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修了レポート 曹洞宗 「曹洞宗の宗義と宗史」

日付:2018年8月10日

第30期 山下 敏郎

 曹洞宗、なんていい音だろう。遥か遠く器世間まで届きそうな響きです。

 釈尊より
「拈華微笑」(この世のありとあらゆるものが互いにかかわりあい、生かし生かされて存在していることを、言葉でなく華を拈ずるという行動で示された)譬えにあるように、初祖摩訶迦葉に伝えられた「正法眼蔵涅槃妙心」が正法伝道の始まりであります。そして、インド二十八祖(東土初祖)達磨が中国に来られ、東土二祖・慧可に正法伝授されて中国に根を下しました。その後、洞山大師の時に曹洞宗の音が始まりました。達磨大師→洞山大師の坐禅は「釈尊正伝の仏法の坐禅」であり、禅宗とか曹洞宗とかに限定される教えでなく、正しく伝えられた仏法です。それが天童如淨禅師に正伝され、これを「只管打坐」と称されました。

 この如淨禅師を正師としたのが、高祖道元禅師であります。この正師との出会いの感動を「まのあたり先師をみる、これ人にあふなり」と正法眼蔵(行持の巻)に述べています道元禅師は、如淨禅師の仏法を日本に伝え、「只管打坐」の宗旨を「本証・妙修」という言葉で一層明解にされました。修は修行・証は証り、真実の証明です。「修証一等」=修と証は一つであると示され、本証とは私たちは本来、真実そのものの存在であり、それを証明する存在である、ということなのです。それは、仏と少しも変わらない存在である、ということに他ならないのです。

 高祖道元禅師の仏法は、太祖瑩山禅師に正伝され「黒漆の崑崙、夜裏に走る」(黒いものが、暗い中走ったのでは何も見えないが、見えないから存在しないのではない崑崙とは正法眼蔵涅槃妙心=真実のことであります)瑩山禅師により、宗団として日本国に深く根を下し、今日に至っています。

 本題の「修証義」に入る前に、述べておきたい事があります。このテーマを書き始めるのと時を同じくして、四国お遍路をスタートさせました。早朝と夜に修証義を読誦し、道元禅師の音を、日中は「同行二人」にて弘法大師の音を聴かせて頂きました。

 さて修証義とは、釈尊から歴代にわたって正しく受け継げられて来ました、以心伝心の正伝の仏法を道元禅師によって、只管打坐、即心是仏の心を日常生活の中で、どのように実践し信仰生活を高めていくかを示されたものであります。

 総序より
生を明らめ 死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち 涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時 初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。

 この序文が釈尊の仏法の礎で、「生死」「縁起」を説いています。

 釈尊の四門(生・老・病・死)出遊に始まる悟りへの道、道元禅師の生立ちと仏道のご縁行雲流水し如淨禅師との出会いによる、曹洞禅の成立を見るとき、眞に総序のままです。

 懺悔滅罪より
仏祖憐みの余り 広大の慈門を開き置けり、是れ一切衆生を証入せしめんが為なり、人天誰か入らざらん、彼の三時の悪業報 必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。

 仏や祖師方は、私たちの愚かさと悲しみに共鳴し、慈しみの門を開き待っていて下さるのです。人が過ちによって痛みを知り、自己の愚かさに心底気がつく時というのは、人間の意志や都合を突き破る「仏心」からの催しがあって初めて懺悔できるのです。先に述べた三段階の悪しき心と行為の影響力は、自分の責任だからごまかしようはありません。しかし、仏に照らされて懺悔して謙虚になるとき、心も影響力も身軽になります。さらに罪の心と愚かさは無我の知恵によって包まれて清らかになるのです。

 受戒入位より
受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、誰の智人か欣求せざらん、世尊明らかに一切衆生の為に示しますます、衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同じうし己る、真に是れ諸仏の子なりと。

 仏弟子のあかしをいただくということは、過去・現在・未来の仏さま方が実証してきた正しい教えを喜び求める確かな悟りが備わることです。いかなる人も智慧ある人は喜び求めるべきです。仏陀世尊は「梵網経」の中にハッキリと、すべての人のために教えています「人が仏との約束いただけば、ただちに仏の世界に入っているのです。立場は仏陀と同じ世界なのです。本当にこのとき仏の子どもだと言い切れるのです」と。

 そして、仏の光明に包まれながら、「空」「無」が見え、人間的意思以前の無心無我の功徳となり、これを作為のない真実の働く功徳といいます。これこそ悟りを求める心を起こすことです。

 発願利生より
菩提心を発こすというは、己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり、設い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度佗の心を発すべし。

 仏心に催されて、悟りが悟りを喜ぶ心をおこすということは、自分がまだ救われる前に(痛みによって)人々を救おうという願いを起こし手立てを尽くすのです。たとえ世俗生活にあっても、たとえ僧侶であっても、あるいは、天上界にあっても、あるいは人間界にあっても、苦しみの世界にあっても、安楽な暮らしの中にあっても、急いで、自分が助かりたいと思うからこそ、まず人を先に渡したいと思う心をおこすべきです。

 「自未得度先度佗」菩薩の誓願、素晴らしい音です。今までの年月をたとえ無駄に生きてきたとしても、この人生がまだ終わらないうちに急いで願いの心をおこすべきです。たとえ、悟りになるべき功徳が熟して完成すべきご縁であっても、なお一層、自らの功徳を人びとが悟りと出会い、道を得るように手向けるのです。あるいは永遠に行い続けて人の喜びを先にして、自分はついに仏・悟りにならなくても、しかし(人の悲しみに共感して)人を救い、人に恵みを手向ける修行で「空」を実践していることは確かです。

 行持報恩より
其報謝は 余外の法は中るべからず、唯当に日日の行持、其報謝の正道なるべし、謂ゆるの道理は日日の生命を等閑にせず、私に費さざらんと行持するなり。

 無心の行いこそが感謝の道です。毎日毎日の今ここでの行いの上に仏の心を保っていくことが、ご恩に報いる正しい道なのです。その道理とは、一日一日の全生命力をぼんやりとさせないで、自分の欲望のために使わないで、無心無我で働くことが、仏心を行い保つということです。

 謂ゆる諸仏とは 釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏となるなり是れ即心是仏なり、即心是仏というは、誰というぞと 審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん。

 今まで言ってきた多くの仏さまというのは釈迦牟尼仏陀その人のことです。釈迦牟尼仏陀とは、染汚心が働き出す以前のあるがままの心(不染汚心・如実知見)を仏というのです。過去・現在・未来永遠に仏といわれる方々が大覚を成ぜられる時は、必ず釈迦牟尼仏陀の不染汚心という生き方になるのです。この染汚心が働き出す以前のあるがままの心(不染汚心・如実知見)を仏というのです。染汚心を差し挟む以前の仏というのはだれのことでしょうか(それはあなた自身なのです)と、注意深く肌目こまやかにまなび工夫すべきです。そのことがまさに仏恩に報いる在り方だということです。

 修証義と四国お遍路から学べたことは、心で気づき、身が動き、一つとなり、如来に成る 身心一如(頭文字を拝借)であります。道元禅師の威儀即仏法とは、心と身体の一体感を威儀(正し)し、行住坐臥することを、仏法と説かれています。   

 正にこの実践を四国遍路にて弘法大師(同行二人)と共に歩き、発心(徳島)→修行(高知)→菩提(愛媛)→涅槃(香川)として、辿れました。

 そして、釈尊の「法」は一つであり、道元禅師のお教えであれ、弘法大師のお教えであれ、全ては一つ(「無」・「空」)に帰することを学ばせて頂きました。      

合 掌

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