一茶の心根

雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る
我と来て 遊べや 親のない雀
やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり

これらは江戸中期の俳人・小林一茶の句です。
一茶は信州(長野)信濃町柏原の農家に生まれ、15歳の春に江戸へ奉公に出ています。
当時の江戸の町では、奉公人も小唄や俳句を嗜む余裕があって、一茶も江戸在住時に俳句を詠みはじめています。

39歳の時、父の看病のため里帰りをします。実母は一茶の幼少時に亡くなっていたので、実家には継母と腹違いの弟がいました。
先妻の息子の突然の帰郷に継母と弟は驚き警戒したようです。案の定、この時から長い年月、相続をめぐって争いがおこります。そのようななか3か月滞在して、父の世話をして、その最期を看取っています。
寝すがたの 蝿追ふもけふ限りかな
この句では父の枕辺りにて蝿を追うさびし気な一茶の姿が想像されます。

一茶50歳の年に菩提寺の住職の仲裁によって弟と田畑を半分ずつ分けることで決着がつきました。
一茶はさっそく江戸を引き払って終の住み処を作り、翌々年、28歳の菊と結婚をします。老後といってもよい年齢での結婚ですから、さすがに一茶も照れくさかったようで

五十むこ あたまをかくす扇かな
と、薄くなった頭髪を扇で隠している自身のおかしみを詠んでいます。
年をとってからやっと幸せな家庭を築いていける、一茶も希望を抱いたことでしょう。しかし、その希望も微塵に打ち砕かれてしまいます。生まれた子が次々と早世してしまったのです。

露の世は 露の世とはさりながら
は子供を亡くした時に詠んだ句です。一茶の悲しみが伝わってくる句です。
子供に続いて妻の菊も先立っていきました。このように一茶の人生は家庭的には幸薄かったといってよいでしょう。

そのようななかでも、一茶の心を支えたのは柏原の地に脈々と伝えられてきた仏法、念仏の教えでした。
生きている限り必ず生別・死別の悲しみはあるけれども、お浄土において再び懐かしき人々に出逢うという阿弥陀経の「倶に一処に会う」を一茶自身、喜びとしました。

このように一茶は人一倍、苦悩や悲しみを深く抱えていた人ともいえます。
そのようなまなこで冒頭の句をもう一度読むと、また違った味わいの句となるのではないでしょうか。

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