NEW!観月能「黒塚」

先月、厳島神社で開かれる観月能を拝見しました。かれこれ20年以上、通っている舞台ですが、毎回のことながら、シテ方の友枝昭世氏、ワキ方の宝生常三氏の素晴らしい舞に感動します。今回の演目は、「道成寺」「葵上」とともに三鬼女と呼ばれる「黒塚」でした。

あらすじは、那智の修験者・祐慶一行が、人里離れた山中で一夜の宿を求め、訪ねた庵。そこに住する女が安達原に住む、人を食らう鬼であったというものです。

見どころは、いくつもあります。
断っても断っても「泊めさせてほしい」と願う修験者を、しぶしぶ承知するやり取り。
修験者が訊ねた枠桛輪(わくかせ)という糸車を説明しながら、浮世から離れられない我が身を「人としてこの世に生を受けながら、こんな辛い浮世の日々を送り、自分を苦しめている。なんと悲しいことでしょう」と嘆く女の姿。
修験者の夜寒をしのぐための薪を取りに出かけた隙に、「決して、見ないで欲しい」と願った閨(ねや)=寝室を従者に覗かれ、激しい憤りを見せる様子。
閨の中のおびただしい数の死骸を見られ、秘密をあばかれたことで鬼と化してしまう流れ。
力を振り絞って祈り伏せる修験者との、まさに鬼気迫る死闘。
そして、鬼女が弱り果て、夜嵐の音に紛れるように姿を消していくところです。

考えさせられました。
ひとつは、糸車を回しながら、己の貧しさや環境を嘆く女に対し、修験者の祐慶は「なんと儚いことをいうのか。生きているこの身を養ってこそ、成仏への道もあるというもの」と語ります。このような辛い世で、生活に追われていたとしても、迷うことなく、心さえ御仏の教えに叶ってさえいれば、たとえ祈らなくても、いずれは成仏への縁を得られるだろうというのです。
もうひとつは、断ったにも関わらず押し切られ、善意で一夜の宿を貸したのに、たったひとつの願い、約束が守られなかったこと。
前者は、仏道を歩む者として正しい論理です。しかし、この論理が、日々の生活にも窮する女の救いに果たしてなるのでしょうか。
後者は、約束を守ることの意味。もしも、約束を守ってくれさえすれば、女は、修験者一行に本来の鬼の姿を現すことはなかったのではないでしょうか。

舞台が終わり、宮島のフェリー乗り場へ向かう道すがら、どこからともなく金木犀の香りを感じました。金木犀の花言葉には、謙虚や謙遜、真実、気高い人などという以外に、「隠世(かくりょ)」、「幽世(かくりよ)」というものがあるそうです。死んだ人が行く世、黄泉の国、あやかしが棲む異世界を意味する言葉です。

人の心には鬼が住むと言われます。
どんなに正しい言葉であっても、それが今の自分自身には触られたくないことならば、その相手に対し、鬼の形相になります。
固い約束をいとも簡単に破られれば、もちろん怒りという鬼が現れます。
できることならば、金木犀の香りに癒される側、あやかしの世界に引っ張られない心を保っていたいものです。

オーロラのように雲が広がる、夕景の厳島神社の能舞台

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