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修了レポート 曹洞宗 「曹洞宗の宗義と宗史について」

日付:2016年5月10日

第28期 和田 誠

 曹洞宗は、道元禅師が、名門久我家に生まれたものの、数々の縁に導かれ、若くして出家し、比叡山で学び、更なる仏道の本質を求めて宋へ渡航し、如浄禅師を正師とし、法脈を日本に伝えたことから始まったといえる。帰国し、博多へとどまった後、京都の建仁寺での修行の後、安嘉門院の帰依もあり、深草の安養院、興聖寺と移り、布教・修行に努めたが、比叡山天台宗の朝廷を巻き込んだ圧迫等もあり、都を離れ、越前に大仏寺を建立した。後に仏法が始めて中国に伝来した年号からとり、永平寺と改め、修行道場とした。この地で四十七歳から病に倒れ五十四歳で入滅するまで正伝の仏法の継承と弟子の育成に努め、二代目懐弉から義介、瑩山へと伝承し、今日に伝えられてきた。

 臨済宗と対比して黙照禅と呼ばれ、只管打坐即心是仏を承当することを宗旨としている。

 宗義は、道元禅師の主書である正法眼蔵九十五巻を根本聖典とするが、明治二十四年に編成された修証義を標準としている。

 修証義は、正法眼蔵を、懺悔滅罪、受戒入位発願利生、行持報恩の各章に分け、総序を加えたものであり、禅戒一如、修証不二の妙締を実践することを、教義の大綱としている。仏教のねらいとして、生を明らかにし、死を明らかにすることは、大事な修行であり、生死は、静寂な悟りの場であると得心し、生死として厭うものではなく、涅槃として喜ぶべきものでもなく、生死のこだわりを離れて一大因縁として受け入れることであるとしている。

 人として生まれ、仏の教えに遇うことも縁であり、様々な気づかない目に見えない縁により生かされており、この尊い命を虚しく過ごして、無常の風に委ねることはならない。自分には分からない露のような命は、自分の思い通りにはならず、命は光陰に移されて、一時もとどまることはない。無常は、あっという間にやってきて、誰も助けることはできず、一人で黄泉の国に行くだけであり、自分についてくるのは、只善悪の行為と習慣だけである。

 人間としてこの世に生まれ、因果、三世を知り心と行為の縁起の理を知るべきである。
 善悪の報に三時があり、順現報受、順次生受、順後次受で、善や悪の行いと習慣の影響力は、時間差がある。旧業、宿業、三時業、異熟業が現在の本人の心と行為に影響していくものであり、その選択により愚かさを繰り返したり、智慧の自覚により、繰り返さなかったりすることを知るべきである。今生のわが身、命はたった一つであり、むやみに因果を否定する間違った教えに陥り、その間違った影響力に染まるべきではない。

 懺悔滅罪

 仏や祖師方は、すべての人を包む慈しみの門を開いて待っていてくださる。

 人間は、六道に迷ったり、三時の三段階の悪しき心と影響力、自己の心と行為は、自らの責任であるが、仏に照らされて懺悔することにより愚かさが消えて、無心無我が実現し心も影響力も身軽になる。さらに罪の心と愚かさは、無我の智慧によって包まれ清らかになる。

 仏の前に仏に照らされて懺悔すると、仏と共鳴し、其の利益は、すべて心あるもの心のない命まで包み込んでくださることになる。その大いなる心は、たとえ過去の間違った心と行いと習慣が積み重なって求道の妨げになっているとしても、「我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔」と懺悔すれば、必ず仏と祖師方の不思議な助力があり、罪の根源をなす自我を消し鎮めてくださる。

 受戒入位

 東の中国と祖師方が正伝してきたところは仏法僧を敬い拠り所にするということである。

 徒に祟りを怖れて山神鬼神等に帰依しても生老病死の衆苦を根本的に解決することはできない。三宝に帰依することで衆苦の解脱だけでなく、悟りへの道を成就する道でもある。

 其の帰依三宝とは、「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と唱え、仏弟子となるということは、必ずこの帰依三宝によって成り立ち帰依三宝によって仏教徒としての資格となるのである。この功徳は、仏と感応道交するとき成就するのであり、三宝を拠り所にする功徳は最も尊く、他の価値に比べようのないこのうえないものであり、衆生は、必ず信じいただくべきである。

 次には、三浄戒、十重禁戒を慎みの習慣として約束しなければいけなく、これらは、あらゆる仏が保持してきたものである。

 受戒するという事は、三世の諸仏が実証してきた正しい教えを喜び求める確かな悟りが備わるのであり、衆生仏界を受ければ、ただちに仏の世界に入り、立場は仏陀と同じ世界となる。諸仏はこの悟りの中に安住しているので、一つ一つの働き、現象に知覚を遺さず、無為の功徳、無作の功徳を悟りとし、発菩提心をおこすこととなる。

 発願利生

 菩提心を発すという事は、自未得度先度佗の心を発すことである。此の心を発せば、すでに一切衆生の四衆(男僧・尼僧・男女の信者)の導師であり、子供、男女を問わない慈しみの深い父親である。若し菩提心を発して後、六趣四生に輪転したとしても、その繰り返しのそれぞれのご縁は、皆悟りの修行の願いを実践する場となる。

 衆生を利益する仕方は、四種の智慧の実践があり、一者布施、一者愛語、一者利行、一者同事である。これらは菩薩の願いの実践である。

 布施は貪らないということであり、自分の持てる力で、それを人のために役立てるという事である。

 愛語というは、衆生を見るに真っ先にやさしさの心を働かせて、顧みるような愛の言葉を差し上げる事であり、慈しみの心で人を見ること。赤子を見るような気持ちで言葉を使うことである。

 利行は、困っている人を助ける手立てを働かせることであり、真実世界の働きであり、平等に助ける者も助けられる者をも救われるものである。

 同事というは、自分の立場に逆らわず、相手の立場にも逆らわず、同じ立場に立ち、相手に和して導くことである。根本的に菩提心の行願の実践には、四種の智慧の道理があり、人々を救い慈悲に包み込んでいく働きにその恵みをいただいているという慈悲の功徳を敬いたいものである。

 行持報恩

 苦しみ多き人間に生まれてきたというご縁により、仏のことばを聞き、姿をみることができたという仏縁を喜びたいものである。正法に出会うことができる私たちの境遇に感謝し、悟りを明らかにしてくれる師に遇うためには、氏素性、顔形、欠点や癖を見ることなく、ただひたすらに智慧を学ぶことが大切である。今の仏法を聞ける幸せは、仏祖や祖師が単伝していただいたお陰であり、感謝し報いなければならない。そのご恩に報いる方法は、一日一日の全生命力をなおざりにせず自分の欲望のために使わないで、無心無我で働くことが仏心を行い保つということである。

 光陰は矢よりも迅やかなり、身命は露よりも脆し、此の身命は、尊ぶべき命であり肉体である。この仏の心を行い持つ体と心は、自分ながらに愛しいものであり、自ら敬うべきものである。私たちの行いによって仏の命と心と生き方が実現し、仏の大いなる道が自由自在に達成されているのである。であるから自らの一日の生き方は、そのまま仏の命を行い持つことである。

 諸仏とは釈迦牟尼仏であり、釈迦牟尼仏とは、即心是仏であり、染汚心が働きだす以前のあるがままの心(不染汚心、如実知見)を仏というのである。即心是仏は、誰のことであるか学び、工夫することが、仏心に報いるありかたである。

 以上が宗義の趣旨である。

 道元禅師は、宋の如浄禅師から相伝しそれらの教えを自ら正法眼蔵などに記録して弟子に伝え、更に坐禅義、典座教訓など修行の方法心構えなども細かく示し、日本における曹洞宗を一代で確立するという偉業を成し遂げた名僧であると思われる。 以上

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