昔、バーラーナシーの都に一人の豪商が住んでおり、ことあるごとに施しをして、多くの貧しい人に慕われていました。
ある時、一人深山に入って修行に励んでいた辟支仏と尊称される修行者が、七日間の断食行を終え、托鉢に出かけようとしていました。
辟支仏は土鉢を両手に持ち、静かに呪文を唱えました。すると辟支仏の体は、そのまま空に浮かびあがり、瞬く間にバーラーナシーの都に着きました。
豪商の館ではちょうど食事時と見え、庭に作られたテーブルの上に、召使いたちがごちそうを運んでおり、館の門前の布施堂には、多くの貧しい人々が群がっています。辟支仏はごちそうの香りに引き付けられるように、少しずつ空を降りていきました。
やがて、豪商が椅子に座ろうとしてふと空を眺めた時、一人の辟支仏がこちらに近づいてくるのが目に入りました。豪商は慌てて椅子から離れると、手を合わせて信従の礼を表あらわし、「尊い辟支仏が托鉢に来られた。さあ、早く差し上げる鉢を持ってきなさい。」と近くの召使いに命じました。
一方、台所の陰から悪魔が姿を現し、周囲を見回すと、空中の辟支仏を見て、「あの辟支仏は、七日間の断食行をしてきたはずだ。今日食べ物の布施がなければ、餓死をするに違いない。よし、今から布施の邪魔をしてやろう」と、体を震わし、何か怪しげな呪文を唱えました。すると、中庭には巨大な穴が開き、その中で火が燃えだして庭一杯に広がり、火炎地獄のように燃え盛りました。 鉢を持って出てきた召使いは、目の前に噴き上がる火柱を見て、びっくりして「ご主人様、大変です。中庭が火の海です」と叫び、豪商が後ろを振り返ると、天をも焦がす火炎が上がっています。
豪商は火の海をじっと眺めると、「これは悪魔が仕組んだことに違いない。私の布施を妨害するつもりだろう。わたしがひるむ者ではないことを見せてやらねばならん」と自分の鉢を両手に持ち、燃え盛る火炎に向かって歩いていき、炎のすぐ近くまで行って上を見ると、怪しい者の姿がありました。
「なぜ、このようなことをするのだ」と問いかけると、「お前の布施の邪魔をするためだ。そうすれば、あの辟支仏は飢えて死ぬはずだ」と悪魔は不気味に笑いながら、手で火炎をあおぎ続けました。
布施の邪魔は許すまいと「尊敬する辟支仏よ、私はこの火炎の中に入って二度と帰ってこないでしょう。だが、私が捧げるこの食べ物だけはお受け取りください」と鉢を空中に捧げて豪商は言い、そのまま燃え盛る火炎の中に入っていきました。
その時でした。燃え盛る巨大な穴の底から突然、噴水が上がり、一本の美しいハスの花が現れて、豪商の体をすくい上げました。豪商を載せたハスの花は空中高く上がっていきました。そこには辟支仏がにこやかに待ち受けていました。豪商は目を輝かせて鉢をささげ、次々と食べ物を辟支仏の鉢へ入れました。いつしか空には大きな虹がかかっていました。
「あなたの生命をかけた布施は、なにより尊い。ありがとう」
辟支仏は礼を言うと、そのまま虹の上を歩いてヒマラヤ山へ帰っていきました。悪魔は地団駄を踏んで悔しがりましたが、どうすることもできませんでした。
(ジャータカ四〇引用)