卒業生は今!!

卒業生は今!! 九州宮崎に来て早や七年!

日付:2018年6月10日

第十六期 田中 一乗(一夫)

 入塾した平成十五年は、私の人生にとって転換期でした。都立養護学校時代から十数年来、兄とも慕ってきた同僚の突然の死。悲しみの癒えぬ二週間後に、二十三年間よき理解者と思っていた妻から突然三行半を突きつけられて離婚。社会人となった娘もそれを機に家を出たので、残されたのは私と犬二匹となってしまった。仏教塾での前期は、悲しみをそのまま引きずっての参加でした。専門課程で浄土宗を選択、練馬の光明園で、修了後も故・河波先生の教えを受け、心の落ち着きを取り戻すとともにお念仏によって救われました。その後、河波先生の徒弟となり、大本山・増上寺にて得度、佛教大学通信僧侶加行課程三年次に編入したものの、在家の悲しさか法式実習、実践仏教学の単位取得ができず、倍の四年かかって修了。増上寺での加行も苦労して満行。先生に近くのお寿司屋でお祝いしていただき、胸を熱くしたことを今でも覚えています。ずっと先生の下でお手伝いをするつもりでしたが、平成二十一年光明園に宮崎県から、総本山・知恩院輪番布教使の岩崎念唯住職が説教にみえました。河波先生のお力添えもあり、それがご縁となり二十三年二月宮崎県西都市にある「天徳寺」の住職として晋山、今日に至ります。

191-14-2.jpg
  天徳寺公演にて地域の皆さんと
 西都市は、有名な西都原古墳群があり、秋は広大な地にコスモスの群生、春は菜の花とサクラで宴会のパラダイスとなります。東京から乗用車に荷物と愛犬二匹を乗せ、東名、名神高速道路を走り、大阪南港からフェリーに乗船、翌日の宮崎港は大雨。そんな中、岩崎住職とお寺の総代が横断幕を掲げて出迎えてくれたのには驚きとともに大感激でした。その日のうちに戸籍から住民票の異動などすべての手続きを済ませ、天徳寺に着いたのは夕方。ゆっくりする暇もなく、近くの公民館で地域の人たちと顔合わせ、一杯飲んでご馳走になり帰ろうとしたら外は真っ暗闇、近所の人の懐中電灯に送られ帰宅したのだが、翌日、街路灯の無い田舎町であることに初めて気づきました。しかしものは考えよう「住むところがあって、暗くなったら寝て、明るくなったら起きる」、農家の人は早寝早起き、それに合わせれば健康的な生活ができると思い直した。天徳寺は、過去帳によると江戸時代から浄土宗で、南九州を襲った廃仏毀釈に遭い、昭和初期に小さなお寺として中興されたが、すっかり老朽化、備え付けの宗教法人の「寺院規則」もなく、過去帳だけが残されている状況でした。それから法務局、県庁通いと多忙な日が続き、ようやく各種変更手続きなどが済んで落ち着いた頃、総代や地区の役員も決定し動き始めた。まず床が抜けおちそうなトイレの改修、樹齢百五十年の杉がシロアリ被害で枯れており、大型クレーンで伐採、庫裏も天井の梁二本が折れており、天井落下の危険ありと診断。幸いにも本堂のみが被害を免れたが、大掛かりな改修工事を決定。当時、檀家数百戸余りで寄付五百万円。総代はじめ地区役員、有志が団結して仕事を投げ出してボランティアで取り組んでくれたのですが、農家の人々の底力を見た気がします。

 私は、二年かけて檀家宅を回ったのですが、晋山当時「どうせ東京から来て、三日で逃げ出すよ」と思っていたようです。菩提寺が浄土宗、宗祖法然上人といったことさえ知られていない有様でしたので、まずお寺を知ってもらおうと「天徳寺たより」を毎月発行、その他質問を受けての「雑記帳」を含めると八十号にもなります。「頼母子」飲み会も二か月に一回、積立旅行を実施するまでになりました。暗かった裏山も寄付により「天徳寺公園」として桜、つつじ、モミジなどを植樹、展望台休憩所として、地域の人の憩いの場となるよう管理整備をしています。これも総代はじめ有志の手作りになるものです。毎年八月は、盆踊り地域保存会の方々と一体となりお寺の境内で、賑やかに盆踊りを開催しています。

 西都に来て早七年、宮崎は天孫降臨の国であり、仏教より神道に馴染みが多く、布教もなかなか困難こともあります。しかし日々精進を怠らず、一歩一歩地道に生活を送りたいものと心掛けています。 合掌

カテゴリー:

  • 平成30年度(第31期)塾生
    「塾生募集のお知らせ」へ
  • 卒業後、それぞれのあゆみ
  • カリキュラムのご紹介
  • 機関誌「仏教文化」
  • 東京国際仏教塾20年の歩み
  • 塾生統計等
  • プレスリリース

東京国際仏教塾

新宿事務所 〒151-0053
東京都渋谷区代々木2-4-3
町屋事務所 〒116-0001
東京都荒川区町屋1-2-1-3F

TEL:03-3809-5930 FAX:03-3809-5935

ウェブからのお問い合わせ

このページの先頭へ