唱題行に感じた亡き娘

第32期生 Y.O.

大多喜南無道場での修行の中で、最も心を動かされた体験は唱題行です。
一日目。唱題行がどの様なものなのか分からず、ただ作法を追い、お題目を間違いなく唱えることに神経を配っていました。
普段、同じ音節を復唱したり、大きな声を出すこともないので、息継ぎや喉の渇きも気になりました。それでも続けていくと、上半身の重心が下腹に降りていき、自然と力が抜け、深く呼吸ができるようになっていきました。同時に昨年事故で他界した、娘の遺影が目の前に浮かんでいるのに気が付きました。瞑目しているのにはっきりと遺影が見えるのです。思わず心の中で娘の名前を叫ぶと、行は深心行へ移っていました。
二日目。行の流れは把握していたので、遠くでさえずる鶯の声や次第に暗くなっていく本堂の中と、反対に明るさを増していく蝋燭の炎を見つめる余裕がありました。
「南無妙法蓮華経」と、自分の唱えるお題目が他のすべての人が唱えるお題目と融け合い、また強弱をもって繰り返される太鼓の音とも相まって、朗唱の波動の渦の中に、体が取り込まれていくような感覚を持ちました。
「なぜ自分はここに居るのだろう。」
「ああ。娘は仏になったのだ。」
と、素直に悟った瞬間でした。はらはらと涙があふれ、さらさらと長く頬を流れていきました。行を終えると体が暖かく、気持ちはすっきりとした高揚感に包まれていました。
娘の死後、塗炭の苦しみ悲しみの中、現実を受け止められず貪るように読んだ本の中に一休禅師の言葉がありました。
「死にはせぬ どこにも行かぬ
ここに居る たずねはするな ものは云わぬぞ」
生も死も超えて、ずっと永遠に、娘と共に過ごしたいと切に願いました。合掌