死ぬために生きている

1998(平成10)年、東京国際仏教塾の開講式で行われた鎌田茂雄先生の記念講演を18回に分け、ご紹介しております。本日は第12回です。

息というものは、 宗教の一つの原形をうまく表しているわけです。 それでは、 もう少し生と死ということを、 佐藤一斎先生がどういうふうに言っているかと言いますと、
【生は是れ死の始め、 死は是れ生の終わり。 生しょうぜざれば則すなわち死せず。 死せざれば則ち生ぜず。 生せいは固もと生せい、 死しも亦生またせい、 「生生せいせい之これを易えきと謂いう」 とは、 即ち此れなり。 】
(生は死の始め、 死は生の終わりである。 生まれなければ死ぬわけもなく、 死ななければ生まれるわけもない。 宇宙の大生命の上から見れば生はもとより生であり、 死もまた生である。 「生々これを易という」 とはこのことである)
生は是死の始め、 死は是生の終わりなり。 この通りなのです。 生きている。 生は死の始めだということは、 人間がこの世に生まれたということは、 死ぬために生きているわけです。 死は生の終わりである。
次に何と言っているかというと生ぜざれば則ち死せず。 死せざれば則ち生ぜず。 死があるから生がある、 というように考えているわけです。 生まれなければ死ぬわけは無いのです。 また、 死ななければ生まれるわけも無いのです。
宇宙の大生命の上から見れば、 生はもとより生。 死もまた生なのです。 そう考えれば良いのではないかというのです。   -つづく-

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