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第三十一期生第一回妙厳寺・南無道場修行感想文

日付:2018年10月10日

 妙厳寺における修行を体験して、受講生の皆様からは様々な感想が寄せられました。その中から一部を掲載させていただきます。

 
実践を通じての学び

A組 河田 一臣

 今回参加して一番印象に残ったのは、参加された方々の参加動機でした。ほとんどの方が私よりも人生の先輩であり、様々な人生経験をされた中で仏教と出会い、仏教と向き合うことを決意されたのだと思いますが、その志はとても高く、真摯に修行に取り組まれている姿勢は、見ているだけで刺激になりました。そんなみなさまにご迷惑をかけないようにと背筋が伸びる思いでした。

 修行を通じて感じたのは、知識と実践の違いです。これまでに仏教関係の書籍は数十冊は読んでいて、少しくらいは知っているつもりでしたが、実際にお勤めで読経したり、作務をしたりして、身体を使うことを通じて触れた仏教は書籍で得たものとは違う印象や学びがありました。

 例えば、日蓮宗の読経は初めての体験でしたが、とてもリズミカルで、座っているにもかかわらず全身を使っている感覚になりました。ご住職がおっしゃっていたとおり、読経に集中していたら、他のことはまったく考えられない状態だったと思います。実践を通じて学ぶこと、体感できること、理解できることがあることを改めて痛感し、お寺という修行の場が存在する意義を実感しました。

 入塾式・第一回修行の四日間、四弘誓願に毎日接しました。二十八文字の字面を見て、意味を教わり、声を出して読んでみて、とても美しい言葉・内容だと思いました。今回感じた美しさが私にとっての「初心」と言えるのかもしれません。常に四弘誓願を振り返りながら、今後の修行を続けていきたいと思います。


雑念に囲まれていた私

A組 篠原 洋子

 修行を振り返り、自分がいかに、自己で作った狭い世界で多くの雑念に囲まれて生きていたかに気がつかされた。

 修行に行く前から、頭の中は、様々な思考と感情で埋め尽くされ、妙厳寺に着いてからも、正坐、食事、作務、静坐、唱題行と初めての体験に、足がしびれ痛い、食事作法に緊張し、味もわからない、唱題行中に次々と思考が頭の中でうずまき、もうろうとする。それぞれの修行体験は体の反応と思考と、息苦しいような感情がつきまとい、全てが厳しく、つらい事のように感じていた。

 ところが、講義で、人間は「個」で生きているのではなく、この世の全てのものが関わりあい、支えあっていること、生き物に限らず全てのありとあらゆる物が役割をもってかけがえのない存在であること、そして、修行だけでなく、日々の生活その一つ一つ全てが大切な意味を持っていること、を教えていただいた事で、何だか、それまでの頭の中での作業が、とても無駄で不要な事に思えてきた。すると、二日目の静坐、唱題行から、今まで自分の思考で作り出していた余計な物たちが、そぎ落とされるような感覚になった。つらさという感覚がなくなり、妙厳寺の澄みきった空気、美しい鶯のさえずり、新緑の木々の色、鐘の音の響き、食べ物の味、仲間の言葉が、すーっと私の体全体にしみわたってきた。

 修行が終わった今も、日々の生活の中に在る、ありとあらゆるものが、大切でいとおしい物と感じることができるから何とも不思議である。そして、頑張らなければと力むことなく、日々の生活の所作を、美しく丁寧にしようとしている自分がいて、今までになく心穏やかなのである。縁あって、仏教にめぐり会い、修行を体験した事によって、余計な物が取り払われ、自分自身の生き方の変換が起こりはじめているのではないかと感じている。有難い。


修行するということ

B組 唐澤 千明

 五月三日から千葉県の妙厳寺で行った第一回修行は、これまで読経や写経、坐禅、教義を学ぶことを第一に考えていた私にとって新鮮で、考えさせられることが多かった。

 鐘の音で起き、板木の音で食事、掃除、草取りなどの作務。それも無言で整然と、素早く行動しなくてはならない。とくに食事は、ルールの厳しさに驚かされるばかりで、精進料理を味わう余裕は全くなかった。

 開講式で大熊学監は「修行とは当たり前のことを当たり前に感じられるセンサーを身に付けること」「仏教を学ぶこととは、生活そのもの、人生そのものと受け止めてほしい」と話された。

 読経や坐禅は修行のほんの一部で、仏の教えを学ぶ以前に自らの生活を建て直す必要性を痛感。「作務自体が修行」と心得て、まずは規則正しい生活、仏壇に手を合わせて掃除など、当たり前のことが当たり前にできるよう努めたいと改めて思った。

 そのほか印象に残ったのは、唱提行と静坐だ。太鼓の音、お経のシャワー、波動を全身に浴びると、エネルギーが注入されるように元気になる。静坐で心を鎮めると、風の音、野鳥のさえずりが聞こえてきて、大宇宙との一体感や、生かされているのを実感した。今後、仏教塾の修行を通して、とことん我(わがまま)を無くし、利他の精神で、どんな状況においても誰にも優しい心遣いができるようになりたいと思う。

 
食事を頂くということ

B組 笹野 典子

 今回の修行の中で、一番印象に残ったことは、食事を頂くということだ。

 広辞苑で食事と検索すれば「生存に必要な栄養分をとるために、毎日の習慣として物を食べること。また、その食物。」とある。

 日常生活での食事は、そこに集う人達と会話をしながら楽しく頂く、団欒というイメージが強くある。
 小さい時から祖母や親に「ご飯は、仏様・ご先祖様に感謝し、楽しく食べないと栄養にならない。」と言われ育ってきた。

 家庭を持ち義母・義姉と同居し、共働きをしていた私達家族にとって、夕食は話しをしながら、一日の出来事を互いに共有する時間でもあった。子どもが出来ればなおのこと、笑顔と会話でその時間を楽しみ、大切にしてきた。

 しかし二泊三日の修行の中で、食事のとらえ方は「食べるということは、命あるものから命を頂く。」生けるもの全部に感謝し、料理や配膳給仕して頂くことに感謝して食す。「感謝の連鎖」を持って、静かに頂くということであった。

 最初の食事は、周りのスピードに合わせなければという緊張感で、心から感謝して食事を頂くという状況には至らなかった。

 だが、配膳給仕、後片付け・洗い場と流れを覚え、「食前・食後の言葉」を唱え、回を重ねていくうちに、食すスピードやお替りで手を挙げること。更に配膳給仕・後片付けなど、周りに配慮し、協調するタイミングを図ることに、楽しさを感じている自分がいた。

 現在、食育や孤食による問題が大きな社会現象として話題となっている。

 食育基本法は「食育によって国民が生涯にわたって健全な心身を培い、豊かな人間性を育むことを目的としている。」とうたっている。

 孤食は食べ方やお行儀が分からなくなる・協調性が乏しくなる・栄養が偏り発育に影響が出るなど、孤食による悪影響の解消を考えている。

 しかし食育も孤食も、食事を頂くという基本「命あるものから命を頂く」という感謝の心が言葉として一切表記されていない。

 どんな食物であれ、食事環境であれ、食事を頂くにあたって、食前・食後の言葉を声に出し、食事をすることは、とても重要に感じた。食育・孤食の問題解決の一端に繋がるとも考える。

 今までのように、手を合わせ「頂きます」「ご馳走様」だけではなく、「お豆さん・人参さん・豚さん・お魚さん、ありがとう。あなたの命を頂き健康になります。頂きます」「皆さんの命を無駄にすることなく頂きました。ご馳走様でした」と修行以降、孫と一緒に合掌をして食事を頂いている。

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