お経の中の物語 —阿闍世王は救われるのか—

お経の中には、時に私たちの心を強く揺さぶる物語が説かれています。

『観無量寿経』や『涅槃経』に登場する阿闍世(あじゃせ)王の物語もその一つです。父である王を殺し、母をも手にかけようとした重い罪を背負った王が、お釈迦様の教えに出会い救われていく姿が描かれます。

阿闍世王の物語は、舞台となったマガダ国の王都の名を取って「王舎城の悲劇」とも呼ばれます。
その悲劇は、阿闍世王の出生にまつわる父殺しの不吉な予言と、それを恐れた父王による生まれてきた王子の殺害未遂に端を発します。成長した阿闍世は、出生の秘密を知らされ激怒し、父を幽閉して死に至らしめます。これは仏教で最も重い罪とされる「五逆罪」にあたります。また、母(韋提希(いだいけ))も牢に閉じ込めてしまいます。

しかし、王位を得ても阿闍世の心は安らぎません。犯した罪の重さに気づき、地獄に落ちることを恐れ、心は深く病み、ついには体中に悪臭を放つ「できもの」が現れて苦しみます。母の看病もむなしく、当時の高名な思想家(六師外道)の様々な教えも、彼の苦しみを癒やすことはできませんでした。

苦悩の底で、阿闍世は家臣の耆婆(きば)大臣や、亡き父王の声に導かれ、お釈迦様のもとを訪れます。そこで説かれたのは、苦しみは自らの行いと心から生まれ、その心を清らかにしていくことで救われるという教えでした。お釈迦様の慈悲の光に照らされ、阿闍世の心には初めて、自らの過ちを深く恥じ、悔いる心「慚愧(ざんき)」の念が生まれ、固く閉ざされていた阿闍世の救いへの扉を開く鍵となったのです。

阿闍世は、決して救われるはずのない自分に注がれる仏の慈悲を知り、自己中心的な生き方を転換させられます。「自分が地獄に落ちても人々を救いたい」という利他の心が生まれ、仏の教えに従って生きる新しい道を見出したのです。

親鸞聖人は、この阿闍世王の姿に、私たち自身の姿を重ねてご覧になりました。
人は誰しも、巡り会った縁によっては善人にも悪人にもなりうる、常に自分中心の心から離れられない「凡夫(ぼんぶ)」である。そして阿闍世のような五逆の罪人が救われるということは、どのような罪をも犯す可能性のある私たち凡夫もまた、阿弥陀如来の慈悲の光から漏れることはない、ということをお経の中から読み解かれました。

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