授業情報

第28期生第二回修行・鹿野山禅研修所感想文

日付:2015年9月10日

 第二回修行の後、寄せられた受講生の感想文の中から興味深かったものを一部紹介させていただきます。

いのちと食事・長い呼吸
A組 國方 香代子

 今回の修行で印象に残ったのは、食事作法と坐禅です。日常生活のいたるところに修行の要素があると改めて感じました。
 食事作法は、普段自分が行っているものと全く違い、予想以上に体力と集中力を必要とする修行でした。立ち座りが頻回で給仕の終わり頃には何十回もスクワットをした後のような疲労感がありました。また、喋らないだけでなく、音そのものを出さない工夫、ご飯をよそう時には本来は相手を見ず、手を差し出すだけ、その差し出した手で相手の気を感じ、またよそう量も手を擦る音だけを聞いて判断するというもので、手が目になるということが少し感じられました。給仕される側も飯台看の方の所作に応じ遅すぎず早すぎず、呼吸を合わせていくように所作を進めていくことが大切だと気づき、役割を交替したことで自分の所作の見直しができました。「相手の思いにこたえないといけない」という学監のお話があり、食事の回を重ねるごとに実感しました。また、生飯という、他のものにも命をわけるという作法がありました。反対に他のものから命をいただいているという感謝の念がわきました。
 次に坐禅ですが、禅堂で行いました。周りは木々が茂り、鳥のさえずりなど自然の音がし、気持ちの良い場所でした。雲水さんはここで寝起きし、修行されるとのことでした。今回のような坐禅を行うのは初めてでしたので興味がありましたが実際はなかなか集中できず、いろんな考えが頭に浮かびました。呼吸に集中し、長い呼吸ができた時には落ち着いている感覚がありましたが、二日目の夜から少し体調が下降気味でしたので、呼吸が浅くなり、なかなか呼吸が整わず、気づくと姿勢が整っていない感覚があり、修行を最後まで元気に終えられるかなと少し不安な気持ちになりました。そこで警策をいただくと、痛みが薄れる頃にはなんとなく頭はすっきりし心機一転した感覚になり体調も一夜寝るとよくなっていきました。
 調身・調息・調心ということを教えていただきましたが経験を重ねる中で自分で整えていけたらと思います。日常の中でいろんなことが起こりますが姿勢を整え、長い呼吸を意識し、心を穏やかに保ち、物事をあるがままに見られるよう、また前向きな活力に転換できるよう取り入れていきたいと思いました。


「禅に学ぶ」五感を駆使して
A組 武井 祐一

 今回の修行で最も記憶に残った言葉が「不立文字」であった。
 今まで物事を習う基本は書物や資料から文字を通じて記憶に残す事であると認識していたのだが、身体全体を使って気づいていく事が今回の修行の底流にある事を実感したのだ。特に「坐禅」と「食事」に関しては、体中の五感を駆使する事によって、それまで気づく事が無かった心の中の変化を客観視することができ、貴重な経験となった。
 「坐禅」に関しては、悟りを得る為の修行であるとの思いで臨もうとしたが、住職から「一日や二日で何がわかるものではありません。とにかく呼吸に気をつけながら組んでみて下さい」とのお話をいただいた。確かに短期間で坐禅の何たるかを習得できるとは思わなかったが、実際に終えてみて、ある気持ちの変化に気づかされた。それは心の中にぎっしりと詰まっていた様々な記憶や雑念が少しずつではあるが、薄れていく感覚を得られた事だ。丁度濁った水溜りの水が時間の経過とともに次第に澄んでいく現象に似ているとでも言うのか、頭の中の様々な情報を引き算しながら、隠していく事によって心の空間を広げ、精神が整えられる感覚である。
 「食事」に関しては、前回の修行同様に厳しい作法に基づいてご指導いただいたが、飯台看と呼ばれる給仕の役には特に細かい気配りが求められた。従ってその気配りに対して食事をいただく側も細やかな応対に自然と感謝の念を抱く気持ちになれた。また全て沈黙の中で伝えなくてはならないので、相手の動きを常に観察し、最も効率的な形で瞬時に返さなくてはならない。これは体感によってこそ実現できる事なのだと切実に感じた。
 「禅に学ぶ」を通じて仏教の気づきを得るには書物や座学で習得する外に、自らの体で覚えこませる修行の重要性を再認識した。

 
禅は日常の酬酢にあり
B組 井上 孝太郎

 今回の臨済宗の修行では、仏教塾を受講した動機のひとつ、剣道でよく言われる「剣禅一如」とはどういうことなのか。「剣」と「禅」との間にはどのような関わりがあるのかを、この機会に知りうることができれば、との思いで参加しました。
 因みに過去、その種の関連書籍を読んでみても、いまひとつよく解りませでした。
 さて、剣道では「正座」で「法界定印」を結ぶのは坐禅の影響であることは容易に想像がつきますが、今回の修行体験で禅宗の所作は、そのひとつが、素早く、且つ
合理的な対処と知りました。
 たとえば、食事の所作においては、沈黙のうちに、動作だけで意を通じさせるなど、無言の内に「構え」や「作法」で相手の意図する所を感得する剣に似ていると思います。
 そして講義で「不立文字」や「教下別伝」という言葉で示されたように、言葉で教えられないこと、また文字では伝えられないことは、その所作などで感得させるということが禅宗の特徴だと理解しました。
 同じく剣道では、本で学んだり教えられたから体現できたり、上達するわけではありませんし、むしろ方法は教えるけれども、稽古を通して自得するしかない。これが禅での「動静の中の工夫」にも通じるのではないかと思いました。
 今回の修行ではその精神性までには深く踏み込むに至らなかったものの、修行での所作などから「剣禅」の初歩を知るキッカケになったと思います。
 明治の剣聖、山田二郎吉先生曰く「剣道は斬る、打つ、突く、押しゆるの時にあらずして、却ってその日常の酬酢のなかにあり」と、剣を禅に読み替えれば、禅の修行も日常そのものを通して、仏道に近づくことのひとつではないかと思いました。


心の平安を求めて
B組 佐藤 しのぶ

 前回にも増して厳しい食事の作法が印象的でした。音をたてないというのは、生きるために必要な食事をおろそかにしないで、自覚して、感謝して頂く為の作法なのかなと思いました。飯台看の作法は、給仕される人に対する思いやりの形であり、給仕される方の作法も飯台看が給仕しやすい為の形だと伺いましたが、形を覚えるのが精一杯で相手の事を考える余裕がありませんでした。生飯というのも他の生き物のために、最初に食べ物を取り分けるという事で、いつでも自分の事を一番に考えてしまう私は大いに反省しました。他の人の事を一番に考えるのは無理かもしれないけれど、自分の事と同じ様に考えられるようになりたいと思いました。
 坐禅は、心得のプリントに「真実の自己を自覚するまで真剣に坐り込もう」とあったので、真実の自己とやらに会えるかも知れないと秘かに期待していたのですが、とんでもない思い上がりでした。坐り始めは呼吸に集中しているのですが、いつの間にかとりとめのない想いが、振り払っても振り払っても次々と押し寄せて来て、自己はどこか遠い所へ行ってしまっています。気が付くと、背中が曲がり、顎が出て、呼吸も短くなっ
ています。六回の坐禅で真実の自己など分かる筈もないけれど、煩雑な日常を忘れて、朝、昼、晩とそれぞれ違う光や風や音を感じて坐っている自分が、今ここに確かに生きているという事を感じる事ができたのはいい経験でした。
 食事にしろ坐禅にしろ、目の前の事に気持ちが集中出来ず、心を調えるという事の難しさを実感しました。修行で感じた事、考えた事を、生活の中で生かしていかなければ意味が無いと思うのですが、修行から帰ったら又前と同じばたばたした毎日に戻ってしまい入塾の目的だった「心の平安」への道のりはまだまだ遠そうです。   

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