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修了レポート 真言宗 「弘法大師の生涯について述べよ」

日付:2016年5月10日

第28期 三木 照嗣

 弘法大師さまは宝亀五(七七四)年六月十五日讃岐国仲多度郡にて佐伯善通卿と玉依御前の間にお生まれになりました。お大師さまは十五歳で伯父の阿刀大足に連れられて奈良の都に上り、勉学をされますが青年時代は苦悩に満ちていました。都の栄華と虚飾に満ちた当時の風潮と大学内の立身出世主義は、遂にお大師さまをして学校を去る決心を固められ、仏門に入る事になったのです。三論宗の高僧勤操大徳を師と仰ぎ「求聞持法」を授けられ仏道修行に精進されましたが、当時の修行を三教指帰に「阿国大竜ケ嶽に登りよじ土州室戸に勤念す、谷響きを惜しまず明星来影す」とお書きになっています。

 二十歳で勤操大徳に従って、和泉国槙尾山寺で出家得度をしたお大師さまは、奈良の都で仏教を学ばれました。大仏殿に二十一日間参籠し「願くは三世十方の諸仏、われに不二を与えたまえ」と祈願をこめられ、大和国高市郡久米の東塔で大日経七巻を発見されたのは、二十三歳、延暦十五年初春の事でした。

 三十一歳の時、延暦二十三年(八〇四)五月十二日、藤原葛野麿を遣唐大使とする遣唐船に便乗して留学生の身分として入唐しました。一行の中には比叡山の最澄上人もおり、上人は政府の還学生として正式の身分でしたが、大師は単なる留学生で政府の援助も大きく下回りました。お大師さまの乗った船は第一船で、南へ流される事一ケ月余りの後、今の台湾の対岸、福建省赤岸鎮に漂流しました。船はボロボロの海賊船と怪しまれ上陸を許可されず、これに苦慮された大使はお大師さまに代筆を頼んで上陸嘆願書を書き、ようやく遣唐船と判って上陸を許可されたのです。今もこの文書は「大使の福州観察使に与うるがための書」として残されています。その年の十二月二十三日、大師は長安の都へ入る事ができました。しかし青龍寺を訪ね、密教の第七祖恵果和尚に合う事ができたのは半年後の六月の事でした。

 和尚より金剛、胎蔵、伝法の三つの灌頂をお授かりになったお大師さまは、名実ともに即身成仏の体現者として、密教の第八番目の祖師となられました。その時、和尚から与えられた灌頂名が「遍照金剛」です。灌頂とは密教最深祕の法で「自ら仏に成る」という得仏の深い体験であり、密教の覚りの境地です。

 お大師さまが三十三歳の時、明州を出発し帰国の途につかれました。大同元年十月二十二日、高階遠成に託して留学の報告書「御請来目録」を朝廷に提出されています。

 平城天皇より新宗教を開く事を許可されたお大師さまは、大同二年十一月八日、以前大日経を発見された大和久米寺で大日経の講讚をされました。この日をもって真言宗は立教開宗され、三十四歳の時でした。

 弘仁七年、四十三歳の時、嵯峨天皇より高野山を開く事を許されて、当地を真言密教護法の根本道場とされ、また秘かに高野山をご自分の入定地と定められたのです。

 弘仁十四年には京都東寺を賜り、五十五歳の時には綜芸種智院を開き、我が国最初の民衆学校を創設という業績を挙げられました。

 承和二年三月二十一日「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば我が願も尽きなん」との御誓願のもと、高野山に御入定されました。

 大師御入定後、八十六年後延喜二十一年時の醍醐天皇は、その徳を讃えられて「弘法大師」の諡号(おくり名)を下賜せられました。

 お大師さまの著書は、「十住心論」「秘蔵宝鑰」「般若心経秘鍵」「三教指帰」また弟師の真済纒の「遍照発揮性霊集」等多数です。

 この様に芸術から教育、医療、土木技術等あらゆる方面で卓越した才能で、福祉事業にも力を注がれました。偉大な業績を残されたお大師さまの生涯は早くから伝説化され「大師信仰」として、現代でも多くの人々の精神的な拠り所となっているのです。 (了)

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