諸行無常—移ろいゆく世界を見つめる智慧
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」。『平家物語』のこの有名な一節は、仏教の核心をなす真理の一つ、「諸行無常」を私たちに伝えてくれています。諸行無常とは、この世のあらゆる事物や現象(諸行)は常に移り変わり、一瞬も同じ状態に留まることはない(無常)という教えです。それは、仏教が示す世界の根本的な姿であり、「諸法無我」(すべてのものには固定的な実体がない)、「涅槃寂静」(迷いの消えた安らぎの境地)とともに、仏法の旗印「三法印」とされています。
お釈迦様が説かれた「縁起の道理」に照らせば、この真理はより深く理解されます。すべてのものは、様々な原因や条件(縁)が複雑に絡み合って一時的に形作られているに過ぎません。縁によって生じ、縁によって滅する。これが、個人や社会、そして自然界を含む、あらゆる存在に共通する法則です。
私たちの周りを見渡せば、諸行無常の現れは枚挙にいとまがありません。季節は巡り、花は咲いては散り、草木の緑は茂っては枯れていきます。私たちの身体も、誕生から成長、そして老いと、刻一刻と変化し続けています。喜びや悲しみといった感情、親しい人との出会いや別れ、仕事や社会における立場や成功も、決して永遠に続くものではありません。
一見、不動の象徴に見える雄大な山々でさえ、地球という壮大な時間軸で見れば、プレートの衝突によって海底から隆起し、雨や氷河によって削られ、その姿を絶えず変えています。私たちの日常的な時間感覚では捉えにくいかもしれませんが、真理を見つめる「仏の眼」から見れば、宇宙の森羅万象すべてが、刹那の間も留まることなく変化し続けているのです。
この「移ろいゆく」という事実は、しばしば儚さや寂しさ、あるいは失うことへの恐れと結びつけて考えられがちです。私たちは変化を避け、安定を求め、大切なものが永遠であることを願います。しかし仏教では、この「常ならぬものを常である」と思い込み、執着することこそが、苦しみの根本原因であると説きます。世界のありのままの姿(無常・無我)と、私たちの「こうあってほしい」という煩悩から生まれる思いとの間に生じる齟齬が、私たちを悩ませるのです。
しかし、諸行無常の教えは、単なる諦観や悲観主義ではありません。むしろ、そこには深い智慧と、より良く生きるための積極的なメッセージが含まれています。『ダンマパダ』(法句経)には、「『一切の形成されたものは無常である』と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である」と説かれています。無常の真理を仏の智慧によって正しく見定めること、それこそが苦しみからの解放への道なのです。

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