こころの時代 ② -道を求める姿勢-

東京大学名誉教授であり、東京国際仏教塾の第1期から13年間にわたり、講師をお引き受けいただいた鎌田茂雄先生。1996(平成8)年、東京国際仏教塾のスクーリングでの講演を引き続きお届けします。今回は連載第2回目です。

《中国の仏教忌避》

北魏大武帝の廃仏が446年にあります。その後北周武帝の廃仏が574年に始まってあり、845年には武宗の「会昌の廃仏」と云う廃仏があります。(五代後周の世宗の仏
教弾圧を合わせて「三武一宗の法難」と云う)これは北周の廃仏ですが、やはりあの廃仏を経験して、急いで穴を掘って仏像を隠しているのです。
仏像は全部首をチョン切ります。それから、経典はみんな集めて火を付けて焼いてしまう。お坊さんは全員還俗です。北周の廃仏の時には還俗したお坊さんが300万といいます。
この845年の会昌の廃仏の時も全土にわたって廃仏が行われ、その時にその廃仏事件にバッタリ逢ったのが、日本の円仁です。
(円仁―最澄に師事。838~847年在唐、のちに天台教学を大成。比叡山興隆の祖、延暦寺第三世座主。)
円仁が自分の日記『入唐求法巡礼行記』を書いております。
これを見ますと廃仏に遭った状況が克明に記されています。円仁さんは、天台山へ行こうと思ったが旨く入れません。そこで、山東半島から五台山に、そして長安に行きます。
それから、揚州に出てきた頃に廃仏に遭います。
先ず頭を剃っていますでしょう。それから、お坊さんの服がありますが、衣といいますか、それを着ていると処刑される。仕様がないから円仁は、その上に普通の民衆の服を着ます。また、とにかく頭を丸めているとお坊さんに見られて殺されるというので、毛を伸ばして逃亡生活をしていたのです。
こういう廃仏があった時に、これ等の仏像を隠したのだろうと、現在推定されているのです。
ここ石家荘の一カ所だけなら、まだ良いのですが、山西省の方にも同じ様なものが最近沢山発見されました。山西省の省都は太原市です。
この脇が南の渭水で、この近くの廃寺から掘ったら続々出てきました。
それで、現在ここに仏教の石刻館と云うものを建てまして出てきた仏像をずらりと並べております。
廃仏によって、仏教遺産が目茶苦茶にされてしまう。しかし、また仏教が何時か興るだろう。永遠に仏教を伝えておきたいというので、先ず石刻像をこの様に隠します。
もう一つは、石経を彫ります。
周口店原人(北京原人。周口店は北京の南60キロ)が出た所が在りますが、その近くの房山の房山石経。
これは何千枚と発見されたのです。
石にお経を刻んでいるのです。
石経は河南省や、いたる所で発見されています。一番多いのが房山です。
石経は、やはり仏教弾圧からお経を守る手段です。紙に書いたお経は焼かれてしまいますから駄目なんです。
それでは、石に彫ろうと。大変ですよ。石にお経をですから。
膨大な『華厳経』や『大般若経』を一字一句彫っていく訳で、これを彫る石工も大変なら、費用を出して残そうと云う功徳者も、皆大変です。
中国各地に、こういうのがありますので見ると凄いと思います。
この様にして仏教を残そうというエネルギーが凄いです。これ等の発見は、皆中国の開放後です。
ここも、立派な石刻館ができていますが誰も来る人がいない。しかし、そこには北魏から唐までの素晴らしい仏像が順番に並んでいるのです。
私は、ここを訪ねるのは二度目ですが、見ていて本当に、仏さまも誰も居ない所で何を見続けておられたのだろう、という思いがしました。これ等の仏像ができたのは古くても五世紀でしょう。それが現在、また日の目を見るわけです。
ですから、正に、長い長い命を持ってきているということでしょう。
一遍上人から話しが横に飛びましたが、これから一遍上人の時衆制誡の話をしたいと思います。
-つづく-