授業情報

第30期生第2回修行・鹿野山禅研修所感想文

日付:2017年12月10日

 鹿野山禅青少年研修所における禅修行を体験して、受講生の皆様からは様々な感想が寄せられました。その中から一部を掲載させていただきます。


自分自身を見つめる 

A組 金子 智和

 今回、第二回目の修行は鹿野山禅青少年研修所であった。鹿野山の初夏の風に心地よさを感じたが、同時に研修所の厳粛な雰囲気に心引き締まる思いがした。いざ、修行がはじまると、叉手当胸をはじめとした独特の禅宗の作法をご教示頂いた。この作法には、威儀即仏法という教えが根底にあり、日常の立ち振る舞いにその人の人格、徳が現れるため、日常の作法を丁寧に正しく行うことが重要であると伺った。普段、都会で忙しなく日常を過ごしている私は妙にこの教えに納得させられた。あらゆるものが効率化、簡略化され、無個性化されていく現代の日本で自分を見つめる時間が少ないように思う。禅宗の厳格な作法、規律は、私のような現代の都会暮らしをする者に所作の一つに意識を向けることを通じて、自分を省みなさいという気づきを与えるものであると思った。

 禅宗が持つもう一つの特徴に、坐禅がある。今回、坐禅は初体験であり、坐禅の奥深さを痛感させられた。坐禅で大切なことは、呼吸に意識を向け、無心になることとご教示頂いた。しかし、これが非常に難しく、いざ、坐禅をはじめると、意識は徒然なるままに、次から次へと移り変わり、また時には睡魔に襲われる。自分自身の意識のコントロールの難しさを知った。これは前述した、日常、いかに自分自身を見つめる機会が不足していることに起因しているものなのだろうと思う。

 今回の鹿野山での修行は仏教そのものの知識等にとどまらず、日常生活でつい忘れがちな自分自身を知ること、見つめることの大切さを気づかせてくれるものであり、非常に有意義な時間を過ごせたように思う。今後とも、仏教の学びを通じて、様々な発見をしていきたいと思った。


禅の修行を終えて

A組 川南 匡

 禅の修行所である鹿野山禅青少年研修所において、三日間の禅の修行体験をしました。

 「体の姿勢を整える調身、呼吸を整える調息、そして心の安定に至る調心」と坐禅の仕方を教わり実践することで、貴重な経験を積むことができたと考えます。坐禅自体は初めてではなかったものの、朝、昼、晩と一日に数回実施される坐禅では、恥ずかしながら膝に疲労を溜めてしまって、弱音を吐いてしまうところでした。高野和尚から「足が痛いのは、生きている証拠。修行の後の達成感を味わって下さい。特に姿勢だけは気を付けて、息を長く吐く工夫をしよう。そして心の安定を図りましょう。」と講義でのアドバイスをもらい、その後の坐禅では集中して禅に取り組むことができたと思います。やはり一朝一夕には成すことができなかったと思いますが、雑念を払おうとする思考の中で、自分自身を見つめ直す良い時間になったと思います。目や耳等の五感から入る情報を、ありのままに心静かに感じることで、色々な己の拘りを発見し反省できました。また修行を重ねるにつれ、蚊の羽音を聞いても、血を吸いたいのならどうぞ。と心穏やかな気持ちになれたことを覚えています。

 最終日、写経の願いに「心の安定」と書きました。一昔前の自分であれば、高望みばかりの願望を書いたかもしれませんが、仏教の教えに触れた今となっては、願いではなく目標と捉え、この言葉を選びました。日々精進を忘れないように、また、この一瞬一瞬が良き縁起であり、紡いだ縁に恥じぬよう自分自身を磨いていこうと思います。

 最後に、高野和尚から「仏教塾の皆さんは、この良い縁を繋いで下さい。良い一生を送ってください。お互い精進し合いましょう。」と激励の言葉が今も心の余韻となって残っています。


ZENから禅へ

B組 阿部 悦子

 私にとっての禅はZEN。これまで禅画アートでしか接したことがない。初めての「禅ライフ」だ。

 本格的に坐禅を行ったことも初めてだった。怒りで爆発したくなるほど腹立たしいことを抱えたまま、今回の第二回目修行体験に入った。だが、朝、昼、夜と坐禅を繰り返し、時には、気を失いそうなほどの睡魔に襲われたものの、自身の息を丹田に至るまで意識し、感性を研ぎ澄ましていく。すると、頭の中でグルグルと回っていたことが徐々にクリアになってきたではないか。怒りを思い出すよりも、今は、鳥のさえずりに耳をすまそう。立ち昇る香に包まれよう。静かな時間に身をゆだねることの方がずっと心地よく感じてきたのだ。元の生活に戻っても、心を落ち着かせる手段のひとつとして取り入れていきたい。

 白隠禅師の『坐禅和讃』との出合いは、私にとっての目覚めのきっかけとなった。何度か口にするうちに、ギョロリと目を開く達磨絵の「白隠さん」が、新たな白隠=禅ワールドとして染み入ってきたのだから。

 現代は、処理できないほどの情報が溢れている。それでも情報が足りない、欲しいと願う。私自身も、そのひとりである。常に「水(情報)がほしい!」と叫んでいるような、枯渇した日々。そんな今だからこそ、この讃は重要な意味を成すと思う。指導者を担ってくださった高野公義和尚の説明を伺いながら、本当は、満たされているはずなのに、もっともっとと多くを求め続けている自分自身を知る。一方で、この讃が、東北の大震災の被災者の前では読みにくいとも聞く。意味以前に、連なる言葉の方が彼らにとっては残酷に響くのだろう。私なりの解釈ではあるが、「いつか生死を離るべき」「無念の念を念として」心安らかに、過ごしていただきたいと願うばかりだ。


黙していかん

B組 田嶋 広士

 しょっぱな大熊学監の大きな声に気圧された。「びくっ」である。絶えて久しかった「びくっ」である。そして「黙」。今回のテーマは「黙」であった。

 叱られた。「ありがたかった」。今年は父の三十三回忌である。私を叱って正しいことを教えてくれる人がまだいた。思えば職場でも家庭でも叱ることをしなくなった。ずるいのである。真剣に向き合えば、相手がどうとるかなど考えることはない。正しいことを伝える。ただそれだけのことである。

 「無駄がない」学監の草履を脱ぐ所作に感服した。脱ぎながら手にしている。「工夫」なのだと思う。昔は盗んで覚えた。今は優しく教えてくれる。これもありがたいことだ。私はせっかちで心が先に進んでしまい、へまをする。きちんきちんとその場に向き合ってことに臨みたいと思った。

 警策を望んで受けた。清々しかった。(やさしく手加減をしていただいたのだが)望んで行えば気持ちがよい。究極のストレスコーピングと思う。ただ、ときには「曲がってもよい」とのお話も大事にしたい。海を目指していればの話だけれど。

 「黙」を思えば、日々の生活は実に騒がしい。円滑なコミュニケーションと称して媚びている自分がいる。上州ではお世辞を「おてんたら」と言うが、自分にも他人にも「おてんたら」を言っている気がする。まだ覚悟がないので、すくなくとも自分には使わないで済ませたい。
 「一大事とは今日只今の心なり」


ていねいに生きる

B組 西木 達夫

 私は、今回の鹿野山禅研修所の修行に参加して印象が強かったのは、ていねいに生きることは、今を生きることになると感じたことです。研修所に着いて、まず初めに説明を受けたのが、音を立てない工夫をいかに行うかということです。いつもなら、禅堂の入口にある下駄箱にサンダルをしまうとき、今まででしたら放りこむのを、音をしないように丁寧に置いたところ、その行為に集中している自分を感じました。また、手を洗うときもジャージャー水を流して洗うのではなく、音がしないよう水を絞り洗うと手を丁寧に洗っているし、集中して洗っていることに気づきました。すのこを音がしないよう渡る時、釘の打ってある強い部分の所を踏むと、きしまず音がしない、この時も慎重に足を運ぶことから集中している。今の生活が、いかに無駄な音に囲まれている生活を送っているか、普段の生活で音がしないよう少しでも実践していく心地よさを知りました。

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