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第二十九期生第二回修行・鹿野山禅研修所感想文

日付:2016年9月10日

第二回修行の後、寄せられた受講生の感想文の中から興味深かったものを一部紹介させていただきます。

妄縁起な自分

A組 時松 和輝

 仏教塾・仏法修行第二回は、「禅に学ぶ」ということで、禅宗(臨済宗)について身体を通しての体験修行をさせていただいた。

 先ず初日の最初の坐禅の時間、前日の入眠が午前四時であったため、坐禅の前からあくびを我慢しているような状態で、実際、坐禅というより坐眠となってしまい、そのことを禅行が終わった際に講師である高野和尚にきつく戒められた。「全員の中であなたが一番寝ていた。禅の修行を、どうせ自分は禅宗を深く学ぶわけではない(=専門課程として履修しない)と軽くみている。そして、自分に負けている!」

 そのように、受講生全員の前で言われて、かなり恥ずかしく感じたし、正直なところ、和尚に対し内心では立腹した自分が居た。それでも時間が経つにつれて、「高野和尚は私を真剣に叱ってくれた。自分に負けているというのも事実だ!これも御仏からのメッセージではないか?」と、そのように捉えることが出来て、それ以後、一層真剣に禅行に励むことが出来たと思う。

 二日目の大熊学監による講義の中で、「妄縁起」という言葉が紹介された。西洋的な思想の中に、因果律という言葉があるが、仏教では原因と結果の間に「縁(人との出逢い等)」があり、その縁によって因果の結果が変化してゆくのだと。その縁が生じた際の縁起を正しく見ない・見れないことを「妄縁起」というのだと私は理解した。大熊学監の講義を受けて、自分に与えられた「縁起」に感謝し大切にしてゆくことが、人としての成長や幸福につながってゆくのだから、常に縁起を正しく見ることの出来る自分でありたいと強く感じた。そして縁起を大切に生きていれば、「朝は希望に起き、昼は勤めに励み、夜は感謝に眠る」という、人間としてまっとうな生き方が出来るようになる。そういうことなのだなと深く納得した。

 そういう視点でみてゆくと、初日の最初の禅行で、高野和尚に叱咤されたことも、自分の愚かさに気づき、真実に目覚め、生きてゆくために必要な「縁起」であったのではないかと、今は感じている。私たちは日常の中で、そうした有り難い縁起が生じているのに、それと気づかず、反対にストレスや災い事として、捉えて生きてしまっているという「妄縁起」な状態で日々を過ごしているのかも知れない。もしそうだとしたなら、大変にもったいないことであり、お釈迦様が人間に伝えたかった苦しみのない幸せな生き方・心の状態とは正反対の状態で人生を歩み続けることとなっても致し方なしと言えるであろう。

 今回の研修から戻ってきて、目を閉じて禅を行じると、いつも研修所で叱咤された時のことが思いだされる。これからも、仏教塾で一番最初に禅を学んだ時の縁起を忘れずに行を深めてゆきたい。


作務に出会って

A組 中村 寛子

 作務とは、自分が使ったものをきれいにしてお返しする作業と考えていた。自分が使用した食器は洗い、使った部屋は埃を払い、雑巾をかけ、元の状態にしてお返しする。草取りや庭の掃除などの外作務はお世話になった方へのお手伝いと思っていた。

 今回、大熊先生から「外作務は動中の工夫 静中に勝る事 百千億倍なり」との白隠禅師のお言葉を教えていただいた。だが「只管打坐」、すなわち坐禅しつくすことが一番大切と思っていた私には、坐禅よりも作務のほうが修行になることもあるとは思えない。

 鹿野山の初外作務は、中庭の草を取る作業だった。禅様風に設えられた中庭は、白い砂利に黒い石が配置され、箒の目もくっきりと立てられていた。草むしりの必要はなさそうだ。だがしゃがんで見ると、足元には雑草がびっしりと生えている。取り続けても次々に雑草は現れ、少しも減らない。

 ふと、この庭は私の姿そのものではないかという考えにとらわれた。表面は穏やかに見えても、心の中は愚痴という雑草ばかり。心が調ったと思っても禅堂を出た途端、自我がムクムクと湧き上がり、終わりがない雑草のように私の自我も尽きることがないのだ。

 修行は坐禅することだけではなかった。毎日の雑事を丁寧にしていくことも大切な修行と教えてくださった作務だった。 


修行を通して日々の忙しさを考える

B組 岸崎 晃一郎

 私は鹿児島県の田舎で生活をしている。都会の喧騒からは離れており、田畑に囲まれた風景が広がっている。けれど私の心はいつも慌しい。農作業や大工仕事、竹細工に蕎麦打ちなど、やりたい事が山積しており常に時間に追われたようにして過ごしている。幾つも仕事を抱えていると、目の前の作業に向っていても、次のこと、さらに次のことへと心が移ろい、作業が雑になる。道具が失くなったり壊れたりして、急いでいる積りが却って仕事が遅くなるということも縷々ある。

 今回、作務の前に大熊先生が「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」という言葉を示された。工夫と言っても早く草を除る為のものではなく、如何にして作業に専心し、専一になるかの工夫であるとも仰っていた。この事の大切さを、今あらためて実感している。草を引き抜く指先、そして抜かれた草からできるだけ意識を離さないように、日常の作業の中でも、手にする道具、それを扱って為される仕事、対象物に心を留めるようにする。すると自然と動きが丁寧になり、道具も失くさずに済んで、結果的に仕事が早くなる。

 「叉手当胸」にしても、坐禅にしても、普段「あれがしたい、これがしたい」と動き回っている心を"今、ここ"に引き戻して留める訓練であったことが、帰ってきてから一層強く感じられる。これからが修行の本番という思いである。

 「やりたい事」について吟味していくと、本当に必要な事は案外少ない。「やりたい」という欲望に対して、能力や時間、その他の条件が適わずに、出来ない事が重なって「忙しさ」につながっているのではないだろうか。私もいずれ命を終えることになる。時間には限りがあるが、仕事は限りなく存在する。先のことに心を奪われないように心掛けたい。自分にできる範囲の事を、できるだけ丁寧に、心を込めて行う。その積み重ねが私にとっての真の仕事となり、役割ではないかと感じている。


坐禅の意味

A組 田邊 さやか

 欧州では坐禅をすることは「何か目的を達成する事」、運動のような「呼吸法や坐るトレーニングの一環」という印象だった。今回禅寺で気づかされたのは坐禅をすることに目的があってはいけないということである。坐ってみていかに雑念が多いか、その中で、坐ることとはなにかを自分に問いかけた時、それは何かの答えを求めるための行為ではなく、ただ、坐ることそのものにすでに意味があり、何かを求めようとすることこそが雑念だということを正面から突きつけられた感がある。

 外国にはない様々な規律。全ての行い・規則が、(坐)禅そのものであるということを常に意識させられた。外国では食事の規律はあってもやはり雰囲気は日本ほどの緊迫感はなく厳しさに欠けている。大熊学監のような厳しい言葉こそが進歩のためには一番必要なのだが、海外ではなかなか「人権」が先にきて難しい。ちなみに住職・先生方の食事作法など所作を間近に拝見させて頂くことができ、食器の扱い方・食べ方など指一本の使い方だけでも大変興味深く印象的であった。「工夫」する大切さの指摘一つをとっても、いかに自分が無造作に全てを行っているかに気付かされた。

 朝課で読んだ白隠禅師坐禅和讃の言葉がはっきりと伝えてきたこと、それは禅というものが坐禅のみではなく日常生活の全てが坐禅であること、作務や食事もそして坐っている時も立っている時も歩いている時も、すべてが行であるということ。「衆生本来仏なり」という言葉にもあるように、常にありとあらゆる場面にて自らが仏性を認識して仏道を全うすることにこそ意味があるというメッセージ。食事の際の言葉、そして、朝課で唱える言葉の多くには感謝の言葉を通して自分への戒めの言葉が多くある。規律を通して常日頃から忘れてしまいがちなことを懺悔し悔い改め、全ての行いを行とすることによって仏道からそれないように自らを戒め、忘己利他の精神で、あらゆる自らの行いを通してこの世で実践していく。禅は実は「実践」であった。

 修行とはある意味で自己中心的な要素が多いように思っていた節があったが、坐ることがすでに悟りの姿、すべてに仏性を見出し自らをも仏と認識し、すべてが仏の慈悲そのものであるとし、いまこの瞬間を生き切ることそのものもまた禅なのかと、この三日間は根本的に「坐禅」という言葉の意味を問いなおすきっかけとなった。坐禅は「坐る」ことではなかった。禅のものの見方・生き方が世界の様々な活動においてどのような意味を持ち変革を意図できるか、ベトナム僧ティク・ナット・ハン師などの経験も元に途上国の観点からもまた海外における日本の禅の意味を考えてみたくなった。

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