「私」の融解

第32期生 S.M.

「私は木でもあり花でもあり、この肺を満たす空気でもある」。これは、私が静坐・唱題行中にふと感じたことである。今回の修行は様々な項目があったが、私は一日目の静坐・唱題行を経て大きく自身の何かが変わったような気がする。
まず、半跏趺坐や手の置き場所等の講習があったが、その姿勢をとった時からもうリラックスして心が落ち着いた。その後、行が始まり場が静寂に包まれると、段々と「私」の境界が融けていくような不思議な感覚に陥った。その状態は非常に心地良かったのだが、不意に得も知れない恐怖を感じて「私」が収束したような心持ちになった。このままこの感覚に身を委ねるのが心底怖いと、そう思った。しばらく「私」の融解と「私」の収束がせめぎ合っていたが、そこでふと冒頭のように思ったのである。私は私であり私ではないのだと。そう思うと何故か非常に安心した。その状態で正唱行に入り『南無妙法蓮華経』と唱えていると、お題目の功徳に抱かれているような気がしてきた。それと共に、今思い返せば、それ以外何も考えられない、その状態すらも考えられていないという状態になっていたような気がする。その後深心行でまた「私」と向き合うことになったのだが、今度は融解する恐怖を感じることはなかった。
修行を終えて今考えてみると、この「私」は、今までに積み重ねた固定観念や執着・偏見、自己中心性等の「我」だったのかもしれないと思う。例えば、私は日蓮宗に対して、授業で習った偏ったイメージを持っていた。また、元は釈尊が説いた教えなのに何故宗派が多数あるのか、そしてそのことは悪ではないか。他には、孝行と仏教の関連性がわからないが日本仏教は仏教と言えるのか等々仏教に関してだけでも数多くある。日常の細々した思考ではもっと多くあるだろう。今はもう列挙した例のように偏ったイメージはない。更に、他の参加者の方が、例で列挙した疑問を、私とは異なり純粋に疑問として聞いた。その解答で、疑問寄りの固執した考えはほどけた。これらは先生方の回答がわかりやすかったことも要因として多分にある。しかし、静坐・唱題行を行う前に聞いていたらきちんと聞けていたかどうかはわからない。凝り固まった「我」という厚い壁を通して聞いても何も聞こえてないのと同じ状態であったのではと思うからだ。
今回の修行で、少し「私」という「我」の融解ができたが、愚かな私はまた「我」を形成し、「我」がほどかれることを今回同様に恐れるのだと思う。しかしそれを超えた時を今回の修行で少し体感したので、相も変わらず愚かだが、修行前の私とは愚かの方向性が違う愚か者になれたのではと思う。そして愚かなりに少しずつでも勉学に励もうと、そう思えた第一回修行体験であった。合掌