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第29期生 第一回妙厳寺・南無道場修行感想文

日付:2016年7月10日

 終了後受講生の皆様からは日蓮宗妙厳寺における修行を体験して、様々な感想が寄せられました。その中から一部、掲載させていただきます。

心に残る修行

A組 登内 綾子
 今回の修行でいくつもの心に残るものがあり書き切れないが、特に三つを挙げたいと思う。
一、 仏法の役割
 「自然界の動植物は与えられたものだけ、そのままで生きている。しかし人間は我儘で身勝手。人間に宇宙の摂理をわきまえさせるのが仏法」私もいつの間にか、人間は地球上の生物のピラミッドの頂点にいるかのような錯覚を持っていた。自然界から必要以上のものを搾取する、無駄な殺生をする、その上、公害やこの度の原発事故で自然界を長年汚染して危険にさらしている状態を見れば、人間は不遜な生物、高等生物どころか下等な生物かもしれない。
 私たちの三度の食事。いつもは何となく調理し、時には余らせたり捨てたり。食事中にはおしゃべりやテレビ等に気を取られて、食物を見つめることなく終わらせてしまうこともしばしばだ。今回の修行でいただいた食事では、静かな場所で、目の前に用意された生命を一つ一つ確かめながら、野菜を育てた人、調理してくれた人の手間を思い、一口一口、土と太陽の滋味を味わいながらいただくことができた。一口一口、自分は今まで何と周囲にある自然界の生命や、周りの人々の思いをないがしろにして、雑に生きてきたのだろうと悔いる時間でもあった。
二、 価値観
 「現代は経済的価値で優劣をつけている」という言葉にもハッとするものがあった。自分もそれに毒されている一人だ。特に都会に生きていると、周囲との競い合い、誰かをライバル視したり、優越感と劣等感で日々めまぐるしく心が乱されたりもする。
 "一切衆生悉有仏性"人それぞれが自分の持つ特性を活かすのが本来の姿であって、それは一つの価値観で比べられるものではない。私が自分を大事に思うように、相手も自分が大事。私はこれまで自分が理解できない相手の考えや行動に怒ってしまうことも多々あったが、これからは相手の精一杯生きている姿を自分の心に一度映してから応えたいと思った。
 人それぞれが持って生まれた特性があることは分かったけれども、「自分の特性」がまだまだ分からない。これを探すのが遠い道のりになるような気がする。
三、 身体で学ぶもの
 「行」について、私はこれまで曹洞宗の方に習った坐禅しか経験が無かったので、日蓮宗の唱題行はとても新鮮な体験であった。欧米では坐禅が「マインドフルネス」と好まれているようだが、日頃饒舌な人ほど、黙って坐ることが行になるのではないだろうか。むしろ口数の少ない大人しい日本人には唱題行のような、肺をフルに使って大きく発声する行の方が非日常であり、魂の解放になるのではないかと実感した。二日目の深心行の時は自分の心身が世界に溶けきったような、かつて体験したことのない不思議な感覚を覚えてとても驚いた。
 人生の折り返し地点にあたり、今回の修行で、仏の教えとの良い出会いをいただくことができました。

仏教的なるもの

A組 山部 康
 いつからのことか定かではないが、さまざまな場面で、「手を合わせ」ている。それについて、何となく「仏教的なもの」が体に沁み込んでいると感じていた。そこで、仏教について知りたいと思い、仏教塾に参加した。
 仏教に関する本を読んだこともなく、仏教についてほとんど知らなかったものの、仏教には包容力や寛容さがあると感じていた。そして、他の宗教を認めない一神教の不寛容さに対しては、違和感があった。
 今回の修行中、「各宗教の違いは、どの登山道から頂上を目指すかという点にある。どの方角から見るか、どの場所から見るかによって、山の形はそれぞれ違うが、同じ一つの山である。」という趣旨の話があった。
 その言葉を聞いた瞬間に、ハッとした。そのとおりだと頷いている自分に気づいた。その言葉は、スーと何の違和感もなく心に沁み込んできた。
 自分の考えとは異なった考え方に対しても「そういう考え方もある。」と寛容であるべきだと思ってきたが、仏教のこうした考え方がいつの間にか両親などから伝わり、仏教的なものが私に沁み込んでいたのだと感じた。
 自宅に帰り、修行内容を妻から訊かれて、参加者と声を合わせて読経したこと、食事の作法、作務のこと、講義の内容など感じたことを答えたところ、「何か変わったね。」と言われた。
 私は、以前と同じように答えたつもりである。私自身の何かが変わったかどうか、分からない。しかし、仏教について、少なくとも一つを知って納得し、何かが変わったかもしれない。
 私自身の何が変わったのか。仏教について学ぶにつれ、今後さらにどう変わるのか。自分自身を見ていこうと思う。

ありのままの目

B組 赤野 公昭
 初修行は痛さに始まりました。膝、足首、股、ふくらはぎ、背中に激痛が走る中、残念ながらまったく坐禅に集中できませんでした。意気込んできた気持ちも急速にしぼみ、ついていくのがやっとの自分。最終日の朝行も、痛さに耐えながら必死で読経していました。その時です。ふと、本堂の窓が開いていることに気づきました。緑が鮮やかだなと思っていると、爽やかな風が頬をなでました。その瞬間、窓を開けてくれた人のことが思い浮かびました。私たちが修行する前、朝早く起きて準備してくださっている人たちがいる。感謝が心から溢れてきたのです。その時だけは一瞬痛さを忘れていました。普段の生活にはない研ぎ澄まされた感覚でした。
 この体験を先生方にお尋ねしたところ、「それは自分の尺度が変わったということ。損得勘定ではなく、一瞬でも己の我から離れ、ありのままの目になれたのですね。それが仏の目で見るということですよ。」と教えていただきました。
 振り返れば、今回の修行体験は、体の痛さと心の窮屈さの連続でした。食事から睡眠まですべてを自由に出来ず、起きてから寝るまで苦しさばかりでした。途中まではまったく意味が分かりませんでしたが、この苦しさはありのままの自分を覆っていた自我だったのではないか、修行の中でそれを研ぎ澄ましていたのではないかと感じています。
 一瞬でしたが、ありのままの目は静かで、透き通っていました。これは体験でしか出会えなかったことです。頭ではなく心で感じる。これこそ私が望んでいた成長の道です。頑張ってくれた心と体に感謝し労わりながら、これからの修行でさらに自分の心を磨いていきます。

修行で気づいたこと

B組 市村 恭子
 自分の心のあり様に最初に気づかされたのは、初日の外作務のお墓掃除の時でした。手前から草取りをしていきましたが、奥に入って卒塔婆が目に入ったとき「私がこの人たちのお墓をきれいにしてあげている」という気持ちが起こりました。それまでは何も思わず草を引いていたのに、亡くなった人であっても他人との関わりができた途端、恩着せがましさや他人から良く思われたいという、まさに盲目的自己中心性にハッとしました。人は良くも悪くも他人との関わりの中にあるということを痛感しました。
 また二つのことが十分でないまでもわかってきました。食べ物への感謝はどこでも言われることですが、表面的にしか思っていませんでした。それが「石は食べられない」と伺ったとき "食べ物"とはすべて "命あるもの"であったのだ、と納得いたしました。今日までどれほどのいのちを糧としてきたか、空恐ろしい思いがしました。帰宅してから勿論、食前食後の言葉を唱え "冷蔵庫を開けたとき、目に入ったものをチョコっと食べる"ことも止めました。お腹一杯食べていましたが、一定量を頂いて「これ以上が自分に必要か?」と問うてみると、多くはNO!と返ります。
 「妙法」、「久遠の本仏」とは、宇宙の背後にある摂理、とお教えいただいたことは大きく、故に仏教が唯一神信仰ではないこともわかり、また自分もその一部であるということを深くは理解できないまでも、感じ取ることができ、漸く仏教を学ぶ入口に立てたのではないかという思いがします。「学んでいくことで仏教が分かってくる」と言っていただいたことは、今後の希望となりました。

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