大乗仏教の心(第31期開講記念講演)

今日は「大乗仏教の心」という題名でお話をさせていただきます。まず、一口に仏教と言っても多彩な仏教がございます。日本だけをとっても天台、真言、あるいは浄土、禅、日蓮、さらには奈良時代の南都六宗等と様々な宗派があるわけです。釈尊以来二千年以上の歴史を経て各地域に伝播して発展しておりますので、色々な仏教があるわけです。

その全体を概観したときに、まず釈尊自身の仏教というものを考えなければなりません。釈尊が語った教えをそのまま記録した文献は、なかなか無いと思います。一番それに近いだろうと推定されるのは、『スッタニパータ』というパーリ語の文献です。そういう釈尊自身、あるいは釈尊の直弟子あたりの仏教というものが一つ考えられます。

釈尊が亡くなられて百年ぐらい経つと、社会情勢も変わってきます。したがって、釈尊が制定した戒律が時代に合わなくなる面も出てきます。例えば、釈尊は金銀で布施を受け取ってはならないと言われていた。しかし貨幣経済が発達してくると、当然そういうものが布施されることにもなってくるわけです。ですから、戒律を時代に合わせて運用していくか、いや釈尊が制定した戒律なのだから厳格に守るべきか、論争が起きるのですね。

結局、仏滅百年ごろに教団が大きく二つに分かれていきます。それまでは各地のサンガが一つの教団という意識の下に運営されていたのですが、ここで大きく二つに分裂した。これを根本分裂と言いまして、上座部と大衆部に分かれるわけです。上座部というのは長老たちの仏教という意味で保守的ですね。大衆部のほうがどちらかというと革新派です。

いったん分裂が起きますと、教義の解釈とか色々な要素からさらに細かく分裂していきます。今日伝わっている文献の中では根本分裂と、その後の分裂(枝末分裂)を合わせて、大体20ぐらいの部派ができたと言われております。それら各部派で行われた仏教を、部派仏教と言います。

釈尊の死後、お弟子さんたちが釈尊の言葉を詳しく分析して、論理的に整理していく作業が続いていきました。そこでは、アビダルマの営みがなされていきます。アビダルマというのは諸法の分析という意味です。人間の心も含めまして、世界のさまざまな要素が詳しく分析されているわけです。そういう学問的な仏教が各部派において展開されていきます。

釈尊は紀元前383年に亡くなられましたから、その時から400年ぐらい経った西暦紀元前後、それぞれの部派で行われていた仏教はあまりにも学問的すぎる、もっとみずみずしい宗教性をたたえた仏教というものがあってよいのではないかと主張する動きが出てきます。民衆のその要求のもとに、大乗仏教が興きてくるのです。

※上記は第32期の開講記念講演の一部を抜粋したものです。
※詳しい内容を知りたい方は、冊子「佛教文化」193号をご覧ください。