中道―極端を離れる智慧

「中道(ちゅうどう)を行く」。
この言葉に、足して二で割るような無難なイメージを持たれてはいないでしょうか。しかし、お釈迦様が説かれた中道とは、安易な道のことではありません。それは、悟りへ至るために極端な偏りを離れる「智慧」を指します。

一つは、実践における極端です。お釈迦様は、欲望のまま求め続ける快楽と、肉体を痛めつける苦行のどちらにも救いがないと悟り、琴の弦に例えて「締めすぎず、緩すぎず、程よい張りを保つ」ことの重要性を説かれました。

もう一つは、物事の見方における極端です。これを「断常の中道」と言います。私たちは世界を「変わらない実体がある(常)」か、逆に「死ねば無になる(断)」か、という二元論で捉えがちですが、お釈迦様はそのどちらも否定されました。世界は関係性の中で変化し続けており、永遠に変わらない実体はないが、決して虚無ではない。この「有る」と「無い」の対立を超えた、流動的なありのままの姿を「中道」と表現されたのです。

この仏教の洞察は、現代の生物学が解き明かす「動的平衡(どうてきへいこう)」の姿とも一致します。これは、生物学者の福岡伸一博士が提唱する概念であり、生命の本質を鋭く突いています。

昨日の私と今日の私は同じに見えますが、ミクロで見れば、体中の細胞は猛烈なスピードで入れ替わっています。私たちは「固定された物質」ではなく、行く川の流れのように、絶えず変化し続けることで存在している「現象」に過ぎません。変化し続けるから「常」ではなく、流れとして続いているから「断」でもないのです。

イメージしやすいのは「自転車」です。自転車が倒れずに安定するのは、ペダルを漕ぎ続け、微調整を繰り返しているからです。「安定させよう」としてその場で止まれば、逆に倒れてしまいます。動き続け、変わり続けることによってのみ、バランスは保たれるのです。生命もまた、絶えず自らを壊し、作り変えることで秩序を維持しています。もし変化を止めてしまえば、それは死を意味します。

「止まること」ではなく「変わり続けること」の中にこそ、真の安定がある。 その真理を、科学と仏教は共に教えてくれているのです。

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