禅に学ぶ

第32期生 Y.I.

梅雨入りの湿っぽさがあるなか、鹿野山禅研修所の本堂の中での高野和尚の講義。木彫の仏様の横の柱に掛けてあった、文字の書かれてある警策をとり、これは「仏を殺す剣である」と振りあげ、いきなりの逢仏殺仏の話しであった。高野和尚の講話は、軽妙で堅苦しさはなく、時折笑いを誘う。この話は、私の記憶の中にも残っていた。意味は忘れていたが何となく理解していたように思っていた。しかし、そうではなかったようだ。
三日目の粥座で突然の怒号、凄まじい怒りに若いお坊さんが平身低頭、顔面蒼白で許しを乞うところを見た時、粥をこぼし、お箸を落とし、あたふた動揺している自分がいた。
人は、常に何者かを背負っている。学監が講義の中で話された、川を渡れないでいる女子を背負って川を渡した僧に対し、連れのお坊さんが「破戒僧だ」と、いつまでもこだわり詰っている。この連れの僧こそが我々一般人の姿ではないだろうか。悲喜、苦楽、虚栄、権威などをまとわりつかせ、感情に押し流されつつ生きている自分、何としても振り落とせないこの自己の有様。この自己を日常生活で制し超えることができるのだろうか。「真実の自己」というものがあるのだろうか。
粥座での出来事は、それが研修の中で企てられたものか、宗門で日常的に為されているものかどうかは、どちらでも良い、肝心なことは、高慢と偏見に満たされている自分があることに気づかされた事にある。
「逢仏殺仏」の心は、自分の中に現れ出る、要らない想い、その想いに引きずられている自己を「殺せ」ということなのだろうか。私には、そう思えた。形式的とも思える作法や儀式は、長年月に渡って形成される。禅宗の真骨頂である「逢仏殺仏」の心、それを教えてくれる機会を与えてくれた。
余談
二日目だったか、三日目だったか夜明け前から雨模様の朝、禅堂へ向かう廊下を渡り、スリッパに履き替える。雨で木々が濡れているのに禅堂周囲の犬走に「人」の文字に見える打ち水がまかれていた。その文様をたどり回り禅堂の中に入っていく。私は、奥から左側三番目、斜め向かいの文殊菩薩を安置してあるお堂の角あたりに座った。姿勢を正して準備を終える。やがて合図の鉦がなり明かりが消され、坐禅が始まった。しばらく目を閉じ「無念無想」を心がけつつ半眼にして斜め下に視点を置いたとき、コンクリートの床に棟方志功の観音様似の仏様が打ち水の跡と高窓から差し込む柔らかい光の加減で見えた。切れ長の眉、目、鼻すじ、その下のおちょぼ口。しばらく目を閉じ開けると仏様の眉の先端が薄れ、厳しい目つきに変わる。警策を持った和尚が通る。「仏様を踏むのか」と思ったとき、和尚はヒョイと飛び越えていった。合掌