「分別」を超えてー対立の生まれるもと
私たちは、自分と他人、善と悪など、あらゆるものに境界線を引くことで、この複雑な世界を認識しています。しかし、その境界線に固執し、「自分は正しく、相手は間違っている」と思い込む心が、SNSの誹謗中傷から国家間の戦争まで、あらゆる対立の根源にあるのではないでしょうか。
仏教では、このように物事を区別し、自分の殻に閉じこもる心を「分別(ふんべつ)」と呼びます。これは日常で使う肯定的な意味とは異なり、仏教が目指すのは、この分別を離れた「無分別智(むふんべつち)」という智慧を得ることです。
なぜ分別が対立を生むのでしょうか。
それは、分別が「自分(我)」という意識を強固にするからです。自分と他人を明確に区別することで、「自分の方が大切である」「自分が正しく、相手が間違っている」という思い込み(我執)が生まれます。このように自分を守り、都合の良いことだけを選び取ろうとする時、都合の悪いことを行う他者は脅威となり、対立が不可避となります。
現在、世界で起きている悲惨な紛争を見ても、その根底には、自と他を峻別し、自分たちの正義を絶対視する強固な分別の心があります。「こちら側が大事であり、あちら側は大事でない」という思い込みが、対立を激化させてしまいます。
しかし、仏の智慧(無分別智)の眼から見ると、世界のありのままの姿は全く異なります。
お釈迦様が説かれた「縁起の道理」によれば、すべてのものは網の目のように関わり合い、支え合って存在しており、そこに自と他の区別は本来ありません。私たちが地図の上に引いた国境線は、本来の自然界には存在しません。仏の眼から見れば、すべての存在はつながりの中にあるのです。
親鸞聖人の言葉を記した『歎異抄』の「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。」という言葉の通り、全ての命は根源でつながっており、「敵」と「味方」という区別は、私たちの心が作り出したものなのです。
まずは、自分の中にある「分別」というに壁に気づくこと。そして、自他を隔てる境界線は、心が作り出した幻影かもしれないと立ち止まってみること。その小さな気づきが、頑なな心を解きほぐし、対立を安らぎに変える確かな一歩となるはずです。

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