なにをどう選ぶ… 最終回
今回で「なにをどう選ぶ…」の最終回になります。
【お釈迦様もご存知サイコロ賭博】
くじより簡便なのがサイコロです。すごろくや博打が定番ですが、聖人のお釈迦様はサイコロや博打をご存知だったのでしょうか? と、探してみました。ありました。『ダンマパダ』(『法句経』)に「他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻(もみがら)のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように」(『ブッダの真理のことば』)。とありました。サイコロ博打どころかイカサマまでお見通しとはさすがです。
併せて日本の古典落語にも「看板のピン(一)」という小咄が見つかりました。お釈迦様が説法の参加者を集めるためにサイコロ賭博の開帳を思いつきます。これが大当たりで、その博打の上がり(利益)で祇園精舎というお寺を建てた。それで賭場の上りを「寺銭(てらせん)」といい、負けてスッテンテンになることを「お釈迦になる」という、まくら咄です。
【じゃんけんも仏教語?】
次がじゃんけんです。くじやサイコロのような準備や道具が要らず、当事者同士がその場で即刻決着がつくのが取り柄で、負けても自分がやったことなので諦めがつきます。
じゃんけんの語源は両拳、石拳の中国語読みという説などさまざまありますが、私が気に入っているのが「料簡法意」(りょうけんほうい)という説です。料簡は考え、思案、所存、分別。法意は仏の教え、道理、真理です。勝負の時「ジャンケンホイ」と掛け声をかけるのは、どんな結果が出ても仏様のお指図、この世の道理、宇宙の真理と受け止めますとの宣言です。もともと貪・瞋・痴の煩悩まみれの分別がない私たち凡夫には正しい選択は無理なので、私意の挟まないくじ、サイコロ、じゃんけんが理にかなっているのかもしれません。「なるようになる」の覚悟です。
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