諸法無我—「わたし」とは何かを見つめる智慧
仏教の教えには、私たちが迷いや苦しみから解放されるための道筋を示すいくつかの重要な真理があります。その中でも、「諸行無常」「涅槃寂静」とともに仏法の旗印である「三法印」の一つとして、「諸法無我(しょほうむが)」が説かれています 。
諸法無我とは、この世のあらゆる事物や現象(諸法)には、永遠不変の実体(我:アートマン)はない、という教えです 。これは、お釈迦様が説かれた「縁起の道理」と深く結びついています。縁起とは、全てのものは互いに原因や条件(縁)となって関わり合い、依存しあって存在しており、何一つとして独立して存在しているものはない、という真理です 。すべてのものは縁によって一時的に形作られているに過ぎないため、そこに固定的な「我」を見出すことはできないのです 。
私たちは普段、「私」という確固たる存在があるかのように感じています。しかし、諸法無我の視点から見ると、その「私」もまた、さまざまな縁が集まって一時的に成り立っている仮の姿に過ぎないとされます 。このことを巧みに説いたのが、『ミリンダ王の問い』という経典に出てくるナーガセーナ長老とミリンダ王の対話です 。
ナーガセーナ長老は、王が乗ってきた「車」を例にとり、車輪や車軸、車台といった部品のどれか一つが「車」そのものではなく、またそれらの部品を離れて「車」という実体が存在するわけでもないことを明らかにします 。部品が集まって、それぞれの役割を果たすことによって、初めて「車」という名称と働きが生じるのです 。同様に、「ナーガセーナ」という個人も、髪や骨、皮膚といった物質的な要素や、感受作用、認識作用といった精神的な要素が仮に集まったものに過ぎず、そこに不変の「我」は存在しないと説きます 。
このように、私たちが「私」と呼んでいるものは、様々な要素が絶えず変化しながら寄り集まったものに付けられた、仮の呼称に過ぎないのです。私たちの身体を構成する細胞の多くが日々入れ替わっていくように、その存在は絶妙なバランスの上に常に移ろい続けています。
仏教では、苦しみの根本原因は、常ならぬものを常であると思い込み、実体のないものに実体があるかのように執着することにあると説きます 。特に、「私」という永遠に続く実体があると考え、それに執着する心(我執)は、様々な苦しみを生み出します 。自分の思い通りにしたいという欲望、老いや病、死への恐怖、他者との比較や対立といった苦悩は、この「我執」と深く関わっています 。仏教の教えは、そのような執着から解放され、自分がこだわっている地位や名誉、財産といった世俗的な価値も永遠に続く実体がないものであり、それらに過度に執着する必要がないことに気づかせてくれます。
また「我」という固定的な実体がないと知ることは、同時に、他者や自然との深いつながりの中で生かされている「私」が存在しているという事実に目覚めることでもあります。我々を取り巻くさまざまな縁との関わり合いの中に、今の「自分」という存在が成り立っていることに気づかされるのです。「諸法無我」は、自己中心的な考え方を離れ、他者を尊重し、自然環境との調和を大切にするという安らかな心の境地(涅槃寂静)へと至るための重要な道しるべなのです 。

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