知恵と慈悲

仏様というのは必ず片方では冷厳な知恵です。 正しい知恵で人生を見ること。 片方はそれを慈悲の力でもって補っていくことなのです。 だから必ず仏様というのは、知恵と慈悲と両方になっていくわけです。
阿弥陀様でもそうでしょう。 無量光ともいいますし、 あるいは無量寿ともいいますでしょう。 無量光というときには知恵を表す。 知恵はどんなに空間が広がっても、 どんなところへも阿弥陀様の知恵は及んでいくわけでしょう。
慈悲の場合は、 無量寿といいます。 無量寿というのは永遠ということなのです。
片方は無量光、 知恵を光にたとえて空間的に無限ということです。 それから慈悲は時間を表します。 時間的に無限ということです。 慈悲というのは、 私たちもある程度は時間が経つと感じてくるんです。
例えば皆さんが連れ合いを亡くすでしょう。 そして10年たち、 十三回忌、 十七回忌とたつと、 もう少しやさしくしてやればよかったと、 どちらも思うのです。 男の方であっても、 女の方であっても、 そう思うのです。 一緒に住んでいるときには、会話をちゃんと交わすということもない。 しかし、 片方に亡くなられますと、 それも10年たち、 20年たつと思いが深くなっていく。 慈悲がそれだけ深まっていくわけです。
もっとああしてやればよかったと思う。 しかし、 いくら毎朝仏壇にご飯をあげて、 チンチンとやってみても、 それはそれだけのことで、 生きているうちにもう少し何かしてあげればいい。 しかし、 そのうちに今度は、 お子さんに代わりに良くしてあげようという気になるでしょう。 そのうち孫でもできると、 せめて連れ合いの形見なんだと。 お孫さんにも良くしてあげようという気が起こるでしょう。 だいたい人間それで終わりなのです。
そうすると、 時間が経てば経つほど慈悲が深まっていくといっても、 せいぜい30年です。 あるいは50年に過ぎない。 ところが、 仏様の慈悲は無限だというのです。 すごいでしょう。 時間的に無限だというのです。 我々の慈悲は限りある慈悲、 ところが仏様の慈悲というのは無限だというわけでしょう。 ですからありがたいということがだんだんわかってくるわけであります。
話を元へ戻しまして、 私たちは死んでいくというのは、 やっぱりだれでも恐怖を感じます。 なぜかというと、 やり残したことがあると余計感ずるんです。 ですから、 50歳、 60歳の方がお子さんを残して死んでいかなくてはならない、 これはたまらないです。 そこでものすごくご自身も苦しまれるわけでしょう。 だから、 なすことを全部なしてしまいますと、 あまり死の恐怖というものはないわけです。 自分のやるべきことはみんなしてしまったということになりますと、 いつお迎えが来てもいいという心境になっていくわけです。 そのためには、 生きている時にしっかりとした人生を送っていかなくてはならないということがわかります。

こちらは、東京国際仏教塾第12期開塾式の特別講演で鎌田茂雄先生にお話しいただいた内容を抜粋して紹介しています。
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