は、空海の帰国後、自分が唐で受けてきた密教は『大日経』と並ぶ『金剛頂経』を欠き、『大日経』の思想さえも理解が不十分で、まったく不完全なものであると思い知らされます。それゆえ最澄は世間的な上下関係を度外視して、空海に師事して完全な密教を学ぼうとしました。しかし、天台法華宗の維持発展のため多忙だったため、主に書物の借用と閲読を通じて密教を理解しようとした最澄に対し、空海は、密教は師弟の以心伝心によって始めて真髄が伝えられるとして怒り、両者は途中で交流を断ちました。最澄にとって密教は総合仏教機構の一部であるのに対し、空海にとっての密教は自己の存在意義の全てであり、最澄に安易に奪取されるという思いがあったとも察せられます。その後、最澄は急速に本来の『法華経』中心主義を加速させ、空海の密教に対しても挑戦的・批判的な姿勢を示唆します。

 最澄は、最大の理解者である桓武天皇が崩御した後は逆境時代に入ります。ここで最澄は、他宗を厳しく批判して論争を仕掛けます。空海や南都の学匠は、最澄の挑発を無視しますが、奥州会津にいた法相宗の得一(?ー八四三)は批判に応答し、三一権実論争を展開します。すなわち得一は、仏教は本質的に三つに分かれており、二種類の小乗修行者(声聞・縁覚)の大多数は先天的に成仏できず、大乗の菩薩になった者だけが救われるという「三乗真実」を掲げます。対し最澄は、仏教は大乗も小乗も一つに統合され、全ての衆生が平等に救われるという「一乗真実」を主張します。この論争を通じて最澄は『法華経』の一乗思想(一切衆生の平等の成仏救済)、「一切衆生悉有仏性」(全ての生命存在に仏性があり成仏救済される)、真如随縁論(私たちの心中に不変の真如〈真理〉があり、これが様々な外からの縁に触れて現実世界を生成展開するという華厳宗的思想)などを展開します。

 また最澄は、これまで南都を中心に三戒壇を通じて受戒が行われてきた具足戒を小乗の戒と規定し、僧侶・俗人に一貫する「大乗円戒」の意義を高揚します。すなわち大乗円戒として、『華厳経』系の経典『梵網経』における十重四十八軽戒(十の重い基本的な戒律と、四十八の付随的戒律)を用います。その精神は「法華三部経」、特に『観普賢菩薩行法経』の自誓受戒に基づくと思われます。同経の末尾には、出家でも在家でも、たとえ様々な小乗戒を破っても、自ら誓って、釈尊、十方の諸仏、文殊菩薩、弥勒菩薩、諸の菩薩の前で大乗菩薩戒を受けることができると説かれています。結局、最澄の没後初七日に、天台法華宗は大乗戒壇建立の勅許を得ました。

 最澄没後、天台法華宗の課題は、密教のレベルアップを含む総合仏教機構の充実になりました。最澄の目指した総合仏教機構は、余りにもスケールが大きく、最澄一代では到底完成できなかったため、弟子達の活躍は一種必然になりました。そして、円仁、円珍、安然、良源、源信等により、密教の充実(『大日経』『金剛頂経』に加えて『蘇悉地経』の導入による三部密教の確立)、浄土教の導入、神道との融合などが進んでいきました。

 特に日本では一〇五二年より末法の時代に入ると考えられていました(末法思想)。このような風潮の中、阿弥陀仏の西方極楽浄土への往生を目指す信仰(浄土教)が人々の間で大流行しました。源信(恵心僧都)(九四二ー一〇一七)は『往生要集』を著し、法然以後に連なる日本念仏思想の基礎を築きました(※ただし、源信は観念念仏つまり阿弥陀仏をイメージする念仏が中心で、称名念仏つまり阿弥陀仏の名を称える念仏は補助的に見ていました)。念仏の面で見ると、天台宗ではありませんが、私度僧の空也(九〇三ー九七二)による民間布教が留意されます。空也は庶民に阿弥陀信仰を勧め、「市聖」と呼ばれました。六波羅蜜寺の空也像は有名ですね。

 院政期以降は、安然(天台密教思想を完成した人物。八四一?ー九一五?)の密教思想等を深化させていった「中古天台本覚思想」が形成されてきます。そもそも本覚思想自体は大乗仏教の主要な思想の一つであり、「誰しも本来覚っている」という考え方で、仏性、如来蔵、自性清浄心、あるいは仏子などの思想とつながっています。ただし現実は大多数が凡夫であり、仏性を持ちながらも迷い苦しみながら修行を進めて向上すべき存在とされます。しかしながら日本の中世、院政期以降、この本覚思想を現実の凡夫の上にそのまま当てはめる傾向が出てきます。つまり、誰しも現実に本来覚っており実際に仏であって、私たちの行住坐臥の所作がそのまま仏の行動であるとされるような思想に進んでしまい、口伝の形で凡夫即仏論・修行無用論が語られ、そのまま仏なのだから何も修行せずとも良い、という堕落的な方向に行ってしまうマイナス面を持つに至ります。また、口伝を重視したため、経論釈などのテキストを軽視する傾向を生じ、確かな教説よりも目の前の師匠の口伝の方に重きが置かれ、師弟関係がより重視されました。また、同じ師匠が複数の弟子に口伝する際、微妙な違いを生じ、多岐にわたる流派が分かれるという傾向も出てきました。さらに、新たな口伝書や、経典、学匠の名を借りた著述も自由に作られ、流布しました。このような日本中古天台本覚思想・口伝法門は、日本仏教全体、および、芸能文化や諸思想等にも多大な影響を与えました(※また中古天台本覚思想は、天台法華仏教の密教化とする見方もできます。密教の阿闍梨になれば従来の教理・修法等を応用改変できるという発想や、思想的素地が空海の六大体大説などとつながってくる面も、大いにあります)。

 このような、混沌とした多様な方向性を持つ総合仏教としての天台宗の下地が、鎌倉新仏教の多数を輩出する母胎となりました。現代にも、鎌倉新仏教を中心とする宗派仏教が続いている状況を見ますと、日本仏教を形成する母胎としての最澄による天台法華宗の存在は非常に大きなものであったと言えます。

  
(二)真言宗 ―高度な理論に基づく 祈祷仏教―

 讃岐の豪族出身の弘法大師空海(七七四ー八三五)は、親族のバックアップを受けて中央官僚になるべく奈良の大学寮で学びましたが、仏道に目覚め、山林修行を重ね仏典を学ぶ中で『大日経』を始めとする密教経典と邂逅しました。八〇四年に入唐し二年間、主に密教を学び、帰国しました。当時、インドで七世紀頃に形成された純粋な密教の二つの流れ(『大日経』による胎蔵界、『金剛頂経』による金剛界の系譜)は、唐において長安青竜寺の恵果(七四六ー八〇六)にまとめて継承されていました。空海はその二つの密教(両部)を恵果より受け継ぎ、さらに合一・応用して日本に伝えたと思われます。そして、高雄山寺(神護寺)、東寺(教王護国寺)、高野山金剛峯寺等を拠点とし、真言宗を開宗しました(※東寺が布教の中心だったので東密とも称されます。対し天台密教を台密と言います)。

 その教えは、存在世界の構成原理を六大(地・水・火・風・空・識)として、物質と精神の現象的・具体的事実の世界をそのまま根源的原理とし、大日如来(宇宙全体の仏。法身)とします。その六大が感覚的に表象されたのが四種曼荼羅(大曼荼羅・三摩耶さんまや曼荼羅・法曼荼羅・羯磨曼荼羅)であり、諸尊の姿・器具・種子・活動を表象しています。そして、三密修行(身に印を結び、口に真言を誦し、意に曼荼羅を観ずる)により、大日如来と合一して即身成仏が達成でき、修法によって様々な願いを叶えるとします。

 対外的には、密教以外の顕教を劣る教えとして密教の超勝性を主張しました(顕密二教判)。おそらく、最澄が空海への手紙等で「法華経と真言は優劣がなく一体」とする円密一致の姿勢を示したのに対し、空海はこれを暗に批判する形で『顕密二教論』を作成し、従来より所有していた顕密二教判を述べたか、と私は見ています。さらに『十住心論』『秘蔵宝鑰』において、『大日経』の思想を応用して十住心教判を示し、衆生の心の深まりを倫理道徳や仏教諸宗派の教理に当てはめて十段階で示し、真言密教の独一性・統合性・超勝性を示しました(※十住心教判は最澄の没後、満を持して朝廷を動かし、自発的に開示した面も忖度されます)。空海は、両部のうち『金剛頂経』の系譜を重んじ、『大日経』の系譜はほとんど用いません。これは、最澄がこだわる『大日経疏』において『大日経』と『法華経』が本質的に同じとして釈迦大日同体論までも示唆する善無畏・一行を系譜に入れることを避け、密教の純粋性をより追及している『金剛頂経』系の金剛智・不空、および恵果を重んじていることを表していると考えられます。ただし、空海の教学的理論はむしろ『大日経』『大日経疏』に拠る所が大きいことも事実です。例えば『大日経』の「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」という「三句の法門」は、密教の究極的な教えとされます。すなわち、私たちの心中にある菩提心(悟りを求める心↓悟りそのものの心)を根底とし出発点とし、衆生の悲しみを共有し、衆生を様々に導く活動を究極の目標とすることが密教の真髄であるとされます。その菩提心が「如実知自心」である意は、既に述べました。『大日経』には勝れた理論が説かれますが、密教修法が進化した『金剛頂経』になると、実践がより中心になるので、理論的根拠は『大日経』の方が用いやすい面があります。要するに空海は、両部を巧みに補完させあいながら、独自の密教を成り立たせていると思われます。

 真言宗は、空海が体系的・卓越的な完成度の高い教学を示したため、思想的には弟子達による発展の余地は、あまり多くなかったとも考えられます。空海の大らかで魅力的な人柄とリーダーシップにより、弟子達が安心して追随していった面もあろうかと窺われます。最澄の弟子達が危機感を持って、それを梃子に天台法華宗を様々に展開させていったことと対照的とも言えます。ただし、覚鑁かくげん(一〇九五ー一一四四)まで下ると、一密成仏(意密だけでも身密だけでも口密だけでも成仏する)や、浄土教の導入等、鎌倉新仏教に連なる要素も出てきます。覚鑁は大日如来と阿弥陀仏を一体とし、密厳浄土(三密により荘厳された大日如来の浄土、曼荼羅の境界)と極楽浄土を一処とし、即身成仏思想と往生思想を密教的に融合させます。その主著である『五輪九字みょう秘密釈』は、後に日蓮が書写し、自身の思想的端緒としています。覚鑁の教学は頼瑜らいゆ(一二二六ー一三〇四)によって明確化され、展開していきます。これが新義真言宗、智山派・豊山派等へとつながっていきます。

 以上の平安二宗は、鎌倉新仏教が出現する土壌を作りますが、なかんずく天台法華宗・比叡山は、まさにその母胎の役割を果たしました。

四、鎌倉時代
 大衆に開かれた新たな仏教の形成

 鎌倉期に至ると、現在まで続く有力な諸宗派が次々に誕生します。また、それにとどまらず、旧仏教の改革者達も従来の宗派の枠を超えた、一種の新仏教の担い手として、多く現れます。日本仏教の思想的開花の時代が到来したと言えましょう。

 鎌倉期は、貴族中心から武士の政権へと移り変わる新時代の幕開けでした。すなわち政治の中心が京都から鎌倉に移り、地方が発展していきます。政治・経済・社会・都市・市民の変化・発展とそれに伴う新しい時代の気運に仏教も連動し、触発され、展開しました。

 ただし、体制側としては隠然として顕密仏教が大多数を占めていました(顕密体制論)。顕教は南都六宗と天台法華宗に代表され、密教は東密(真言宗)・台密たいみつ(天台宗)から成り立ちます。南都の僧侶も真言を必要と考え、密教を修学していました。顕密仏教の主要寺院の中心的僧侶(学侶または学僧)は様々な法会・講、公式な修法等を営みました(※学侶の下に、堂衆または禅侶、行人と呼ばれる無名の僧や半僧半俗の者が多数おり、堂塔の管理・雑務や山岳信仰等にも関わりました)。彼ら学侶には様々な禁忌きんいがあり、その一つが死者の穢れに触れることでした(※死の穢れが一般化するのは十世紀頃と考えられます)。

 この時代、仏教において重要な役割を果たしたのが、官僧(国家から得度を許され、国立の戒壇において授戒をうけた僧。主に学侶)の特権や制約から離脱した遁世僧(聖)でした。いわば第二の俗世界になってしまった官僧の世界から離脱し、再出家(二重出家)した僧が遁世僧とも言えます(※遁世僧は学侶と異なり、死者の弔い、すなわち葬儀にも関わっていきます)。鎌倉新仏教の担い手はすべてこの遁世僧であり、国家の官僚仏教から離れ、全ての人々の救済を目的に活動する大衆仏教へと移り変わっていきました。ここに至って初めて本来の仏教精神が十全に発揮される時代となったと見ることもできます。

A、浄土系

(一) 浄土宗 ―ひたすらに阿弥陀仏の名号を称えることにより極楽浄土に往生する―

 開祖・法然房源空(一一三三ー一二一二)は美作の押領使(警察的な治安維持の指揮官)の子として生まれましたが、九歳の時に父が殺され仏門に入ります。十五歳(または十三歳)で比叡山に学びましたが、十八歳の時に出世を捨て法会に出仕せず(遁世)、黒谷くろだに(遁世僧の止住地)に隠棲し、戒律と念仏(天台の観想念仏)を行ずる叡空に学びました。四十三歳の時に中国浄土教・善導の『観無量寿経疏』を読んで回心し、称名による専修せんじゅ念仏の思想を持ちます。そして叡山を下って京の東山吉水よしみずで念仏修行に踏み出し、以後、九条兼実などの支持者を着々と増やしました。六十六歳、兼実の要請により『選択せんちゃく本願念仏集』を撰述し、末法においては称名念仏だけが相応の易行であり、聖道しょうどう門を捨てて浄土門に帰すべきで、雑行を捨てて念仏の正行に帰入すべきである、等と説きます。

 称名念仏が世に広まるにつれ、弟子と称して異なる教えを説く者も現れ(※法然自身は持戒の修行者でしたが、弟子達の破戒を黙認し、称名念仏のみに価値を置いたため、弟子達の中には、戒律軽視や、様々な教理上の主張をする者が現れます)、旧仏教からの弾圧も大きくなっていきました。加えて二名の弟子が後鳥羽上皇の怒りをかう事件を起こし、七十五歳で四国に流罪されます。五年後に帰京し、翌年、弟子の願いを受けて念仏の肝要(『一枚起請文』)を認め、「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」等と述べ、八十歳で没します。
 

(二) 浄土真宗 ―阿弥陀仏の信にめざめるところに往生が決定する―

 開祖・親鸞(一一七三ー一二六三)は法然の弟子ですが、言わば中堅クラスの弟子でした。京都の下級貴族に生まれ、比叡山に学びますが二十九歳で下山し、京都六角堂に籠もり聖徳太子の夢告により法然の門に投じます。法然流罪の際には同時に越後に流されました。赦免しゃめん(三十九歳)の後、常陸国笠間郡稲田の草庵等を拠点に布教し、六十二~六十三歳頃、京都に戻り著作に励み、九十歳で没します。主著『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)は五十二歳頃に稲田の草庵で書かれ、補足・校訂を続け七十五歳頃に完成しました。四男三女をもうけ、非僧非俗の一生を貫き、阿弥陀仏と自己との関係について深い省察を重ね、晩年に至って円熟した思想を展開しました。『教行信証』では、浄土に往生する往相も、浄土よりこの土に還って世の人に救いを与える還相げんそうも、ともに仏の本願力の回向によると断じます。したがって、教えも念仏も信心も悟りも、すべて仏よりの回向によると論じます。とくに疑心の混じらない真実の信心を、浄土往来の正因としました。さらに化身土にも仏の救いがある(迷いの現世に執着したり、誤った教えの中で修行もできず苦しむ者にも、阿弥陀仏は迎えに来て浄土へ導いてくれる)と示しました。信というのは自分が起こすのではなくて、阿弥陀仏の信に自分が気づく、ハッと気づく、目覚めると、そこから始まるんだと、そういうことを書いています。親鸞は、阿弥陀仏の本願の力によって、あらゆる衆生の往生はすでに確定していると捉え、凡夫に残されているのは、この本願を信じる(阿弥陀仏の信に目覚める)ことだけになるとします。さらに親鸞は「信心為本」と表現し、念仏を称えることすら絶対でなくなります。しかし称名を不要とはせず、感謝の気持ちで称えるべき旨を主張しました。親鸞は、信の一念で往生が決定し、往生はそのまま悟りの世界に至ることであるとしました。そして、現世では悟りへと定まった位(正定聚)に達すると考えました。この点、現実をそのまま悟りの世界とする本覚思想に近いのですが、それを来世にもっていくところに一線が引かれ、かつ、信を得たうえでなお念仏するところに実践性が確保されていると見られます。

(三) 時宗 ―音楽的な称名念仏により阿弥陀仏との合一を目指す―

 開祖・一遍(一二三九ー一二八九)は伊予国道後の生まれで、十歳の時、母の死を契機に出家、十三歳頃に筑前太宰府で浄土宗西山派の聖達しょうたつに学び、二十五歳の時、父の死に逢い一度還俗げんぞくするも再出家します。三十六歳の時に信濃の善光寺を訪ね、他力念仏の安心を得たといいます。また同年、紀伊の熊野本宮を訪ね、熊野権現から、念仏による安心と、札を配るべしというお告げを受けました。その布教の特徴は、踊り念仏・遊行ゆぎょう(一箇所に定住せず同朋と共に念仏を称えて日本中を歩く)・賦算ふさん(「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と書いた紙片を配り歩く)等にあります。賦算を行った背景は、相手の浄土の教えの信不信に関わらず既に浄土に往生することは決定しているという立場にあります。これは親鸞と軌を一にします。ただし一遍は信も超えて、念仏を節をつけて音楽的に称え、阿弥陀仏と忘我的に合一する境地を目指しました。一遍の和歌に「唱うれば 我も仏もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とあるのは有名です。ただ、一遍は亡くなるに際して著述を燃やせと命じたので、その教えの全貌が充分に判っていない点が残念です。

B、禅系


(一) 臨済宗 ―顕密仏教と融合しながら 教外別伝の禅の体得を目指す看話禅―

 開祖とされる栄西(一一四一ー一二一五)には、一宗一派の明確な独立は見えず、むしろ比叡山・密教の流れを汲みつつ臨済禅を導入し、旧仏教の改革を図った面が強く伺えます。禅宗(達磨を初祖に仰ぐグループ)では栄西に先立ち、比叡山で学んだ大日能忍が、遁世聖を中心に達磨だるま宗(無師独悟の禅)を開きましたが、後に道元門下に吸収される等して衰えました。栄西は備中の神官の家の出身で、十四歳で比叡山で出家得度。天台密教の葉上ようじょう流(建仁寺流)を興します。二十八歳で入宋し、天台山等を参拝します。帰国後、主に密教により三尾地方・筑前等を教化し、四十七歳、天竺を目指して再び入宋しますが天竺行きの許可を得られず、もう一度天台山万年寺に行き、虚庵懐敞えじょうに会い、大乗菩薩戒を受け、五十一歳、天童山で懐敞より臨済宗黄龍おうりょう派の印可を受け、滞在五年で帰国しました。その後九州・博多等で布教し、五十四歳で上京しますが、大日能忍の達磨宗と混同され、比叡山の宗徒の弾圧を受けます。そこで五十八歳、栄西は、自ら伝えた禅は国家の有用になるとして『興禅護国論』を著し主張しました。五十九歳、鎌倉に入り、源頼家・北条政子等、幕府の帰依を得ます。六十二歳、頼家の外護のもと京都に建仁寺を創建し、真言・止観の二院を構え、天台・密教・禅の三宗兼学の道場としました。七十五歳、建仁寺で没します。栄西は弾圧を乗り越え、幕府に接近して外護を受け発展する等、逞しい面があります。

 栄西は『興禅護国論』で「此の禅宗は不立文字ふりゅうもんじ教外別伝きょうげべつでんなり。教文に滞らず、只だ心を伝えるなり。文字を離れて言語を亡くし、直ちに心源を指し、以て成仏す。其の証拠は諸の経論中に散在せり」と教えます。さらに教と禅を分け、教を中心に説く宗派(教宗)を絶対視せず、禅宗を中心に立てます。栄西の臨済宗は、公案(禅の問題集。禅の祖師達の具体的な行為・言動等を挙げ、その精神を究明する)を重視し、師弟の問答を通じて理解を深め大悟(悟り)に至ることを目指す看話かんな禅です。


 
(二) 曹洞宗 ―只管打坐・本証妙修を主張する独創的な思想にもとづく純粋な禅―


 開祖の道元(一二〇〇ー一二五三)は源氏の嫡流ちゃくりゅうで内大臣(当時の律令制における中心的権力者の一人)久我通親こがみちちかの子ですが、両親を早く亡くし、十三歳で比叡山に入り十四歳で出家します。十八歳で栄西の高弟、建仁寺の明全みょうぜんの許に行き、二十二歳で弟子となり、二十四歳、明全と共に入宋にっそうします。二十六歳、天童山で如浄(一一六三ー一二二八)より面授を受け、身心脱落しんじんだつらく(身と心の束縛から自由になり、真に無我になりきった悟りの状態)を経験し、印可を得ます。二十八歳、帰国して『普勧坐禅儀』を著し、三十二歳、『正法眼蔵』弁道話を記します(以後生涯『正法眼蔵』の各章を書き、百巻を目指しましたが八十七巻で病のため完成できませんでした。その後、拾遺として四巻が発見され、追加されています)。三十四歳、宇治に興正寺を開き十一年間住します。四十四歳、比叡山より迫害を受けた道元は越前に移ります。四十五歳、後の永平寺を開いて坐禅と門人の指導に努めました。五十四歳、病のため永平寺を懐奘に譲り、療養のため上洛しましたが、京都で没しました。

 主著『正法眼蔵』は「正しい仏法の眼目を収める蔵」の意であり、釈尊から歴代の祖師に相続された「正伝の仏法」である坐禅の眼目を余りなく収蔵し提示しようとした著と言えます。その中で、深い禅定を通して得た体験・知見を披歴しています。道元は「一切衆生悉有仏性」(全ての生命に仏性がある)の価値を重んじ、全ての生命は仏心を持つとして、その平等性・尊厳性を説き、坐禅を通じた成仏を強調します。また、独自の存在論、時間論、修行のあり方・意義、祖師の言行、現実生活面での物事の捉え方、規則等も説かれます。仏教の数多の問題点が収載されているのみならず、現代の哲学・科学に通じる知見も読み取れます。道元にとって坐禅こそが仏法そのものであり、万人の拠るべき唯一の安楽の道であり、坐禅の実践・体験によって得る身心の安らぎが、そのまま仏の姿であるとします。道元は、当時流行の中古天台本覚思想(誰でも本来仏であり修行は不要であるという発想)に対しては、修証一等(修証一如)に解決を求めました。すなわち修行の結果として悟り(証)に達するのではなく、修行(坐禅)そのものを悟りとします。またこれを本証妙修(本来覚った仏が、坐禅の修行を行うこと)とも表現します。この立場から、只管打坐しかんたざ(ひたすら禅のみ)が強く勧められます。道元の修証一等は、禅の本来的な位置付け、すなわち「衆生本来仏」などを是認しながら、しかも修行を否定しない点に優れた意義があります。道元は、坐禅の実践を強く主張し、修行の中で得られた悟りの世界を『正法眼蔵』として示している、とも言えます。このように道元は、密教等とは混合しない純粋な禅を追及し、『正法眼蔵』等において独創的な思想を描き出しました。実はその思想は、法華思想・天台法華教学を踏まえている面もあります。

C、法華系


(一) 日蓮宗―法華独一・諸宗批判と国家社会への関与をおこなう行動の仏教―

 開祖・日蓮(一二二二ー一二八二)は安房の荘官(荘園の管理者)の家に生まれ、十二歳で地元の台密・東密・念仏等兼修の天台寺院清澄山寺せいちょうざんじに入り「日本第一の智者となしたまえ」という誓願を立て十六歳で出家、鎌倉・比叡山等で諸宗を兼学し、三十二歳、故郷清澄山寺で法華経独一の信仰の弘通を始めます(※法華経に密教的要素を加え、題目中心の教えとなっていきました)。日蓮の主張は他宗批判を伴ったので、念仏信仰者だった安房の地頭、東条景信かげのぶの怒りを買い、清澄寺を退出。幕府の膝下である鎌倉で布教を開始します(※為政者以下を全て法華信仰に入れる目的のため)。当時、天災・飢饉・疫病が続き、幕府は対応に苦慮していましたが、日蓮は三十九歳、『立正安国論』を実権者である前執権北条時頼に上呈し、自然・社会の混乱は人心の歪みにあり、法然の『選択集』・称名念仏を止め、「実乗の一善(法華経の題目)」に帰依して現実に対峙すれば、この世がそのまま永遠の仏国土となり社会の安泰と個人の安寧が実現すると主張し、正法に帰依しなければ、内乱や他国の侵略があると警告しました。このような幕政批判や諸宗批判により、四大法難(鎌倉松葉谷まつばがやつの草庵焼打。伊豆伊東への流罪。安房での東条景信による襲撃。鎌倉片瀬龍口たつのくちでの斬首未遂・佐渡島への流罪)等、多大な迫害を被りました。しかし、これを法華経に説かれる迫害の未来記(予言)の色読(実践)と捉え、さらに内乱・侵略の予言的中(二月騒動・蒙古襲来)を以て「法華経の行者」としての自信を深め、幕府に法華経の題目への帰依を促しました。しかし為政者(北条時宗・平頼綱)は日蓮の諫言を採用しませんでした。結局、通算三度の国家諫暁かんぎょうが用いられなかったので、五十三歳、甲斐の身延山みのぶさんに隠棲し、六十一歳、病気療養のため常陸に赴く途中、武蔵池上で没します。

 日蓮の思想は『法華経』を軸に展開しますが、『法華経』は元々天台教学の中心であり、日蓮は天台教学に基づきながら強い末法相応の意識に立脚し、『法華経』本門(久遠の釈尊の教化を説く後半部分)中心の題目・大曼荼羅本尊の信仰を確立しました(『観心本尊抄』)。四箇格言(念仏無間むけん・禅天魔・真言亡国・律国賊)等の諸宗批判が行われますが、称名念仏や密教の枠組・着想は巧みに用いています。久遠の釈尊より『法華経』の肝要を付嘱された本化ほんげ上行菩薩の自覚を秘め、末法弘通を自己の使命と考えていますが、自覚の全ての表明には慎重を期しました。一方、晩年まで天台沙門の姿勢も持ち、比叡山への一縷の期待も抱いており、一種の復古主義者の面もありますが、教学・行動は伝統的な天台教学とは異なっています。

 日蓮の本門重視・経題受持は、天台本覚思想の中でも形成されてきており、その流れに立つ一面も指摘されます。しかし、もう一面で法華経に基づく菩薩行の実践に重点を置き、日本の仏教者の中では希な現実社会への積極的な行動を成り立たせています。

D、旧仏教系(南都系の改革運動)


(一) 解脱貞慶(一一五五ー一二一三)
―遁世僧として自由な立場から南都の復興に寄与―
(二) 明恵高弁(一一七三ー一二三二)
―戒律・華厳・真言・禅を融合した新たな釈迦信仰―
(三) 叡尊えいぞん(一二〇一ー一二九〇)
―真言密教と戒律復興に根ざした慈善救済活動を始める―
(四) 忍性にんしょう(一二一七ー一三〇三)
―鎌倉を中心に慈善事業を積極的に展開する―

 以上の旧仏教に属する四師は皆な遁世僧であり、遁世僧による、既存の南都仏教の形骸化を改め復興・改革する活動としてまとめることができます。

 これまで鎌倉期の仏教を通覧してきましたが、諸宗・諸師をまとめる方法は幾つか想定されます。①体制派(顕密仏教)と少数派(遁世僧中心の新仏教)、②阿弥陀信仰・他力本願と釈迦信仰・菩提心尊重、③末法思想の重視と軽視、④独立派・改革派・復古派・伝統墨守派、⑤時代的に三期に分ける方法、⑥南都系改革派・北嶺系改革派・念仏系改革派、⑦中古天台本覚思想との連続不連続、等です。様々な視点を総合的に受容すれば、鎌倉仏教の多面性と共通性を、より深く把握することができると思われます。

 日本仏教はこの後、基本的には鎌倉新仏教に基づいて展開していきます。この後、室町時代、江戸時代、近現代と続きますが、時間が来ましたので、はなはだ意を尽くしませんが、今日はこれまでといたします。四弘誓願の中に「法門無尽誓願知」とあります。私たちが仏教から学ぶことは、ほぼ無限にありますが、これからも楽しく前向きに学んでいかれますことを、ご期待申しあげます。           

(終)

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