「ひとり」を考える①

東京国際仏教塾に「早く僧侶になりたいから」という志望動機をもった卒塾生がいます。ある県の県関連団体事業所の社会福祉課に勤務しているひとです。彼は仕事柄、身寄りのない生活に困窮した高齢者を見送ることがあるそうです。火葬場で事務的に荼毘にふされる様子(直葬)を何度となく見て「自分が出来ることはなんだろう」と考え、僧侶になろうと決意したといいます。当塾の専門課程までの費用、得度に至るまでの費用、東京までの交通費、宿泊代、すべて私費でした。念願が叶い、現在も地元で職員兼僧侶として励んでいます。

孤独死と呼ばれる事象、日本語大辞典では孤独を「ひとりぼっちであること・さま、みなし子とひとり者」と書かれているように、意味では適切な言葉のチョイスです。しかし、どうも孤独死という言葉が暗い、しっくりこない。「ひとり=孤独」とは言い切れない事例もあるからです。

たしかに「ひとりで死ぬ」ことは寂しいことかもしれません。一方では「人間みなひとり」という考え方もあります。「ひとりぼっち」と考えることは哀しい。ただ、ひとりだからこそ出来ること、成しえることもあります。恋人、夫婦、大家族の中、学校の人気者であっても、ひとりだと感じることはあるでしょう。誰かと暮らすことが窮屈に感じ、ひとり暮らしを選んでいるという人も多くなっています。

死装束でひとり臨む比叡山の千日回峰行は、修行の辛さはありながらも「山川草木ことごとくに仏性を見いだすために行う」(比叡山延暦寺サイトより)とあります。

改めて「ひとり」を考えることは、自身を見つめる上で重要なキーワードになるかもしれません。こちらのテーマをシリーズ化、日本仏教の開祖の「ひとり感」などを含め、展開していこうと思います。

#東京国際仏教塾   #孤独死  #僧侶になる