他者と比較する「慢」という心

私たちは知らず知らずのうちに自分と他人を比べてしまい、優越感にひたったり、逆に劣等感や嫉妬に苦しんだりします。現代社会では、SNSを通じて、いっそう他者の成功や華やかな生活が常に目に入ります。
なぜ、私たちはこのように比較することにとらわれて、一喜一憂してしまうのでしょうか。

仏教では、自分と他人を比較し、その価値をはかろうとする心の動きを「慢(まん)」と呼び、苦しみを生み出す根本的な煩悩の一つとしています。一般的に「慢」と聞くと、「傲慢」や「自慢」といった自分が優れているという態度をイメージしがちですが、仏教における「慢」はそれだけを指すのではありません。自分と他人との間に境界線を引き、どちらが優れているか、劣っているかを測ろうとする心のあり方全体を指します。

仏教では「自分はあの人より優れている」と思う心だけでなく、「自分は劣っている」と過度に卑下する心(卑下慢)もまた、「慢」の一種だと見なされています。なぜなら、一見、謙虚さのようにも見えますが、優越感も劣等感も、自分と他人を比較し、その相対的な価値で自分を測ろうとするという心の構造はまったく同じだからです。「自分なんて価値がない」と強く思い込むことは、物差しを手放せず、強く「自分」という存在に執着している証拠なのです。

この「慢」が苦しみを生む根本的な原因は、私たちが「自分は他人から独立した、固定された実体である」という思い込みにとらわれていることにあります。この「自分」という存在があるという前提に立ち、その価値を守り、高めようとすることで「慢」という心の働きが生まれるのです。

他人との比較によって得られる心の安定は、もろいものです。
優越感は、その地位を失うことへの絶え間ない恐れを伴い、劣等感は、自己否定という深い苦しみをもたらします。他人の評価に依存して生きる限り、私たちの心は絶えず揺れ動き、本当の安らぎを得ることはできません。

仏の智慧から見れば、比較によって生まれる優劣は、私たちが分別によって作り出した幻想にすぎません。すべての存在はそれぞれの役割を果たしており、そのままで尊いのです。

他人との比較から自由になる道は、比較ゲームに勝つことではありません。
むしろ、そのゲームの土俵自体が虚構であると気づくことです。相対的な比較の世界から離れて、絶対的な価値観に身をゆだね、あらゆるものと関わり合い、支えられて生きている、ありのままの自分自身の姿を知ることが、「慢」という苦しみから解放される道となるのでしょう。

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