日本と中国の仏教弾圧(第30期スクーリング)

日本で起きた法難と聞いて、まず思い浮かぶのが、明治維新の廃仏毀釈です。これは相当にひどいものでした。寺院の統廃合です。檀家制度で成り立っている真宗寺院は財産としての土地を持っていないこともあり、門徒組織の基盤を失うことになります。
飛鳥時代、蘇我氏が信仰した仏教が広まり、飛鳥から天平時代にいたって奈良の大仏殿が建立され、国家的権威を背景に仏教が普及しました。あまりにも強い仏教勢力に危機を感じた桓武天皇による平安遷都がなされましたが、それは仏教弾圧という形とは少し意味が異なっています。平安時代に入ると、比叡山延暦寺の天台宗と、高野山金剛峰寺の真言宗が権力者の庇護を受け、鎮護国家の仏教として隆盛を極めました。鎌倉時代に至ると、仏教は権力者の庇護を離れて、法然・親鸞・道元・栄西・日蓮による民衆への精神的救済に至る脱皮(宗教革命)を成し遂げています。ところが織田信長による法難で、一向宗は弾圧され、延暦寺は焼失しています。
江戸時代に入ると、徳川幕藩体制の中に仏教は組み入れられ、自由な布教活動がなされない傾向がありました(民衆はなんらかの宗派に組み入れられたので、その宗派内での精神的教化は深められています)。徳川幕府が崩壊すると、明治政府の国家神道化の政策によって廃仏毀釈が起り、仏教は存亡の危機に直面しました。
終止符を打ったのは、岩倉具視使節団と、真宗僧侶の活動、長州藩士の存在です。使節団は、不平等条約を廃止する条件に宗教の自由を認めるよう各国で提言されました。同じ頃、宗教視察のために1年間ヨーロッパに留学していた浄土真宗の本願寺派僧侶・島地黙雷は、日本政府に建白書を提出。もうひとつ大きな力として長州藩があります。長州藩の下級武士は昔から、熱心な真宗門徒でした。その安芸門徒が明治維新の主体者ですので、この廃仏毀釈というものは、だんだん収まってきたという経緯があります。明治新政府は、徳川という時代を一新するため、天皇を中心に据えた国家神道を推し進め、ほかの宗教を抑えようとしました。国内外における反発の強さから仏教が壊滅にいたることはありませんでしたが、その打撃は大きなものでした。
一方、中国では歴史上、大きな廃仏事件が四回あり、まとめて「三武一宗の法難」と呼ばれています。三武とは、北魏の太武帝・北周の武帝・唐の武宗、一宗とは後周の世宗を指します。その後もイスラム軍の侵攻があり、文化大革命での大弾圧がありました。
弾圧が行われる以前、中国仏教は多くの人にあつく信仰されていました。五胡十六国が覇権を争う激動の時代、戦乱がもたらす不安の中、安心を求めて仏教が興隆し、鳩摩羅什三蔵法師は古代亀茲国から長安に渡り、約三百巻もの経典を漢訳しました。
敦煌莫高窟も、この五胡十六国時代に開鑿が始まります。しかし、敦煌も法難を受けています。その数、7つ。これらの難を逃れる奇跡が重なり、今日では、中国における空前の旅行ブームと相まって、年間百万人を超す中国人が訪れています。それはただ単なる世界遺産を見物するということにとどまらずにそれを通じて中国仏教が復活し人々に尊重される兆しであるととらえたいものです。

※上記は第30期のスクーリングの講義内容を要約したものです。
※さらに詳しい内容を知りたい方は、冊子「佛教文化」191号をご覧ください。