一向一揆と薩摩藩かくれ念仏

第一部 天下分け目の関ヶ原

一、島津の退き口
日本の歴史を大きく分ける中世と近世の境界は、関ヶ原の戦いであったといえる。
1600年9月15日、石田三成に率いられる西軍八万人と徳川家康を将とする東軍7万人による決戦は、朝8時に始まった。どちらかというと西軍優勢の中、膠着状態にあった戦いは、西軍である小早川秀秋の裏切りによって逆転し、東軍が勝利した。
このとき、島津藩千五百名は島津義弘に率いられて戦乱の渦中にいたが、どちらかというと中立的な立場で、寄せてくる兵を東軍・西軍を問わず排除して孤立していた。決戦の決着がついたとき、島津勢は戦場から逃れて速やかに帰国する決意をして、旗印を捨てて敵中に正面から突入する戦法をとり、徳川家康の本陣をもかすめて伊勢街道に入った。座禅陣の戦術を用いて進み、烏頭坂(現在の岐阜県大垣市)の激戦を経て将島津義弘を逃すことに成功し、初瀬街道を経て、大和の桜井(現在の奈良県桜井市)の平等寺に至って、七十日間滞在し、平等寺から船を購入する銀一貫目を借入した。その時、義弘に従った者はわずか12人であった。あちこち散らばっていた兵が集まり80名で堺から船で日向に帰国した。それが11月下旬頃であった。

二、関ヶ原後の島津

第十六代藩主島津義久は、10月22日に直ちに徳川幕府に恭順の意を示した。一方、幕府からの攻撃に備え、国の防備を固めた。幕府は九月末には島津討伐の指令を出すが、それより前に毛利の処分が重大であったため、一時的に取りやめた。毛利は百二十万石の所領を持つ最大の戦国大名であったが、所領を約三分の一(三十六万石)に減封することで決着した。
一方徳川幕府と島津藩との講和はなかなか成立せず、二年後になってようやく所領安堵ということで落ち着いた。島津藩は、金沢百二万石に次ぐ大藩であった上、士族が極端に多く、その九割までが郷士といわれる半士半農の生活を送っていた。その頃の全国平均の士族の割合は6%であったのに関わらず、薩摩藩では郷士を含む士分は26%という多さであった。

三、島津藩・一向宗禁制とかくれ念仏

本願寺第八代蓮如上人(1415―1499)の時代に、薩摩藩にも一向宗が入ってきた。島津忠良(日新斎 1492―1568)は、全国で一向一揆が起こり、信長・秀吉がその討伐に苦渋していたのを見て「魔のしょいか天眼おがみ法華しう一かうしうにすきのこざしき」の歌を詠み、一向宗を忌み嫌って藩政統治に危険であることを警告していたが、具体的な禁止の法令は出していなかった。
1597年に第十七代藩主島津義弘が、秀吉の命を受けて朝鮮へ出兵する直前に出した二十か条の置き文の中に、「一向宗之事、先祖以来御禁制之儀ニ候之条、彼宗体ニ成リ候者ハ曲事タルベキ事」真宗いわゆる一向宗禁制の項が書かれており、以後薩摩藩では一向宗は禁制となり、一向宗寺院は壊され、信者は隠れて念仏を称えるようになった。

四、関ヶ原合戦と教如上人

本願寺第十二世教如上人は、かねてから徳川家康と親密な関係を維持していたところ、1600年7月13日に上杉討伐のため下野に布陣していた家康を訪ねた。それは関ヶ原の合戦が始まる約二ヶ月前のことである。教如上人は、石田三成が家康を排除すべく豊臣縁故の大名たちに文を出し、家康との合戦に備えていることや、越前を支配する大谷吉継が軍を率いて7月2日彦根佐和山に入り、三成に説得されて西軍に与することなどの最新の情報を家康に伝えた。
帰途、家康は大垣城の近くで三成軍に襲われ、九死に一生を得て9月29日京都へ無事帰着した。9月15日関ヶ原の合戦で東軍が勝利した五日後に家康は京都への上洛の途中、教如上人が出迎える本願寺の大津御坊へ立ち寄り、会見を行った。その折、第十二代本願寺門跡を秀吉によって教如上人が強引に奪われ、准如上人に移されたいきさつの中で、第十二代本願寺門跡に教如上人を認めるよう依頼したことが容易に想像される。
1602年2月に家康より烏丸六条の地(現在の大谷派真宗本廟)を寄進された。このとき准如上人は西の本願寺門跡、教如上人は東の本願寺門跡に同時に就任し、これより本願寺は東西に分派することになった。東西分派についてはかねてから一向一揆などを恐れていた本多正信や天海上人による本願寺弱体化の政策提言によるものとされる。

五、本願寺の歴史と一向一揆

ここで、しばらく歴史を遡ってみよう。
蓮如上人が本願寺第八代住職に就任するやいなや、その教化力は絶大を極め、近畿・北陸を中心に燎原の火が拡がるが如く全国各地に信徒を増やしていった。阿弥陀如来に対する絶対的な信仰に燃える一向宗は武士も百姓も同じように救われるという思想に啓発されて、各地で苛烈な領民支配をする武士・領主に対する一揆が発生した。
加賀においては、1488年守護大名富樫政親を倒す一向一揆が起こり、百年にわたって農民が国を統制する「百姓ノ持チタル国」となった。これは日本の歴史の上においても他に例を見ない特異な統治形態であった。1580年柴田勝家率いる信長軍が、最後の砦となった鳥越城を攻め落とし、「百姓ノ持チタル国」は消滅した。このとき、柴田勢は三百人を磔にしたという記録がある。
信長は、自らに反抗する勢力に対しては徹底的な弾圧を行い、絶滅させようという考え方であったので、一向一揆に対しても厳酷苛烈な抑圧の手を緩めなかった。
特に、伊勢と尾張にまたがる木曽三川の水郷地帯は、ほぼ一向宗徒による自治支配がなされており、尾張美濃を手中におさめた信長の支配の外にあった。長島は輪中(高い堤防で集落を包囲した地域)によって洪水から守られ、数十の一向宗寺院・道場が点在し本願寺の強力な勢力基盤であった。1570年に、大坂石山本願寺と信長とのいわゆる石山合戦が始まると同時に長島の一向一揆が起り、信長は本拠長島を兵糧攻めにした。一揆側は再三にわたって降伏を申し出たが、信長側はそれを受け入れなかった。しかし突然降伏を許可し、長島輪中から出てきた一揆勢に集中砲火を浴びせて約一万人を皆殺しにした。最後に残った屋長島は四方に木の杭を打って取り囲み、火をつけて中にいた約2万人の老若男女を焼き殺した。

※こちらは、2019年 第32期スクーリングで行われた特別講座の冒頭部分を抜粋したものです。
※『仏教文化201号』に続きがあります。
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